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藁塚放浪記

北は津軽の「ニオハセ」から宮城の「ホンニョ」飛騨の「ワラニゴ」宇和の「ワラグロ」出雲の「ヨズクハデ」、南は薩摩の「ワラコヅン」、はては韓国、アフガンまで、秋のたんぼをかけめぐり、藁積みの百変化を追った30年の旅の記録。
藁塚(わらづか)=稲刈りを終え、乾燥させた稲束を脱穀したあと(または脱穀の前に)、藁を積み上げられたもの。

書評

「最後の日本人」たちが生んだ米作り文化の貴重な記録

与那原恵
ノンフィクションライター

 稲刈りを終えた秋のたんぼに、脱穀したあとの藁の束が積み上げられている。これを「藁塚」というそうだ。藁塚は地方それぞれに呼び方がある。ボウガケ(青森)、ワラニゴ(岐阜)、マルボンサン(京都)、シコホヅミ(佐賀)などなど。地方のぬくもりが響いてくるような呼称だ。
 著者は、この藁塚を追って日本の北から南、さらには韓国、中国まで三十年にわたって歩き、記録した。資料を探しだし、土地の人々の証言を得て、貴重な一冊となって結実した。
 まず各地の藁塚、その個性的な造形に驚かされる。藁の干し方も、その風土によってさまざまだ。藁塚の形には大別して二種類あって、ひとつは中心に棒杭を突き立て芯にして積み上げるもの。もうひとつは杭を用いないものだ。
 宮城県のホンニョは、棒杭を中心にらせん状に藁を巻く。岡山県のイナグロは、小さな小屋のように藁を積み上げる。大分県のトーシャクは切りそろえた稲束をぐるりと見せ、その上に傘のような稲と天に伸びる頭がある。
 秋のはかない日差しの中で黄金色に輝く藁塚の立つ姿は、ほんとうに美しい。どれも、ただ稲藁を乾燥させるという目的だけではない、そこに生きる人たちの実りの感謝と喜びの感情があたたかく伝わってくる。
〈藁塚は、野に積まれた庶民の手の記憶。それらは決して芸術作品ではないが、米作りを中心とした祖先の営みや、民族の記憶をも彷彿とさせる〉
 著者は藁塚を世界遺産ならぬ「世間遺産」だという。著者の作品は、左官職人の卓越した技術である「鏝絵」を紹介した本で目にしている。「手の仕事」への深い尊敬と愛情が著者の一貫したまなざしである。
 大陸から伝わったという「練塀」という泥壁の技術がある。泥に砂や藁スサを加え水でよく練って壁にしていくものだ。よく乾燥させた藁は、壁に用いられたばかりでなく、俵になり、ムシロになり、草履になり、肥料になり、畳の芯にもなった。米作りの労苦の果てに得た「宝」を有効に使う手だてがあったのである。
 しかし現在では稲刈り機が藁を切り刻み田に捨て、米は農協のライスセンターで強制乾燥させられるという。そういえば、本書にあるような藁塚の光景を見なくなって久しい。著者も悲痛な筆致で〈無償の行為を生み続けた「最後の日本人」たちが消えていく過程を記録したものだ〉と書いている。
「米」をとりまく文化を私たちは見捨てた。厳しい自然の中で育まれた人間の営みを忘れ去ろうとしている。たんぼは今、深い雪に覆われているだろう。どうか元気で春を迎えてほしい。

