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20世紀の記憶既刊
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少年時代 ジミー・カーター ジミー カーター 大統領 アメリカ 黒人 差別 ピーナッツ 南部 人生 記録 少年
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少年時代
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少年時代

米国ディープサウス(深南部)の小さな町。人種差別と大恐慌の時代。家族の愛に抱かれたピーナッツ農園の少年が、黒人小作農や大地の深い愛情に育まれつつ、その子供たちと共にたくましく成長する。
──このアメリカには「希望」があった──

書評

米国 もうひとつの核心

龍 秀美
詩人

 普通日本人はアメリカという国をなんとなく「知っている」つもりでいるが、政治・経済の中心地としての北部や東部の表面的な情報に偏り、精神的風土や歴史、特にあまり語られない南部のもつ、農業国としての重要性については理解が十分ではない。
 この本はジミー・カーター元アメリカ大統領が、少年時代を過ごしたジョージア州の田舎町での生活を綴ったものだ。
 カーター氏は文中で「自分の楽しみのために」書いたと言っているが本当にそうだろう。そして楽しく書かれた著作が持つ良質の情報を私たちはたっぷりエンジョイできる。このくっきりした輪郭の素朴派絵画を見るような書物には、今アメリカと共に私たちが陥っている迷路を解きほぐしてくれるヒントが満ちているのである。
 ここでは六十数年前のアメリカ南部の農家のさまざまな作業や生活の仕方が実に詳細に描かれていてこれだけでも貴重な博物誌だが、カーター氏の驚くべき記憶力と理解力は、彼を取り巻く人々の言動や身近な事件から当時の世相をありありと感じさせ、読者は楽しみながら自然にこの国のもうひとつの核心に触れることになる。
 やがてカーター氏は海軍士官学校を出てエリート軍人の道を歩き始めるのだが、父の死にあたって農場を継ぐ決心をする。戦争と平和を象徴する海軍と農業との究極の選択が、後の平和主義者カーター大統領を生むことになるのは運命の不思議と言えよう。
 そしてこの選択の背後には、南北戦争、人種差別問題、大恐慌などを含む長いアメリカの歴史が横たわっていることに私たちは気づかされる。
 営々と大地を耕す農業は平和を願う。この真理が後のカーター氏の身命を賭した平和運動になり、昨年のノーベル平和賞とも繋がっていったのではないだろうか。
 カーター氏の人道活動に注目し研究を重ねてきた飼牛万里氏(中村学園大学教授)による翻訳は、言外の意味にも行き届いた配慮が感じられ読みやすい。

  • 378頁 四六判上製
  • 4-88344-099-0
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2003/08発行
十五歳の義勇軍 満州・シベリアの七年 宮崎静夫 石風社 十五歳 戦争 満州 シベリア 抑留 満蒙 義勇軍 開拓 中国 美術 宮崎 静夫 海老原 喜之助 ドラム缶 死者 西日本文化賞 みゆき画廊 俘虜
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十五歳の義勇軍
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十五歳の義勇軍

十五歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願、十七歳で関東軍に志願、自爆間際で敗戦、四年間のシベリア抑留を経て帰国、炭焼き、土工をしつつ、絵描きを志した著者による感動のエッセイ集。
阿蘇の山村を出たひとりの少年が、満州・シベリアでの過酷な体験を経て、一個の画家となった――。

書評

苛酷な体験から明澄な世界へ

久野啓介
元熊本近代文学館長

 第2次大戦中に国策として推し進められた満蒙開拓青少年義勇軍に、高等小学校を出たばかりの15歳で志願し、さらに17歳で関東軍に志願入隊、敗戦と同時にソ連の捕虜となり、4年間のシベリア抑留。帰国後、画家となり、「死者のために」シリーズなど鎮魂と反戦の絵を描き続けてきた著者が、折りにふれて新聞・雑誌に書いた120編のエッセーを集めたものである。
「満州・シベリアの七年」と副題されているが、「その七年が私の青春の総てであった。人はそれを苦難の歳月とも云うが、私にしてみれば濃密な学びの場であり、己れを視つめ、確かめることのできた得難い日々としても忘れることはない」と「あとがき」に書くところに、並みの人ではない著者のしたたかな資質をうかがい知ることができる。
 また帰国から50年後、中国東北部を再訪して見たものが、熱烈歓迎とは裏腹に、「植民地満州の時代の日本人(軍)の所業であり、まぎれもなく浮かぶ東洋鬼(トンヤンクイ)の姿は、否定しようもなかった」(『シベリア再び』)と、かつて加害者側の尖兵であった自分を見つめることにやぶさかでないことも、特記しておかねばならないだろう。
 そして民族間の加害と被害、収容所煉獄の苦難と学び、異郷と故郷など、幾重にも錯綜した苛酷な体験の末に、著者がたどり着いた境地は、意外と明澄な世界であったようだ。例えば「ツワの花」と題する掌編がある。 
 ツワの花の季節に、研ぎ屋の老夫婦がやって来る。鋸(のこぎり)の目立てを頼むと、元は大工だったという老人は、確かな手つきでやすりを動かしながら、「齢をとると、高い所がいけまっせんけんなあ……」などと言う。普通なら楽隠居のはずなのに、身につけた手仕事で二人が支えあって生きる姿には、老いの哀愁があった。ひと仕事終えた二人は、淹れた茶を飲み、振りだした雨の中を、寄り添って帰って行く。
 それだけの話だが、書き手の目線の低さとデッサン力の確かさで、静かな感動がじんわりと胸にしみた。滋味あふれる一文である。

  • 四六判上製 278頁
  • 4-88344-192-1
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2010/11/10発行
上海より上海へ

従軍慰安婦・慰安所 第一級写真資料


兵站病院の軍医が克明に記した日記をもとに「残務整理」と称して綴った回想録。看護婦、宣教師、ダンサー、芸人、慰安婦、芸妓、女給……戦争の光と闇に生きた女性たちを、ひとりの人間の目を通して刻む。従軍慰安婦・慰安所第一級写真資料。重要資料「花柳病ノ積極的豫防法」兵士の性病対策レポート。

