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温故知新の快楽既刊
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藁塚放浪記

北は津軽の「ニオハセ」から宮城の「ホンニョ」飛騨の「ワラニゴ」宇和の「ワラグロ」出雲の「ヨズクハデ」、南は薩摩の「ワラコヅン」、はては韓国、アフガンまで、秋のたんぼをかけめぐり、藁積みの百変化を追った30年の旅の記録。
藁塚(わらづか)=稲刈りを終え、乾燥させた稲束を脱穀したあと(または脱穀の前に)、藁を積み上げられたもの。

書評

「最後の日本人」たちが生んだ米作り文化の貴重な記録

与那原恵
ノンフィクションライター

 稲刈りを終えた秋のたんぼに、脱穀したあとの藁の束が積み上げられている。これを「藁塚」というそうだ。藁塚は地方それぞれに呼び方がある。ボウガケ(青森)、ワラニゴ(岐阜)、マルボンサン(京都)、シコホヅミ(佐賀)などなど。地方のぬくもりが響いてくるような呼称だ。
 著者は、この藁塚を追って日本の北から南、さらには韓国、中国まで三十年にわたって歩き、記録した。資料を探しだし、土地の人々の証言を得て、貴重な一冊となって結実した。
 まず各地の藁塚、その個性的な造形に驚かされる。藁の干し方も、その風土によってさまざまだ。藁塚の形には大別して二種類あって、ひとつは中心に棒杭を突き立て芯にして積み上げるもの。もうひとつは杭を用いないものだ。
 宮城県のホンニョは、棒杭を中心にらせん状に藁を巻く。岡山県のイナグロは、小さな小屋のように藁を積み上げる。大分県のトーシャクは切りそろえた稲束をぐるりと見せ、その上に傘のような稲と天に伸びる頭がある。
 秋のはかない日差しの中で黄金色に輝く藁塚の立つ姿は、ほんとうに美しい。どれも、ただ稲藁を乾燥させるという目的だけではない、そこに生きる人たちの実りの感謝と喜びの感情があたたかく伝わってくる。
〈藁塚は、野に積まれた庶民の手の記憶。それらは決して芸術作品ではないが、米作りを中心とした祖先の営みや、民族の記憶をも彷彿とさせる〉
 著者は藁塚を世界遺産ならぬ「世間遺産」だという。著者の作品は、左官職人の卓越した技術である「鏝絵」を紹介した本で目にしている。「手の仕事」への深い尊敬と愛情が著者の一貫したまなざしである。
 大陸から伝わったという「練塀」という泥壁の技術がある。泥に砂や藁スサを加え水でよく練って壁にしていくものだ。よく乾燥させた藁は、壁に用いられたばかりでなく、俵になり、ムシロになり、草履になり、肥料になり、畳の芯にもなった。米作りの労苦の果てに得た「宝」を有効に使う手だてがあったのである。
 しかし現在では稲刈り機が藁を切り刻み田に捨て、米は農協のライスセンターで強制乾燥させられるという。そういえば、本書にあるような藁塚の光景を見なくなって久しい。著者も悲痛な筆致で〈無償の行為を生み続けた「最後の日本人」たちが消えていく過程を記録したものだ〉と書いている。
「米」をとりまく文化を私たちは見捨てた。厳しい自然の中で育まれた人間の営みを忘れ去ろうとしている。たんぼは今、深い雪に覆われているだろう。どうか元気で春を迎えてほしい。

30年にわたり全国を取材

井口幸久

 藁塚とは、ワラを乾燥させるために積み上げた塊のこと。藁にお、藁ぐろ、藁小積などともいう。さらに「ニオハセ」(津軽)、「ワラグロ」(宇和)、「ワラコヅン」(薩摩)など、地域によって呼び方も形も違う。本書は、日本全国を歩き、藁塚を取材した記録である。
 仮に、ワラの積み方が地域によって異なっていることを知っていても、それだけでは史料としての価値はない。藤田さんは三十年にわたり全国の藁塚、数千枚を撮影した。途方もない「無駄」が一冊の本のまとまったとき、大陸の稲作文化と日本のそれとを比較検証する有力な史料になったのである。
 藁塚は1中心に棒杭を突き立て、その周りに積み上げるものと2棒杭を用いないものとに大別される。さらに、気象条件などを加味して大小、高低、形状などに多様な変化が見られる。その形は人々が「手の記憶」として代々受け継いできたものであり、ほとんど変化していないと考えられる。藁塚は、朝鮮半島、中国大陸からインドにも見られ、調査が進めば、稲作の広がりを系統的に調べることも可能であろう。
 藤田さんは、大分県別府市生まれ。「子供のころから図鑑類が好きで小遣いをためては買っていた」という。昆虫、植物に始まり、建築物などへと興味は広がっていった。別府の建物の写真を多数集め、近代和風建築の推移を示す本を出版するなど、その仕事の根底に「歩く、集める」がある。
 印鑑職人だった父の影響もあり、写真家としての仕事も「職人としての手仕事」が基軸となった。そうして取り組んだのが、左官だった。
「土蔵の材料や職人たちの歴史。無名の民の手が生み出したものへの愛着が強い」と藤田さんは言い、泥壁の材料であるワラへの関心が、藁塚につながっていった。
 今日、ワラを積む光景はこの国から消えつつある。農業の機械化とともに、コメを収穫した後のワラは、粉砕されてしまうからだ。本書は、食糧としてのコメだけにしか価値を見いだそうとしない近代文明への、無言の批判でもある。大分県別府市在住。五十五歳。

農民の〝手の記憶〟

「本を語る」

 ボウガケ、ワラニョ、サンカクニオ、ニョウ、マルボンサン、ヨズクハデ……。まだまだあるこれら呪文のような音はみな、同じある〝物体〟の呼び名だという。藁を乾燥させるために収穫後の田んぼに積み上げる「藁塚」。ところ変われば形状とともに名称も変わるそのさまを、日本中、アジアまでも歩き回って調べ上げたのが、写真家の藤田洋三さんだ。
「ずっとおもしろかったなあ」。撮り始めてかれこれ三十年の歳月を感慨深げに振り返る。「文化の根っこを掘り下げているという実感がありましたから。近代化によって断絶しなかった農民の〝手の記憶〟ですよね」
 脱穀後の藁は、巨大なフクロウや神社の社やテントや、いろんなものに見えるさまざまな形状に積み上げられる。しかも「何のために」と首をかしげたくなるくらい、一種の美学に基づいて。「景観条例なんてなくなって、農家はちゃんと景観つくってきたんだってね」
 美しさだけではない。藁塚のあるところ、藁の「用」がある。牛の飼料として、敷き藁として、また養蚕のカイコを飼う「蚕箔(さんぱく)」も藁でつくられる。泥に砂や藁を混ぜて練った土でつくる「練塀」の小屋も、農家とは切っても切れない関係にある。本書でもっともスリリングなのも、あるタイプの藁塚と練塀文化の地域分布が一致するという事実を考察したくだりだ。
「新羅系渡来人といわれる秦氏による技術伝承の跡ではないかと、まあ写真家が勝手なこと言ってるんですが。藁をめぐる営みが、昔はずっと一つながりだったはず」
 写真を学んだ学生時代、土門拳、木村伊兵衛らリアリズム写真の洗礼を受けた。人間の生を撮るその方法を、告発調ではなく、自身が「生きずりの写真」と呼ぶさりげないショットに見いだした。「日本の農村を〝懐かしく〟撮るのなんて簡単。そうではなく、暮らしの実相を撮りたかった。写真におけるリアリズムとは、という問いに、僕なりの卒業論文が書けたような気持ちです」