30年にわたり全国を取材

井口幸久

 藁塚とは、ワラを乾燥させるために積み上げた塊のこと。藁にお、藁ぐろ、藁小積などともいう。さらに「ニオハセ」(津軽)、「ワラグロ」(宇和)、「ワラコヅン」(薩摩)など、地域によって呼び方も形も違う。本書は、日本全国を歩き、藁塚を取材した記録である。
 仮に、ワラの積み方が地域によって異なっていることを知っていても、それだけでは史料としての価値はない。藤田さんは三十年にわたり全国の藁塚、数千枚を撮影した。途方もない「無駄」が一冊の本のまとまったとき、大陸の稲作文化と日本のそれとを比較検証する有力な史料になったのである。
 藁塚は1中心に棒杭を突き立て、その周りに積み上げるものと2棒杭を用いないものとに大別される。さらに、気象条件などを加味して大小、高低、形状などに多様な変化が見られる。その形は人々が「手の記憶」として代々受け継いできたものであり、ほとんど変化していないと考えられる。藁塚は、朝鮮半島、中国大陸からインドにも見られ、調査が進めば、稲作の広がりを系統的に調べることも可能であろう。
 藤田さんは、大分県別府市生まれ。「子供のころから図鑑類が好きで小遣いをためては買っていた」という。昆虫、植物に始まり、建築物などへと興味は広がっていった。別府の建物の写真を多数集め、近代和風建築の推移を示す本を出版するなど、その仕事の根底に「歩く、集める」がある。
 印鑑職人だった父の影響もあり、写真家としての仕事も「職人としての手仕事」が基軸となった。そうして取り組んだのが、左官だった。
「土蔵の材料や職人たちの歴史。無名の民の手が生み出したものへの愛着が強い」と藤田さんは言い、泥壁の材料であるワラへの関心が、藁塚につながっていった。
 今日、ワラを積む光景はこの国から消えつつある。農業の機械化とともに、コメを収穫した後のワラは、粉砕されてしまうからだ。本書は、食糧としてのコメだけにしか価値を見いだそうとしない近代文明への、無言の批判でもある。大分県別府市在住。五十五歳。

農民の〝手の記憶〟

「本を語る」

 ボウガケ、ワラニョ、サンカクニオ、ニョウ、マルボンサン、ヨズクハデ……。まだまだあるこれら呪文のような音はみな、同じある〝物体〟の呼び名だという。藁を乾燥させるために収穫後の田んぼに積み上げる「藁塚」。ところ変われば形状とともに名称も変わるそのさまを、日本中、アジアまでも歩き回って調べ上げたのが、写真家の藤田洋三さんだ。
「ずっとおもしろかったなあ」。撮り始めてかれこれ三十年の歳月を感慨深げに振り返る。「文化の根っこを掘り下げているという実感がありましたから。近代化によって断絶しなかった農民の〝手の記憶〟ですよね」
 脱穀後の藁は、巨大なフクロウや神社の社やテントや、いろんなものに見えるさまざまな形状に積み上げられる。しかも「何のために」と首をかしげたくなるくらい、一種の美学に基づいて。「景観条例なんてなくなって、農家はちゃんと景観つくってきたんだってね」
 美しさだけではない。藁塚のあるところ、藁の「用」がある。牛の飼料として、敷き藁として、また養蚕のカイコを飼う「蚕箔(さんぱく)」も藁でつくられる。泥に砂や藁を混ぜて練った土でつくる「練塀」の小屋も、農家とは切っても切れない関係にある。本書でもっともスリリングなのも、あるタイプの藁塚と練塀文化の地域分布が一致するという事実を考察したくだりだ。
「新羅系渡来人といわれる秦氏による技術伝承の跡ではないかと、まあ写真家が勝手なこと言ってるんですが。藁をめぐる営みが、昔はずっと一つながりだったはず」
 写真を学んだ学生時代、土門拳、木村伊兵衛らリアリズム写真の洗礼を受けた。人間の生を撮るその方法を、告発調ではなく、自身が「生きずりの写真」と呼ぶさりげないショットに見いだした。「日本の農村を〝懐かしく〟撮るのなんて簡単。そうではなく、暮らしの実相を撮りたかった。写真におけるリアリズムとは、という問いに、僕なりの卒業論文が書けたような気持ちです」

