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移動民の血、イスラムの風・甲斐大策の世界既刊
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 (7件中) 1〜7件目
天を織る風 永田智美 甲斐大策 石風社 イスラム アフガニスタン 中世 信仰 愛
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天を織る風
zeikomi
¥0円
天を織る風

中世イスラム世界に迷い込んだ医学生・朝海。そして戦乱の小国の跡継・ユヌス。二人を操る美しくも哀しい運命──。時空を超え、宗教を超えて結実する「愛」と「信仰」のファンタジー

  • 272頁 A5判上製
  • 4-88344-075-3
  • 定価:本体価格1700円+税
  • 2001/09/15発行
聖愚者の物語 甲斐大策 甲斐 大策 聖 愚 小説 アフガン アフガニスタン ペシャワール ペシャワル 文学 中上 健次 五木 寛之 物語 ムジャヒディン ガラス絵 油彩 ペン画 神 泥 餃子 アジア イスラム 
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聖愚者の物語
zeikomi
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聖愚者の物語

最も神に近い人々──愚かさと高貴に満ち、剛毅で嘘つきで裏切り、信じ、戦い、命で贖う……アフガンよ、正邪善悪、ここには全てがある。灼熱の大地に流離う男・女・老人・子供・難民・職人・族長…魂揺さぶる47篇の掌篇小説集

書評

アフガンへ匂い立つ愛

島田真祐
島田美術館館長

 本書の魅力を紹介するのに、月並みの讃や評ではいかにも心許ない。できうれば、むしろ集中の一話なりとそっくり掲載したいもの。もともと小篇小説は名手の仕事。それも、手先の利くだけの小才の凡手には成しがたい。まずは骨身を削って仕入れた大量の情報と精緻な知見、さらにそれらを正確に感取し、選択し、整合し、練り上げて凝縮する鋭敏にして円熟した感性と技法が必須なこと、言うまでもない。
 幸いにして作者は、すでに独自の画風で知られる画家であり、作家であり、それ以上に四十年近く中央アジアを中心に人類史の辺境を旅してきた練達の旅人。故中上健次をして「眩暈(げんうん)に陥るが如き」と評された『生命の風物語』を始め、『シャリマール』、『餃子ロード』、『神・泥・人』などの優れた物語、紀行、エッセイを持っておられる。つまり、小粒にして時に人を殺す毒ともなり、時に人を活かす滋味ともなる小篇佳品をものする諸条件を間違いなく備えた表現者といえよう。
 画家としての作者が長年にわたって『ペシャワール会報』の表紙絵に添えて連載されてきた文章の中から選ばれ、さらに磨きをかけられたものに、新作を加えた四十七篇、そのいずれからも、激烈にして豊饒、無惨にして悲しいまでに美しいアフガニスタンの風土と歴史が立ち上がり、そこに生き死にする人々への分の厚い愛情が匂い立つ。愛情という語が嫌らしければ、風物の変容も含めて底に流れる時間総体に対してにじり寄ろうとする理解と共感の真摯な態度とでも言えばよいか。そして、そのことこそ、残念なことに、読者である日本人の私共に等しく欠けている心性ではないだろうか。
「……全員がテレビを凝視していた。伯父は、両掌を天に向け、その手で顔を覆い、呟いていた。『バビリィの塔だ』。ブラウン管の中で、二つの巨塔が燃え、やがて崩れ去った……」(バビリィの塔)
 この描写の素材となる事件を私共は知っている。だが、その認識と理解の何という浅さ、軽さ。絶妙の挿絵と共に、輪郭も彫りも深い甲斐さんの文体が私共につきつけてくる刃の一つである。

  • 292頁、四六判上製
  • 4-88344-103-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2003/09発行
シャリマール シルクロードをめぐる愛の物語 石風社 甲斐大策 灼熱 太陽 屈辱 報復 復讐 エロス 流転 無常 画 シルクロード アフガン アフガニスタン 甲斐 大策 中上 健次 小説 生命 ペシャワール エロス 死 神 泥 シャリマール
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シャリマール
zeikomi
¥0円
シャリマール

