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20世紀の記憶既刊
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東アジア 新時代 海図 朝日新聞 西部本社 社会部 グローバル アジア 経済 石風社
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東アジア
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東アジア

グローバル・スタンダード(世界金融攻勢)を前にアジアは真実、危機に瀕しているのか? アジアの底流を読み、経済のみでなく、人々の日々の営みから、明日のアジアを展望する。

書評

下からの東アジア論

河村誠治
国際東アジア研究センター主任研究員

 本書は、主として、朝日新聞西部本社が一九九七年初めからつい最近まで同社新聞に掲載してきた東アジア現地ルポを加筆・編集したものである。その目的は、変化の激しい東アジアの「いま」を書き留め、新しい時代につなげたい、とある。第一線で活躍する記者たちの執筆だけあって、わが国を含めた現地(地域)の人々に焦点が当てられている。われわれ読者とも深くかかわる現実の問題が軽快な語り口で述べられており、全二六九ページは一気に読み終えられる。
 表題の「東アジア」は、「九州・西中国・沖縄と密接につながる身近な地域」で、「東シナ海や黄海に面した国・地域」であり、主たる対象国・地域として、日本、韓国、中国、台湾が挙げられている。大方の脈絡はこうである。
 東西冷戦時代に固く閉ざされ分断されていた黄海・東シナ海がすっかり開放され、地域住民の相互交流が拡大したが、他方で漁業、漁業資源、漁民の生活、経済水域の線引き、領土・領海問題などをめぐる激しい対立も生じている(第1章「荒れる二〇〇カイリ」)。ともあれ、その東アジアの国・地域を結びつけてきたのは、ハブ港湾、航路、海運業者、船員である(第2章「港と海運をめぐる攻防」)。黄海・東シナ海が狭くなった結果、密航から外国人労働者の就業のあり方までの新たな社会問題が日本、韓国、台湾に突きつけられるようになった(第3章「回流する外国人労働者」)。東アジアの文化・芸能・スポーツ界に生きる人々に目を当てれば、ハングリーな直向きさと向上心がよくわかる(第4章「クロスオーバー文化芸能」、第5章「越境するスポーツ」)。東アジアの多くの人々の心は、いま、夢と現実のはざまで大きく揺れている(第6章「漂泊するアジアの心」)。その対極にあるのがわが国の海上保安官たちであり、領海を守ろうという使命感と苦労は積もる一方である(第7章「第七管区海上保安本部」)。今後の東アジアの行方を占う上で、開発独裁型の経済成長が行きづまった韓国の動向はとくに目がはなせない(「危機の韓国経済報告(経済部編)」)。東アジアでの交流の姿をアジアで活躍の三氏に聞くと、エコノミストは直接投資が中国大陸だけに集中しないことを、女優は東アジアの違いを認めることを、歴史家は東アジア史に見られた都市間交流の復活を説いている(終章「新時代のアジア」)。
 私が編者であれば、とくに大切な終章は、外部の識者にゲタをあずけるようなことはせず、それまでの全8章をベースに結んだはずである。識者の意見が必要なら別章を設ければよい。実際、終章の識者の発言からは、交流の具体的姿がほとんど見えてこない。いくら東アジアのいまを「書き留め、新しい時代につなげたい」と言っても、一冊の著書である以上、また単なる新聞記事の寄せ集めと寄せ集めと誤解されぬためにも、脈絡をもっとはっきりすべきであったし、今日の東アジアを総括する自己主張があってしかるべきであった。
 そうだからと言って、本書を過小評価するわけにはいかない。最後になったが、他にはない本書の特長を四つ挙げておく。一、個々の記事が現実に忠実で、また普通の学術書にはない新鮮さがあり、多様な東アジアの方向性を探る上で有益である。二、わが国を東アジアの一員とし、東アジア域内からわが国の存在を見いだそうとしている。ちなみに、多くの経済統計(但し書き)では、経済発展段階の違いと称し、「日本を除く東アジア」と明記しているが、それは東アジアの独自性を否定し、環太平洋地域構想に加担する考えの表れである。三、経済成長や金融・通貨危機などの経済問題に偏ることなく、各種の社会問題を拾い上げている。それは、歴史、社会、風俗、習慣、文化などを重視していることの表れでもある。四、目指そうとするところは、開発独裁という「上からの東アジア論」ではなく、地域住民の視点から見た「下からの東アジア論」であり、ユニークである。

  • 四六判並製271頁
  • 4-88344-031-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1998/06/20発行
恨の海峡 恨 ハン 申鉉夏 日韓 朝鮮 近代史 半島 石風社 帚木蓬生
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恨の海峡
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恨の海峡