書評

親子二代にわたる「祈りの書」

森崎和江
作家

 一九三七年の七夕の夜、中国との間で戦闘状態に入った。シナ事変と呼んだ日中戦争はやがて長期戦化詩、太平洋戦争へと拡大した。その三七年の晩秋に召集され、前線へと送られた一軍医の刻名な記録集が、今回遺族の手によって刊行された。麻生徹男著『上海より上海へ』である。副題に「兵站病院の産婦人科医」とある。
 当時著者は九州帝国大学を卒業して産婦人科医となって間もない、若い父親だった。その手記を刊行した天児都(くに)さんは著者の次女で父出征の折は二歳。現在福岡市在住の産婦人科医である。
 同書は私家本として著者が生前にまとめた『戦線女人考など』を中心にし、写真集「戦線女子考」をはじめ、「軍陣医学論文集」や陣中日誌その他加えたもので、日中戦争当時の占領地での陸軍の公私にわたる日常が、いきいきと描かれている。かつて私は私家本『戦線女人考など』を読む折を得て、ひどく感動し、この書の一般への刊行をひそかに願っていた。というのは、同書に朝鮮人従軍慰安婦のことが軍医である著者の体験を通して描かれている上に、写真もまた歴史資料としてこの上もなく貴重だ、ということもあった。けれどもそれ以上に、これら第一級の資料を残した著者の、日常性および非日常性にたいするあくことのない能動性に打たれたのだった。そうした姿勢なしには、戦場における性的慰安の対象である女たちのことも残らなかった。昭和の記録として、半世紀後の私たちの心をゆさぶる力となっている著者の情熱を、何よりも尊く思うのである。
 著者はその私家本の序文に記している。「私達日本人は中国にとって善き隣人ではなかった。わが国振りの国民皆兵を思い、又一九三七年の南京に思いを馳せるなら、一億の大和民族之れ皆戦犯である。私は此の大和民族の一員として一九三七年より四年間、中支の大陸に居た」と。三七年の南京とは、日本軍による中国民衆の虐殺事件である。その直後に著者たちは南京へ入っているのだ。関連の写真も、とっている。
 記録魔のように、こまやかに対象に接近して文章化し、一日も休むことなく日記をつけ、また留守宅に長文の便りを出し、趣味のカメラを多様に駆使して、時にスナップを、時に芸術化を、時に資料化をと、この一医師は軍隊の医師をはみ出して、何かに迫ろうとしつづけているのである。
 こうした生き方が脈々と流れていたからこそ、慰安に関する軍隊への提言も、占領地の民衆の表情も、傷ついた兵士のことも、後世に残していただいた。単に著者が産婦人科医だったから、性の記録が残ったわけではない。そして死を目前にして、当時の体験のありのままを書き記そうと努められた心の内に、先の序文の、「私は此の大和民族の一員として」中支にいたのだ、という痛切なことばが、あたかも時代的原罪のようにひびいていたことを思う。
 著者の体験から半世紀たって、やっと、私たち日本人は、一私人である自分の心の中をさしのぞきながら、当時の人間観がわが心の底にもこびりついていはしないか、と、反省するのである。そして、当時の一将兵が、この記録を残してくれたことの真意を、有難く思う。アジア諸民族の前に頭を垂れつつ、この記録にほっと救われた思いがする。
 そして刊行に踏み切ってくださった遺族の、短い文章が持っている現代文明への批判をふりかえる。天児都さんは、父上の遺稿や写真が、旧軍隊批判という美名にかくれた個人たちの売名行為によって、さまざまに利用されたことをさらりと附記した。それら行為は私には、他民族とか女たちの人格とかを無視して痛みを感ずることのなかった、かつての日本人の人権意識の生き残りのように思えてしまう。同書は、親子二代にわたって表現された日本文化への、祈りの如き書だと、その刊行の必然を思いみている。

