四天王、長野を行く

我らお石灰探偵団
藤田洋三
(ふじた・ようぞう)
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藤田洋三
zeikomi
¥0円
ふじた・ようぞう

1950年大分県生まれ。写真家。
雑誌「左官教室」に「鏝絵通信」を連載。ライフワークとして、全国の土壁、石灰窯、藁塚の撮影と取材を続けている。
著書『近代建築史・ゲニウス・ロキ』(編著、産研出版、1993)、『消え行く左官職人の技・鏝絵』(小学館、1997)、「大分の昆虫」(私家版1994)、『小屋の力』(共著、ワールドフォトプレス、2001)、『鏝絵放浪記』(2001)『藁塚放浪記』(2005)『世間遺産放浪記』(2007、ともに石風社)がある。

◉トークやります〜「藤田洋三の出前講座」講演先募集中!

これまで、藤田洋三氏は長年ライフワークとして追いつづけてきた鏝絵(こてえ)の話を始め、左官職人の話、道具の話、素材の話、建築の話などなど、さまざまなテーマでお話しをしてきました。
また近年では、地域と風土の魅力を再発見するために集った各地の自治体やグループなどからの依頼も増えています。
講演をご希望の方は、仲介をいたしますので、石風社(電話 092-714-4838/メールstone@sekifusha.com)までご連絡ください。

◉大分を始め、地域の歴史を語る写真ほか膨大なアーカイブがあります

藤田洋三氏の写真事務所では地元大分を中心に、これまで誰も興味をもたなかったような独特のテーマでたくさんの写真を撮影・所蔵しています。
たとえば・・・・
 1)全国の鏝絵
 2)地元大分・別府の近代建築群
 3)全国の木製アーケード街
 4)九州の昆虫
 5)昭和の雑貨・玩具
などなど。他にもさまざまなテーマがあり、目下整理中です。
こちらも仲介をいたしますので、石風社(電話 092-714-4838/メールstone@sekifusha.com)までご連絡ください。

コラム一覧

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四天王、長野を行く
zeikomi
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 久しぶりにわれら四天王が集まって常滑から信州まで走り、様々なモノを見聞した。
 今回の旅のテーマは「鏝絵(こてえ)」と「石」。
 ちなみに「四天王」とは、筆者と、泥の詩人・小林澄夫氏、そしてテラコッタ大王の辻孝二郎氏、そして建築家の薩田英男氏で構成され、いつも人から「アンタら、なにしてんのぉ?」と怪訝な目で見られている親父連合会。
今回は常滑のテラコッタ大王・辻氏が主導して「テラコッタ館」の冷やかしから始まり、信州安曇野在住の新婚夫婦で旦那は大工、妻が庭師という岡夫妻のコンシェルジェで粛々と進行した。
  まず初めに長野県の諏訪湖で一泊、湖畔にある「片倉館」のテラコッタが設えられた大浴場へ。ここはテラコッタのすごさが素っ裸で体験できる千人風呂。テラ コ大王は「今でも普通に使われているなんて凄い!」と驚きを隠せずにいた。

常滑のINAXライブミュージアムの中庭「テラコッタパーク」に展示されたテラコッタ。かつて大日本製薬の外壁を飾っていたもの。

写真)常滑市のINAXライブミュージアムの中庭「テラコッタパーク」に展示されたテラコッタ。かつて大日本製薬の外壁を飾っていたもの。

かつて「大阪ビル第一号館」の外壁にあったテラコッタ。大阪で活躍した渡辺節建築事務所時代の村野藤吾の仕事。竹中組が施工している所から現場で施工した職人はなにわ組か亀井組と思われた。

写真)かつて「大阪ビル第一号館」の外壁にあったテラコッタ。大阪で活躍した渡辺節建築事務所時代の村野藤吾の仕事。竹中組が施工している所から現場で施工した職人はなにわ組か亀井組と思われた。

「片倉館」にあるテラコッタ。かつて横浜の松坂屋デパートにあったもの。

写真)「テラコッタパーク」にあるテラコッタ。かつて横浜の松坂屋デパートにあったもの。

 

 空けて、諏訪湖の朝ぼらけか昨夜の焼酎に染まったままなのかは判らないが、再度「片倉館」を細見して茅野市へ向かおうとしたわけだが、ここで様々な建築素材が囁きかけてくる。
 それは、天草石の砂岩だの基礎部の安山岩だの、御影石だの、壁面に張られたタイル状の鉄平石(てっぺいせき)だのといったモノたちで、囁きの主はこれらに関わった職人たち。

 全国一の産出量を誇る長野県諏訪地方の鉄平石は、八ヶ岳のマグマによって誕生したといわれ、この諏訪地方や佐久地方に広く分布する輝石安山岩の板状節理(ばんじょうせつり)が発達したモノで、約2500万年前の火山活動で形成されたと推測されているモノ。2~3cm内外の厚さに剥離したその平面を利用し、この地方では民家の屋根材として利用されていたらしい。

諏訪湖畔にある「片倉館」の旧事務所入口の天草石の腰壁。まるでアンフォルメルの絵画のよう。

写真)諏訪湖畔にある「片倉館」の旧事務所入口の天草石の腰壁。まるでアンフォルメルの絵画のよう。

 