イスラムの愛の物語


イスラム教徒でもある著者による、美しいイスラムの愛の物語集。玲瓏たる月の光の下、禁欲と官能と聖性、そして生と死の深い哀しみにあふれる世界が繰り広げられる。それは墜落感にも似た、未知の快楽へと読み手を誘う。

書評

物語を読む歓び

樋口伸子
詩人

 暑い夏に熱い本を読み、知らずに負った火傷の跡が秋風の頃になってひりひりとする。
 画家として知られる甲斐大策氏が、シルクロードをめぐる本を出した。『生命の風物語』『シャリマール』という愛の物語集。いずれにも、本来〈物語〉が持つべき活力(マナ)が溢れている。生命だけでなく、死にさえも。
 舞台はアフガニスタンを中心とするイスラム圏。根強く残る内外の紛争に加えて、その風土は苛酷なまでに熱く乾き、人々の営みは私達の日常から大きく隔たっている。
「ドゥシュマンダール」という一篇は、パシュトゥン部族社会の掟の一つである報復を背景にする。ある夏の宿場町で妻をからかわれた夫が手斧を二人の男に叩き込んだ。
 白い埃に覆われた並木の街道筋、驟雨前のよどんだ空気と不穏な空模様の変化、苛立った心理が招いた一瞬の惨劇まで、駒落としの画面を見るようだ。血しぶきのあと、「泥色の街は完全に雨脚の中に煙ってしまった」。簡潔で引き締まった文体に魅了される。
 この事件は、以後三十年の間に双方から十八人ずつの死者を出して決着したかに見えたが、さらに二十年経ち、別の事件を機に報復が蒸し返され、五人の若者たちの仇討ちの物語が始まる。非情な事件にもかかわらず、清涼感が流れるのは著者の繊細な眼差しが背後の民族性や風土、義や掟に拠る心の揺らぎにまでいき渡っているからだろう。とまれ、このようなドゥシュマンダール(仇討ち)の話が一九七〇年代末のことと聞けば血が逆流する。
 さて、風は坩堝の中に渦巻くだけでなく、地を掃き、谷から谷へたゆたい流れる。「パシャイ」は寄るべなき心に添う風のような話である。厳しいヒンドゥクシ山脈の谷々にパシャイと呼ばれる男達がいる。蚊のようなという意味で、「妻も子もなく、盗まず乞わず、五、六人の群れとなってパシャイ達は谷から街道、間道から尾根筋へと漂って歩く」。
 山岳事故で自分の名前さえ忘れたジャミールは、叔父に誘われ初めて下界に降りた。十日目、叔父は少年にたっぷり食わせ、必要最小の物を身につけてやると、カーブル河の対岸を見ながら怒鳴るようにいって去った。「お前はパシャイになったのだ。パシャイ達に会ったら従いて行くんだ。神のお恵みを!」
 少年は雪を被った山に向かって歩いた。子供達にはやされ犬に吠えられ、怯えながらもパシャイと呼ばれると心が安らぎ、自分でもそうだと信じた。四日目の夜明け、五人の男達が太陽とともにゆっくり丘の上に現われ、横に並んでしゃがんだ。近くに寄ると皆がジャミールに微笑んだ。男達は金髪と肩衣をなびかせ滑るように丘を下り始め、少年も後に従った。悲哀を超越して輝く光景である。
 この短編に限らず、境遇の転変や厳しい出自のせいで小さな社会からずり落ちていく人々が出てくる。それを悲惨と言い不幸と見るのは私たちの脆弱な精神であり、彼らはむしろ自ら下降することで、解き放たれた魂の安堵を得ようとしている感がある。私の好きな「髭婆」、寒山拾得のの拾得を彷彿とさせる「大地を掃く男」など揺れ止まぬ陽炎のような余韻を残している。
 運命や死に対する彼らの恬淡さともみえるものを、諦観という私達の感覚に置き換えることはできない。愛や悲しみ、幸も不幸も私達の湿り気を帯びた感度で測るのは危険だ。一切が脱水され天火に乾かされ砂よりも細かな粒子となり、漂彷と風の舞い去っていく。
そのほか、騎馬民族らしい勇猛果敢な男達やはかない女達を描いたこの巻を〈熱風・千夜一夜物語〉と呼ぶなら『シャリマール』は、白銀の月光にふさわしい愛の物語集である。
 戦火の街での清清しい少年「ナフディ・ジャンの恋」を別にすれば、いずれも禁欲と官能と聖性の境で神秘的に冴え渡る。
 癩に怯えながらの超俗の愛を描いた「花園」の終章は息を呑むほどに美しい。一度も肌を重ねることなく成就する逃避行の果て水中に崩れ落ちる女を、すでに同じ病に侵された男は救うこともできない。水辺に漂う花々と仰向けに浮かぶ女はまさに数々の〈水底の女〉の一人であり、ラファエル前派の絵画〈オフェーリア〉に勝イメージを与える。
 無駄のない文で風景がくっきりと浮かぶのは、画家である著者の眼の確かさによるものか。そうして、富貴であれ貧者であれ、漂う品格は彼の地の民に寄せる思いの深さに負う。氏はシルクロード各地を歴訪して滞在、回教徒でもある。読み返したくなるのは、この二巻が単なる異国趣味に彩られた現代の奇譚集ではないからだ。アフガンの聖戦士(ムジャヒディン)にも似た氏の風格の奥にあるものを想う時、その精神の膂力(りょりょく)に感嘆せざるをえない。
 本を閉じ一夜明ければ、私達の世界は底の浅い豊かさの中で卑小な優劣の差と意地や見栄、薄っぺらな自尊と気落ちに満ちている。目覚めてもどる場所がそこだとは、よく解っている。だからこそ、幾夜もこの本に手がのびる。これを、物語を読む歓びといわずに何といえようか。

