草原の輝き

booktitle
草原の輝き
zeikomi
¥0円

 三月半ば、しばらく嘘のような生暖かい日が続いたあとの急激に冷えた朝、ハッサンと一面の霜の野を登り、雑木林に入った。いつものようにハッサンは何者かの気配を感じ、地面すれすれに鼻を近づけ嗅ぎ回り、土色になった落ち葉を軽々と駆け谷底へ姿を消した。鹿か猪か、ハッサンがいなければ、家の周りさえ彼らのテリトリーになってしまうだろう。それにしても、野や畑はすでに新緑が躍動しているというのに、林の中は動きが感じられない。暗く、寒い。

 三月下旬、毎年のことだが、改めて気付かされる。ジワリジワリとではなく、突然、春は走り始める、一気に飛躍する。桃、桜、李、野いちご……と花開き、はや桃、李は散り始めた。気付いた時、すでに家の前のグミの木の枝という枝に、緑が花火のように浮かんでいた。

 雑木林に新しい落ち葉が、まだ青いのも混じって散っている。見上げると、太い樫の木がすっくと天に伸び、緑の光が渦を巻いていた。その横の楠の大木では、赤みがかった無数の新芽が巨大な球状に吹き出ている。

 山を下る途中、日が出た。暖か過ぎてけだるい。野の緑の溢れるほどの輝き、二次元を覆い尽くし、三次元へと生命をほとばしらせている。
 トタン屋根をはがされた旧鶏小屋の土間に、ハコベの抜けるような緑が生い茂っている。やはり寂しい。全盛期、二十あった小屋が半分に、千羽近くが二百数十羽に減った。

 減らすこと、やめることは、増やすこと、進むことよりはるかに難しい。何より、やる気がおきない、気分が萎んでしまう。進歩、発展となると、気分が高揚する。積極的に、明るくなる。

 しかし進歩、発展には必ず終りが来る。少なくとも個々人には。死んでしまえば終いだ。死から生を見るなら、やめること、退くことは必ずしも忌むべきことではない。むしろ落ち着く、腰が据わる。フリーに、軽々となる。土台に、原点にかえることができる。

 やめるということ即ち様々なものとの別れだ。死ぬ練習になるのでは。私達一人ひとりにとって、死とは最大最高の事業だろう。死ぬまで生き、それなりの自得、安心で死を迎えられるなら、それ以上何を望もう。

 進歩とはなんだろう。私達一人ひとりがより生き生きと生きることだ。自然と人間、人間と人間、異と異とがより豊かな結びつきをつくることだ。グローバルかつローカルに、大地に根付いたより豊かなより永続的な生命の営みを、一人ひとりがつくっていくことだ。

 あんがい悪いことのほうがやめるのが難しいものなのかも。ギャンブル、アルコール……仕事・忙し中毒、消費・廃棄中毒、ケータイ依存……戦争、巨大マネーゲーム、原発……進歩という退歩……
 

 旧鶏小屋の壁はそのまま残し、その壁と壁を、屋根からはがしたトタンと購入した海苔網でつないで、畑を囲っている。城を作っているのではない。鹿や猪たちと共存するためには、まずはこちらがこの地で生きていくのだという心意気を、覚悟を示さねば。生きるためには食い物を調達しなければ、畑を守らなければならない。

 とりあえずの目標は、例年の倍植えたそら(紫色)豆、馬鈴薯等を着実に収穫すること。五月に植え付ける生姜、ピーナツ、ごまは今年こそ無事実ってほしい。なにより大豆を、味噌を自給できるほどに収穫したい。
 

 四月に入って、畑の大根・小松菜・彦島菜・カツオ菜等々、菜の花に。他の野菜もほとんどがとうだちした。その代わり、採集生活には絶好の季節だ。手頃なところでハコベ、お浸しの胡麻和え、素直な味だ。カラスノエンドウは少し硬いが豆のような甘味。ギシギシの新芽が日本酒に最高、さっと茹で、酢じょうゆで、ぬめりと苦味、後口が爽やか。酒の肴といえば、タラの芽の天ぷら、ノビルまたは分葱の酢味噌和え、そして干し大根、丸ごと軒先に吊るしていたものを、適当に切って、醤油で。土と日の奥深い甘味が堪えられない

 対して、ミツバ、セリはやはり香だろう。折よく新物の塩ワカメと取ってきたばかりの生ワカメを頂いた。沸騰しただし汁に土色のワカメを入れると鮮やかな青に。磯の香と味噌の匂いの取合せが絶妙だ。
 

 四日、未明、雨。その日は一日、冬の冷たさだった。それにしても桜の美しさはどうだ。ふちどりが際立っている。本格的に散り始めたその姿も、凛と透き通り、淀みが、倦怠がない。

 山じゅうに吹き抜ける落葉樹の薄緑も。天界の白い風だ。

 いつの間にか妻が植えたのだろう。木陰に開くハナニラの小さな白が可憐だ。
 
 

                   2014 4・5