 さらに物語はこの地の石をめぐって飛躍し、長野県高遠町にある高遠城の物語に及んだ。この城は戦国武将の武田信玄が軍師の山本勘助らに命じ、南北朝時代からの支配者であった高遠氏を攻め、支配下に収めてから拡張改装させた城で、その石垣は高遠石や青石と呼ばれる閃緑岩と安山岩で構成されている。高遠石工(いしく)最古の仕事は、山梨県にある天文4年(1535)築造の「反り橋」だが、資料によると、元禄3年(1690)に幕府が厳しい検地を行って高遠領の六千余石を没収。財政が逼迫した藩は、窮余の策として耕地の分散を禁じ、農家の次男三男に他国への出稼ぎを奨励、結果としてこのことが高藤石工の名声を高めることになる。初めは冬の農閑期だけだったが、旅先での評判とともに長期にわたって逗留する者や各地に定住して石切稼業を続ける者も出たという。
 高遠の高台にある建福寺は城主保科氏の菩提寺だが、ここには石工・守屋貞治(1765~1832)の仕事が遺されている。この守屋貞治は高遠町に生まれ、若い頃から修行に励み、68歳で亡くなるまで三百四十体余の石仏を刻んだという人で、彼の足跡を追って訪ねた諏訪神社の上社では、扁額の鏝絵を拝むことができた。

小川天香が諏訪神社上社に奉納した鏝絵。

写真) 諏訪神社上社(諏訪市)に奉納された作者不詳の鏝絵。小川天香作とも思われるが、現在調査中とのこと。

 

 次に、茅野市へ向う。茅野といえば、かねてから本物を見たいと思ってきた藤森照信教授設計の「神長官守矢資料館」をはじめ、地域全体が生きている民家園ともいえる笹原地区が有名で、ここを訪ねた後、さらに開智学校や松本城まで見てきたのだが、笹原地区の、母屋と土蔵、味噌蔵(塩気蔵)が合体した「建てぐるみ」と呼ばれる民家や、繭倉から進化した「寒天倉」に心地よい感動を覚えたほか、筆者に生涯つきまとっている「貧乏神神社」の出現に、過呼吸のパニック状態になってしまった。

藤森照信氏設計の「神長官守矢資料館」。

写真)藤森照信氏設計の「神長官守矢資料館」(茅野市)。

   
 さて次は松本城。この城は1590年(天正18)に建造された石川数正の居城で、息子の康長が完成させ、天主が国宝、城跡は国史跡。松本城と呼ばれる以前は深志城と呼ばれ、土地の人は烏城(からすじょう)と呼んでいる。

 また次いで訪れた開智学校では、エンゼルが踊る唐破風の姿に圧倒される始末だったのだが、さらに、これと前後して案内された茅野市出身の左官・小川天香のご子息が住む小川邸で聞いた名工の秘話が脳裏にまとわり着いて離れない。

「建てぐるみ」構造の民家。とよばれる屋根の大きな茅野市の土蔵。このほかに母屋や味噌倉を飲み込んだ「蔵ぐるみ」と呼びたい民家もある。

写真)「建てぐるみ」構造の民家。とよばれる屋根の大きな茅野市の土蔵。このほかに母屋や味噌倉を飲み込んだ「蔵ぐるみ」と呼びたい民家もある。

 

 小川天香は本名を善弥(ぜんや)と言い、1878年(明治11年)、茅野の農家に生まれた。16歳で近在の左官棟梁に弟子入りをし、早くから鏝絵の名工・伊豆長八に憧れ、その高い技術を習得するため17歳で上京し、19歳で東京神田の長八の高弟・今泉善吉に師事して、東京、千葉、京都、新潟など広い地域で数々の左官業に携わり、腕を磨いた。
 善弥は初め雅号・鶴泉を名乗ったが、左官業を止めた後年は天香と改め、鏝絵の研究に専念し、自宅に仕事場を設け、構想した鏝絵や塑像の製作に勤しんだ。常に修正、補修を繰り返しながら、気に入った作品には一生稽古の添え印と左官天香の雅印を押して家中に展示していた。従って生涯の作品は数えるほどだが、その集大成ともいえるほとんどの作品が遺されている。晩年の天香は自宅の門口に「東洋泥工美術研究所」と記された小さな門標を掲げ、訪れる人々を迎え入れたという。

茅野市の土蔵で見た鏝絵。窓を支える恵比寿・大黒という構図は今のところ3箇所だけ。

写真)茅野市の土蔵で見た鏝絵。窓を支える恵比寿・大黒という構図は今のところ3箇所だけ。

 

 今回の旅で、初めて天香の存在を知った者として、「くらフォーラムin八ヶ岳」の朝倉氏や鏝絵研究家の芦田氏に、是非天香の作品に触れたいと伝えたところ、案内して頂いた。そして、「このまま埋もれさせるのは残念」との思いを共有することができ、筆者が別府に戻ったあと、「鏝絵天香館」を開設する運びとなったという知らせを頂いた(開設は、来年の春頃を予定しているとのこと)。もちろんこの知らせは静岡県松崎町の仲間にメールで伝えた。
 そうこうする内に、同行の建築家・薩田氏から昨年3月11日の大震災で崩壊寸前となった、岩手県一関市花泉や陸前高田市にある「黒磨きの土蔵」と鏝絵の被害報告を見せられ、しばし呆然とする。というのも「何が出来るのか? 何をしなければならないのか」を自問自答するとともに、ここに来て『鏝絵放浪記』を上梓した者としての責務を、またもや考えさせられたからだった。