  • 271頁 四六判上製
  • 4-88344-037-0
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1999/03発行
餃子ロード

北緯30度線から40度線の大陸を東西に旅すると、いつも餃子があった。三十年にわたりアジアを彷徨し続ける異能の画家が記す魂の餃子路。
五木寛之氏絶賛! 「舌触りや、熱さや、辛さがある。北方の土俗の靭(つよ)さがある」

書評

旅の名手が〝民衆の味〟探索

島田真祐
島田美術館館長

 甲斐さんは筋金入りの旅人である。筋金は異郷体験の豊富さや年季のせいだけではない。おそらくは氏の骨髄のどこかに潜む移動民の遺伝子のざわめきと、対象世界にかかわる関心の並外れた深度による。氏には、もともと異郷として感受していないふしさえある。
「気づくと、北緯三十度線と四十度線にはさまれる帯の中を東へ西へ歩いていた。三十四度線あたりには、カーブル、ペシャワール、西安、洛陽、北九州、奈良が、いま少し北寄りにはサマルカンド、カシュガル、玉門、北京、大連、山形が並ぶ。意図したわけではないのに、それ等の土地にいた(いた=・・)」と、氏は書く。その天性ともいえる漂泊癖と精神は、大連に生まれて幼少年期を送り、中国大陸の風土と民衆を独特の筆法で描きつづけた画家の父の存在、大学でながく安藤更生先生門下として東洋美術史を学んだことなどと、もちろん無縁ではない。が、以後の三十余年におよぶアフガニスタンとの自覚的なかかわりが、その骨格に分の厚い血肉を通わせたのにちがいない。その辺については、すでに中上健次氏や五木寛之氏らの絶賛を浴びた小説集やエッセー集がある。
 さて、『餃子ロード』。甲斐さんのアジアへの通い路のあちこちに湯気を立てている餃子がある。広い大陸の東西南北、もちろん形も味も鮮烈微妙に異なるが、肉や野菜の餡を小麦粉でのばした皮で包み、蒸すか焼くか揚げるかする基本は変わらない。この、極めて民衆的で魅力的な食物は、どこで始まり、どのように食され、どういう経路で広がってきたのか。その探索行は、著者自身「たかが小さな餃子ではあるが、そこにはアジア世界民族興亡の物語が包まれる」と語るように、壮大な叙事世界を広げていくことになる。
 何より文章がいい。優れた描写力は、現場の事物や雰囲気をほうふつさせるだけでなく、それらの背後にある無告の民族史をも浮かび上がらせる。旅の名手と表現の達者が幸運にも重なったものだ。