鏝絵探す旅での出合い

佐田尾信作

 十二年前の晩秋、記者は島根県温泉津町(現・大田市)の谷筋の集落、西田地区に立っていた。半円の弧を描く棚田に点在するピラミッド型の稲ハデ、「ヨズクハデ」の「できるまで」を撮ろうと通っていたのだ。
「ヨズク」とはフクロウ。四本の丸太で組まれた稲ハデに稲穂を架けた姿は、まさにフクロウ。普通のハデに比べて立体的で、耕地の狭いこの里の人々の生活の知恵。あのヨズクたちは今も、あの里で羽を休めているのだろうか。晩秋から初冬のころ、ふと思い出す。
 そのヨズクハデがこの本に載っている。日本列島各地から韓国、中国にまで足を延ばした「藁塚」「稲塚」の記録だ。乾燥させた稲束を脱穀後に積み上げた藁を「藁塚」「藁ぐろ」「藁小積」などと呼ぶ。もみの脱穀前に積み上げて干す稲穂は「稲塚」「稲ニオ」などと呼び、木に架け干しすると、「ハデ」などと呼ぶ。
 写真家でもある著者は左官職人のしっくい彫刻「鏝絵」を世に知らしめた人。同好の士たちと鏝絵を探す旅は藁塚や稲塚と出合う旅だった。
 しっくいの材料は石灰や藁。本書もおのずと、しっくいに筆が及び、石灰窯の痕跡などを探す「お石灰探偵団」まで登場させて笑わせる。しかし、読み進むと、やがて周防灘の祝島(山口県上関町)に残る練り塀にまでたどり着く。「『石灰と泥の技術史』というファインダーを携えながら歩いた藁塚の旅」。著者の旅の本質が理解できた。
 鏝絵でも知られる大分県宇佐市安心院町では、一九九九年から「全国藁こずみ大会」が開かれている。列島各地から出展する、いわば藁塚と稲塚のテーマパーク。第二回大会では西田のヨズクハデも招かれた。あのヨズクたちが九州まで羽ばたいたのか。物言わぬ藁塚が一層、いとおしく思えてきた。

収穫が終わった田んぼに林立するワラ塚が物語るグローバリズム

下川耿史
風俗史研究家

 注連縄(しめなわ)といえば、現在でも正月用品の定番の一つだが、これは青い頃に収穫したモチ米のワラで作られるそうだ。私は九州の水田地帯で育ったが、恥ずかしながらそのことを本書で初めて知った。
 恥ずかしいことがもう一つあって、取り入れが終わった後のワラを積み上げたもの、つまりワラ塚(私の田舎ではワラ坊主と称していた)は、私にとってはごくありふれた風景であり、全国どこへ行っても似たような形だと思い込んでいたが、その土地の気候風土や用途によって、形がまったく異なるという。いわれて見れば当たり前のことだが、思い込みというのは困ったものだと、あらためて反省した次第。
 ところで本書の魅力の1つは各地方に伝えられたワラ塚の形の面白さにある。この点は300枚に及ぶ写真によって楽しんでもらうしかないが、それぞれが風趣たっぷりで、私は北海道の「豆ニオ」、茨城県の「ワラコヅミ」や島根県の「ヨズクハデ」、大分県の「トーシャク」などの風景を見ながら、「一度はぜひとも実物を見たいものだ」と思った。
 もう1つの特徴は、たかがワラを積み上げただけのワラ塚が、古代朝鮮ばかりか中国や東南アジアとの結びつきを実証する、貴重な証拠だという指摘である。
 たとえばワラ塚は前に紹介したほかに、ニュウとかニオと呼ばれることが多いが、これは水銀の技術者といわれる丹生(ニュウ)一族と関わりがあるようだ。また呼び方は地方ごとに違っても、同じ工法で作られたワラ塚をたどって行くと、日本に漆喰壁の技法を伝えた新羅人の秦氏との関係が深いという。秦氏とはいうまでもなく、京都・太秦の広隆寺を作った一族で、機織りの元祖である。
 さらに大分県安心院町(現宇佐市)で行われた「藁こずみ大会」では、中国雲南省の農民がゲストとして招かれてワラ塚作りを披露したが、できあがったものは大分県や茨城県などで行われているものとそっくりなことが、写真で紹介されている。要するにワラ塚とは1500年以上前にこの国で実現していたグローバル化の生きた証というわけである。
 本書を読むと、日本人はグローバル化という名目で、よその国へ金もうけに出かけているが、実は1500年以上前のグローバル化の恩恵を今もって継承していることが実感される。
 現代のグローバル化は果たして1500年の生命力を持ちうるのだろうか?

  • 240頁 A5判変並製
  • 4-88344-130-X
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/12発行
わらうだいじゃやま

「よいさ よいやさ じゃじゃんこ じゃん!」。旧炭地・大牟田の夏祭り「大蛇山」を描いた元気な絵本。

  • A4判上製34頁カラー
  • 4-88344-042-7
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1999/06/01発行
わたしにあてたはがき絵

季節のうつろいから食卓の彩り、四季のたより、そして愛する家族へ。ガンを克服した作者が、何気ない日常生活の一コマを、生かされることへの感謝を込めて描いた、はがきの数々。