鏝絵探す旅での出合い

佐田尾信作

 十二年前の晩秋、記者は島根県温泉津町(現・大田市)の谷筋の集落、西田地区に立っていた。半円の弧を描く棚田に点在するピラミッド型の稲ハデ、「ヨズクハデ」の「できるまで」を撮ろうと通っていたのだ。
「ヨズク」とはフクロウ。四本の丸太で組まれた稲ハデに稲穂を架けた姿は、まさにフクロウ。普通のハデに比べて立体的で、耕地の狭いこの里の人々の生活の知恵。あのヨズクたちは今も、あの里で羽を休めているのだろうか。晩秋から初冬のころ、ふと思い出す。
 そのヨズクハデがこの本に載っている。日本列島各地から韓国、中国にまで足を延ばした「藁塚」「稲塚」の記録だ。乾燥させた稲束を脱穀後に積み上げた藁を「藁塚」「藁ぐろ」「藁小積」などと呼ぶ。もみの脱穀前に積み上げて干す稲穂は「稲塚」「稲ニオ」などと呼び、木に架け干しすると、「ハデ」などと呼ぶ。
 写真家でもある著者は左官職人のしっくい彫刻「鏝絵」を世に知らしめた人。同好の士たちと鏝絵を探す旅は藁塚や稲塚と出合う旅だった。
 しっくいの材料は石灰や藁。本書もおのずと、しっくいに筆が及び、石灰窯の痕跡などを探す「お石灰探偵団」まで登場させて笑わせる。しかし、読み進むと、やがて周防灘の祝島(山口県上関町)に残る練り塀にまでたどり着く。「『石灰と泥の技術史』というファインダーを携えながら歩いた藁塚の旅」。著者の旅の本質が理解できた。
 鏝絵でも知られる大分県宇佐市安心院町では、一九九九年から「全国藁こずみ大会」が開かれている。列島各地から出展する、いわば藁塚と稲塚のテーマパーク。第二回大会では西田のヨズクハデも招かれた。あのヨズクたちが九州まで羽ばたいたのか。物言わぬ藁塚が一層、いとおしく思えてきた。

収穫が終わった田んぼに林立するワラ塚が物語るグローバリズム

下川耿史
風俗史研究家

 注連縄(しめなわ)といえば、現在でも正月用品の定番の一つだが、これは青い頃に収穫したモチ米のワラで作られるそうだ。私は九州の水田地帯で育ったが、恥ずかしながらそのことを本書で初めて知った。
 恥ずかしいことがもう一つあって、取り入れが終わった後のワラを積み上げたもの、つまりワラ塚(私の田舎ではワラ坊主と称していた)は、私にとってはごくありふれた風景であり、全国どこへ行っても似たような形だと思い込んでいたが、その土地の気候風土や用途によって、形がまったく異なるという。いわれて見れば当たり前のことだが、思い込みというのは困ったものだと、あらためて反省した次第。
 ところで本書の魅力の1つは各地方に伝えられたワラ塚の形の面白さにある。この点は300枚に及ぶ写真によって楽しんでもらうしかないが、それぞれが風趣たっぷりで、私は北海道の「豆ニオ」、茨城県の「ワラコヅミ」や島根県の「ヨズクハデ」、大分県の「トーシャク」などの風景を見ながら、「一度はぜひとも実物を見たいものだ」と思った。
 もう1つの特徴は、たかがワラを積み上げただけのワラ塚が、古代朝鮮ばかりか中国や東南アジアとの結びつきを実証する、貴重な証拠だという指摘である。
 たとえばワラ塚は前に紹介したほかに、ニュウとかニオと呼ばれることが多いが、これは水銀の技術者といわれる丹生(ニュウ)一族と関わりがあるようだ。また呼び方は地方ごとに違っても、同じ工法で作られたワラ塚をたどって行くと、日本に漆喰壁の技法を伝えた新羅人の秦氏との関係が深いという。秦氏とはいうまでもなく、京都・太秦の広隆寺を作った一族で、機織りの元祖である。
 さらに大分県安心院町(現宇佐市)で行われた「藁こずみ大会」では、中国雲南省の農民がゲストとして招かれてワラ塚作りを披露したが、できあがったものは大分県や茨城県などで行われているものとそっくりなことが、写真で紹介されている。要するにワラ塚とは1500年以上前にこの国で実現していたグローバル化の生きた証というわけである。
 本書を読むと、日本人はグローバル化という名目で、よその国へ金もうけに出かけているが、実は1500年以上前のグローバル化の恩恵を今もって継承していることが実感される。
 現代のグローバル化は果たして1500年の生命力を持ちうるのだろうか?

  • 240頁 A5判変並製
  • 4-88344-130-X
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/12発行
笑う門にはチンドン屋 安達ひでや ちんどん チンドン お笑い 安達 大道芸 イカ天 バンド CD ロック
booktitle
笑う門(かど)にはチンドン屋
zeikomi
¥0円
笑う門(かど)にはチンドン屋

チンドン屋定番曲収録CDつき!


「チンドン屋が天職でございます」。親も呆れる漫談小僧、ロックにかぶれ、保証もかぶって日銭稼ぎに始めた大道芸の路上から、すべては始まった──。あの「イカ天」が生んだけ稀代のチンドン・バカが綴る、因果のはての極楽をご覧あれ。

書評

ロックから転身した著者が綴るチンドン業界の今と未来

松村 洋
評論家

 昨年9月、JR総武線亀戸駅前で、久しぶりにチンドン屋さんを見かけた。お決まりの派手な着物にカツラと厚化粧。だが、チンドン太鼓にゴロスと呼ばれる大太鼓の2人だけで、管楽器演奏をカセットテープで流していた。メンバー不足は、やはり寂しかった。その後、チンドン屋さんには遭遇していない。
 昭和30年代を境に、チンドン業界は衰退の一途をたどってきた。この時代遅れの街頭宣伝業は早晩消滅するはずだ。それが、一般的な見方だろう。だが、本当にそうか? ひょっとしたらチンドン屋はしぶとく生きのびるかもしれないぞ。そう思わせてくれるのが本書である。
 著者は1964年生まれ。彼が福岡市で「アダチ宣伝社」を旗揚げし、チンドン屋の道を歩み始めたのは94年、30歳のときだった。同社のスタッフは現在、アルバイトも含めて総勢15人ほどになり、九州各地と山口県を中心に、街回りの宣伝業務のほか、さまざまなお祭り、イベントなどで活躍している。
 ところが、熊本出身の著者は、子どものころ、チンドン屋を実際に見たことがなかったのだそうだ。音楽にのめり込んだ彼は、大学を中退して博多でロック・バンドを結成した。そのバンドは、当時の人気テレビ番組「イカ天」(「イカすバンド天国」)にも出演し、なかなか人気があったという。
 その後、彼はラジオ番組のパーソナリティーに抜擢されたり、大道芸で投げ銭を稼いだり、さまざまな仕事をしたが、あるときチンドン屋の真似事をした。これが性に合っていたらしい。今では「チンドン屋が好きで、やめたくてもやめられない」と彼は書いている。
 だが、もともと音楽畑の人だから、たとえばアコーディオンの話の中に、テックスメックス(テキサス〜メキシコ系音楽)やザディコ(米ルイジアナ州の黒人音楽)なんて、マニアックな音楽の名がポンポン飛び出す。こんな人、旧世代のチンドン屋さんには絶対いないはずだ。
 じつは80年代前半に、ジャズ界からチンドン界に入った若者がいた。サックス奏者の篠田昌巳氏(92年没、享年34)である。
 同じころ関西では、立命館大学「ちんどん屋研究会」を作った林幸治郎氏が大阪の「青空宣伝社」に入り、やがて独立して「ちんどん通信社」(現「東西屋」)を起こした。ここらが、いわばニューウェイブ・チンドンの出発点で、著者は約10年遅れで彼らを追ったわけだ。
 本書には、著者がチンドン屋になった経緯、仕事のエピソード、大先輩の親方たちや後輩の話、チンドン屋の歴史、「全日本チンドンコンクール」の様子などが、素直な筆致で楽しく綴られている。チンドンやイベントの出し物を工夫する著者の柔らかな発想が面白い。
 ロックからチンドンに転身した著者は、チンドン屋を内側と外側の両方から、バランスよく見ることができる。チンドン屋の優れた知恵と技術を受け継ぎながら、広い視野からチンドン屋をとらえ直す。そうしたニューウェイブ・チンドンの発想が、よくわかる本である。
 新しい若手チンドン屋の人数は、まだ決して多くない。だが、チンドン業界の未来を担うのは、この人たちだ。ホリエモンに言われるまでもなく、これからはインターネットがますます生活の中に浸透していく。だが、そうなればなるほど、かえって生身の人間同士が直接出会うコミュニケーションもまた求められるかもしれない。とすれば、まさに「手の届くところにお客さんの喜怒哀楽がある」チンドン屋の出番ではないか。
 版元は確かな本作りで信頼できる福岡の出版社で、本書はチンドン演奏のCDが付いてこの定価。お買い得である。