餃子は東西文化交渉の証し

甲斐大策(自著を語る)

「こんな世の中に風穴をあけてくれるのは、移動系の人々の生き方じゃないかな。良くできた社会というのは、移動系民族の心と農耕定住系民族の心が調和しているのだと思う」

 一九六〇年代の終りから西アジアの旅が始まった。とりわけアフガニスタンが基点となる旅を三十年近く重ねてきた。
 東京・町田の仕事場や故郷・福岡へ戻っては絵を描く。そのうち、砂漠の風邪やバザールの喧騒と匂いが物語へ膨らみ、文章を書きたくなる。言葉をつらねていくと光や人々の生活が甦り、ふたたび絵具を列べる。やがて、全身を支配するもどかしさに似た気持を絵筆やペンが、ほんの一部しか消化しないのを思い始め、そして再び旅に出る。
 大地で風に吹かれ陽溜りで遠くを眺めていたい、と念じて出かけた旅が、アフガニスタン内戦の最前線でロケット砲を肩にしていたり、東部高原で地雷掘りの手伝いをしたりということになる。
 それでも、沈殿物まみれの、ひたすら安定・定住を志向する社会から出て、不安定ではあっても天と地の間で、不可視の存在を信じて生きる移動系の血を引く人々の中に入ると、しみじみ心地よいと感じ、すべてがさわやかだった。安らぐのだった。気づくと北緯三十度線と四十度線の間を東西に漂っていた。
 そして、茶店や宴席で、いつも、餃子の一族の小さな食文化が姿を見せていることに気づいた。中国北部にルーツがあると信じて疑わなかった餃子について、カシュガルに住む一人のタジク人古老は、それは大昔からトルコ系騎馬民族の食です、といった。一度は餃子のルーツ探しを考えた。
 他方、七〇年代初めの中国東北地方、撫順の炭鉱に付属する老人ホームで、余生を送っていた八十数歳の老人が語ったことばが甦りもした。「毛沢東のいうことも革命も、文革も私にはわからない。しかし今では、一生食えないと思っていた水餃(子)が毎週食える……」
 また、九〇年に西安郊外で会った中年の工員のことばも胸の奥に残っていた。
「以前は、春節(正月)に一回食うだけだったが、最近は食べたい時に食べている……」
 一度は思ったルーツ探しだったが、極寒の旧満州北部から黄土地帯、トルコ系騎馬民族世界からアフガニスタン北部、その美味を心おきなく土地の人々と楽しむことに専念しよう、と決めた。皮をむいて列べ、具をくだいて虫眼鏡で詮索するような旅をしたくなかった。辛く苦しかった生涯の終りに水餃を口にする元坑夫の静かな表情の想い出を壊したくない、とも思った。
 世界地図上に赤色で示された〝飢餓地帯〟には、中国、アフガニスタンを含む、餃子一族の食を提供してくれた土地のすべてがある。そこでは、日本列島と異なり、餃子は今も輝く麺食である。そして、何よりも検証めく旅を躊躇させ放棄させたのは、餃子を愛する土地では誰もが、この上なく優しくまた厚い心で旅人を迎えてくれたということである。
 起源はともかくとして、餃子一族が東西文化交渉の証しの一つであり、移動系の人々に深くかかわっている、とわかっただけでも充分満足である。書くならば、餃子が見えかくれする人間交流を、と思った。

 冒頭で引用したのは、十年近く前、旅から戻った折お会いした五木寛之さんの言である。ホモ・ルーデンス、ホモ・モーベンスの語も交えての話だった。
「餃子は、移動・定住それぞれの人々の合作としては上等なものですね」
「餃子ロード」を脱稿した時、こんなことをいうと、深い意味の通じぬ奴、と五木先輩は苦笑するに違いない、と思った。