  • 168頁 B5判並製カラー
  • 4-88344-126-1
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/09/31発行
ローン・ハート・マウンテン ハート・マウンテン 日系人 強制 収容所 エステル 石郷 古川暢朗 アカデミー賞 待ちわびる日々
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ローン・ハート・マウンテン
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ローン・ハート・マウンテン

「パール・ハーバー」に対する報復として、日系人11万人が強制収容所に抑留された。収容から50年、アメリカを内部から静かに告発する本書は、紆余曲折を経て、日本と日本人にとっても両刃の剣として甦る。──もう一つのアメリカ。アカデミー賞受賞作品「待ちわびる日々」原作。

書評

アメリカの収容所に入れられた日本人たち

「朝日新聞」天声人語

 さきの大戦中に、米国は、日本人の血が流れているものを強制収容所に入れた。そして一昨年、それについて大統領が謝罪し、補償を始めた。そのことは、広く知られている。
 あまり知られていないことだが、収容所に入った白人の米国人女性が、その生活を何百枚もの絵に描き詳細な文につづっていた。日系二世、アーサー・シゲハル・石郷さんの妻エステルさんである。その絵と文をまとめた本が訳された。古川暢朗訳『ローン・ハート・マウンテン』だ。
 エステルさんは、夫とともに収容所に赴いた。最初はカリフォルニア州ポモナ、ついでワイオミング州ハート・マウンテン。三年四ヶ月に及ぶ、苦しい日夜である。一家族が一室の原則。水道も便所も食堂も離れた棟にある。老人や幼児には大変な生活だ。
 女性用便所の前にはドアがない。男性用には横の仕切りもない。男性の浴室はシャワーだけだ。人々は板を拾い集め、シャワーの下に湯船を組み立てる。絵が伝える情景が生々しい。音楽や演劇の好きな人々がショーを開く。特技を生かした勉強のクラスもできる。
 医療経験者が、にわか仕立ての病院もつくった。肩を寄せ、助け合う生活を線画が的確にとらえている。この政策は間違いだとエステルさんは確信していた。当時、一世には市民権を得るすべはなかった。「十年もすればみんな死んでしまう」と当局者が軽く言う。
 戦争が終わる。収容所を去る日、凍った土から亀を掘り出して荷物に入れる子がいた。石郷夫妻はカリフォルニア州にもどる。夫は五七年に、妻は九〇年に亡くなった。「敵意と危険の中に置かれた時、愛する者と一緒にいたいとだれでも思う」とエステルさんは言っていた。
「山々と海原が幾重にも横たわってお前たちを隔てようとも、この空のもと、大地の上では、人間は皆同じなのだ」と本は結ばれている。

収容生活通して描かれた人間への信頼感

石川 好
作家

 北米大陸への日本人移民上、最大の事件は、1941年12月に開始された日米戦争と、それによってもたらされた、日本人および日系米人の強制収容であろう。その強制収容より今年は数えて50年に当たり、去る2月全米の日系人は、大々的にこれを取り上げ、各地で記念(?)式典が催された。
 アメリカに生まれながら、正当な法的手続きを経ずして収容された日系米人と、祖国日本と生活しているアメリカが戦争に突入するという一大事に出合った日本人移民の物語は、古くは藤島泰輔が『忠誠登録』で、そして山崎豊子が『二つの祖国』で、また日本人写真家の宮武東洋の写真集でなど、これまでにも多く紹介されてきた。
 全米10カ所に収容された日本人および日系米人は合わせて11万強。この中には、同じ東洋人の顔をしていたのでは日本人と間違えられるおそれがある。それなら収容されていた方が安全だと、韓国人で日本語の話せる人も入っていたとの話もあるが、全ては日本人及び日系米人であると思われていた。
 ところが、ここに紹介する著書の作者エステル・石郷さんは、れっきとした白人女性である。主人が日系二世であったため、ラストネームが石郷だったにすぎない。1920年代当時カリフォルニア州では異人種間の結婚が州法で認められていなかったので、2世の石郷氏、著者エステルさんはメキシコのティワナにまで出かけ結婚している。そうしたことまでして結婚した二人であるがゆえにか、日米開戦となり、主人の石郷氏が強制収容された時、エステルさんも(アメリカ人女性である彼女はその必要はなかったのだが)収容所に同行する決意をする。かくして、ここに、白人女性で、唯一日系人強制収容所を体験することになる人間が現われることになる。
 これだけの話なら、歴史は彼女の存在を世に伝えることはなかったはずだが、エステルさんは絵描きであったため、アメリカ史上、まれなこの体験を、絵筆にして残しておいたのである。それが、今回、刊行された、本書である。
 エステルさん夫婦が収容されたのはワイオミング州のハートマウンテン収容所。夏は暑く、冬は寒い砂漠地帯で、エステルさんのスケッチは見事なまでに、ワイオミングの荒涼とした風景を描き、同時にそれに収容された人々の日常生活のディテールをも描き込んで、資料的な価値も十二分にある。収容された人々の生活をこれほどよく描いたものは他になく、著者の人間に対する信頼感が伝わってくる。告発の書である以上に、これは画家の作品集となっている。彼女をテーマにした映画で日系3世の監督スティーブン・岡崎がアカデミー賞を受賞したことは記憶に新しいだろう。