多芸多才な軍医による戦時記録

高島俊男
中国文学者

 この本の著者、麻生徹男さんは、九州福岡の産婦人科のお医者さんである。明治四十三年生まれ。四年前になくなっている。
 昭和十二年の秋、二十七歳の時に軍医として大陸の戦線におもむき、三年あまりを上海・南京など長江ぞい各地で勤務した。この本は、麻生医師の手記、およびその間にとった写真を、没後娘さんがまとめたものである。
 この本がめっぽうおもしろいのは、このお医者さんが、おそろしく有能で、多芸で、にぎやかな人だからだ。
 その一々をかぞえあげるならば──
 まず戦場の軍医はふつうの医者よりよほどいそがしい。本職は産婦人科だから兵隊相手のばあい性病が専門であるが、それ以外に外科の手術もするし精神科も見る。重傷でかつぎこまれた兵隊が死ねばあとしまつもする。「人間一人を灰に作り上げるには驚く程の薪が必要であった」とあるように、とことんめんどうを見たのである。
 またレントゲン技師もやる。戦地のレントゲンだからまず電気を作り出すことから始めねばならぬ。したがって部隊の発電機担当者である。移動式X線装置の駆使に関しては国軍第一と陸軍省医務局長からおほめをたまわったそうだから半端な技師ではない。
 このことでもわかるように、このお医者さんは機械に強い。特に自動車が好きである。国産車の性能がうんと悪かった昔のこと、まして戦地だから、整備も修理もやれてはじめて自動車好きだ。そういう人はめったにいないから、この人は部隊の全車両の整備責任者である。あわせて兵器一切の補修担当者である。兵站部隊だから大した兵器はないのだろうが、それにしても便利な人だ。
 ずいぶんといそがしいだろうに、毎日丹念に四種類の日記をつける。英文日記、独文日記、陣中日記、業務に関する資料提出日誌。そのうえ留守宅あての通信。まめだねえ。
 自動車以上に好きなのが写真である。お母さんの家が写真屋だったので子供のころからカメラに親しみ、応召前は関西の写真作家集団に属するプロ級。戦地へは愛機スーパーイコンタを持参し、上海で新鋭機ローライコードU型を手に入れ、部隊の従軍写真帖作成担当者として陸軍報道部写真班の腕章を着用し、とった写真が千数百枚。そのうち精選六十数点を「戦線女人考」と題してまとめたのがこの本の巻頭にそっくりおさめられてあり、なお文中にも多数を配する。題を見てもわかるようにふつうの戦争写真ではない。
 たとえば、その名も高い日本陸軍専用衛生サック「突撃一番」の実物写真、あるいは慰安所および兵站司令部「慰安所規定」の写真など。当時の報道カメラマンでこの種の記録をのこしてくれた人はたんとはいまい。
 しかし何といってもこの人の最大の特徴は写真の題にもある「女人」だ。いつも女の人にかこまれているのである。生まれた時からそうなので、「私は父の経営する福岡産婆養成所の校舎の一部で産まれた。家の周りは色町で、何かにつけて女の多い所であった。初めての応召の時など、博多水茶屋券番の綺麗どころ一行が、紫の券番旗を翳して大挙、駅まで見送ってくれた」という人である。お父さんも婦人科医で、顧客の多い色街に居をかまえ、かねて学校の生徒はすべて助産婦志望の若い娘さんだから、まわりは女ばかりなのだ。
 戦地へ行ってもそうで、まわりはみんな看護婦さん。慰安所では「週二回も何十人もの慰安婦の局部のみ覗かねばならぬ」。占領地には福岡色街の店が多数進出していて、子供のころからなじみの芸者さんたちにたいへんにもてる。
 また非常なダンス好きで、軍務の余暇にはパリッと背広に着かえて、髪の毛だけは急に生えないから坊主頭で、せっせとホールに通う。最前線の武漢へ移動しても、「在った、有った。終に見つけたダンスホール。上海以来、夢の中に、寝ても覚めても忘れることの出来なかった、奇麗に磨かれたフロアと、スウィング・ミュージック」と、ちゃんと見つけてしまうのである。いいのかね、帝国軍人が。
 そしてどこでもナンバーワンの美人ダンサーと仲良くなる。この本も各地のダンサーたちとの交遊を書いた部分が多い。もちろんみな写真つき。
 この人の写真や記録は、日本軍が慰安所をやっていたことの動かせぬ証拠ばかりだから、写真が無断使用されたり、迷惑をこうむることも多かったらしい。娘さんが本を編んだのも、写真の著作権を主張し、あわせて「麻生軍医は朝鮮人慰安婦徴集の首唱者」との中傷に反駁する意図があるようだ。しかしそういう生々しいことを別にしても、一人の多芸多才の軍医の写真と文章による戦時記録として、貴重かつおもしろいものとわたしは思うのである。

  • A5判上製260頁
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 1993/08/15発行
佐藤慶太郎 東京府美術館 斉藤泰嘉 筑波大学 筑豊 炭鉱 石炭の神様 カーネギー
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佐藤慶太郎伝
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佐藤慶太郎伝

日本のカーネギーを目指した九州若松の石炭商・佐藤慶太郎。「なあに、自分一代で得た金は、世の中んために差し出さにゃ」。巨額の私財を投じ日本初の美術館を建て、戦局濃い中、佐藤新興生活館(現・山の上ホテル)を建設、「美しい生活とは何か」を希求し続けた男の清冽な生涯を描く傑作評伝。

書評

美術館に私財「石炭の神様」

千龍正夫
北海道新聞・編集委員

 東京・上野公園の東京都美術館(都美)一階講堂の横に小さなブロンズの胸像がある。佐藤慶太郎像。伝記の著者は取材場所にこの美術館を指定した。
 佐藤慶太郎は一八六八年、現在の北九州市八幡西区生まれ。太平洋戦争開戦前年の一九四〇年に死去。産炭地・筑豊の石炭商で、「石炭の神様」とたたえられた。都美は佐藤が寄付した私財百万円、今の貨幣価値では推定三十三億円で二六年に開館。当時の名称は東京府美術館、日本初の常設美術館である。
 著者は五一年、山口市生まれ。七七年、開館したばかりの道立近代美術館学芸員となり、八〇年に都美に移った。「北海道は私の人生の出発点。三年間は私の財産です。都美では佐藤慶太郎の存在を初めて知り、その生涯を調べ始めました」。都現代美術館を経て筑波大芸術学系教授の現在に至るまで約二十年間をかけて佐藤の伝記をまとめた。「すべてが何かによって計算されている気がします」。佐藤の人生を語る言葉は、著者自身にも通じる。
 筑豊の商家に生まれた佐藤は明治法律学校(明治大)を卒業したが、病弱で法律家となる夢を断念し帰郷。地元の石炭商の婿となり、やがて独立、後年には炭鉱経営にも乗り出す。その大江炭鉱は明治末年、夕張、九州・三池と並ぶ国内主要炭鉱の一つである。その全資産の半分を美術館建設に投じる決意は、仕事で上京中に読んだ常設美術館の開設を切望するという新聞の社説がきっかけだった。
 佐藤の人生哲学を示す語録。「信用という無形の財産を築きたい」「富者はただ(財産の)善良なる管理者であれば足りる」「公私一如」。これらの言葉は世界の鉄鋼王と呼ばれ、社会事業に尽力したアメリカのカーネギーの影響もうかがわせる。
 「彼は東京というより日本の文化のためを考えていたのでしょう。世界の中での日本文化はどうあるべきか、さまざまな視点で考えた人です」。晩年の佐藤は「美しい生活とは何か」を追求し、生活レベルで国の立て直しを考える「新興生活館」を東京・神田に設けた。その本部が文化人ホテルと言われた現在の山の上ホテルである。
 近代日本の工業化と経済大国への原動力となった石炭。そして国策による閉山。全国の旧炭都は今なお栄枯盛衰の負の遺産の重圧にあえいでいる。その顕著な例を今日、われわれは夕張に見ている。
 都美は七五年、現在の建物に改築され、再来年以降の改修が検討されている。