五感に伝わるリアルな大陸の情景

ラーメンともども中国からやってきて日本に帰化したギョーザ。ところでこの親しい食べ物のルーツは遥か西域にあるという。アフガニスタンでは刻んだ韮を包み茹で、羊肉のミートソースとヨーグルトをかけたオシャク、トルファンでは韮と羊肉入りのジュワワ、中国では焼かれると鍋貼になり、煮られると水餃になる餃。それは餃を軸に遥か大陸へと向う壮大な紀行文だ……というよりこの骨太で美しい言葉の連なりは詩に近い。口にした餃から、アフガニスタンのチャイハナの葡萄棚に坐る老主人が、凍てつく北京の街で凧を売る老爺が、カシュガルの夜市で京劇の一説を唄いあげる通訳の声が、残留孤児の辿った人生が、幼少時に過ごした旧満洲大連の街の情景が、ざわめきが、匂いが、闇と光が、土地に染みついた歴史が、時系列を飛び越しつぎつぎに立ち現れる。あまりにリアルに五感に訴えられるので手で触れたかと思うと、次の瞬間、幻想のようにかき消えてゆく。ホワイトノイズが充満していた身体に、大陸の乾いた風が穴をあけ吹き抜けていくような読後感が得られよう。

  • 四六判上製241頁
  • 4-88344-034-6
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1998/11/30発行
神・泥・人

移動民の血に魅かれつつ、二十年以上にわたりイスラム世界をさまよいつづける著者が、アフガニスタンの人々との深い関わりのなかで、自らの魂の古層を問い返す。──移動民の血・イスラムの風

書評

重なり合った心で語る甘美な世界

小滝 透
作家、アラビスト

 この「神・泥・人」と題するアフガニスタン記は1960年代後半より現在まで同地と深く関わりあってきた著者の足跡を記したものである。
 しかし、それは単なる旅行記でもなく風土記でもなく著者の持つ幼い頃の旧満州国大連の思い出から出発する。
大連で迎えた敗戦直後の思い出が巡り巡っていつしかアジアへの回帰を招き、アフガニスタンとの出会いを生み出す。
 ハイバル峠を西側へ抜け、初めてアフガニスタンの大地に触れた彼の魂は、その後移動民(遊牧民)のさすらう暮しの素晴らしさと悲哀に触れ、遠来の客をもてなす包容力とその底に流れる激しい異邦人への拒絶を感じ、さらにはそこに現在生きている人々の伝統的価値観と近代化の狭間でおこる衝突と動揺を淡々と語っている。
実際、著者が初めてアフガニスタンの地を踏んで以来、この地では様々な事件や変革がおこってきた。
 1970年代の王制の崩壊後、いくどものクーデターがくり返され、ついにはソビエト軍の介入をみるや、アフガニスタンの全土は今に至る激しい内戦に突入した。
 著者の見たアフガニスタンの内情は実にこうした急速な近代化と国際情勢の激変により揺れ動く国家と国民の姿であったはずである。
 そして事実、こうした事件はその都度本書の中でも語られている。
 しかし、こうした現状を書くにつけても、著者の記述にはどこか透んだ静謐さが感じられる。また、長く異邦人として住む中で必ず起きるいらだちや疎外感も著者においてはアフガニスタンへの思いの中でいつしかきれいに昇華されている。
 したがって、ここで語られている世界は、アフガニスタンの大地や人々の具体的な記述でありながらも、同時にそれを超越した一つの甘美な世界でもある。
 広くはるかなアフガニスタンの大地も、雑踏と喧噪の交錯するバザールの世界も内戦のため国外で暮らさざるをえなくなった難民たちの現情も我々に伝えられる報道とは全く別の姿を見せる。
 それは既に著者の心の一面が確実にアフガン人の一面と重なり合って同化しているからにほかならない。
 著者の見る眼は日本人の眼であると同時にそれを越えてアフガン人の眼と化している。
 長いアフガニスタンとの交流の中、いつしか彼の心の中にはアフガニスタン人が巣食ってゆきそれが日本人である彼自身と混合していったにちがいない。
 本書の記述の底に流れる一種独特の雰囲気は、こうした両者の共存と調和によってかもし出されているからであろう。
 そしてそれは最後には大連での少年時代に回帰してゆくものかもしれない。
 事実、本書の記述は大連での敗戦に始まり、アフガニスタンでの体験を経て、最後に再び中国(西安)の記述で終わっている。
 一般に我々日本人はシルクロードに代表されるアジア内奥部の国々に強い憧れを抱いてきた。そして本書はその憧れをアフガニスタンの大地を介して強く我々に訴えかけ、アジアの地へと誘っているのである。