時代や政治の荒波に翻弄され続ける日韓近代史を生きた一人の教師が、深い智恵をもって記した自伝。──醜くもなく美しくもなく

書評

「恨」の癒えるとき

帚木蓬生
作家

 著者は一九二八年、慶尚北道安東の寒村に生まれた。洛東江の支流沿いにある村は百戸ほどしかなく、大半が小作農だった。日本の土地収奪事業のために村民は貧しく、一日二食、粥か麺が主体で、それも春の始めには底をつき、男たちは松の皮をはがし、女たちは草の根を掘って食の糧としなければならなかった。年寄りと幼児は栄養失調で死んでいった。
 曾祖父が一台で築いていた著者の生家も、台所は火の車だった。両班(ヤンバン)の家筋ではないが、祖母と母は両班の出であり、家の中には凛とした雰囲気が漂っていた。四歳になると曾祖父から漢文の手ほどきを 受け、六歳のときにはもう漢文とハングルが読めるようになっていた。小学校は六キロ離れており、そこで初めて日本語教育に接する。村の子ども全部が学校に行けるわけではなかった。二、三年遅れで入学した子もいれば、学費が続かない子もいた。著者を慕っていた女の子は小学二年で学校をやめ、やがて家族とともに満州へ去っていった。
 小学校では、毎朝東に向かって皇居遙拝があり、行事のたびに「君が代」と「海行かば」を歌わされた。小学四年で朝鮮語の授業がなくなり、日本語のみが強要された。
 創氏改名の強制もいよいよひどく、実名のままでは進学もできない。曾祖父は悩んだ末に、本貫の地名をとり平山と創氏した。
 五年生の担任だった浅沼先生は長野県の農学校出身で、平山少年の学業にことの外厳しかった。「こんな成績で、お父さんに顔向けできるか」と著者の手を鞭で叩き、猛勉強させた。その激励にこたえて平山少年は十三倍の難関を突破し、大邱師範学校に合格する。村の小学校始まって以来の快挙で、もちろん卒業式では答辞を読んだ。
 師範学校には、全国から優秀な朝鮮人子弟が集まっていた。学費免除のうえ、月二十五円の官費が支給された。日本人の学友もいて、寮生活は軍隊さながらだった。著者はここで先輩たちの抗日運動の歴史を知る。布団の中でハングルの本を読み、民族意識に目覚めていく。「朝鮮歴史」が密かに回し読みされ、将来は植民地政策の先兵にならねばならない自分たちの危うい立場に苦悩する。
 一九四五年四月、学業の途中で郷里の小学校に配属される。戦争に駆り出される朝鮮人青年に、日本語を教えるための教育動員である。ガキ大将だった竹馬の友は独学で英語を学び、日本陸軍に志願して古里を出ていた。後に彼は南方の英軍俘虜収容所の監視兵となったが、それが仇でBC級戦犯に指名、遂に家族の許には戻ってこなかった。
 日本の敗戦とともに、著者は師範学校に向かい、祖国の解放を祝う級友と再会、互いに本名で名乗りあう。音楽担当の朝鮮人教諭は涙を流しながら、禁じられていた母国の曲をテノールで歌った。
 戦後、教壇に立つようになって、卓抜な教育者だった浅沼先生のことが思い出された。こんなとき先生であればどうするだろうかと、会えなくなった恩師に問いかけた。
 一九五〇年、朝鮮戦争が勃発。著者は担任の児童を引率し、安東駅頭で出征兵士を見送った。やがて自らも報道要員として現地召集される。山河を埋める彼我の死体。同族同士が血を流し合う惨劇は眼をおおうばかりだった。
 著者が初めて日本の土を踏んだのは一九六八年、京都の韓国中高校に赴任したときだ。アパートを借りようとして何度も断られ、差別を知る。ボクシングのテレビ中継で韓国人よりも日本人を応援する生徒たちに驚き、教師も生徒も母国語を話せないのに落胆する。僑胞たちの貧しさも予想以上のものだった。生徒たちに、朝鮮文化に対する誇りをもたせるにはどうしたらいいのか。著者は彼らと語らい、文化祭のための韓国歌曲や民謡を指導する。生徒たちは舞台の上で、父祖の地にはぐくまれた歌を高らかに口にした。
 翌年、浅沼先生の消息が判り、妻子を伴って信濃へ旅する。恩師は南方で戦死していた。霊前で韓国式に二拝の礼を上げ、著者はこう叫ぶ。「先生、朝鮮から平山が参りました。生きておられる先生にお目にかかれないのが、残念でなりません。朝鮮の教え子を代表して、ご冥福をお祈り申し上げます」
 さらに京都から福岡の韓国教育文化センターに転任。在日韓国人子女の民族教育と韓日の文化交流に腐心するなかで生れたのが、「一人の人間が動けば、文化は自ずと交流される」の信念である。自分自身が韓国文化そのものなのだと著者は自らにいいきかせ、「日本人に韓国を正しく知らせる」仕事に邁進する。
 在日十六年で著者はいったん韓国に帰り、定年まで教師として勤めあげた。現在は福岡にも居を構え、新たに韓日両国を行き来する毎日を送っている。
 身をもって現代朝鮮史の激動を生きぬき、日本をも知りつくした著者だけに、本書で紡がれるひと言ひと言が、読者の胸にやさしく沁み入ってくる。その根底に流れる調べは「恨」である。しかし「恨」は怨念でも復讐でもない。「実現されなかった心の祈願が、内部に沈殿し積もった情の固まり」であり、その裏には、決して望みを失わず、美しく調和のとれた世界を希求する強靱な精神がよこたわっている。
 死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥もないことを/葉群れにそよぐ風にも/私は心を痛めた。/星をうたう心で/すべての死にいくものを愛さねば/そして私に与えられた道を/歩んでいかねば。/今宵も星が風にこすられる。( 尹東柱『序詩』森田進訳)
 著者よりもひとまわり年長の尹東柱は、一九四五年二月十六日福岡刑務所で、誰にも看取られることなく有為な前途を断たれた。まさしく著者は詩人の遺志を継ぎ、彼が生き長らえていたならば辿ったであろう道を歩んだといえる。
 日韓を隔てる海峡に信頼の橋を架ける営みは、著者の人生が具現する「恨」のかたちに眼をこらし、耳を傾け、寄り添うところから始まるように、私には思える。

  • 四六判並製247頁
  • 4-88344-014-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1996/08/15発行
はにかみの国

石牟礼作品の底流に響く神話的世界が、詩という蒸留器で清冽に結露する。1950年代作品から近作までの三十数篇を収録。石牟礼道子第一詩集にして全詩集。*芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