その業界の姿と魅力の秘密を、自らの体験をもとに興味深く紹介していく

吉村明彦
著述家

『広辞苑』の「ちんどん屋」の項には「人目につきやすい服装をし、太鼓・三味線・鉦(かね)・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告・宣伝をする人。関西では〈東西屋〉〈広目(ひろめ)屋〉という」という具体的な解説がある。いっぽう「屋」の項には「その職業の家またはその人を表す語」と同時に「あなどりやからかいの気持ちをこめて人を呼ぶ語」の意味も並ぶ。
 文筆業ならば職業の表記には注意をはらわねばならない。なるべく「〜業」と表記してきたつもりだが、幼いときから呼び慣れてきたチンドン屋さんなど、頭をかかえる場合もある。街頭広告業ではどこか威圧的で、わくわくし、ほのぼのとするようなニュアンスが伝わらない。
『笑う門にはチンドン屋』を手に取ってみると、冒頭の「ボク、チンドン屋です。」という章のなかに早速「チンドン屋は放送禁止用語か?」という見出しがたっていた。私が気にしていることが書いてあると思って、読み進めていった。ここでおわかりのように著者はチンドン屋業を営んでいる。以前に、放送業界にいたため放送コードに対して敏感でもある。著者がテレビやラジオに出演すると、かならず「放送でチンドン屋と紹介してもよろしのですか」「別の言い方はないですか」などと懸念してきかれるという。そんなとき「チンドン屋の僕がチンドン屋と呼んでくれっていってるんだからいいでしょう」と答える。そして「チンドン屋を放送禁止用語だと考える輩は、結局のところどこかでチンドン屋を見下しているのだ」とあった。胸のつかえがとれたものの、そのとおりだろうと思った。
 チンドン屋は、軍国主義が萌芽した明治時代の軍楽隊の退職者たちが、運動会などで楽隊として演奏し、副収入として町回りの宣伝仕事を始めたことが嚆矢だとある。また、昭和6年頃、映画産業が無声映画からトーキーに変わっていくなか、映画館で演奏していた楽士が職を失ってチンドン屋に流れていったという背景もある。つまり、一般社会では、落ちぶれた仕事の象徴でもあったのだ。
 音楽社会でも同様だろう。たぶん「ちん」というのは仏壇に置かれた鈴(りん)の音の連想、「どん」のほうは唐突なやかましい音ではないかと考える。神聖な音と不快な音が重なるわけだから、よけいに不謹慎な騒音を強調するのが「ちんどん」という擬声語なのだろう。だから「ちんどん屋」とは、演奏者への揶揄にみちた表現でもある。
 だが、21世紀の現在ではどうか。1964年生まれで、幼少時から「地球の上に朝がくる」のあきれたぼういずと、ハナ肇とクレイジーキャッツが大好きだったという著者は、1980年代後半の青春期にはロックバンドを結成し、あの「イカ天(平成名物テレビ・イカすバンド天国)」で3週連続人気投票1位に輝いた過去をもつ。30歳の誕生日を転機にチンドン屋となり、現在、大活躍中。こうして顛末が本書に綴られる。
 この業界の若手には著者のように、ロックやジャズの出身者が多いという。はじめ一様に抵抗を示すものの、なぜだか、すぐに口上や踊りやビラ配りという作業に熱心になり、やがて仕事にのめりこんでいく。ロックやジャズの志望者にとっては、おそろしい話かもしれないが、いったいチンドン屋のどこに魅力があるのか。「もっともチンドン屋が力を発揮するのは路上であり、もっとも厳しく、やりがいがあるのもまた路上である」。音楽や芝居など、芸能の原点を感じさせる力強い言葉だと思う。チンドン屋は21世紀の花形職業であり、学ぶところが多いかがよくわかることと思う。
 付録の「チンドン・グレイテスト・ヒッツ!」という定番曲集を聴いてみる。楽しく侘しいのは予想どおりだが、録音もよく、まるでニューオリンズで発生したジャズのようで、録音・発表に対する自信と誇りのほどがよくうかがえる。
 そういえば、その広域な音楽と人間性でいまや誰からも信奉を得ている渡辺貞夫を思い出す。ナベサダが宇都宮工業高校時代、昔チンドン屋をやっていた駄菓子屋の親父にクラリネットの弟子入りしたのは、ジャズ・ファンの間ではよく知られた逸話だった。

  • 246頁 四六判並製
  • 4-88344-117-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/02発行
わが内なる樺太 工藤信彦 外地であり内地であった「植民地」をめぐって 樺太 国境 ソ連 石風社 工藤 信彦 詩人 歴史 サハリン 豊原 ロシア 植民 北海道 外地 内地 朝鮮 国家 北方 領土
booktitle
わが内なる樺太
zeikomi
¥0円
わが内なる樺太

十四歳で樺太から疎開した少年の魂が、樺太四十年の歴史を通して「国家」を問う。1945年8月9日、ソ連軍樺太に侵攻、8月15日の後も戦闘と空爆は継続、幾多の民衆が犠牲となった。──忘れられた樺太の四十年が詩人の眼を通して綴られた──

書評

樺太にかかる歴史の霧をあざやかに晴らす

テッサ・モーリス=スズキ
豪州国立大学教授(翻訳・大川正彦)