  • A5判変型121頁
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1992/02/20発行
生命の風物語 シルクロードをめぐる12の短篇 甲斐大策 シャリマール 灼熱 太陽 屈辱 報復 復讐 エロス 流転 無常 画 シルクロード アフガン アフガニスタン 甲斐 大策 中上 健次 小説 生命 ペシャワール エロス 死 神 泥
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生命の風物語
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¥0円
生命の風物語

中上健次氏絶賛!


苛烈なアフガニスタンの大地に生きる人々、生と死、神と人が灼熱に融和する世界を描き切る神話的短編小説集。「読者はこの短編小説集に興奮する私をわかってくれるだろうか」(中上健次氏)

書評

物語を読む歓び

樋口伸子
詩人

 暑い夏に熱い本を読み、知らずに負った火傷の跡が秋風の頃になってひりひりとする。
 画家として知られる甲斐大策氏が、シルクロードをめぐる本を出した。『生命の風物語』『シャリマール』という愛の物語集。いずれにも、本来〈物語〉が持つべき活力(マナ)が溢れている。生命だけでなく、死にさえも。
 舞台はアフガニスタンを中心とするイスラム圏。根強く残る内外の紛争に加えて、その風土は苛酷なまでに熱く乾き、人々の営みは私達の日常から大きく隔たっている。
「ドゥシュマンダール」という一篇は、パシュトゥン部族社会の掟の一つである報復を背景にする。ある夏の宿場町で妻をからかわれた夫が手斧を二人の男に叩き込んだ。
 白い埃に覆われた並木の街道筋、驟雨前のよどんだ空気と不穏な空模様の変化、苛立った心理が招いた一瞬の惨劇まで、駒落としの画面を見るようだ。血しぶきのあと、「泥色の街は完全に雨脚の中に煙ってしまった」。簡潔で引き締まった文体に魅了される。
 この事件は、以後三十年の間に双方から十八人ずつの死者を出して決着したかに見えたが、さらに二十年経ち、別の事件を機に報復が蒸し返され、五人の若者たちの仇討ちの物語が始まる。非情な事件にもかかわらず、清涼感が流れるのは著者の繊細な眼差しが背後の民族性や風土、義や掟に拠る心の揺らぎにまでいき渡っているからだろう。とまれ、このようなドゥシュマンダール(仇討ち)の話が一九七〇年代末のことと聞けば血が逆流する。
 さて、風は坩堝の中に渦巻くだけでなく、地を掃き、谷から谷へたゆたい流れる。「パシャイ」は寄るべなき心に添う風のような話である。厳しいヒンドゥクシ山脈の谷々にパシャイと呼ばれる男達がいる。蚊のようなという意味で、「妻も子もなく、盗まず乞わず、五、六人の群れとなってパシャイ達は谷から街道、間道から尾根筋へと漂って歩く」。
 山岳事故で自分の名前さえ忘れたジャミールは、叔父に誘われ初めて下界に降りた。十日目、叔父は少年にたっぷり食わせ、必要最小の物を身につけてやると、カーブル河の対岸を見ながら怒鳴るようにいって去った。「お前はパシャイになったのだ。パシャイ達に会ったら従いて行くんだ。神のお恵みを!」
 少年は雪を被った山に向かって歩いた。子供達にはやされ犬に吠えられ、怯えながらもパシャイと呼ばれると心が安らぎ、自分でもそうだと信じた。四日目の夜明け、五人の男達が太陽とともにゆっくり丘の上に現われ、横に並んでしゃがんだ。近くに寄ると皆がジャミールに微笑んだ。男達は金髪と肩衣をなびかせ滑るように丘を下り始め、少年も後に従った。悲哀を超越して輝く光景である。