書評

「まじない」の力 全開

伊藤比呂美
詩人

 石牟礼道子さんの書くものは、日本語のたましいの熱に触れるといつも思っていました。水や草や泥などというものの持つ熱にいつも触れつくと。
 これは詩集です。長い小説にくらべれば、詩とは、ささやかな、雨夜に独り言をつぶやくような、ごはんを作ったり洗濯したりするような表現です。その中でこそ、かもしれない。たましいの熱は発揮され、詩のことばは、生き物のように呼吸をはじめ、日常の生活の、食べたい、愛したいという欲望と同じように、わたしの中になんともたやすくはいりこんできました。
〈花がひらく/赤ちゃんが死ぬ/肉汁(しちゅう)の匂いのこぼれる扉をひらく〉
 詩は読みにくいと、よく言われます。詩はどうもわかりませんと。どうして人がそう言うのかわたしにはわかる。行から行に、詩人の意識が飛んでいってしまうからです。人が、それなしではいられないと思っている論理のみちすじをすっ飛ばし、感情をむき出しにして、定型詩ではないから、詩人の個人的なものであるべきリズムにのって、うみだされてくるわけです。つまり詩を読むというのは、他人の生理を取り入れるような作業であります。
〈乳頭にちらつくのは/雪の気配のようであるが/わたしはもう/ねむくてたまらない〉
 詩の読み方を教えましょう。まず、この本を手にとってはじめから読みとおすのです。わかるわからない、のれるのれないは別にして、読みとおす。それから本を閉じてしばらく置く。そしてまた開くのです。こんどはページをめくり、なんとなく探し物をする心持ちで、ぼんやりとことばを見つめておりますご、あなたが探し物を見つける以前に、ことばは向こうからあなたを探しあてて、吸いついてきます。吸いつかれたら、そのことばを手にとってよくながめる。こうしてわたしはこの詩集を読みましたし、ここに引用していることばたちが、わたしに吸いついてきました。
〈めめんちょろの/野蚕さんになって/這うて漂浪くのが/役目でございます〉
 詩っていうのは、論理なんてどうでもいいのです。もしかしたら人に伝えることすら、どうでもいいかもしれません。ただ、詩人はことばがいとおしくてたまらないのです。ことばをつぶやいていたい、ことばを手の中に入れてなで回していたい、そういう欲望が、詩を書く人の中にはあるのです。でもそれだけじゃありません。
〈蛙のあしをひき裂くように/じぶんの愛をひき裂いてしまったので/もうなんにも生まれ替わることはできません〉
 詩の原型は「まじない」です。人の心やもののけにつたわり、それを動かし、いやし、あるいはのろう。それが太古からの詩の役割であったはずなんです。現代詩という世界はそれを忘れかけていましたけど、石牟礼さんはけっして忘れていない。むしろ詩のかたちで、本来の力を全開大にひらききったようだ。
〈こなれない胃液は天明の飢饉ゆづりだから/ざくろよりかなしい息子をたえられない〉
 こなれない胃液や天明の飢饉ゆづりについてい、たぶん、石牟礼さんの持っているイメージとは違うものをわたしは持ったまま、何年もたち、いつか、どこかで、何かを思いわずらっているときに、ふと、「ざくろよりかなしい息子をたべられない」と口ずさむときが来るような気がしてなりません。それがおそらく、詩が読まれるという行為が完結するときです。

時空を超えた母なる海との出合い

道浦母都子
歌人

〈花びらを
 縁どりながらひろがる海が
 天上の夕映えを 懐胎しつづけていた〉

 詩集を読むよろこびは、こんなフレーズに出合うことにある。
 ときは夕映え、海はくれない色に染まり、海と空の境が、花びらを散らしたように濃いくれないに縁どられてゆく。
 天上の夕映えを、海に没しようとする太陽を、両手を広げて待ちうけているのは海。
 いのちの懐胎をつづける母なる海だ。

 私の故郷である紀州の海沿いには、「はなふり」という伝説がある。春秋の彼岸の日、夕陽は真西に没する。海に没する直前、夕陽の巡りを花が降るように、しらしらしらと光の花びらが舞う。土地の古老によると、それは西方浄土の幻だという。
 石牟礼さんは紀州から遠く離れた九州びと。
 彼女が見つめている海は、不知火の海。それなのに、私には、まだ目にしたことのない故郷紀州の「はなふり」が、このフレーズから立ちあがってくる。
 花びらのようなくれない、花びらのような光。
 石牟礼さんにとっての不知火、私にとっての紀州の海。たとえ、呼び方は違っても、海は海。私たちのいのちを懐胎しつづける母性の海だ。

〈大切なものを
 ぜんぶ 呑みこんで
 今朝も満ちているのだよと
 海霊(うなだま)さまの声が耳元でして
 生まれる前に死んだ
 きれいな泡のような 赤子たちの声といっしょに
 尺取り虫がゆく〉

 前掲の詩はこのようなフレーズで終わる。
 この詩のタイトルは「尺取り虫」。へえーっと、突拍子もない声をあげる私。先程とは一転しての驚き。
 これもまた、詩を楽しむよろこびの一つだ。
 石牟礼道子なる女人は、とんでもないことを考えるひと。ひょっとすると「海霊さま」の生まれ変わりかも。私までもが、とんでもなく心ざわめく。

『はにかみの国』は、ページをくるたびに、そんなよろこびと驚きを、もたらしてくれる。ただし、怠け者の読者には、そのよろこびは伝わらないかもしれない。
 海のようにどどど──っと押し寄せる言葉。肉体性を帯びた力のある言葉を楽しむには、読者は読者なりの力技がいる。
 考え抜いた末、私はこの詩集を一篇ずつ声を出して読むことにした。うんと大きく、うんとなだらかに発生し、詩の中を流れる波音のような音楽を自分自身のいのちのリズムと重ねながら読む。
 すると、

〈てのひらは 渚
 夕陽の引いてゆく渚〉

〈こんやも螢ほどの正気です〉

〈おんなを ちょうだい
 おとこを ちょうだい〉

 私の声と石牟礼さんの言葉が、稲妻のようにスパークする。スパークとは、石牟礼さんが言葉に託した「言霊」が、私に乗り移ること。私の声がいつしか、石牟礼さんの澄んだ海のような声に変化していくこと。
 石牟礼さんは、はにかみ国の歌姫。
 滅多に人前で、歌ってはくれない歌姫さまだ。でも、その声を、私たちは海が奏でる子守歌を聞くように楽しむことができる。
 私たちのこころが波のように凪ぐとき、「やわらかな水沫(みなわ)の声明(しょうみょう)」となった歌姫さまの声が、はにかみの国から届く光のように聞こえてくるはず。