〝日本のカーネギー〟に倫理を学ぶ

舛添要一
参議院議員、掲載当時は厚生労働大臣

 賞味期限改ざんなどの食品をめぐる事件が相次ぎ、企業経営者のモラルが問われている。これと対極にあるのが、本書の主人公、佐藤慶太郎である。
 慶太郎は、明治元年に生まれ、筑豊炭田を背後にかかえる若松市で石炭商を営み、富を築いていく。石炭について熱心に研究し、顧客の信用を勝ち得ていく。彼が、模範としたのは、アメリカの財閥、カーネギーで、その「人冨みて死す、その死や恥辱」という生き方に感銘を受ける。佐藤は、「金銭貯蓄以外、使用する事を考えぬ人にとっては、私のやり方が不思議に思われようが、私からみれば、左様な人は、何のために働いたか、何のために金を儲けたか、寧ろ不思議に思うのである」と記している。
 佐藤は、奨学金を前途有為な若者に贈ったりして、「日本のカーネギー」を実践していく。そのような活動の中で、日本に常設美術館がないことを嘆く「時事新報」の社説(1921年3月17日)を読んで、建設費を全額寄付することを決める。自分の財産の半分の100万円(今の価値にすれば約32億5千万円)である。これが、東京府美術館である。上野の森の東京都美術館には、私もよく足を運ぶが、このような建設をめぐる経緯は知らなかった。日本美術史に残る快挙と言ってよい。
 慶太郎は、その後も社会貢献の活動を続けていく。もともと身体が弱く、胃腸病に悩む彼は、1925年に二木謙三医学博士に出会い、食餌療法を勧められ、咀嚼に励むなど食生活を改善して、健康を享受するようになる。そして、農村再生を目指す福岡農士学校の設立を支援したりする。また、「富士山麓の聖者」山下信義や「汗愛主義に立てるほんとうの暮らし方」の著者、岸田軒造に出会い、その生き方に感銘を受ける。そして、全財産150万円を投じて、佐藤新興生活館を船出させ、国民生活明朗化のための生活維新運動を展開していく。
 その生涯は、まさに「日本のカーネギー」そのものであり、このような人物が戦前の日本に存在していたことを日本人として誇りに思う。そのようなさわやかさに満ちた一級の伝記である。

金持ちよ 大志を抱け!

樋口伸子
詩人

 徳と金銭とは相性が悪い。つくづくそう思えるような事件が増え、いちいち驚いてもおれない。しかし、『佐藤慶太郎伝』を読み、福岡県若松の一石炭商が日本初の東京府(都)美術館建設費の全額を寄贈したと知って驚いた。
 本書によれば、明治元年生まれのこの篤志家は若き日にカーネギーの伝記に感動して、「他日金銭を以て人類社会に奉仕しようと決心した」のだった。彼には、大きな徳と金が同居することができたのである。
 一九二一(大正十)年、日本に常設美術館を切望する新聞の社説を見るや、慶太郎は東京府知事に電話をして建設費の寄付を申し出る。東京出張中のことで、半年後に百万円を現金で納めた。今の三十三億円に当たる額は、資産の半分だったという。刻苦勉励を経て事業でなした私財を自分の贅沢に使わず、終生、世のためにという初志に従った。
 ここで清廉にも富にも縁がないどころか、微小な募金にさえ逡巡する私が、同県というだけで佐藤自慢に走るのはおこがましい。けれでも金で心をなくす人が多い世だからこそ、ただの金持ちと富豪の違いや、現在の美術館問題にまで思いはめぐるのだ。

 そういえば、近年はメセナ(企業の文化支援)という言葉をとんと聞かない。マスコミの喧伝もあって猫も杓子もメセナの一時期があったが、いまや企業も自治体も生き残るためにはなりふり構わない時代だ。
 そのメセナの元祖ともいうべきメディチ家で有名な、イタリアはフィレンツェに二度行きながら、あのウフィツィ美術館に行かなかった私はよくからかわれ、なんてもったいない、という顔をされる。
 そんなにもったいないかなぁ。どこでも美術館みたいな都市である。二回とも入らなかった理由はあるのだ。以前はルーブルもプラドもちゃんと行ったのだ。ピカソ美術館以外は人ばかりで、何をどう観たのか記憶にない。代わりに、建物や内部装飾などが印象深い。
 思うに私は美術自体よりも館に興味があったのではないか。何しろわが福岡市では長い間、美術展はデパートで観るものだったから、一九六〇年代の在京時には学びもせずに文化施設の集まった上野の森によく行った。鬱蒼とした緑の周辺は、私にとって西欧文化への憧憬と疑似体験の充たされる場であり、本物抜きで夢想に遊ぶのは貧者の特権である。
 当時は赤坂離宮(今の迎賓館)が国会図書館だったし、そういった都内でお気に入りの場所のひとつが旧・東京都美術館であった。これは図書閲覧や美術鑑賞という本来の目的とは別の愛好である。要するにハコ好き。
 文化のハコ物行政が槍玉に上るが、どうぞ資金さえあれば、簡単に壊せない堅牢なものをお建てください。都市景観として和むし、行く人もあれば、行かない人もあるだけだ。
 