 この短編に限らず、境遇の転変や厳しい出自のせいで小さな社会からずり落ちていく人々が出てくる。それを悲惨と言い不幸と見るのは私たちの脆弱な精神であり、彼らはむしろ自ら下降することで、解き放たれた魂の安堵を得ようとしている感がある。私の好きな「髭婆」、寒山拾得のの拾得を彷彿とさせる「大地を掃く男」など揺れ止まぬ陽炎のような余韻を残している。
 運命や死に対する彼らの恬淡さともみえるものを、諦観という私達の感覚に置き換えることはできない。愛や悲しみ、幸も不幸も私達の湿り気を帯びた感度で測るのは危険だ。一切が脱水され天火に乾かされ砂よりも細かな粒子となり、漂彷と風の舞い去っていく。
そのほか、騎馬民族らしい勇猛果敢な男達やはかない女達を描いたこの巻を〈熱風・千夜一夜物語〉と呼ぶなら『シャリマール』は、白銀の月光にふさわしい愛の物語集である。
 戦火の街での清清しい少年「ナフディ・ジャンの恋」を別にすれば、いずれも禁欲と官能と聖性の境で神秘的に冴え渡る。
 癩に怯えながらの超俗の愛を描いた「花園」の終章は息を呑むほどに美しい。一度も肌を重ねることなく成就する逃避行の果て水中に崩れ落ちる女を、すでに同じ病に侵された男は救うこともできない。水辺に漂う花々と仰向けに浮かぶ女はまさに数々の〈水底の女〉の一人であり、ラファエル前派の絵画〈オフェーリア〉に勝イメージを与える。
 無駄のない文で風景がくっきりと浮かぶのは、画家である著者の眼の確かさによるものか。そうして、富貴であれ貧者であれ、漂う品格は彼の地の民に寄せる思いの深さに負う。氏はシルクロード各地を歴訪して滞在、回教徒でもある。読み返したくなるのは、この二巻が単なる異国趣味に彩られた現代の奇譚集ではないからだ。アフガンの聖戦士(ムジャヒディン)にも似た氏の風格の奥にあるものを想う時、その精神の膂力(りょりょく)に感嘆せざるをえない。
 本を閉じ一夜明ければ、私達の世界は底の浅い豊かさの中で卑小な優劣の差と意地や見栄、薄っぺらな自尊と気落ちに満ちている。目覚めてもどる場所がそこだとは、よく解っている。だからこそ、幾夜もこの本に手がのびる。これを、物語を読む歓びといわずに何といえようか。

「眩暈」に陥るが如き魅力

中上健次
作家

 アフガニスタンのカブール、カンダハル、さらに昔から蓮の花の都とされたパキスタンのペシャワール、この近辺に近代国家が定めた国境を国境と認めないように幾多の遊牧の部族が住んでいる。宗派は色々あるが、何れも敬虔なイスラム教徒であり、敵には勇猛果敢な聖戦士(ムジャヒディン)である。当然のことながら友情厚く誇り高い。農耕定住の日本から旅すれば、ことごとくが違い、たちまち眩暈(げんうん)に陥る。
 甲斐大策『千夜一夜物語』の趣のある短編小説集は、この眩暈の魅力を伝えて余りある。無駄のない文体が遊牧の若者の武器を持つ肉体に似て、力がみなぎり、古代と中世、現代が混交した部族に生きる若者を現出させる。若者の昂り。屈辱。肉体。歓喜。エロス。これらどれをとってみても、日本の近代、現代小説から失せたものである。農耕定住の日本の若者は「心理」「気分」しかないのである。
 読者はこの短編小説集に興奮する私をわかってくれるだろうか。乾いた土を乾いた土として描くこと、太陽を太陽として描くことは生半可な経験や修練でできるものではない。だがこの乾いた土がある。太陽がある。ペシャワールのものとものがぶつかって立ち上がる音があり、匂いがあり、何よりも今、この今、生きている聖戦士でもある、若者らが在る。
 この短編集の第2巻目を、さらに長編小説集を続けて読みたい、と衝動にかられる1冊である。