〈でんわにさようならをしていると
 しゅっぽおーっと
 湯気のまじる朝の機関車の音が
 でんわの中から鳴った〉

 そう、突然、海からのでんわのように。

『はにかみの国』ただ一つ

司 修
小説家、画家、装丁家

 書店で目を瞑って取り出した文庫本を、ぱっと開いたら、こんな言葉に突き当たった。「あの方は、わずかな知性しかもたない者にとっても驚くほど解り易く、これら(魂)のことを語られた」
『パイドン』というタイトルだった。

 石牟礼道子全詩集『はにかみの国』が選に漏れたのは、詩壇という小さな箱に入りきれない大きさであったからだろう。また、洗練されたフランス料理の味ではなく、持ち重りのする塩むすびに千切り大根の具が入った豆かすの沈むみそ汁の味だったからかもしれない。そのような意味からすれば、この詩集が小さな箱に入れられなかったことは幸いしたともいえよう。しかし、『はにかみの国』が多くの人に読まれることを望むぼくとしては、小さな箱を壊す意味からしても受賞を願っていた。
『はにかみの国』には、現代詩が遠ざけてしまった大切なものが染みこんでいる。昔話のようなおおらかさで語られる詩の一つ一つは、特別な人々のためではない、普通に暮らす人々のための人臭い神話といってもいい。詩を構成するけして古くならない言葉は、静かなたたずまいの中に、強い生命力が見え隠れする。古くならないからこそ何時までも新しいのだ。現代詩にない土俗的な文体はより新しく感じられる。

 むじょうにつめたく優しい冬の水よ
 おととい生れの赤子のおむつがうつらうつら
 米のとぎ汁にゆられてきても
 なあに 三寸流れりゃ清の水
 高菜漬の胡椒もさっばりふり濯ぐ(川祭り)

「蓮沼」という詩は、蓮の根にやどる蛭の大親分が「いまさき 遠雷が鳴ったと思ったが/なんだ おまえが来たのか」と、生まれてから幾層紀も通り抜けて沼にやってきた者を迎える。沼に生息する虫や魚たちと沼の暁闇の幻想から、「おとうとの轢断死体をみつけた朝」が立ち上がる。
 
 まだ若かったまなこに緑藻を浮かべていた
 その目で沼のように うっすらとわらいながら
 ふむ この枕木で寝て かんがえてみゅう
 かんがえるちゅう
 重ろうどうば 計ってみゅう
 まあ線路というやつは
 この世を計る物差しじゃろうよ

 そんなに思っていたので あっさり
 後頭部ぜんぶ 汽車にくれてやった
 残された顔のまわりに
 いっしょに轢かれた草の香が漂い
 ふたつの泥眼を 蓮の葉の上にのせ
 風のそよぐにまかせて 幾星霜

 レクイエムも方言によって残酷なほどに歌われる。轢断死したおとうとが蘇るように「少年」という詩が後に「なんのことはない/ただの でくの棒だった」と続く。そこに素晴らしい「えにしの糸」の表現がある。

 おそるおそる ふり返ってみたら
 いましも しろい馬は
 食いしばった歯のあいだから
 糸よりもほそい唾液を
 すうっと光らせて
 立ちどまったところだった

 そうして「あの いづめの音がきこえ/波の襞のような闇の中/しなやかな/少年が通る」のである。
 この詩集の初出一覧を見ると、「水俣市教職員同人集『寄せ鍋』」であったり、画集であったり、写真集や週刊誌であったりして、詩と無関係な場所での発表ばかりである。また、制作年も、一九五八年から一九九五年まであり、未発表作品も六作加えられている。著者のあとがきに「書いては隠し、隠しして来たような気がする。ようなという言い方には何も彼も曖昧にしたい気分がこめられている。やりそこなってばかり生きてきたからと思う」とあるように、詩集として世に問うということは考えられていなかった。それゆえ詩壇の箱に縁がないのである。
 詩集の最後に「緑亜紀の蝶」と題された不知火海や石垣島や与那国の海が登場する。
「浜辺に、いったいいくつになっているのか、年齢も定かでないふさぎ神のお婆さんが睡っておりました」と始まる。この世のゆううつな思いを一手に引き受けている婆様の夢見語りは、それこそ詩なのか民話なのかわからない境目であり、詩の飾りなど一欠片もない。詩という特別世界の理解がなければ読めない詩ではない。もろもろの知識を必要としない詩である。こうした条件が備わると詩でなくなるという考えはぼくにはない。

  • 170頁 A5判上製
  • 4-88344-085-0
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2002/08/10発行
日本人が見た'30年代のアフガン 尾崎三雄 アフガニスタン アフガン 農業 尾崎 三雄 日本人 昭和 明治 大正 写真 書簡 農夫 東大 農学部 カブール ジャララバッド カシミール
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日本人が見た'30年代のアフガン
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日本人が見た’30年代のアフガン

王政アフガニスタンで尽力した日本人たち


1935年(昭和10年)、熱砂のアフガニスタンで農業指導に奔走した日本人がいた。一人の明治人とその妻が、苛酷な日常を通じて異文化と真摯に向き合い、日々の生活と内面の葛藤を綴った貴重な記録。写真多数。