 樺太は「日本の忘れられた植民地」と言ってよい。過去の植民地の歴史への関心の高まりがあるにもかかわらず、いまだに、植民地樺太の歴史については、ほんの一握りの学術研究しかない。そればかりか、著者・工藤信彦が本書で指摘するように、『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻(一九九二年刊)のような仕事でさえ、この歴史をほとんど黙殺している。
 このように長きにわたる当惑せざるをえない黙殺という文脈のなかでは、工藤の『わが内なる樺太』の刊行はとりわけ喜ばしい。戦前・戦中に樺太に生まれ育った著者は、教育と日本文学の著述に人生を費やし、教師としての身を退いたのち、日本の歴史・記憶・文化における樺太の在り処に関心をむけた。本書に収められたエッセイ群をとおして、樺太の植民史にかかわる著者の丹念な研究と、工藤自身の個人的な記憶、そして植民地樺太における教育生活・文学生活におけるひときわ優れた人物である父の記憶とがひとつに結びあわされる。
 ひょっとすると、いま述べた植民地という語には引用符が付されるべきかもしれない。それというのも、本書の中心テーマは日本の植民史における樺太の奇妙で両義的な位置そのものでもあるのだから。樺太は日本の唯一の真の「入植者植民地」であった。ここでは、「内地」からの移民の数が、先住民や、日露戦争での日本の勝利の後に残った数少ないロシア人の数をはるかに上回っていた。したがって、帝国秩序における樺太の在り処は、朝鮮や台湾といった他の主要な植民地の場合とは異なっていた。工藤が強調するように、樺太の日本人入植居留民たちは自分たちが植民地で生活していけるとはけっしてみなさず、むしろ日本の他地域から北海道(これもまた同様に、「植民地化される」と同時に「植民地化する」ものとみてよい島である)に移り住んだひとたちと類似した地位をもつと考えていた。
 樺太の場合、この地位は次の事実によってことさらに混乱させられる。すなわち、日本が支配した樺太の南部は、公式には三十年のあいだ「外地」として遇されていたが、一九四三年には、拓務省から内務省に移管され、こうして公式には「内地」の一部になった、という事実である。このように配置替えがあったにもかかわらず、日本はアジア太平洋戦争の終結時にポツダム宣言を受諾したとき、樺太は侵攻するソビエト軍に対して放棄された。今日でさえ、日本の検定教科書や公式の出版物では、この島は樺太と名づけられ、北緯五十度の線に沿って国境が引かれ分断されている。とはいえ、他の争点が浮かぶ実際上では、「ロシア・サハリン」と認定されているようである。つまり、『わが内なる樺太』があざやかに示すように、樺太は、日本の植民史の重要な局面を(今日ですら)包みこんでいる、両義性と忘却という奇妙で、公式に作られた濃霧のもっとも鮮明な具体例となっている。
 工藤信彦によるこの本を繙くなら、樺太史にかかわり文書史資料にもとづいた研究と、工藤個人とその家族にかかわる個々具体的な記憶とが織り込まれていることで、そのような濃霧は消え去り、この霧がかくも長きにわたって覆ってきた魅力あふれる歴史が明らかにされるだろう。『わが内なる樺太』は樺太史にかかわる数少ない既存の学術研究を綿密に分析しているばかりではない。植民地樺太の創出、樺太の教育システムと文化制度の展開、アジア太平洋戦争での日本の敗北の後に同島から大量に帰還した入植者たちに関する豊富な情報を提供している。
 しかし、本書はたんなる歴史物語りをはるかに越えるものでもある。熱情と詩情あふれる感受力によって綴られ、なんといっても、自らが探査する歴史にによって全実存そのものが形づくられてきた人物の手になるものである。『わが内なる樺太』は、国家・国民、植民地主義、アイデンティティということの意味への洞察に充ち溢れている。読者が本書から息吹を受けとり、戦前・戦中の樺太という目を瞠るけれども、あまりに長く無視されてきた物語を探究されるよう、評者はつよく希望する。

国境 忘れられた「存在」

岩下明裕
北大教授・ユーラシア国境政治

 国境とは何か。本来、それは国家の権力が物理的に及ぶ空間の境界(ライン)であると同時に、その空間に暮らす人々が心のなかで一体感を共有する認識の境界でもある。
 しかし、現実には物理的なラインとこの認識上のラインは往々にして一致しない。それでも「領土問題」として国境をめぐる係争が顕在化している境界は、多数の国民に意識される。北方領土と竹島。例えば、政治化した境界をめぐるこのズレの問題は、係争の当事者からみれば、不十分に感じられるとしても、それは確かに「存在している」。
 国境をめぐる問題の真の所在は、その「存在」が認識されていないところにある、と評者は考える。国家が支配する権力空間のなかで、多くの国民に忘れ去られている境界に近い島嶼(とうしょ)。今では、与那国、対馬、小笠原など国境島嶼の存在がそれだ。その存在がメディアや国民の注目を浴びるのは、せいぜい、外国の「脅威」が強調されるシーンにおいてに過ぎない。国境地域の現実に普段は関心も興味ももたない人々の過剰な国境への想像力とロマンは、しばしば現地に暮らす人々を傷つける。
 この「内地」の人々の国境地域に対する無自覚ぶりを反転させた象徴的な事例が、樺太をめぐる問題といえる。工藤信彦は本書で、日本国家が喪失した領土、樺太の存在にかかわる議論を整理し、その意味を読者に突きつける。工藤によれば、「樺太」問題の真の悲しみとは、戦後にその物理的存在が喪失したことにあるのではない。ソ連との間に北方領土問題を抱えるがゆえに、日本国は樺太の喪失を追認することができず、存在はあえて「空白」とされ続けた。そして今日、「空白」としての存在もまた忘却の彼方にある。
「存在」耐えられない軽さ。「平穏」な国家にとって、国境問題とは重荷でしかないのだろう。

  • 四六判上製・311頁
  • 978-4-88344-170-9
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/11/20発行
理想は高く輝きて 卒業生たちの小倉高校青春録 石風社 毎日新聞 西部本社 小倉高校 創立 記念
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理想は高く輝きて
zeikomi
¥0円
理想は高く輝きて

小倉高校創立100周年記念出版。経済から文化・芸能・スポーツまで、各界を担う多彩な人材を輩出しつづける名門・小倉高校。現役OB・OGの51人が、それぞれの青春の原点となった〈倉高〉の日々を振り返ったインタビュー集。

  • 185頁 四六判並製
  • 978-4-88344-174-7
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 2009/05/24発行
ヨーロッパを読む 阿部謹也 石風社 中世 阿部 謹也 ヨーロッパ 賤民 宇宙 世間 個人 デューラー 歴史 西洋史 個 中世史 社会学 近代 知識 智 史学 日常 ポリフォニック
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ヨーロッパを読む
zeikomi
¥0円
ヨーロッパを読む

「死者の社会史」から「世間論」まで、ヨーロッパにおける「近代の成立」を鋭く解明しながら、世間的日常と近代的個に分裂して生きる日本知識人の問題に迫る、阿部史学の刺激的エッセンス

書評

キリスト教的な宇宙観とのずれ

高橋義人
京都大学教授

 農村部の日本人は今日でも自分の家や村を小宇宙、その外側に拡がる山や海、さらにはそのなかに潜む霊や死を大宇宙と捉えている。そしてこの小宇宙と大宇宙とは同心円をなしていると信じている。本書によると興味深いことに、中世までのヨーロッパ人も同じような宇宙観を有していた。このような宇宙観の下では、時間は円環をなしていた。一年は春に始まり、夏、秋、冬を経てふたたび春に戻る。同じく人は死んで「あの世」に行ってからも輪廻転生によって「この世」に甦る。
 ところが中世になってキリスト教が次第に普及してくるとこうした普遍的な宇宙観、時間観は否定されるようになった。そこに賤民身分というものが成立するにいたったと著者は言う。
 大宇宙の要素である火とか水とか性などと関わる職業は本来は神聖な仕事であり、畏敬されこそすれ、賤視されることはありえなかった。彼らは小宇宙と大宇宙のいわば「間」に暮らしている人々だった。彼らが「賤民」となったのは、キリスト教が二つの宇宙の存在を否定したときから始まる。
 日本について同じ問題を論じた網野善彦氏の仕事とともに、本書は新しい見方を呈示してくれている。
 キリスト教はさらに直線的な時間観(救済史観)を導入した。歴史はアダムとエヴァに始まり、救世主イエス・キリストの登場を経て、ついには終焉(最後の審判)を迎えるのだ、と。しかしクリスチャンであるにもかかわらず、日本人と同じように今でも輪廻転生や円環的な時間を信じている西欧人はかなりいる。このように西欧人の心の深層に流れている古代的な宇宙観や時間観と、西欧人の建前をなすキリスト教的なそれとの間には明らかなずれがある。このずれを読むこと、それが「ヨーロッパを読む」ことなのだ。
 その他、死者の見方、ボスやデューラーの絵の解釈、交響曲の成立、娼婦論など話題は多岐にわたっている。
 今年、これほど興奮して読んだ本、教えられることの多かった本はない。