  • A4変型並製138頁
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1992/08/15発行
9784883442171
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結いの村
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結いの村

九州の桃源郷と呼ばれる宮崎県西米良村。綾なす糸に導かれ、この村に嫁いできた女性たちとその夫、三十八組の夫婦の肖像。「小河氏の写真集はこの村で暮らすカップルを通して、過去と未来をつないでいる」(橋口譲二氏)

  • A4判変型上製88頁(モノクロ)
  • 978-4-88344-217-1
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2012/08/11発行
モンゴルの黒い髪 バーサンスレン・ボロルマー 石風社 長野ヒデ子 モンゴル ゲル 遊牧民 伝説 絵本
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モンゴルの黒い髪
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モンゴルの黒い髪

敵は邪悪な4羽のカラス。武器もない女たちが、草原と家族をまもった……モンゴルの伝統が彩り豊かに描かれた作者の絵本第一作。「彩色の美しさ。画面構成の巧みさ。伝説への愛。高い水準の作品です」(内田麟太郎氏)。第19回国民文化祭上陽町絵本大会グランプリ受賞、文部科学大臣奨励賞作

  • A4判上製 28頁
  • 4-88344-115-6
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 2004/11/13発行
木喰 弥勒 祐徳 石風社 絵本 江戸 飢饉 上人
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木喰さん
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木喰さん

きっと、心が笑い出す
飢饉がつづいていた江戸時代、日本全国を旅しながら、願いをこめて、まぁるく微笑んだ仏像をほりつづけた木喰上人をえがく、初めての絵本。

書評

生まれ変わりではないか

井口幸久
西日本新聞記者

 木喰(もくじき)は江戸時代の僧。二十二歳で仏門に入り、四十五歳で木食戒(かい)を授けられた。木食戒は、凡人には信じ難いほど厳しい。肉食を絶ち、火を通したものを食べてはならず、米、麦など五穀を食べてもいけない。着物は一枚、横になって寝ることも許されない。山岳を回り、仏を刻み、梵字(ぼんじ)を学び……。
 九十三歳で亡くなるまで、木喰は諸国を回って千体の仏像を刻んだと言われる。その後、仏たちは忘れられ、子供の遊び道具となり、盗まれたものもある。民芸運動の柳宗悦が再評価し、今日、円空と並び称され親しまれている。
 弥勒祐徳さん=宮崎県西都市在住=は一九一九年生まれ。中国大陸での戦火が拡大し、不況は深刻だった。赤貧洗う暮らしの中で中学に進学したが、授業料が滞り、登校停止を言い渡される。それを両親に言い出せぬ弥勒少年は、日向国分寺で時間をつぶした。そこには最大の木喰仏、五智如来が鎮座していた。消失した日向国分寺の再建のため、木喰は十年間この地に留まり、多くの仏像を残している。
「彫刻のまねごとですな。木の枝を拾うては、小刀で刻んじょりました」
 戦後、中学校の美術教師となった。一貫して絵を描き続け今日に至る。定年退職してからは木喰の辿った道を歩き木喰仏を描いた。その数は数千枚に上る。
「木喰仏は何度描いても同じものが描けませんな。つまり、生きちょるということですな」
 直線的な円空仏に対して木喰仏は丸い姿。円は角が立たず序列も生じず、すべての人を包むのだと弥勒さんは見る。昨年まで自宅で寝たきりの妻を介護しながら精力的に絵を描いた。そのひた向きな生き方に対して西都市は市民栄誉賞を贈っている。行政が個人の生き方を表彰するというのは異例中の異例。人々がいかに彼を愛しているかが、知れようというものだ。
「自分は復活する」と木喰は予言した。弥勒さんは八十九歳にして初の絵本である。数十枚の油彩で綴った木喰の生涯を眺めると、弥勒さんその人が木喰の生まれ変わりではないか──。そんな気持ちにさせられる。