 現在、全国に公・私立の美術館がどれくらいあるのだろうか。あの世の佐藤が知れば、さぞ驚くだろう。そして自分が寄贈した重厚な美術館が、美の殿堂として長年親しまれていたのに、一九七五年の新美術館建設時にとり壊されたと知ればもっと驚くだろう。日本美術界の大恩人とまで呼ばれながら、玄関にあった佐藤の銅像も、一時期は収蔵庫にしまわれたままだったと、著者は憤慨ぎみだ。
 著者の斉藤泰嘉氏は同館の元学芸員で、少年期の思い出もある都美術館の歴史と佐藤慶太郎に興味を抱き研究を続けてきた。現在は筑波大学芸術学系の教授。資料の丹念な参照や探訪をもとにした衒いのない記述からは、篤実な等身大の主人公が浮かび上がる。勘違いしないでください。その等身大というのが超特大のサイズです。
 彼は事業を閉じての晩年、国民の生活習慣の改善を願い「佐藤新興生活館」を設立運営のために、百五十万円の私財を投じた。建物は現在、神田駿河台の山の上ホテルになっている。これまた文学者にとっては別格の宿。美術と文芸の象徴的な二つの建物が佐藤の力によるというのが面白い。すぐれたハコは大切にされて長く残るのだ。
 これほどの人物が地元でもあまり知られていないのは、なぜか。推測すれば、施設が遠い東京であったこと。財閥や企業「メセナ」でなく、個人であるがために企業イメージの宣伝と無縁だったこと。一時期修猷館に籍を置いたことも知られていない。つまりは、こういう人を「陰徳の士」というのだろう。
 「自分一代で得た金は、世の中のために差し出さにゃ」が、佐藤の口ぐせだったとか。自分のために使うのがただの金持ちで、人のために使うのが富豪だ。何だかトーンが下がります。他人の財布のことをあれこれ言うのは、僻みやたかりと同根みたいで。
 せめて、言おう。金持ちよ大志を抱け! 自家用飛行機や豪邸なんて遠慮せずに、超富豪になって地球を丸ごとでもお買いください、と。

  • 四六版上製335頁
  • 978-4-88344-163-1
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/05/30発行
左官礼讃 小林澄夫 左官 小林 澄夫 漆喰 鏝 職人 藤田 洋三 壁 日本 庭 建築 写真 泥 風景 職人 技
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左官礼讃
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左官礼讃

専門誌「左官教室」の編集長が綴る土壁と職人技へのオマージュ。左官という仕事への愛着と誇り、土と水と風が織りなす土壁の美しさとともに、打ちっ放しコンクリートに代表される殺伐たる現代文明への批判、そして潤いの文明へ向けての深い洞察を綴る

書評

結んでほどく──(午睡のあとで)

松本道介
文芸評論家

 着物をほどくという言葉があった。今の若い人は最早知らないだろうし、私とてずいぶん久しぶりに思い出したのだが、たしかに私の老母の世代は着物を洗濯に出すときや仕立て直すときには着物をほどいていたのである。
 しかし昔の人は、着物だけではなく建てものもまたほどいていたことを或る本によって教えられた。小林澄夫という職人さんが書かれた「左官礼讃」である。見開き二頁の奥ゆかしい随筆二百篇近くが並ぶなかに「結ぶこととほどくこと」という文章があった。
 昔の家には建てることは結ぶことだという考え方があり、結んだものはほどくことが出来た。したがってかつての民家はこわすのではなくほどいたのだという。〈屋根の瓦をはずし、木舞の土壁を落し、棟木や梁をはずし、柱を抜いてそれらは移築されたり、新しい民家の部材として再生されていった〉という。
 今でいえばリサイクルということだが、昔はリサイクルという発想はなかったし、リサイクルとはどこか違うと思う。〝結んだ人〟への敬意というか、素材への愛情というか、なにか温かい心がそこに感じられる。
 今の世の中から徹底して消えていくのはそうした温かい心である。家をほどくといった考え方はまったくなく、こわす時はひたすらこわす。〈パワーショベルで屋根を剥がし、ユンボで壁を押しつぶし、解体されてしまう。解体屋とはよくいったもので、半日もあれば民家は残材の山になってしまう。それは解体というよりも、破壊というにふさわしい〉
 日本式の民家はまだしも、鉄筋コンクリートのビルとなると、その構造からして解体=破壊しか方法がないにちがいない。ブルドーザーを用いての破壊をはじめ、何度かテレビのニュースでも見せられたごとく、爆薬を用いて一気に爆破する方が手間も省け、コストも安くて具合がいいのだろう。
 過去に栄えて滅んだ幾多の文明にくらべて近代西洋文明の格段にまさる点はその破壊力である。爆薬を中心にした破壊力によって他の文明を征服し自然をもほろぼしていったのであったし、そのひとコマをわれわれは今またアメリカのアフガニスタン空爆によって見せつけられた。
 西洋近代文明の発展に寄与した功労者に与えられる最高の賞がダイナマイトの発明者の得た巨万の富によってまかなわれているのは幾重にも象徴的なことだと私は思う。 

質感、安らぎ、塗り壁は天才である──著者に聞く

後藤喜一

 この本を読んで、塗り壁とは実に面白いものだと思った。泥をこねて塗ると、粘土の泥自体が持つ自硬性によって固まり、土の成分や時間の経過によって独特の美しい色や肌合いが生まれる。素材が泥であるがゆえに、室内の湿気を吸ったり吐いたりして温度を調節し、その厚みと質感が住む人に温かさや安らぎを与えてくれる。小林澄夫さん(五八)が〈塗り壁は天才である〉と書くゆえんである。
 このように美的にも機能的にも優れた塗り壁がなぜ、石膏ボードやクロス、ペンキの壁に押されて衰退してゆくのか。
「材料を水で溶かして鏝で塗るのが左官の仕事ですが、乾くまでに時間がかかるので工期が長くなるし、仕上がりにもばらつきがでる。その点、ボードを接着剤でとめ、クロスをはった方が手っ取り早い。また、かつてはオーナーが自分で大工や左官を選んで仕事を依頼していたのが、いまは工務店がすべてを仕切るようになった。工務店としては、左官に壁を塗らせるよりも自分でボードをはり付けた方がもうかるわけです」
 依頼主がよほど塗り壁の良さにこだわらないかぎり、漆喰の白壁も聚落の土壁も日本の住宅から消えていくのは自然の勢いということになる。
 小林さんは一九六八年に黒潮社に入って以来、ずっと左官職人向けの月刊誌「左官教室」の編集を担当。本書は八一年から二十年にわたって同誌に連載してきたエッセーをまとめたもので、繰り返し塗り壁の魅力を語り、その復権を唱えている。
「最初は建築のことも左官のことも全く知らなくて、このメーカーからこんな素晴らしい商品が出たというような話ばかり書いていた。そのうち、そういう工業製品が規格によって管理されているのに対し、左官の仕事は数値化できず、その日の職人の気分や天気によっても出来が変わってくるということが分かってきた。統一・画一よりも、そういう偶然性や多様性に惹かれて深入りしたんですね」
 本書は左官職人への熱烈な応援歌だが、小林さんは現在の職人に対しても「石灰や海藻のりは別として、昔の職人は土や苆などの材料を自分で集め、調合して使っていた。左官の表現のもとになる材料をメーカーに任せてしまっては技術の半分以上を捨てたことになる」と苦言を呈する。

