「山を食らう」

重松博昭
2013/06/14

 気候が酷に、極端になった。冬から一気に夏だ。日差しが重厚で、しかも雨がない。湧き返るようだった緑が静止した。あちこちでアザミの紫がくっきりと浮かび上がった。野イチゴの真紅も。今年は甘味が濃く澄んでいる。夢中になって口に入れていると、ふと茂みに緑がかったちっちゃなロウソクの炎がいくつも浮かんでいるような。ドクダミの蕾だった。

 移植したばかりの南瓜、キウリ、ナス、トマト・・・いずれも砂漠のような畑に息絶え絶えだ。逆に豪雨になれば、ごっそりと表土が流されてしまう。これまでの土を耕起し、草を丁寧に取るごく普通の農法が年々難しくなってくる。

 土を起こさず、草を取らず、光を遮る丈の高い草等は刈って敷き、いつも様々の草で土を覆い、作物もその大地の一員として育てていく。この自然農法の方が、乾燥にも大雨にも暑さ寒さにも風にも、虫や病気にも強いだろう。肥料もごく少なくて済む。部分的にでも始めなければ。

 ところで、またぞろ「最新科学の粋を集めた」「IT栽培」、「植物工場」こそ、最先端の儲かる農業云々と下界では喧伝されているらしい。この工場では、季節・天候・気温等々に関わりなく一年中、一定の製品を製造できるとか。外界から遮断された密室で、光・水・空気・温度・養分等々すべて人間・コンピューターによって管理・制御されているとか。つまり設備を含めた生育に必要なほとんどすべてを人間が調達しなければならない。石油、原子力等を使って。一方、自然農法では、必要なエネルギーといえば人力くらいのものだ。

 もう一つ、私達は土のことも、土に育つ生物のことも、自分自身のことも、極めて部分的にしかわかっていない。その私達がひねくりだした人口の環境・養分等々で育った野菜が果たして野菜といえるのか、食べ物に値するのかどうか。

 さらにこの工場では、ほとんどがコンピューターによって制御・オート化され、人間がやることがないとか。なんとももったいない話ではないか。こんなワクワクするような創造行為を、機械・コンピューターにお任せするのだから。

 私みたいないいかげんな男にとって、勝手気ままにやれないこと、きちんと隅々までコンピューターのお達しに従わねばならないことが一番困る。農場に寝転ぶことも、ぼんやりと風に吹かれることも、まして立ち小便など極刑ものだろう。あきっぽい私にとって、いつも同じというのも耐えられない。キウリやスイカやトマトはやはり夏だ。秋は炊きたての新米に大根の間引き菜の一夜漬、栗、芋、大豆、ソバ・・・。冬は雪・霜にあい深み、甘みの増した大根・白菜・ネギ・・・。春は山へ。ノビル・セリ・ハコベ・タラの芽・フジの花の蕾(天ぷらが最高)・・・。

 農の本質は自由・自立だろう。一人ひとりが宇宙になることだろう。限りなく採集に近い農がいい。山を、野を、目いっぱい豊かにするのだ。存分に自然の力を、創造性を発揮してもらうのだ。永続的に。できるだけ人間に都合のいいように。

 そのためには私たちは、その一員として大地の営みに参加し、謙虚に自然の声を聞かなければ。その感性を研ぎ澄まさなければ。トータルな自然をそのまま見つめなければ。深くしらなければ。

 科学的とは、第一に利害損得・立場等々とにかく一切にとらわれることなく、対象をあるがままにそのまま捉えることではなかったのか。私にはよほど自然農法の方が「科学農法」よりも科学的だと思える。今、私たちは、マネー至上主義とともに科学技術至上主義を、まさに科学的に問い直さなければ。何より基本の基本に返らなければならない。金も科学もあくまでも私たち一人ひとりが、すべての人々が、いきいきと生き、安らかに死ぬためにある。

 

 グミと桑の実(黒紫色、小人の国のブドウみたい)が、今年は食べきれないほどだ。カラスたちと競い合うように、連日グミの木に登り、赤黒い実をちぎり、潰して砂糖と酵母少々を混ぜ、大きな瓶に入れた。一日もたたないうちにブクブクと発酵し始めた。なんとも頼もしい。このワイン、一週間後には飲めるだろう。ツマミも畑や山で出番を待っている。豌豆、そら豆、ニンニク、玉ねぎ、馬鈴薯、キウリ、木苺、枇杷の実、・・・。

枯れたグミの木からは、木くらげという貴重なおまけまで頂いた。

 六月に入って、ようやく雨がまとまって降った。柔らかで豊かなまさに恵みの雨だった。かすかに雨の残る朝、いつものようにハッサンと散歩した。急に山が深く暗くなった。緑が盛り上がり、波のように伸び、溢れ、大空を塞ぐ。ホトトギスの叫びが天に躍動し、ウグイスの響きが四方に染み入る。

 道端の暗い草むらに隠れるように、ドクダミの可憐な白い花がひっそりと開いていた。

 

           2013年6月2日

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