キリスト教が西欧を変えた根源の解説へ

芹沢俊介
評論家

 私にとってこの本の面白さは、キリスト教がヨーロッパに与えた根底的で巨大な影響について、日本との比較で明らかにしてみせてくれたことにある。ヨーロッパを読むことは同時に、日本を読むことなのである。
 ヨーロッパが現在のヨーロッパになったのは、キリスト教の浸透以後のことであり、それ以前のヨーロッパ、つまり十、十一世紀以前のヨーロッパは今の我々と同じであったというように阿部は述べている。つまり今の日本は一千年前のヨーロッパだと言うのである。阿部はそのことをさまざまな角度からとらえて行くのだが、この認識には目を洗われたような新鮮な驚きがあった。たとえばこんな箇所がある。見知らぬ者どうしが団体を組んだ場合、その会の幹事の決め方は日本ではまずくじ引きかジャンケンである。ヨーロッパでは決してそうはならない。必ず誰かが自発的に手をあげる。この違いについて阿部は、日本人は日常生活であらゆる機会にこのようなかたちで神判=神の意志(呪術、迷信などを含む)に頼るのだが、なぜこうなるかと言えば聖と俗、大宇宙と小宇宙、死後と現世といったものの境界があいまいなためだというふうに説明する。ヨーロッパにおいてこの境界を明確に分離したのがキリスト教であった。
 この点に関連してさらに二つの点で日本はキリスト教と無縁であった。日本には無償の贈与という考え方が現実に根付いていないという点が一つ。「タダより高いものはない」という互酬性の論理が生きて力をふるっている。ヨーロッパにおいてはその相互贈与の慣行のなかにキリスト教によって無償の贈与という観念が持ち込まれたとき、大きな転換点を迎えた。もう一つは個人という観念が現実に根付いていないという点で。
 第一のポイントについて阿部の主張はおおよそこうなる。それまでの習いでは、ヨーロッパにおいてもモノを贈られたら必ずモノでお返しをしなくてはならなかった。この互酬関係をキリスト教が壊した。教会はモノを贈られても現世では返さない。天国(死後の世界)で返すという回路をつけた。これは正確には相互贈与の慣習を壊したというよりも、その習慣が成立する時間・空間を現世から天国にまで拡張して、一元化したことを意味した──このことはさらに二つの宇宙、家を中心とした世界(世間)である小宇宙とその外に広がる大宇宙を、キリスト教が一元化したことをも告げていた──。また、天国(地獄)という観念を持ち込むことによって、現世の生の世界と死後の世界を分離した。現世では一度死んだら、死にきりという考え方はキリスト教が入ってきて以後に生まれた。そうしておいて死後の幸福は、生前の善行(教会への贈与である寄進を主とする)いかんにかかっているという考え方を生み出して行く。善行を積むことが天国への切符になるという発 想を断ち切るにはルターの登場を待たねばならなかった。ルターは人間が救われるか否かは生前の善行とはまるで関係がない、救いにかかわるのは信仰だけだと主張した。
 個人という観念についてはこう述べられている。日本人とヨーロッパ人の決定的に違う点は罪の意識の問題である。阿部は罪の意識が出てきたということと個人の形成とは深い関係にあること。具体的に言えば、キリスト教の権力によって、成人男女全員が罪の告解というものが強制されたこと、それによってヨーロッパの人は自分が自分(の罪)について語らざるを得なくなり、そかも告解された罪はその個人が自己の責任として引き受けなければならなくなったこと、このことが重要な契機になったと指摘している。キリスト教は告解制度が作られたときとほぼ並行して神判に関与するのをやめた。これに対して日本では罪の意識はいまも、世間という現世共同体との関係のなかでしか存在しないのである。日本人のほぼ全員が世間の中で生きているゆえに、社会を構成する個人としてよりも、自己決定を避け、世間に対して受け身にふるまうのである。なるほど、だからくじ引きをしたりジャンケンをしたりするのか!
 この本は一九八三年から十年間にわたる連続講演の記録で、読みながら私はしばしばキリスト教の根付かなかった国に生まれた幸と不幸をこもごも味わったのである。

人々の顔や気持が見える歴史学

樋口伸子
詩人

■庶民の心性にまで省察
 私達にとってヨーロッパとは何だろうか。日本の近代化はヨーロッパを手本として進められた。本、映画、芸術などから憧憬を交えて影響を受けた人も多い。駆け足旅行であれ、行けば随所で中世にできた建造物や町並みを見ることができる。〝まるで中世を旅するような〟という旅行者のうたい文句そのままに、西欧の歴史に触れた気になるが、あくまでも表面を撫でただけという思いが残る。それらの町にどんな生活があったのか知りたいと思う時に、「ヨーロッパを読む」は当時の人々の暮らしにまで分け入り西欧中世の深層に読者を伴い、そこから現在を逆に照らし出してくれる。
 第一章「死者の社会史」から「アルブレヒト・デューラーの自画像について」までの八章からなり、各章が一冊の本になる程に密度濃く多岐にわたる内容をもっている。どの章でも読者を引きつけるのは歴史学者としての著者の視点のせいである。その視線は為政者の歴史にでなく、常にその時代の庶民の暮らしや、人の心の動きに向けられており、時間・空間・モノという三つの枠の中での人と人との関係の歴史が説明される。
 不勉強にして私は人の心性にまで省察を及ばした歴史家をこれまで知らない。また歴史はあったことの叙述であり、なべて事例の列挙に終わる教科書歴史に魅力がないのは、歴史が想像を許さないせいだと思っていた。
■幾何学の証明にも似る
 氏は若い時にドイツ農村の史料を調べ、村の風景は目に浮かぶが、そこの道を歩く農民の顔と気持が見えてこないのに愕然としたという。当時の農民の顔や気持が見えるまでに歴史を掘り起こす。氏の魅力的で斬新な歴史研究の基本はここにあると思う。
 膨大で広範囲な記録史料が縦横に駆使され、資料は想像と発見を伴って読み取られていく。一見意表をつく仮説とみえることでも、細部まで論証する氏の明晰さは幾何学の命題を証明する鮮やかさに似ている。どこにどんな補助線を引くかが想像力の問題だ。
 この人の補助線は神話・伝説、伝承、グリム童話から文学作品にまで及ぶ。その方法が特に生彩を放つのは「笛吹き男は何故差別されたか 中世絵画にみる音の世界」の章である。ここで用いられるのは十五世紀の画家ヒエロニムス・ボスの絵である。
■中世世界に新しい視点
 前章の「中世賤民成立」では、迷信俗習が生きていた古ゲルマンの世界をキリスト教が一元化して取り込む過程で、差別された職業と差別を生む畏怖という心の動きが二つの宇宙という新しい視点から論じられた。その各論として差別された放浪音楽師をあげて、キリスト教が音楽をどう捉え器楽を排除したかが「最後の審判」、「音楽地獄」などの怪奇な絵から読み解かれる。またボスの皮肉な教会観も描かれている。
 ボスの細密で百鬼夜行的な地獄・天国の絵の中には、差別の発端となった人間狼、大宇宙と小宇宙、動物との関係、男女の性愛、これまで著者が中世世界を開けた際の鍵がびっしりと描かれていて刺激的である。
 「ヨーロッパ中世における男と女」の章では、牧師と姦通した女性を描いたホーソンの小説『緋文字』と、中世フランスの神学者アベラールとエロイーズの往復書簡集があげられる。ここにはキリスト教の説く聖性の規制に縛られず、欲望からの交わりも神聖な行為であるという、「愛の誇りのために生き」る女性がいた。著者はエロイーズに十二世紀ヨーロッパ社会のなかでようやく姿を現わした個人をみる。宗教をもたない私達が〈個〉を考える上で深い示唆にとむ章である。
■真摯で開かれた学究
 これはヨーロッパ礼賛の本でもないし、学会に囲い込まれた歴史書でもない。謎にみちた中世ヨーロッパ史から、私達が生きる世間論にまでわたる本書は福岡市の出版社・石風社で行われた著者の講演記録集である。
 つとに知られた一人の歴史学者が十余年にわたってほぼ毎年、目下研究中の初穂を百人内外の一般聴衆に披瀝する。公開講座は多いが、このような例は稀有なことだろう。石風社レクチャーのなりたちは人々の縁であるが、それが続いたのは阿部氏の真摯で開かれた学究の魅力のせいである。
阿部史学という言葉があるならこれまでのその流れが辿られる貴重な一冊といえよう。読者その河の支流で足を止めたり、また本流に戻ったりしつつ、ヨーロッパを遠く近く感じながらいま自分が生きる河口に導かれるのである。