よみがえる壁を塗る音、しぐさ

与那原恵
ノンフィクションライター

 子供のころ、建築現場をのぞくのが好きだった。完成してしまえば二度と見ることのできない骨組みに、ナルホドこうなっているのかと見とれていた。とくに魅了されたのは現場の「音」だ。木を削る音、カナヅチで叩く音。左官がシャクシャクと材料をこねてなめらかになったものをコテですくいとる、ザッという音は忘れられない。左官はたいてい近所に住む顔見知りだったから、その場に座り込んでいる私をじゃまにするでもなく、淡々と仕事をつづけているのだった。
 月刊「左官教室」という雑誌がある。左官の仕事の周辺や、土壁の文化を広く語る意欲的な雑誌だ。本書はその雑誌のコラムをあつめて編んだものだが、日本に伝わる壁の多種多様な美しさ、材料となる泥、そして何よりも左官の仕事の豊かさを端正な文章でつづいっている。一行読みすすめるごとに、幼いころ耳にした左官のゆったりとしてた「音」や繊細な手のしぐさがよみがえってくる。
 奈良の当麻寺の土塀に残る藁ぼうきの「あらし目」。それは、上に塗る材料のくっつきをよくするものだが、その模様の美しさは左官の「意図しない美意識」である。また左官仕事の傍らにある道具を洗う水。老左官は泥で汚れた水を畑にかえし、まだキレイなあがり水を草花の根にそそぐ。
「余分な水を使わないような理にあった水使い、水と土の複合である泥の生理への繊細な感性、簡素な無駄のない動作」
 かつて壁の材料は天然の素材の複合であった。その多様性を活かし「手の延長であるようなわずかな道具と手仕事でつくられた」壁の美があった。
 しかし左官の仕事は、近代化と工業化の果てに追いつめられているという。たしかな技術をもった左官がコンクリートの下地づくりをせざるを得ない現状を著者は嘆きつつも、さまざまな土地に眠る泥を探し、技術を語りつぐ左官の姿を愛情をこめて描いている。
 秋の陽を浴びた土壁を触ってみたくなった。

土と漆喰の建築文化を知る

藤森照信
建築史家

 戦後の日本の建築現場から追放された材料があるのをご存じだろうか。
 追放といって言いすぎなら、軽視され、すみに追いやられた材料。それが土と漆喰にほかならない。自然素材ゆえ、扱うのにカンと経験を要し、機械化、工業化も難しかったから、各種ボード類や壁紙類に置きかえられていった。
 しかし、このところ再生のきざしが著しい。理由の一つは、あまりに工業化、機械化した現代建築への反省で、自然素材の味わい深さを回復するには土と漆喰が一番いいし、手仕事の面白さを復活させるには土と漆喰のプロである左官職人が欠かせない。
 もう一つの理由は、工業化した材料から放出される化学物質の問題で、土と漆喰は自ら何も出さないばかりか、ほかから出た化学物質を吸着する力を持つ点が注目されている。
 二十一世紀は、もしかしたら、土と漆喰と左官の時代となるかもしれないが、そうした復活劇は一人の雑誌編集者の存在なしには語ることができない。それがこの本の著者の小林澄夫である。
 戦後、正確には大阪万博以後に始まった土と漆喰の暗黒時代に、土と漆喰を愛する者にとっての孤島の灯台の役を果たしたのが唯一の専門誌「月刊左官教室」だ。
 小林は、この雑誌の編集を担当するかたわら、全国各地の漆喰窯を訪れ、土を手にし、左官をたずね、古今のすぐれた左官仕事を探り、そうして得た知見を巻頭言として書き続けた。それが、各地方に根を下ろして黙々と壁を塗り続ける左官職をどれほど励ましたか分からない。
 そうした文を集めたこの一冊は、土と漆喰による日本の建築分かの全体像を知る格好の入門書であり、また、暗黒の時代から復活の世紀への導きの書の役を果たすにちがいない。
 左官という日本が誇る職人技術と、土と漆喰という世界共通の自然素材に関心がある人の座右に、ぜひ一冊。

  • 429頁 四六判上製
  • 978-4-88344-077-1
  • 定価:本体価格2800円+税
  • 2001/08発行
サイパン 俘虜 憂国 望郷 石風社 松尾正巳 収容所
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サイパン俘虜記
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サイパン俘虜記

1944年8月、4万人を超える犠牲者を出したサイパン島の戦いで捕虜となり、アメリカでの収容所生活を送ることになった一人の元陸軍中尉が遺した記録。サイパン島上陸から九死に一生を得た玉砕戦の実相、そして一年以上にわたる捕虜生活を経て帰国するまでの葛藤の日々を綴った貴重な手記。

  • 四六判上製192頁
  • 978-4-88344-179-2
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2009/10/10発行
こんな風に過ぎて行くのなら 浅川マキ 石風社 浅川 マキ かもめ 東芝 夜が明けたら EMI 寺山 修司 アンダーグラウンド 歌手 ビリー ホリディ こんな 風に ジャズ 新宿PIT INN ロング・グッド・バイ
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こんな風に過ぎて行くのなら
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こんな風に過ぎて行くのなら

1972年~2003年にわたってつづられた浅川マキのエッセイ集


ディープにしみるアンダーグラウンド──。「夜が明けたら」「かこめ」で鮮烈にデビューを飾りながら、常に「反時代的」でありつづける歌手。その三十年の歳月を、時代を、そして気分を照らし出す、著者初めてのエッセイ集

