博多バブル前後(15)

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博多バブル前後(15)
zeikomi
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「森の力」

 天神から一時間もバスに乗れば、椎原(しいばる)につく。ここはまだ早良区(福岡市内)だが、脊振(せぶり)山系の登山口だ。一時期、椎原峠から金山まで毎週のように縦走していたことがある。脊振本山には、車道の通じた山頂の人出にうんざりし、真夏の落雷の総攻撃に遭った恐怖もあって二度と行っていない。

 新緑の頃の脊振は、こぼれワサビのある沢を登り、シイやタブ、クヌギやナラの雑木林を抜け、都笹(みやこざさ)やブナ林の尾根道を歩く。三、四時間歩き続け下りにかかる頃には、ランニングハイに似た状態になり、風の流れに包まれるような気がしてくる。

 新雪が降ると、事務所に行くのをやめて、山に向かったこともある。バージンスノーを踏みながら、早足で尾根を歩くと新雪がシャワーのように舞ってくる。さながら山の神々に、遊んでもらっているような昂揚した気分になる。鬼ガ鼻岩からウイスキーを飲みながら眺めると、福岡の町が海と山に抱かれて眼下に広がっている。

 ふだん町なかに暮らしていると、ナマの自然とじかに接触することはない。特に、建築家や都市計画家の「妄想」ではないかと思える建築や町づくりの中に放り込まれていると、私たちの身体(=自然)感覚は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の中で、歪んだり麻痺したりしていくように思える。

 そういう時山や森の中を歩くと、緊張を強いられていた意識が癒され、その古層が解き放され日頃眠っていた細胞が働き出す。そして、人類がまだ自然への畏れを感じていた頃の感覚がいくらか甦る。

 私は福岡市の中央区に棲んでいるが、安アパートの前にちいさな森があり、朝はさまざまな鳥の鳴き声ではじまる。この森は、急な斜面にあるためマンションの建設に適さず、町なかにありながらひそかな贅沢をさせてもらっている。

 最近私の通勤路の赤坂にある、梟(ふくろう)の棲む森が切り倒された。新聞によると、風致地区でもあり住民の要請で市が買い取る話もでたようだが、結局業者と値段の折り合いがつかず、一部強行伐採となった。その話を聞いて「貧しいなあ」と感じた。ユニバだ国際化だということには、派手に金を使いハコモノを造るけれど、この町は森ひとつ保(も)ちきらんのかと。アジアや国際化を売り物にしながら、福岡は日に日にガザガザした町になってゆく。

 森は整地された公園と違い、人間にはうかがいしれない深い記憶を持ち、人間には統御できない力を秘めている。そういう力によって生かされていることを、人は感受できなくなってきた。森は、人間の脳髄から作り出される人工物とは違うのだ。

 こういう森を町なかに持てるというのは、見えないところで町の落ちつきをかもしだし、町のパワーを保っている。熊本が福岡より奥行きがあるように感じられるのも、森のせいだ。これは、「環境」という人間中心の問題とは、違う感覚のような気がする。

 立派な競技場や国際会議場を持つことばかりに血道を上げ、経済効果ばかりを考えていると、この町から森もパワーも消えて行く。
 
 

1995・8〜12
(石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』 
「博多 バブル前後 1990年代」より再録)