博多バブル前後(3)

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博多バブル前後(3)
zeikomi
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「支店都市」

 先日経済紙の知人と飲んでいると、九州は輸血経済だという。

 経済の世界では常識なのだろうが、私には馴染のない言葉だった。わかりやすくいうと、九州の人間は、東京のサラリーマンの稼ぎ(税金による公共投資)を掠(かす)めて生きているということらしい。九州経済は自立すべきだという彼の意見に、異論はないし、べつにむかっともしなかったが、「輸血というか、日本からODA(政府の途上国援助)を受けている第三世界のようなものですかね。九州は」と私はこたえた。

 ODAというのはキナ臭いが、あたらぬこともない。この援助は、相手国のインフラ(港湾や道路やダムなどの社会基盤)を整備すると称して、結局日本のコンサルタント会社が現地政府に進言したプロジェクトを、優先的に日本の商社やゼネコンが請け負う。お金は現地に落ちるかに見えて、ブーメランのように上空をかすめるだけということになる。

 援助した方は、橋でも道路でもモノを残したからいいだろう、というのが言い分だが、その実、港湾や道路や電力を整備して、日本の商品を流通させる基盤をまずつくる。その後日本製品を大量に輸出して、結果として相手国を日本の商品経済に組み込む。そして、現金のやり取りになじまない農村は疲弊し、農民は都市へ流入することになる。

 もちろんこれは両刃の剣でもある。近代化や資本制経済を是とすれば、伝統的農村の解体は避けられず、結果としてアジアは急速な経済成長を遂げてきた。

 東京と九州の関係を、日本と第三世界の関係に当てはめるのはいささか乱暴かもしれないが、経済だけでなくあらゆる領域で、九州が東京の圧倒的な影響下にあるのは間違いない。

 福岡のテレビ局のことで、こういう話を聞いた。
 地方のテレビ局というのは、東京のキー局から大量に流れてくる番組と、地元で制作する番組やニュースで成り立っている。「地方の時代」という建前のためにも、地元の番組をいくらかは制作しなくちゃいけないが、金がかかるわりにはスポンサーがつかない。そこで、ローカル番組に積極的な人間の意欲をそぐために、恣意的な配置転換がたまにあるという。東京の視聴率の高い番組をたくさん流した方が、スポンサーがつくからだ。経営的にみればそちらが賢い。

 ところで、「地方の時代」という言葉になにか胡散臭いものを感じるのは、私一人だけだろうか。この言葉は日本全土に高速道が張り巡らされ、日本中が均質化する過程で、喧伝され始めた。いわば経済とともに流通や情報で、東京による「地方」の解体・把握が完了する中で唱えられた、お題目である。

 そういうなかで、福岡は、九州に対する中央資本の出先という機能を強く持たされてきた。それにもかかわらず、この街が辛うじて支店都市に収まりきれずにいるとすれば、その身体に、「はかた」という古代から連綿と続く、濃い血(時間)の保存装置を持っているからだと思いたい。
 
 

1995・8〜12
(石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』 
「博多 バブル前後 1990年代」より再録)