書評

音楽が熱を振りまいていた頃

松原隆一郎
社会経済学者

 三十年近く前、大学に入学するため上京した。一人暮らしを始めた夜、渋谷にほど近い駅前で古びた「I」という名のスナックを見つけ、前途を一人で祝そうと扉を押した。先客はおらず、暗いカウンターの中には黒いロング・ドレスをまとい髪の長い女性がいた。「浅川マキみたいだな」と思った。
 ラックにLPレコードが並べてあるので指で繰ると、本当にマキのレコードがあった。『浅川マキの世界』。リクエストすると、暗い店内にマキの声が広がった。「夜が明けたら」や「ちっちゃな時から」。「かもめ」は寺山修司の作詞だ。
「ダルマ下さい」とボトルを注文した。すると女性が、「あなた学生さんでしょ? ウチは学生さんにはホワイト飲んでもらうの」と言う。大人にピシャリとはたかれたような気がした。お陰で今に至るまで、高い酒を飲むとなんだか居心地が悪くなる。もっともその「ふしあわせという名の猫」みたいな顔をしたママさんは、半年もしないうちに居なくなった。噂では、借金を踏み倒して姿を消したのだという。これも大人の世界か、と感心した。
 当時の私は大学の授業にはほとんど関心がもてなかった。それよりも、街で日々出会う出来事が刺激的で、目がくらむ思いがした。なかでも山下洋輔トリオには驚愕した。鮨屋の職人のような風貌の坂田明がアルトサックスから痙攣するように鋭角的な音をねじり出す。繊細にして爆弾のようなドラムスは森山威男。スティック捌きは早すぎて手首から先が見えない。嵐のように激しさを増す演奏を聞くたびに、自分は世界史的な事件に立ち会っていると感じた。
 そんなある日、新宿ピットインに浅川マキが出演した。ゲストは驚いたことに、山下トリオだった。楽器だけだと完全なフリーフォームなのにどう伴奏するのかと訝ると、案に相違して、「ジン・ハウス・ブルース」などフォービートのブルースを奏でた。
 日本のフリー・ジャズが、もっとも熱を帯びた時代だった。富樫雅彦が「パラジウム」から「スピリチュアル・ネイチャー」へと演奏スタイルを変え、阿部薫は狂気の演奏を繰り広げていた。昨年出版された副島輝人の名著、『日本フリージャズ史』(青土社)をひもとくと、八〇年代以降も梅津和時の「どくとる梅津バンド」や最近の不破大輔の「渋さ知らズ」まで盛り上がりが連続するかに書かれているが、彼らの演奏はパンク・ロックやダンス・演劇といった異分野と融合を果たしている。音楽が枠の中で純粋化を極め、そこからはみ出そうとする熱を振りまいていたのは、やはり八〇年代初頭までではなかったかと思う。
 私にとっての浅川マキは、そうした時期に、見えない虚の中心点として演奏者をつないだ歌い手だった。初期のフォーク調のマキが好きなファンは多いのだろうが、私はフリー・ジャズ奏者たちとの火花の散るステージが好きだった。「アケタの店」では、マキのステージの終わりに突然段ボール箱からラッパの近藤等則が現われ、「セントルイス・ブルース」を吹いたことがあった。だから今でも私が愛聴してやまないのは、近藤やつのだ☆ひろが参加した「CAT NAP」だ。
 マキの三十年間のエッセイを編んだ『こんな風に過ぎて行くのなら』を読むと、そうした日々が蘇ってきた。ロック出で生ギターを弾く萩原信義が端正なジャズを追求する今田勝との間で〈「今田さん おれ、イモですか」「イモだよ」〉などと火花散る会話を交わしていたと初めて知った。マキの周辺には様々なジャンルから一騎当千の演奏者が集まっていたのだから、そうした確執は日常のことだったのだろう。
 時は流れた。いつしか大学祭の仕切りを請け負っているプロダクションなるところから「ギャラはいくらなのか、一覧表にして広告する」といった電話がマキのところにかかってくるようになったという。音楽が、事件ではなく日常の仕事になってしまったのだ。

  • 212頁 四六判上製
  • 4-88344-098-2
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2003/07/15発行
世間遺産 藁塚 左官 鏝絵放浪記 藤田洋三 鏝 放浪 左官 壁 泥 石灰 こて 漆喰 建築 土 大分 安心院 別府 旅
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鏝絵放浪記
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鏝絵放浪記

鏝絵(こてえ)という職人技に魅せられた一人の写真家が、故郷大分を振り出しに日本全国を駆け巡り、中国・アフリカまで歩き続けた、25年の旅の記録。(鏝絵=左官職人が鏝を使い、漆喰をレリーフ状に盛り上げ、民家の戸袋や壁、土蔵を塗り出したもの)

書評

楽しく読めて、左官の歴史や文化がわかる本

辻孝二郎

 今や左官の語り部(「左官教室」編集長・小林さん談)である藤田洋三氏。物言わぬ世界、沈黙の左官を色彩豊かに語り出した唯一の人である。彼の語る世界は色濃く、深く厚い。彼の関心は鏝絵から始まったものの、「しゃかん」の職人さんを初め、関係の人々に触れ、その技術に触れ、その歴史に触れ、石灰に触れ、世界中の泥壁に広がっている。鏝絵は入口であったけれども、内容は左官のすべてに広がっている。
 物言わぬ左官の世界で、一番饒舌な鏝絵との出会いが藤田氏の出発点である。彼は色とカタチ・素材を執拗に追い求めるカメラマンである。幸いなことに、野に埋もれていた鏝絵は彼の目で掘り起こされた。彼も性格色濃く、饒舌、サービス精神に富んでいる。彼と鏝絵との出会いは、そういう面で必然性を帯びているように思う。
 最近は、顔も鏝絵になってきた。歩く姿も鏝絵っぽい。彼の出現の仕方は、フラッシュを浴びた鏝絵のようでもある。突然、野の闇から浮かび上がってくる。現在が生み出した鏝絵、藤田さんはそういう人なのかもしれない。
 鏝絵の何たるかを知らない時に、鏝絵の町大分県安心院(あじむ)町をご案内いただいたことがあった。保存会の人だったか地元の人に会い、藤田さんの話が広がった。話はなんとも時代離れして、五十年前、百年前のこと、何世代も前の施主や故人となった左官屋さんの話、九州全体のこと、全国のことなどが、とめどなく流れてくる。名前も知らずぼうぜんと聞き流していたことを覚えている。この本を読んであの一瞬の会話の意味が見えてきた。藤田さん自身が時空を超え、泥や石灰の世界、あるいは人々の営みをあのつぶらなとも言える鋭くも可愛い目で見続けていたのだということを。
 鏝絵が施主への感謝を込めた無償の行為であるとしたら、この本も今の時代や左官の人々への無償の行為である。「鏝絵としての出版行為」、この本はそんな意味を持っている。野の饒舌、野の美意識、野の豊かさを今一度味わうことができるのは至福と思う。
 彼と同じ時代の空気を共有できることを、心から感謝したい。

