松浦豊敏さんが4月、87歳で亡くなった。20歳ほど年長の松浦さんに出会ったのは私が熊本で学生の延長のような暮らしをしている頃だった。「松浦さんという人が熊本に戻って来る」という話が伝わって来た。砂糖の組合の全国組織のリーダーで、これまでにない運動を展開して来た人が水俣病運動の中心メンバーに加わり、その拠点として居酒屋「カリガリ」を作るというのだ。素人ばかりの店作りが面白そうだったので私も顔を出すようになった。松浦さんは長躯、短髪、首タオル、雪駄、それに若い頃から喧嘩が強く、詩人でもあった。興味の巾が広く、生意気でモノを知らぬ若造を辛抱強く相手にしてもらった。話は具体的で的確、大袈裟な物言いもなく対等に相手してもらえることが嬉しかった。私は初めて「大人」と思う人に出会ったのだと思う。

 その頃、私は奄美大島の東の小さな喜界島に2度行っていた。2度目は松浦さんが島に縁が深いことが分かり、「8月踊り」という盆踊りの時期に、鹿児島から一晩かけて船で渡り、紹介された砂糖工場の人に会った。彼は素潜りに使う、先端が1本のヤスの作り方を教えながら松浦さんのことを話してくれた。「松浦さんは最初、製糖会社のエリート社員として喜界島に原料糖の工場を作る為にやって来た。しかし次に来た時は私たちに組合を作れ、稼いだ金は自分たちで使えと、その変りようにおどろいた」。40年以上前の話だが松浦さんからそのことについて聞くことはなかった。

 その頃の「カリガリ」は居酒屋というだけでなく会議の場所でもあった。私は支援のメンバーではなかったが、人手が足りないときは松浦さんが声を掛けて来た。何度か行動を共にしたが、松浦さんの現場の指揮は的確で安心感があった。

 水俣のチッソ工場の事務棟を占拠しようとしたことがある。駅の目の前にある正門に向けてデモ、そして門を乗り越え、社員と小競り合いの中、玄関前までたどり着き、集会を始めた。そのときは寒く、トイレに行くものが出始め、離れた所にあるトイレに行ったものは、そのまま門外に放り出され、デモのメンバーが少しずつ減り始めた。潮時を見て、松浦さんの指示で隊列を組み直し、再度デモをしながら正門の外へ出た。そこでまた集会。内容は覚えてないが、松浦さんは激怒していた。「小便ごときで、行動を崩すとは何事か!オマエ等にはコトを起こす覚悟が無い!」聞けば、松浦さんは常にコトを起こす前日から水気を控えるそうで、私は気持ちが高ぶり、前夜呑んでいたような気がする。失格である。

 もう一つ松浦さんの怒りの場面を覚えている。私たちは浅川マキの公演を時々主催していた。彼女は業界でも知られた完璧主義者で、唄は聴きたいのだが、主催するとなるとこれが大変。毎度、素人の私たちは彼女の細かい対応に追われた。

 「小屋食」というのがある。リハーサルと本番の間の飲み物や軽い食べ物を準備するのだが、それもマキの指示が出る。公演の成功のためだったら、どんなことにも応えようと動く私たちに、松浦さんは少々苛立っていた。そこへ、用意した「小屋食」が公演のあと全く手つかずで戻って来た。つまり、食べたメンバーは誰一人いなかったことになる。それを知るや、松浦さんは「食い物を粗末にするヤツはろくなヤツじゃない」と烈火のごとく怒り、カリガリを出て行った。他に松浦さんが怒ったところは余り記憶になく(ご家族は別だが)、どちらかと言えば、相手の気持ちを和らげるような少し含羞を帯びた笑顔の人だった。

 私が小石原へやきものの弟子入りをすると伝えると、松浦さんはいつものように少し笑って「そうか、まあ頑張って来なっせ」。金に困って借金に行くと、「いくら要るんか?」と笑った。

 数年前、短期間の入院をするというので迎えに行くと、松浦さんは色の薄いサングラスをかけ、飄々として相変わらず格好良かった。こちらを見ると、片手をひょいと上げ、申し訳なさそうに微笑んだ。着いた病院は初めてのところで、3階だったろうか、案内された広い共用スペースには老人たちが思い思いに座っていた。会話は無い。手続きの間、松浦さんはサングラスのまま、どこか遠い風景でも見るようにじっと立っていた。近づくと「おい、見ろ。死に損なうとこのザマだぞ」と、ぽつりと言った。勿論、自身に向けた言葉であり切実であるのだが、どこか自分の死さえも情勢分析している指揮官の姿をそこに見ているようで少し嬉しくなった(松浦さんの苛烈な戦争体験については、その著書『越南ルート』(石風社)をぜひ読んで欲しい)。

 36年前、開窯祝いにいただいた藤の苗木、一度も花を咲かせたことは無いが、今年も青々と葉を繁らせている。

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