書評

戦前日本アジア戦略の「布石」

布施裕之
編集委員

 ちょうど十五年前、アフガニスタンへ取材に行った際、地元の古老から「アフガンの低地部には日本のミカンのような果物がなる」という話を聞いた。その果物は、バザールに並ぶオレンジよりも小さく、皮の薄い柑橘類で、現地に伝わる話では、何十年も前に日本から種か苗木を取り寄せて育てたものだという。
 当時のアフガンはソ連軍の撤退が始まる直前で、現地入りした外国マスコミの回りには、「案内役」だの「地元住民」だのと称して、その実秘密警察にしか見えない怪しげな連中が取り巻いていた。だから、ミカンのことも、日本人記者の歓心を買うための「おとぎ話」だろうと高をくくって、本気にしなかった。
 ところが最近「日本人が見た‘30年代のアフガン」という本を読んで、この古老の話を突然、思い出した。戦前、アフガンで農業の技術指導をしていた日本人農業技師、故尾崎三雄氏の手紙や紀行、写真をまとめた本の中に、現地で「柑橘栽培」に取り組んでいる、というくだりを見つけたからである。
 尾崎氏は一九三五年(昭和十年)、勤務先の農林省の命でアフガンへ渡り、三年間にわたって、植林、灌漑、果樹栽培などの指導に当たった。「世界の最果て」への赴任だけに、子息によると、出発の際には「親兄弟と水盃の別れをして故郷を離れた」という。その尾崎氏が、アフガン各地の農業事情を視察した結果「最も望みあるもの」と見なしたのが、低地部・ジャララバードでの柑橘類の栽培だった。紀行や手紙からは、尾崎氏が、わざわざ地元種の標本を集めたり、日本から種子を送らせたり、現地の助手に調査を命じたりしていた様子がうかがえる。
 それにしても、この時期に日本からはるか辺境の南西アジアへ、外交官以外の人員が送られたというのは、それだけでも驚くに値する。なにしろ三五年と言えば、満州事変後の騒然とした時代で、翌年に二・二六事件、翌々年には盧溝橋事件が起きている。尾崎氏の派遣は、直接には三〇年のアフガンとの国交樹立を受けたものだが、その目的は果たしてありきたりの友好促進や人材交流にあったのだろうか。
 戦前の日本のアジア政策に詳しい山室信一・京大教授は、その背景には、英国とソ連がせめぎ合うこの地域に「人的布石」を打ち、「アジアへの影響力を扶植」するという戦略的な狙いがあったと指摘する。特に主眼がおかれたのは「対ソ包囲網の形成」で、それは三六年八月に決定された「帝国外交方針」が、「(ソ連に)隣接する欧州および亜細亜諸国ならびに回教諸民族」の「啓発に力(つと)むべし」と定めていることからも明らかだろいう。
 事実、山室教授によると、尾崎氏自身、帰国後の三九年、専門の農業問題とは別に「アフガンからソ連やイギリスなどの勢力を追放することが、日本がアジアの盟主としての地位を確立するために求められている」とする現地情勢報告を発表している。辺境の地に送られた農業技師は、少なくとも時の政府からみれば、アジア情報網の最前線としての使命をも担わされていたのである。
 日本のミカンがアフガンに移植されたという話の真偽は定かではない。現地で農業指導をしている国際協力事業団(JICA)でさえ「そんな話は聞いたことがない」と首をかしげるのだから、やはり怪しげな古老の「おとぎ話」に過ぎなかったのかもしれない。
 しかし、三〇年代にアフガンで行われた日本の農業指導が、当時の「アジア主義」の、スローガンにはとどまらない側面をかいま見せているのは間違いない。そして、現地情勢を正確にとらえた農業技師の紀行や手紙や写真の中に、戦前の日本人の戦略的な思考能力の高さをありありと思い浮かべるのである。

  • 312頁 四六判上製
  • 4-88344-100-8
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2003/08発行
ヒロシマ ナガサキ 絆 原爆 中村 尚樹
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名前を探る旅
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¥0円
名前を探る旅

松下竜一氏称賛!


原爆により、長崎三菱工場の六千人以上、広島市女の女生徒七百名近くが、一瞬のうちに命を落とした。その生死を分けたのは、ある偶然であったにせよ、生き残った者にとっても、この世は煉獄であった──死者への思いと行き場のない憤怒が、終りなき鎮魂の旅へ駆り立てる。二人の被爆者の記録。