近代化の遺産のように

塩田芳久

 鏝絵(こてえ)。壁や戸袋など、漆喰を塗った上に鏝で風景や肖像などを描き出した絵のことだ。写真家としても知られる著者が、この伝統の職人芸に魅せられて地元大分から九州各県、日本全国、果ては中国、アフリカへと旅して回り、鏝絵を撮影し続けた「放浪」の記録が、豊富なエピソードと美しい写真とともにつづられている。
 前半は、軽いフットワークで駆け抜けた鏝絵紀行が楽しい。招福の思いを込めた大分県内の七福神、胸部が手あかで黒ずんだ佐賀市の裸婦像、高さ約二メートルもの新潟・佐渡の大ムカデ︱︱。職人達の技の妙を伝える鏝絵が、その土地の風土まで映していることに気が付く。また「謎」の鏝絵師を追ったり、中国まで「ルーツ」を訪ねたりするくだりは、スリリングな冒険譚の趣すらある。
 「鏝絵にひかれたのは二十五年ほど前。地方の時代といわれたころで、大分の文化の源流を追い掛けるのが目的。しかし全国を巡るうちに、鏝絵と、それが描かれた家屋を近代化遺産として接するようになりました」
 後半部になると、著者の興味は鏝絵にとどまらず、キャンバスになった漆喰から、その原料の石灰、そして壁そのものを作る泥とわらへと向けられる。食べられる石灰を求めて台湾へ渡り、泥でできたモスクがある聞けばアフリカへと向かう。
 「『お石灰探偵団』と称して、海からの視点、経済の視点など多角的にこれらの素材を調べました。だれもやったことのないことなので、本当に面白かった」
 そうしてあぶり出したのが、石灰が支えた日本の近代化であり、多様な衣食住の文化であり、農業をはじめ日本の産業の歩みだった。著者の好奇心は鏝絵を入り口に、人間の営み全体をつかみ取ろうとしているようだ。
 「かつて美しかったものが形を変え、いまだに美しいまま存在している好例が鏝絵です。今後も、人の手が生み出した美しいものたちを注目し続けたい」

  • 306頁 四六判並製
  • 4-88344-069-9
  • 定価:本体価格2200円+税
  • 2001/01発行
風になるまで 前田美代子 いのうえしんぢ 石風社 戦争 平和 空襲 福岡
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風になるまで
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風になるまで

戦争が終わって十年。福岡近郊の町に、大阪から心に憂いを抱いた少女がやって来た──。少年、少女と、十年前の福岡・雷山空襲で死んだ子どもたちとの心の交流を通じて現在に平和を問いかける児童向け読み物。(戦争と平和/小学校中学年以上向け)

  • A5判上製153頁
  • 4-88344-127-X
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/08/15発行
加久藤越

敗戦直前に結成された独立歩兵大隊。その奇妙な行軍の一週間が、人間存在のやるせなさをあぶりだす──。「峠を越えて兵隊達は夫々の故地へと四散してゆきました。お互い二度と廻り会えることのない人達でした。独立編成部隊のサダメでした」(松浦豊敏氏)。

書評

軍隊の非情さ鋭く洞察

木村隆之
「詩と真実」同人

「加久藤越」「居場所」の二編を収める。
「加久藤越」は副題の通り独立歩兵七五四大隊の敗戦による始末記である。師範学校卒業生の短期現役(短現役)である「私」は、指宿の近郊ドーメキ谷の兵舎で敗戦になり、多良木までの部隊解散に向け、一週間の行軍をともにする。兵士たちは、進駐してくるアメリカ軍の影に怯え、道中些細なことで上官から殴られたりしながらも、それぞれの故郷へとひたすら歩いていく。宿泊地で兵士を迎える人々の反応もさまざまである。おおかたは好意的であるが、中には敗戦の責任を問う冷たい視線を浴びせられることもある。それらの様子が、やや煩わしく思われるほど丹念に描かれていく。
 実体験に負うところが多いと思うが、それを単なる記録の域にとどめず、文学として昇華させているのは、次のような個所である。
 四十歳に手の届こうという老兵の森二等兵は、娑婆では大学図書館の司書で、民俗学にも造形が深いが、軍隊では万事要領が悪く、入隊した朝、元気よく将校に挨拶したのに、傍にいた息子のように若い上等兵から殴られてしまう。作者は次のように描くのである。
「学問とか教養とかは軍隊という集団では何の役にも立たない──どころか、全くじゃまで兵は軍隊という巨大なマシーンの部品であり、油か雑巾でしかない。軍隊には娑婆での教養、技芸、学識は無用である」
 軍隊という非情な組織への鋭い洞察である。
「居場所」はその後の「私」の物語とでもいうべき作品で、師範学校卒業後、市内の中学校の美術教師となった倉橋の中途半端で、あやふやな立場と心の揺れを描いている。倉橋は金貸しをしていた父親に対する反発から、死去の知らせにもわざと遅れていったのに、始終負い目を持っている。組合運動に対してもどこかさめていて、組合のストにも参加せず、屈辱感を味わう。題名の「居場所」とは倉橋の不安定な居場所を象徴したものであろうか。

  • 303頁 四六判上製
  • 4-88344-081-8
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2001/12/10発行
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