  • 507頁 四六判上製
  • 4-88344-005-2
  • 定価:本体価格3500円+税
  • 1995/10/01発行
物識り狂 植村勝明 石風社 エッセイ 知 知恵 ピンダロス 西陽雑俎
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物識り狂
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物識り狂

知は市井にこそ靭く自生する──。「年ごろ紀元前後の本を手にすることが多かった。だれにも若い折の選択や怠惰を悔いる時期がある。西洋古典学も中国文学も学ばなかったのは悔いだが、これもいわば塞翁が馬、かえって新鮮でおもしろかった」(あとがきより)

  • 218頁 四六判上製
  • 4-88344-088-5
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2001/12/01発行
木喰 弥勒 祐徳 石風社 絵本 江戸 飢饉 上人
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木喰さん
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木喰さん

きっと、心が笑い出す
飢饉がつづいていた江戸時代、日本全国を旅しながら、願いをこめて、まぁるく微笑んだ仏像をほりつづけた木喰上人をえがく、初めての絵本。

書評

生まれ変わりではないか

井口幸久
西日本新聞記者

 木喰(もくじき)は江戸時代の僧。二十二歳で仏門に入り、四十五歳で木食戒(かい)を授けられた。木食戒は、凡人には信じ難いほど厳しい。肉食を絶ち、火を通したものを食べてはならず、米、麦など五穀を食べてもいけない。着物は一枚、横になって寝ることも許されない。山岳を回り、仏を刻み、梵字(ぼんじ)を学び……。
 九十三歳で亡くなるまで、木喰は諸国を回って千体の仏像を刻んだと言われる。その後、仏たちは忘れられ、子供の遊び道具となり、盗まれたものもある。民芸運動の柳宗悦が再評価し、今日、円空と並び称され親しまれている。
 弥勒祐徳さん=宮崎県西都市在住=は一九一九年生まれ。中国大陸での戦火が拡大し、不況は深刻だった。赤貧洗う暮らしの中で中学に進学したが、授業料が滞り、登校停止を言い渡される。それを両親に言い出せぬ弥勒少年は、日向国分寺で時間をつぶした。そこには最大の木喰仏、五智如来が鎮座していた。消失した日向国分寺の再建のため、木喰は十年間この地に留まり、多くの仏像を残している。
「彫刻のまねごとですな。木の枝を拾うては、小刀で刻んじょりました」
 戦後、中学校の美術教師となった。一貫して絵を描き続け今日に至る。定年退職してからは木喰の辿った道を歩き木喰仏を描いた。その数は数千枚に上る。
「木喰仏は何度描いても同じものが描けませんな。つまり、生きちょるということですな」
 直線的な円空仏に対して木喰仏は丸い姿。円は角が立たず序列も生じず、すべての人を包むのだと弥勒さんは見る。昨年まで自宅で寝たきりの妻を介護しながら精力的に絵を描いた。そのひた向きな生き方に対して西都市は市民栄誉賞を贈っている。行政が個人の生き方を表彰するというのは異例中の異例。人々がいかに彼を愛しているかが、知れようというものだ。
「自分は復活する」と木喰は予言した。弥勒さんは八十九歳にして初の絵本である。数十枚の油彩で綴った木喰の生涯を眺めると、弥勒さんその人が木喰の生まれ変わりではないか──。そんな気持ちにさせられる。

  • A4変型上製36頁
  • 978-4-88344-159-4
  • 定価:本体価格1400円+税
  • 2008/03/01発行
明治博多往来図会 祝部至善画文集 祝部 至善 明治 博多 画 石風社 西日本文化協会 日野文雄
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明治博多往来図会
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明治博多往来図会

驚嘆すべき記憶力と細密な画で再現される明治期の博多。往来で商う物売り達の声、町のざわめきの中、庶民の暮らしと風俗がいま、甦る。豪華本。

書評

「よい時代に生まれた幸せそのものだった」

服部幸雄
千葉大学名誉教授

 鉋屑(かんなくず)の三角帽子、中国服姿の飴屋がチータラチータラと紙ラッパを吹き立てて街へやってくる。手に手に錆包丁や古鍋を持った子どもたちが集まってくる。「チータラ飴」はお金で売らず、古金物と交換するのだった。
 不思議な魅力に富んだ画文集である。
 最初に色彩のある絵を見た。著者の絵に寄せた短いエッセイを読みながら、つくづく絵に見入った。次に、後にある少し長文のエッセイを読み、もう一度戻って前の絵を眺めた。おもしろい風俗、珍しい風俗、懐かしい風俗や生業が次々と現われて展開する。ここには明治という時代が生きている。人々が人間らしく、心豊かに、やさしく暮らしている。
 昭和十年代に名古屋で育った私は昔の博多の町をまるで知らない。それなのに、祝部至善の絵の世界は妙に親しく懐かしく思われる。
 祝部至善(一八八二─一九七四)は生粋の博多っ子である。明治・大正・昭和の三代にわたって博多の町を愛して生きた人だった。
 幼児から絵が好きで、野方一徳斎、太田一嘯、松岡映丘について学んだ。その彼が博多の風俗を描き始めたのは七十歳を越した昭和二十八年以後、九十二歳で亡くなるまで描き続けた。
 本書は明治時代の博多の風俗を描いた数々の絵と、それらに添えられたエッセイを集めて編集したものである。
 原画は東京国立博物館収蔵で昭和二十八年から三十年代にかけて制作されたものの全図と、雑誌「西日本文化」の創刊号(昭和三十七年)から百号(昭和四十九年)まで十余年にわたり、毎号の表紙を飾った絵の中から選んだものである。著者が幼少の頃に博多の町で見た光景を思い浮かべつつ、眼前の実景写生するように細密に描写している。人々の髪型、化粧、衣服、帯の結び方、持ち物などが実にていねいに描いてある。
 絵には、季節があり詩がある。いろんな人が登場する。門付けの芸人、曲独楽、覗き機関(からくり)、猿回しなど江戸東京をはじめ他の都市でも見かけたものが、博多でも行われていた。博多の街だけを往来した物売りもたくさんある。現代ではとても考えられない不思議な品物を売り歩く商人たちは、おもしろい触れ声を聞かせて、てくてくと歩いた。至善は「明治のよさ」に懐かしさを覚え、変わっていく街の様子、特有の行事、日用の道具、衣装や化粧、子供のあそび、暖かい人の情、博多言葉などを、絵と文でこまやかに描き出す。
 時間がゆっくりと流れている。時代の空気が匂うようだ。至善が言うとおり明治の日本は「いい時代」だったのに違いない。彼は「よい時代に生まれた幸せそのものだった」と、ふと感懐を洩らす。それが完全になくなった戦後十年を過ぎたころ、至善は記憶の中に生きている博多の街の風景を一つ一つ丹念に描き始めた。人々の記憶から忘れ去られるのを愛惜する心がある。時代は変わったのだ。私たちの考えはもはや「時代遅れ」なのだという老いの身の自覚もあり、諦めの気持ちもある。しかし、至善は描き続けた。
 絵にも文にも郷愁だけでなく、一抹の哀愁が漂う。とくに印象的な絵と文を一つだけあげるとすれば、「ごりょんさん」が毛布を引き回してまとった姿に寄せる至善の思い入れの深さである。この絵に限らず、彼が描いた女性たちはみなかわいらしく美しい。
 すべてに人間的だった明治。二十一世紀のいま、私は取り戻すことのできない、そして多分に美化された「明治のよさ」に憧れ、幻想を抱く。祝部至善が愛してやまなかったこの世界は、現代人に向かって何が本当に美しいのかを教えているともとれる。この本は、たくまずして不毛の現代を顧みる文明論的な内容を含んでいる点で、単に「昔はよかった」式に老人の郷愁を誘うばかりではなく、広い層の読者の共感を得ると思う。地方都市における明治風俗史の記録としての価値もある。
 巻末に、編者代表のフォトエッセイスト日野文雄による要を得た解説が付いている。