書評

人間として在ることの意味を問うた一書

 「本書は名もなき被爆者二人の記録である」。あとがきにはそう記されている。長崎と広島に投下された原爆が、さまざまな生ある人びとを一瞬のうちに焼き尽くし、「無名」の死骸に変えてしまったこと、そして生き残った名もなき者が長い沈黙ののち、「名前を探る旅」に出立するまでの葛藤を本書に知るとき、この記録がどれほどに重い意味を持つものであるかを、一読するものは見出すことだろう。中村尚樹著『名前を探る旅──ヒロシマ・ナガサキの絆』は、二人の被爆者の人生を追いながら、人間として在ることの意味を問うた一書である。
 「ナガサキの絆──人間の論理」で綴られるのは、原爆で亡くなった会社の同僚の名簿づくりに取り組む一人の被爆者、原圭三さんの姿である。原爆が炸裂したとき、防空壕堀りをしていた原さんは奇跡的に生き残った。だが、三菱重工長崎造船所の同僚の多くは原爆の犠牲となった。そして自らも原爆の後遺症を抱え、死の影を引きずりながら戦後を生きてきた。「自分が死んでしまえば、自分の記憶の中にある原爆で死んでいった同僚たちのことはどうなるのだ。誰も振り返る人がいなくなってします。彼らの名前をいま、取り戻さなければ、永遠に失われてしまう」。亡くなった同僚だけでも、彼らの名前や死亡状況などを記録した名簿を残さなければならない。生き残った自らの務めとして、原さんは被爆から二九年、長い沈黙を経て名簿作りを決心したのだった。
 こうして、原さんの「名前を探る旅」が始まった。しかしそれは、単に名前だけを記載した名簿作りではなかった。その旅は、名前を持つ一人一人がどのような人生をたどってきたのかを確認する作業なのだと、本書には記されている。死者たちは、もう言葉を発することもできない。その無念さが、原さんを突き動かし続けた。「原の名簿は、原と彼らを結ぶ絆の証なのだ」、本書のなかで著者はそう述べている。
 「あらゆる手がかりを懸命に探せば、その人の名前から、その人の人生が見えてくる。そして彼らは、原爆で無惨にも断ち切られてしまったおのおのの人生について語りかけてくる」。原さんは本書のなかでそう語る。そして「名前を探る旅」は、無縁物をもたどって続けられ、少しずつその名前と身元が明らかになってゆく。名前を探る原さんの作業には、原爆投下の後、遺体を次々に焼け跡で荼毘に付した光景が二重写しになる。名前を一字たりとも間違うわけにはいかない、企業や行政に任すわけにはいかない。原さんの旅は、無念仏のふるさとを訪ね、身元を探す旅へと続けられていった。「名前を探る旅」は、著者のいうように「名前と共に生きる旅」として原さんを駆り立てたのであった。
 「六年という歳月は、恐らく多くの僕たちの記憶を忘却の渕に沈めて行く力を持っているに違いありません。……この文集は、被爆の体験については何も語りたくないという痛切な沈黙の心理と、誰かに向かってこの体験を訴えずには居られない強い衝動との交錯の中から生まれてきたものであります」。一九五一年、京都で「綜合原爆展」が開かれたのに合わせて、冊子『原爆体験記』が作られた。この文章は、当時京大の学生であった宮川裕行さんが序文にしたためたものであった。彼は高橋和巳たちと交友を結び、一時は作家を志し、断念する。そして郷里の広島に帰り、長年高校の教師を務めた。本書の「ヒロシマの絆──父から子へ」は、彼の「名前を探る旅」の記録である。
 やはり教師であった宮川さんの父は、原爆で多くの生徒を死なせてしまったという思いを抱えて戦後を生きた。そして宮川さんは三〇年以上にわたって、自らの被爆体験について沈黙したまま、教師生活を続けてきた。その彼に沈黙を破らせた最大の動機について、著者はそれを「原爆で亡くなった人々に対する鎮魂」であったと書き記している。自分の家族は生き残ったが、原爆で亡くなった人々や家族を失った人々に対して言い訳ができない。その気持が、宮川さんの原点にはあったという。自分は原爆の最も悲惨なところを見てはいない、そうした思いが、彼の長き沈黙と鎮魂、そして被爆体験を語る原点にあったのである。
 「自分だけ生き残ったという罪の意識」。それを抱えながら、戦後を宮川さんは広島で生きた。そして、亡くなった人々に対するつぐないとして、被爆体験を語る彼の姿があった。著者は本書に記している。「宮川の重荷となっていた被爆の体験、即ち両親以外のまわりの人を誰も助けることができなかったこと、たくさんの生徒を死なせてしまったという父の思い、そうしたたくさんの気持を、否定するのではなく、そのまま受け止めてくれる人々がいる──それが死者への贖罪へとつながってゆく。それが、ヒロシマの絆ではないだろうか」。
 一九九四年、広島市立第一高等女学校の生徒たちが原爆投下の一九四五年正月に書いた、書き初め三五枚が発見された。「端正簡素優雅」と楷書でしたためられたその一枚一枚に「昭和二十年元旦」という文字と学年、組、そして筆者の名前が添えられている。その「文の林」に分け入った著者は、書き初めを遺族らに返す宮川さんの作業を描いている。「あの時、みんなと一緒に死んだ方がよかった」という気持を抱きつつ、宮川さんはつぐないとして、彼の「名前を探る旅」を始めたのだった。
 被爆体験を語る宮川さんの旅は、海を越えて被「曝」者となったチェルノブイリの人たち、ロシアのキエフにまで及んだ。そして韓国人被爆者との交流とともに、彼らが被爆手帳を取得するために、その世話や証人探しを手伝う仕事が続く。本書からは、残っている名簿などから見出された彼らの名前が「創氏改名」による日本名であることに、現在も続く戦争の爪痕が浮き上がってくる。宮川さんたちに投げられた、一人の在韓被爆者の「だますなよ!」という言葉に、原爆とともに、日本の植民地支配がもたらした一人一人のなかの「戦争」が明らかになるのだった。
 長崎と広島に生きる二人の「名前を探る旅」。そしてその二人の名前に込められた人生をたどる、ジャーナリストとしての著者自身の「名前を探る旅」が本書に実を結んでいる。

蒼氓という言葉がある。

松下竜一
作家

 蒼氓という言葉がある。無名の庶民一人ひとりをさしていう言葉だが、重く寂しい影を曳いている。本書を読みつつしきりに浮かび来るのが蒼氓という言葉だった。
 本書ナガサキ篇の主人公原圭三は、三菱重工長崎造船所に勤務していて被爆しかろうじて生き残った一人である。〈原の働いていた浜口町工場では、動員学徒や食堂員などを含めて三百四十八人の作業員の内、九九%以上が亡くなった。〉
 自分だけが生き残ってしまったという心疚しさは、戦後が遠くなっても原の心から消えることはなく、被爆後二十九年目にせめて〈三菱造船所で亡くなった同僚だけでも、正確な名前と被爆した場所や当時の状況についてきちんと一覧出来る名簿をまとめようと決心〉する。四十九歳であった。本来は国や県や市や会社がしていなければならないことが、なされていなかったのだ。
 まぎれもなく一九四五年八月に生きていながら、原爆によって一瞬の内にかき消され名前すら記録にとどめられない蒼氓一人ひとりを、原は執念をもって生き返らせていくのである。その作業の困難さにもう止めようとすると、夢に黒焦げの男たちが押し寄せて「俺もおる、俺もおる」と叫ぶのだという。自らも癌と闘いつつ、原が二十年がかりでまとめた名簿には六千二百九十四人の名が並んでいた。名前が明かされることで、一人ひとりの生が復権されたのだ。原圭三氏がなしとげたことの尊さに頭を垂れずにはいられない。
 著者は長崎の放送局に勤務中に、「被爆地ナガサキ」の話題のひとこまにはなるだろうというくらいの気持ちで原圭三の取材を始めたが、その執念の重さに惹きこまれてゆく。ついには放送局をやめフリーライターとして、最初のドキュメントとなる本書をまとめることになる。ヒロシマ篇まで紹介できなかったが、戦後五十余年を経てもなお掘り起こすに足る蒼氓の記録が埋もれていることを証したのは、著者の手柄といっていい。