  • 270頁 四六判上製
  • 4-88344-038-9
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1999/03発行
アジア回廊 甲斐大策 甲斐巳八郎 満洲 アフガニスタン アフガン 石風社 中国 絵画 水墨画
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アジア回廊
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¥0円
アジア回廊

満洲──アフガニスタン。茫茫たる中国大陸に生きる中国民衆の強靭な生を畏れとともに描いた巳八郎。深々としたアフガンの人と風土に魅入られ、その深奥を描かんと彷徨する大策。強烈な個性をもつ画家父子によるアジア回廊巡り。

書評

アフガンに見る人間の魂

小林清人
読売新聞文化部

〈パシュトゥンってどんな人たちだ?
「おれがパシュトゥンじゃないか。つまりアフガンだ。あんたはよく知ってるじゃないか」〉
 福岡市の石風社から出た「アジア回廊」は、父は戦前の中国を、息子は戦後のアフガニスタンを中心にアジア大陸を放浪した九州出身のともに絵かきの親子がこれまでに新聞や雑誌などに発表した文章を集めている。約250ページのほぼ前半分が息子の大策氏に、後半分が父巳八郎氏に充てられ、二人の絵画作品の図版も豊富だ。
 冒頭に引用した部分は大策氏とアフガンの〈兄弟〉ハジとのやりとりだが、「おれがアフガンだ」というきっぱりとした答え方が新鮮に感じられる。このように明快に確固とした自己確認のできる日本人は少ないのではないか。「殺すか兄弟になるか」の選択を迫られるのが、「血を支払い合う中で人間の心を知ってきた」アフガンの人々の人間関係だという。人々の魂は単純で、深い。
「毎年十万人失っても、今百二十万人戦える者がいるから十年はもつだろう。その間に子供達が育って、新たな百二十万人が出てくるよ」
アフガン戦争下でのこの長老の言葉にも圧倒される。人々は長大な時空の中で生きている。ここでの生活の美しさは「悠久の時間をぬって多くの民族と文化が交流し破壊し、そのつど、ほんの少しずつ厳選された美が残り、人々の生活にキラキラとちりばめられていった」ようなものとしてある。音楽もまた「民族興亡の数千年が練り上げた旋律」なのだ。
 ペシャワールでは、「毎夜、仇討ちのために、少なくとも二人以上の死人がでる」。ハジがみずから描き出すように彼らは「正直で、ウソつきで、盗っ人で人殺し」だが、日本人の〝兄弟〟を見送るために十時間をバスに揺られ、別れ際には「涙を浮かべ力いっぱい私を抱きしめ」るような人間でもある。
「泥と血の匂いとともに、無限の優しさを漂わせる」人々は、異国趣味で眺める分には尽きない魅力をたたえて見えるが、隣人として付き合うとなると、どうだろう。現代文明が失ってしまった何かに郷愁を感じてばかりもいられなくなるはずである。
 彼らの生活態度がさし示すももを「西欧近代の知と思考によって解きほぐすのは不可能である」と大策氏も指摘する。私たち日本人の多くにとっても事情は同じだろう。イスラムに改宗し、彼らと〝兄弟〟になったはずの大策氏自身、「結局のところ私は見物人だ」と書く。そうつぶやくしかないような遠い距離が彼らと私たちの間には横たわっているようである。
 巳八郎氏も画家らしい丹念さで人々の暮しを記述している。戦前の日本人で、対等の人間としての目線で中国人を眺めることのできた人はそう多くはないのかもしれない。売春婦や賭博者に向けるまなざしにも、余儀ない人生を生きる人々への共感やいたわりの気持ちが感じられる。

  • A5判並製254頁
  • 4-88344-017-6
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1996/11/30発行
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