庶民の風俗、生き生きと

錦織亮介
北九州市立大教授・日本仏教美術史

 この度西日本文化協会より祝部至善氏の『明治博多往来図会』が刊行されました。東京国立博物館所蔵の51点の絵画と、雑誌「西日本文化」掲載の表紙画と解説を中心に編集されています。
 この本には明治・大正の博多の庶民の生活風景が生き生きと描かれています。人々の話し声、物売りのふれ声、街の喧騒さえ聞こえてくるようです。これらの市井の風俗は今はもう見ることができません。博多が近代都市になる過程で失われたものです。それだけに懐かしさにあふれています。

 祝部氏は、明治26(1883)年11歳のとき、博多の浮世絵師野方一得斎(のがたいっとくさい)について絵を学びはじめ、また同じ頃に矢田一嘯(やだいっしょう)にも油絵を学んでいます。しかし本格的に絵を学んだのは、櫛田神社社司の祝部家に入夫婚姻した後、大正7(1918)年36歳で上京して松岡映丘に師事してからです。同12(23)年関東大震災のため帰郷するまでの6年間、映丘のもとで新しい大和絵を学んでいます。
 博多に戻ってからは、家業の櫛田裁縫専門学校校長をつとめる傍ら、福岡県展などの地元の公募展への出陳のほか、新聞雑誌にも多くの挿絵を描くなど、作画活動を続けていました。
 今日では、祝部氏と言えば明治の風俗画を思い起こしますが、祝部氏が博多の古い風俗を描きはじめたのは70歳ごろ(昭和28〈53〉年ごろ)からと思われます。ただ、風俗画を描きはじめた動機については、はっきりとは述べていません。
 本書の編集者日野文雄氏は、地域差はあるが触れ売りや門付けの姿が街から消え始めたのが昭和28年から30年ごろであり、祝部氏にとっても明治が終りを遂げた時期ではなかったか。内なる明治の終焉を感じた時、明治を懐かしむだけではなく、明治の博多を記録しておかねばという決意から、71歳の翁は風俗画の筆を執ったのではないかと推測しています。これを裏付ける事実は、祝部氏が明治・大正博多風俗図を2セット描き、1セットは手元に置き(現在は福岡市博物館の所蔵)、もう1セットを昭和38(63)年に東京国立博物館に寄贈していることです。これは、自分が描いた風俗画が、確実に後世に伝えられることを意図したものと思われます。
 いま一つのきっかけは、鏑木清方が昭和23(48)年の第4回日展に出品した「朝夕安居(ちょうせきあんご)」図です。明治20年ごろの東京の下町風景を絵巻物風に描いたもので、失われ行く東京の下町風景が詩情豊かに描かれ、おおいに評判になった作品です。氏は画作の動機を「今私がしきりと画きたいもの、またかいておきたいものは、昭和なかばまで続いて来た市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないように思はれるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならなかった」と述べています。また清方は、展覧会のための大画面の作品とは違った、卓上で眺めて楽しむ絵巻、画冊などの卓上芸術の支持者でもありました。
 祝部氏は、この清方の態度に共感するところが多く、博多版の風俗画制作を思い立つきっかけの一つも、この「朝夕安居」図にあったと私は考えています。祝部氏の風俗画は、作品の形式、画題、画風のすべてが、師の映丘より清方に、そしてこの図に近いことに驚きます。両者の違いは、清方が詩情を主にしたのに対し、祝部氏は風俗の正確な記録に重きを置き、各図に解説を付した点でしょう。

 祝部氏はこの風俗画を描き上げたあと、ありし日の福博の往還の様子をさらにこまかく「西日本文化」の表紙画に描きました。昭和37(62)年から氏が没する49(74)年まで、100号にわたっています。各号に付した解説文も興味深く、博多の庶民の暮らしが見事に回想され、活写されています。侍が曳馬の訓練と称してかき山の列に馬を乗り入れていた時代があったことなど、誰も知らなかったことでしょう。また画中の女性の装束、帯の結び方、髪形などの詳細な記述は、さすが裁縫学校長ならではの観察とおもわれます。
 祝部氏は、日本画のほかに、和裁はもちろん、博多おきあげ(押し絵)技術者、茶道南坊流会員、郷土研究会会員、弓道範士など多芸多忙の人でもありました。この出版が祝部氏の再評価につながればと願います。

明治の博多 日常を活写

松尾孝司
編集委員

 明治という時代の暮らし、往来のにぎわいが伝わってくる。
「あぶってかもは、よござっしょう」
 これはスズメダイを売りに歩く物売りのふれ声だ。「炙って咬んで食べる魚」という意味がある。博多の味「おきうと」売りは、
「おきうとワイ、とワイ、きうとワイ」
とやってきた。辻芸人、アメ売り、とうがらし売り……街は人と人との出会いの場だった。

時事を織り込み
 この秋、刊行された日本画家祝部至善さん(一八八二─一九七四年)の画文集「明治博多往来図会」には、江戸時代のなごりが残ったそんな明治の博多が描かれている。
 博多の井戸水は塩分が多いため、現在、福岡県庁のある千代松原の大井戸からくんで、たるに入れて、車力(大八車)に積まれて売られていた。街でバイオリンを弾く「艶歌師」の姿がモダンな時代の到来を告げる。人力車に乗って壮士芝居をPRする書生風の男性は、もしかしたら川上音二郎一座の役者かもしれない。結婚して初めて里帰りする花嫁の姿が初々しい。
 時事を題材にした絵もある。一八九四年、日清戦争・旅順港陥落を伝える、福岡日日新聞の号外を配る男。頭の鉢巻きに小さな国旗を挟み、腰には鈴。戦勝に高揚する時代の気分がよく伝わってくる。てんびん棒にかついで小包を配っている人や伝染病患者搬送の現場を伝える絵もある。
 祝部さんの視点は、ニュース感覚にあふれている。江戸の浮世絵師が博多にいたら、題材になったかもしれない庶民の生活の現場を鮮やかに描き出している。今の新聞ならば、さしずめ生活感を伝える「社会面」のような世界だろう。

風俗をリアルに
 祝部さんは、福岡市博多区の櫛田神社前にあった櫛田裁縫専攻学校の校長を務めた。祝部家は代々、櫛田神社の神職の家だったが、実家は中洲の中島町。この町からは独立美術協会で活躍した小島善三郎や「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭らが出ている。商人の町・博多から川を隔てたこの地域は文化の香りが強かった、と画文集の「解説」を書いた日野文雄さん(写真家)。
 町絵師野方一得斎に日本画を習い、博多人形師の指導に当たった矢田一嘯(いっしょう)に油絵を学んだ。上京後は、大和絵の松岡映丘に師事する傍ら、洋画彫刻塾でデッサンに励み、ヌードデッサンの画塾にも行った。この時代に基礎を築いたデッサン力が、細い筆の線で明治の風俗をリアルに描く素地となった。和洋を問わず絵を極めようとするおう盛な好奇心は図絵の豊かなバラエティーに直結しているだろう。
 収められたエッセー風の文章も、貴重な証言だ。
 たとえば七月の博多山笠。現在の追い山は、前を走る山笠がスタートしたあと、一定の時間を置いて後続の山笠が境内の「清道」の旗を目指してスタートする。ところが、明治二十三年までは、前を走る山笠が神社から東へ五百メートルほど離れた東長寺の前まで走ってからスタートを切っていた、と書き残している。「追いつけ追い越せ」と、むやみやたらと無理なスピード競争はしていなかったという記録である。