  • 四六版並製 298頁
  • 4-88344-063-X
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2000/08/15発行
ドラキュラ 屋敷 さぶろっく 石風社 前田美代子 いのうえしんぢ 児童書 戦争 平和 小学生 高学年
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ドラキュラ屋敷 さぶろっく
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ドラキュラ屋敷 さぶろっく

戦後間もない片田舎の村。戦争の影をそれぞれにをひきずる子供達が、あるひと夏の奇妙な出来事を通し、未来に向けて歩み出す……へっぴり腰の少年たちがドラキュラ屋敷で見たものは……(児童書/戦争と平和/小学校中学年以上)

  • A5判173頁
  • 4-88344-062-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2000/09/30発行
電撃黒潮隊 挑戦篇 アートネイチャー 石風社 木村栄文 ドキュメンタリー テレビ 九州 沖縄 ディレクター
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電撃黒潮隊 挑戦篇
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電撃黒潮隊 挑戦篇

テレビマンたちの心意気。テレビでは描けなかった舞台裏や主人公たちのその後を追って、ディレクターは今日も走る。ドキュメンタリーは生き物だ! 不況に揉まれ締め切りに追われ視聴率に涙をのみながら、現在を撃ち抜くテレビ屋たちの熱い思い第2弾。

  • 365頁 四六判並製
  • 4-88344-054-0
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1999/12/18発行
電撃黒潮隊 アートネイチャー 大山 木村栄文 石風社 TBS ルポルタージュ ドキュメンタリー テレビ ディレクター
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電撃黒潮隊
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電撃黒潮隊

ブン屋に負けぬテレビマンたちの逆襲! 筑紫哲也氏絶賛の、心ゆさぶられるヒューマンルポルタージュが綴られた。

書評

地元への愛着あふれる視点で

由富章子

 先入観というのは、実に恐ろしい。どの本を選ぶか。わたしの場合その基準はまず題名、次に著者という順で決めている。だから本来ならばこの本は黙殺される運命にあったといえるだろう。なにしろ題名が、電撃黒潮隊である。テレビでオンエアされていることは知っていたが、てっきり軽薄なタレントが騒ぐだけの番組だと思い込んでいた。これが大層な誤解だということは一読すればすぐ分かったから、熱心に薦めてくれた友人には感謝しなければならない。
 蛇足ながら説明すると、この本は九州・沖縄・山口のJNN系列のテレビ局が制作したテレビルポルタージュを本にしたものである。だったら番組さえ見ていればそれでいいじゃないか、と言われるかもしれないが、それが違う。なにより映像と活字では表現方法が異なるし、放送では伝わらない細かい部分だってあるはずだ。ここはやっぱり映像屋さんにも頑張って、文字に起してもらわなければなるまい。
 さて基になる番組だが、勝負の決め手は各ディレクターの視点にあるといってもよいだろう。中央から見下ろした地方、ではない。公平な目線、旺盛な好奇心と真摯な追求、なによりも地元への愛着がものを言う。熊本ではかつて戦災孤児収容施設だった藤崎台童園と、オウムに揺れる波野村が取り上げられているからその興味の広さがわかろうかというものだ。
 もちろん出版社も地元(福岡)デアル。地方の雄として、メディアにはもっと個性と内容に重きを置いてほしいし、冒険心だって忘れてほしくない。もちろんわれわれ一人ひとりにしても本当に価値のあるものを見極め、育てていく器量が必要だ。
 頑張っている人を見ると思わずエールを送りたくなる。知らなかった身近な話題をもっと掘り下げたくなる。とにかく先入観なしに読んでほしい一冊だ。

  • 389頁 四六判並製
  • 4-88344-019-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1996/12/14発行
ティンサ 石風社 根本 百合子 ビルマ バ モオ モウ 女性
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ティンサ
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ティンサ

ビルマの初代首相バ・モオを父に、反政府活動家を夫に、波瀾に富んだ人生をおくったティンサとその一族の物語。大英帝国の植民地、さらに日本軍政下、時代の理不尽に翻弄されながらも清くたくましく生きたビルマの女性達へのオマージュ。

書評

政治に翻弄された一家の苦難の道のり描く

詩音

 1962年、著者の根本百合子さんは、外交官である夫と共に赴いたビルマ(現・ミャンマー)で、一人の女性と運命的な出会いをする。
「素顔の美しさと身だしなみのセンスのよさには会うたび見とれていたが、奥ゆかしさの中に毅然とした強い筋が一本通っている性格に大きい魅力を感じた」という。太平洋戦争下のビルマで、国家元首を務めたバ・モオ元首相の長女、ドオ・ティンサ・モオ・ナインである。
 本書は、ティンサへのインタビューを通し、モオ家一族の半世紀におよぶ苦難の道をたどるノンフィクションだ。
 ビルマの戦後は厳しい。英国からの独立運動があり、クーデターによる革命政府の樹立、反政府運動、そして民主化運動への武力弾圧は今も続く。
 一家は、激動する政治の波にのみ込まれ、運命を大きく変えられていく。
 カンボジアへの脱出と帰国。戦後日本に亡命した父、15年間地下にもぐり反政府運動を指導した夫、ティンサ自身やティンサの弟、妹も投獄され、息子を二人失うという悲劇にも見舞われる。
 しかし、ティンサは「良い時も、悪い時も、冷静な判断とたゆみない生きる努力を忘れなければ、必ず満足のゆく一生が送れます」との強い信念で困難を乗り越え、生き抜いてゆく。
 息子二人と娘一人を失うが、四男七女に恵まれ、孫を加えた大家族を切り盛りするティンサの知恵と行動力は、力強く清々しい。
 著者によると、最近の政情悪化で連絡が一方通行になり、近況がつかめないという。80歳を超えたティンサの余生が穏やかな日々であることを祈らずにはいられない。
 60余年前の日本の侵攻から、現在に至るビルマの近現代史を理解するうえでも貴重な一冊である。

