ときめきの日々

山の暮らし
重松博昭
(しげまつ・ひろあき)
booktitle
重松博昭
zeikomi
¥0円
しげまつ・ひろあき

1950年福岡に生まれる。 1974年、大学中退、結婚したばかりの妻と新天地(約1ヘクタールの栗山)に移り住み、自給自足をめざして「シロウト農法」を営む。 現在、栗山は雑草園に、そこでくらす鶏達の卵で最低限の収入を得ている。3人の子はすでに巣立っている。 著書に『山羊と暮らした』(葦書房)『われら雑草家族』(石風社)がある。

コラム一覧

booktitle
ときめきの日々
zeikomi
¥0円

 

 柿の出来が悪い。それでも車で走っていると、所々に朱色の実の群れが花火のように青空に浮かんでいる。ふっと小学校の運動会の玉入れを思い浮かべる。アワダチ草とも長い付き合いになるが、今年はその花の黄金色に一際勢いがある。町はずれの広大な恐らく炭鉱跡地を見渡す限り埋め尽くす様は荒涼と美しい。

 夏草や木の葉は色付き、引き締まり、山全体が冷たく透き通っていく。その中で、大根、人参、ホウレン草、カツオ菜等の若葉が黒土に映える。大豆と久方ぶりにまいた小豆が、鹿に葉を食われながらもなんとか成熟し収穫間近だ。

 もう30年以上も前の初冬、妻の学生時代の友人はっちゃんとその連れ合いのタカヨシ君が、はるばる一升瓶と生鮭持参で尋ねて来てくれた。私達が結婚してすぐに生まれ育ったマチを離れ、現在の地、小山に囲まれた栗山に暮らし始めて3年目のことだ。

 土間とは名ばかりの外同然の掘っ立て小屋の軒下で、風に吹かれながら薪の火と石狩鍋を囲み、飲み、語り合った。

 その翌日、何かこう浮き浮きするような昼食をと思ったが、本当になにもない。妻と生まれて10ヶ月の野枝(のえ)とそれなりに軽々とした貧乏暮らしを楽しんでいたのだが、なんとか一日一日生きていく、その他にはなにもない、もちろん金もない。

 時季も悪かった。つい先日の初霜で、ピーマン、オクラ等わずかに残っていた夏野菜は枯れた。大根、人参等はまだまだ太っていないし、ホウレン草は土が肥えていないせいかさっぱりで、元気なのはネギと小松菜くらいだ。放し飼いの鶏50羽も羽換えで1年中で最も産卵が少ない。かといって首にして肉にするのも、1,2ヶ月すると産卵を再開するのでもったいない。

 それでもあちこちを探し回り、引っぱり出した。この初夏に取れた小麦。去年の晩秋に種をまき、麦踏みを経て、春の盛りにぐんぐんと成長、実ってからが大変だった。梅雨直前、雨雲に追い立てられるように鎌で手刈り、日干し、足踏み機で丸二日かけて脱穀、最後に強風でワラ屑等を飛ばし、ようやく実だけが残る。さらにこの秋収穫の小豆、真夏の草取りはきつかった! やはり刈り、干し、ビール瓶でさやごと叩いて実を出し、小麦と同様風選できらきらした実が足元に落ちてくる。

 私など、小麦と小豆とくれば、あんパンそしてあんドーナッツしかない。まずは製粉から。小麦といっても、厚い茶色の皮付き玄麦だ。これを手回しの製粉機でひき、フルイにかける。約1時間半。次にミルク、山羊のジンは春夏は1ℓ強出してくれ、赤ん坊の野枝も世話になったが、この所休業中だった。そのしわくちゃの乳房を懸命に絞った。ジンは痛くてたまらんとわめき、もがき、片足をミルクの入った鍋に突っ込んだ。私は咄嗟に両腕で鍋を抱き、ミルクを死守した。そばで見ていたはっちゃん夫婦に、「布でこして沸騰して消毒するから」と言うと、彼等はほっと安堵の表情を浮かべた。

 この粉とミルクと水で妻と二人がパン生地をこね、発酵させる。その間に私が小豆を圧力鍋で煮、砂糖と塩少々を入れ、根気よく弱火であんを練る。このあんが冷えたところで、皆でパン生地で包み、二次発酵。

 ようやく作品が完成したのが午後二時過ぎ。パンは茶色、ドーナツは褐色だ。どっしりとした感触と歯ごたえ。土臭い小麦の香ばしさと澄んだ小豆の甘み。そして何と言っても油とパンとあんのこのどぎつい組み合わせが最高だ。

 食後、福々しい満足の表情で「食べるためにすべてを捧げた一日だったわねえ。」とはっちゃん。「生きること即ち食べることですからねえ。」ひょうひょうとタカヨシ君。妻は二人以上にふくよかな笑顔で野枝にミルクに浸したパンを食べさせている。

 

 まるで昨日のことのようだ。ほとんど変わっていない。私の気持ちも、この世界も。すべてが生きること、そして遊びだといえなくもない。この、生活を冒険する遊びほど、軽々としてしかもどっしりと腹に響く愉快なものもない。

 と言いつつ、随分ご無沙汰の赤提灯でのコップ酒と焼きトリも無性に恋しい。実は私などできることなら空白の、消費の遊びの方がいい。朝から美酒美食三昧がいい。だがいかんせん酒もご馳走もすぐに苦々しく、身も心もどんよりと重くなってしまう。やはり一年中正月というわけにはいかないのだ。

 この非日常を日常的に、が人類の悲願なのかも。その行き着くところが大量消費廃棄社会なのかも。私達は非日常を次から次へと消費し廃棄している。

 

 山のそこここに黄色の山芋の葉と不恰好な黒豆のような鈴なりの実が垂れ下がっている。このムカゴ御飯の山の香と滋味がなんとも豊かだ。

  2012年11月3日