「わが町を残す」
 収録された絵は、一九五三年から十年足らずの間に描かれた彩色画が五十二点と、西日本文化協会の機関誌「西日本文化」の表紙のために描いたモノクロの作品約百点。
 五〇年代は、福岡大空襲後の焼け野原から少しずつ復興が進んでいた時代。が、老舗の商家がほとんど焼失し、博多の町には、板付米軍基地の兵の姿が目立った。日本社会全体が急速に欧米化していった時代でもあった。祝部さんにとっては、古里が消えてしまった。他人の町になってしまったのだ。
 絵には、「わが町・博多を残さねばならない」という強い決意がにじんでいる。遠い所へ去ってしまった「博多」を呼び戻そうという意地がひしひしと伝わってくる。祝部さんは、博多を語る会の会員としても博多人形師の小島与一さんらとともに「博多」を語り継ぐ活動を続けた。
 博多の町は、六六年の町界町名変更で、長い時間をかけて形成された地域コミュニティーが分断された。この本は、失われた博多を見つめることで、変わり続ける博多を問い直す機会を与えてくれる。

雑踏の声が聞こえてくる

矢野寛治
コピーライター

 戦後の団塊としては、いささか古いことにも知悉しているつもりでありしが、頁を繰る毎に、私の知識なんぞは、おととい来やがれの心境にさせられた。
 物心ついたころに、往来で目の当たりにしたのは、せいぜい虚無僧、富山の薬売り、傷痍軍人さん、あさりシジミ売り、竹ざお売り、たくあん売り、アイスボンボン売り、こうもり傘ナベ釜修繕屋、ポンポン菓子屋、山伏、豆腐屋、占い師、新聞少年、紙芝居屋のおじさん、正月の獅子舞い、ああそういえば時々新内流しくらいのもので、この図会を見ますと、いやはや明治の博多往来は、多種多様。
 旅順口陥落の号外配りは、鉢巻に小国旗を二本挿している。小包郵便配達の臀部は張って大きく、踏み切り番の乳飲み子を背負ったお母さんの乳房は胸からポロリと露わになっている。高校生は弊衣破帽、女専は紫袴、警察と兵隊の衣装は妙に立派。されども、最も興味を惹くのは行商人と物売り、門付けや庶民のいでたちである。いなせ有り、粋あり、概してみな粗衣だが、どことなくユーモラスで活気がある。祝部至善さんの絵を見ていると、明治の雑踏の音と声が聞こえてくる。

  • A4判上製175頁
  • 4-88344-102-4
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 2003/09/15発行
別府華ホテル 観光王と娘の夢 佐和みずえ 石風社 別府 観光 温泉 油屋熊八 温泉旅館 旅館 繁盛
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別府華ホテル
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¥0円
別府華ホテル

奇抜なアイディアと規格外の行動力で日本一の泉都を築いた観光王・油屋熊八をモデルに描かれた繁盛記。地獄巡りの開発、温泉マークの発明、観光バスガイドの創設、九州横断道路の提唱、はては富士山頂に「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の柱を立てて別府観光の礎を築いた男の、とその娘の生涯を描く。

書評

涙、涙の「冒険譚」

中谷健太郎
地域生活圏研究所所長

 大正三年(一九一四)、三月下旬にカナダのバンクーバーを出港したアメリカ汽船コロラド号の、波おだやかな船上からこの物語は始まる。「グッモーニン、バロン。本日も仔牛のステーキになさいますか?」
「バロン」と呼ばれる、(背広のボタンが今にも弾けそうな…)「油屋熊八郎」と、(首筋から肩、肩から腰にかけて…小さな顔の中に、大きな涼しい目、先がツンと上を向いた鼻、笑うと白く健康な歯がこぼれる)少女「華乃」の、波瀾万丈の物語だ。
 時は日本近代の夜明け、年号は明治・大正・昭和に渉る。海を隔てた中国大陸に向き合って、登場人物たちの「江戸の名残の心意気」が九州・別府に炸裂する、と言いたいけれど、歴史の仕掛け舞台はちょっと甘い。炸裂するのは熱血「熊八郎」と元芸者「辰子」、それに、なんと言っても凛々「華乃」と逞しい漁師「襄一」の大恋愛物語である。それがなんとも劇画調でわかりやすく、私はあちこちのページで涙ぽろぽろだった。
 むろん当時の別府温泉が舞台である。目抜きの「流川通り」を埋立てて、その突端に「桟橋」を構築し、町の内外に乗り合いの「観光バス」を走らせ、地獄見物他の「遊覧ルート」を創設する。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」。どれもが黎明期の別府に展開された実話の「冒険譚」である。しかしそれでもやっぱり、これは「夢物語」なのだ。登場人物は「そっくりさん」たち、懐かしい「教養小説」、そう、「主人公の人格形成、発展を中心として書かれた小説」(広辞苑)、もっと、えげつなく言えば「読んで賢くなる小説」である。
 涙の隙間に立ち止まって私はちょっとだけ賢くなった。二十八歳で由布院に帰り、自分で「旅館経営」を始めた頃の、眩しいばかりの「夢」と「緊張感」、日々の「苦労」と、返ってくる確かな「喜び」を、まざまざと思い出した。七十二歳の今、もう一度あの「煌めきに満ちた冒険の日々」に向き合ってみようと思い始めている。

「大分合同新聞」東西南北

「大分合同新聞」東西南北

 一枚の写真から、その小説は生まれたという。そこには数々の奇抜なアイデアで別府温泉を有名にした油屋熊八が、一人の娘と一緒に並んで座っている。このほど、彼をモデルに描いた小説「別府華ホテル 観光王と娘の夢」が発刊された▼著者は劇画の原作や児童書などを手掛けている大分市在住の佐和みずえさん。写真の女性から架空の娘、華乃を登場させ、熊八が米国から帰国後、別府で活躍する生涯を描いた。物語は娘の恋もからみ、親子の涙ありの奮闘ぶりがまるでドラマを見るように展開する▼小説とはいえ、時代背景と熊八の功績は各所に織り込まれている。ホテルを経営する傍ら、地獄巡りを開発したり、全国で初めて観光バスガイドを導入したり。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と富士山頂に標柱まで立てた。彼の痛快な人生を物語を通して学ぶことができる▼佐和さんはかつて別府市に住んだ時、公園で見つけた記念碑で初めて熊八のことを知った。ユニークな名前。しかも自分と同郷の愛媛県宇和島市生まれだったことから、いつか小説にしたいと思ってきた。ここで出会ったのが一枚の写真。構想が一気に広がったという▼国内外に別府観光を知らしめた熊八。次々と繰り出した大胆な発想と行動力には驚くばかりだ。もてなしの心を大切にし、何事も前向きに他地域と連携するなど、彼の精神は忘れたくない▼架空の娘を配したことに「奇抜すぎるかもしれませんが」と佐和さん。「とにかく熊八のような快男児がいたということを知ってほしい。そして皆さんに元気を出してもらえればうれしい」と話している。

  • 337頁 四六判並製
  • 4-88344-141-5
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2006/11/30発行
森下 友晴 石風社 福岡の歴史 町並み レトロ 門司港 博多
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福岡の歴史的町並み
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福岡の歴史的町並み

歴史と情緒が織りなす景観。そして暮らしの記憶——。県内11カ所の町並みの成り立ちと現在を解説し、未来に向けて提言するハンディなガイドブック。
【本書で紹介した町並み】門司港レトロ/木屋瀬/英彦山/博多の下町/太宰府/秋月/吉井/八女/柳川/新柳町/城内住宅(福岡市)

  • 新書版238頁
  • 978-4-88344-168-6
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 2008/10/01発行
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