  • 四六判上製247頁
  • 978-4-88344-149-5
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/07/20発行
追放の高麗人 「天然の美」と百年の記憶 アン・ビクトル 姜信子 石風社 朝鮮 韓国 1930 ロシア アジア 高麗 天然 美 写真 姜 信子 アン ビクトル 写真 ごく普通の スターリン 極東 ソ連 民族 流浪 望郷
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追放の高麗人
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追放の高麗人

地方出版文化功労賞受賞


1937年、スターリンによって遥か中央アジアの地に「追放」された20万人の朝鮮民族=高麗人。国家というパラノイアに翻弄された流浪の民は、日本近代のメロディーを今日も歌い継ぐ。人々の絶望の奥に輝く希望の灯火、歴史のあやなす数奇なる運命に魅せられ、綴られた百年の記憶の物語。旧ソ連に生きる離散の民は、日本近代の歌謡「天然の美」を今も歌い継ぐ。

書評

安住する故郷を持たぬ旅人

玄武岩(ヒョン ムアン)
東京大学大学院生

「親日」を背負う植民地朝鮮の「文豪」李光洙(イ グァンス)を旅先案内人として、故郷を棄てる旅(『棄郷ノート』)に出た在日三世の姜信子(きょうのぶこ)。今度は「天然の美」という歌を追いかけてロシア沿海州や中央アジアの高麗人社会に辿りついた。この旅も、「国民のふるさととしての『故郷』」を棄てる旅の延長にある。
 唱歌や軍歌が主流であった一〇〇年前の日本に、突如現われたスローワルツの三拍子。それが「天然の美」であった。現在は、ジンタ、サーカスの歌とも呼ばれている。その哀切なメロディーは瞬く間に人びとの心を捕らえ、国内はもとより植民地下の朝鮮半島に広まった。さらに圧制を逃れようとした朝鮮民衆とともに、旧満州や沿海州にまで流れていった。悲しい歌を愛した植民地の民は、日本から渡ってきた「天然の美」の哀切なメロディーに自らの思いを託して詞をつけ、題名をかえて歌ったのである。「故国山川(コグクサンチョン)」もその一つである。
「天然の美」は、その後「高麗人(コリョサラム)」と運命をともにする。高麗人とは一九三七年、スターリンによって沿海州からウズベキスタンやカザフスタンに強制移住させられた朝鮮半島由来の人々である。彼・彼女らがソ連の中で生き延びていくためには、「追放」という来歴を忘れることが必要だった。高麗人は封印した自らの運命に対する思いをそのメロディーに託し、彼の地で歌いつづけたのだ。
 姜はその中央アジアに赴く。そして一人の写真作家に出会う。アン・ビクトル。ウズベキスタン在住の高麗人である。意気投合した二人はそれぞれの記憶のために、写真作家の両親の生まれ故郷であり、高麗人の「故郷」である沿海州を巡る旅に出た。本書はその記憶の語りと生き様の合作品である。
 本書は二つの構成からなる。第一部は、在日韓国人である姜の手による、沿海州に「帰還」した高麗人の記憶の物語。だが作家が以前出した写真集のタイトルは『受取人不明』。自身の撮り続けてきた高麗人の記憶の受け取り人が見つからないという意味を込めているのだ。姜はその封印された記憶を「語る」ことについて、思いを巡らす。そしてこう言う。「今までと同じ枠組みと言葉遣いに寄りかかっている限りは何も語り得ない」。
 第二部は写真作家の目に映った高麗人の素顔である。作家は、高麗人の歴程を強烈なコントラストと粗い粒子の写真に焼き付けるために、ちょっとした細工も惜しんでない。カバーを飾る写真の老人が奏でるヴァイオリンは「消えゆく農村」のレクイエムにも聞こえる。しかしページを一枚捲ると、それは祭りの音であった。記憶の中から希望を見出そうとしている。
 高麗人の写真作家は、旅の終わりにこう叫ぶ。
「俺たちに帰るべき『故郷』なんて実はない」
 姜は写真作家のことばに自分の思いを重ねる。むしろ自分の思いに写真作家のことばを重ねようとしている。写真作家が不在を口にしているのは、記憶の
「受取人」を待つ高麗人の末裔の故郷だ。姜が捨てようとしている、日本で育まれた国民国家という「物語」の末にある「故郷」と、はたして重ねてしまっていいのだろうか。
 高麗人が歌う「天然の美」も、姜が言うように朝鮮半島を経由したものなのか。沿海州のウラジオストクはかつて、さまざまな民俗が溢れた国際都市であった。そこに居住する日本人が伝えた可能性もある。もっと言えば、多民族の「重なりあう領土」である沿海州で発生したと言えなくもない。
 もっとも歌はいざ海を渡ると、その由来や行き場は互いに認知されず、その必要もない。その証拠に「天然の美」は「すでに辺境を生きる高麗人の心にしみついた彼ら高麗人の歌」になっていたからだ。
 本書で浮かび上がるのは、悲壮感ではない。アン・ビクトルが撮り続けた数々の「マドンナ」はむしろ美しい。半身不随の「人形使いソン・セルゲイ」の表情は、自ら作ったユーモラスな人形たちに溶け込んでいる。だが、ソ連崩壊で封印された記憶が解けたのもつかの間、中央アジアはイスラム主義が台頭し、高麗人は第二の追放に直面している。その一部は今、沿海州に戻りつつある。安住する故郷を求めて彷徨う高麗人の旅はまだ続いているのである。
 日本では北朝鮮による拉致の被害者とその家族との再会で持ちきりである。だがすこし目をそらすと、沿海州やサハリンにはいまだに流浪を続ける追放の民が生きている。その追放された民に投じられた日本の影は決して消え去ってはいない。拉致の悲劇がそうした夥しい数の流浪の旅と絡まりあうならば、それは内向きのナショナルな語りに回収されていくだけではない。本書はそのことに気づかせてくれるはずだ。

  • 283頁 四六判上製
  • 4-88344-084-2
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2002/05/01発行
 (48件中) 11〜20件目