  • A4変型上製36頁
  • 978-4-88344-159-4
  • 定価:本体価格1400円+税
  • 2008/03/01発行
メダリスト 金メダル ボクシング 村田諒太 清水聡 ロンドン 五輪 村田 諒太 高尾啓介 石風社 写真集 
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メダリストへの道
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メダリストへの道

四半世紀以上に亘り、アマチュアボクシングを追い続けてきた写真家が、ロンドン五輪ボクシング代表選手の勇姿を活写した写真集。予選で惜しくも敗れた選手やかつての五輪代表選手の若き日の勇姿、五輪年表も併せて掲載!

  • B5判並製88頁(うちカラー46頁)
  • 978-4-88344-216-4
  • 定価:本体価格1900円+税
  • 2012/07/28発行
明治博多往来図会 祝部至善画文集 祝部 至善 明治 博多 画 石風社 西日本文化協会 日野文雄
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明治博多往来図会
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明治博多往来図会

驚嘆すべき記憶力と細密な画で再現される明治期の博多。往来で商う物売り達の声、町のざわめきの中、庶民の暮らしと風俗がいま、甦る。豪華本。

書評

「よい時代に生まれた幸せそのものだった」

服部幸雄
千葉大学名誉教授

 鉋屑(かんなくず)の三角帽子、中国服姿の飴屋がチータラチータラと紙ラッパを吹き立てて街へやってくる。手に手に錆包丁や古鍋を持った子どもたちが集まってくる。「チータラ飴」はお金で売らず、古金物と交換するのだった。
 不思議な魅力に富んだ画文集である。
 最初に色彩のある絵を見た。著者の絵に寄せた短いエッセイを読みながら、つくづく絵に見入った。次に、後にある少し長文のエッセイを読み、もう一度戻って前の絵を眺めた。おもしろい風俗、珍しい風俗、懐かしい風俗や生業が次々と現われて展開する。ここには明治という時代が生きている。人々が人間らしく、心豊かに、やさしく暮らしている。
 昭和十年代に名古屋で育った私は昔の博多の町をまるで知らない。それなのに、祝部至善の絵の世界は妙に親しく懐かしく思われる。
 祝部至善(一八八二─一九七四)は生粋の博多っ子である。明治・大正・昭和の三代にわたって博多の町を愛して生きた人だった。
 幼児から絵が好きで、野方一徳斎、太田一嘯、松岡映丘について学んだ。その彼が博多の風俗を描き始めたのは七十歳を越した昭和二十八年以後、九十二歳で亡くなるまで描き続けた。
 本書は明治時代の博多の風俗を描いた数々の絵と、それらに添えられたエッセイを集めて編集したものである。
 原画は東京国立博物館収蔵で昭和二十八年から三十年代にかけて制作されたものの全図と、雑誌「西日本文化」の創刊号(昭和三十七年)から百号(昭和四十九年)まで十余年にわたり、毎号の表紙を飾った絵の中から選んだものである。著者が幼少の頃に博多の町で見た光景を思い浮かべつつ、眼前の実景写生するように細密に描写している。人々の髪型、化粧、衣服、帯の結び方、持ち物などが実にていねいに描いてある。
 絵には、季節があり詩がある。いろんな人が登場する。門付けの芸人、曲独楽、覗き機関(からくり)、猿回しなど江戸東京をはじめ他の都市でも見かけたものが、博多でも行われていた。博多の街だけを往来した物売りもたくさんある。現代ではとても考えられない不思議な品物を売り歩く商人たちは、おもしろい触れ声を聞かせて、てくてくと歩いた。至善は「明治のよさ」に懐かしさを覚え、変わっていく街の様子、特有の行事、日用の道具、衣装や化粧、子供のあそび、暖かい人の情、博多言葉などを、絵と文でこまやかに描き出す。
 時間がゆっくりと流れている。時代の空気が匂うようだ。至善が言うとおり明治の日本は「いい時代」だったのに違いない。彼は「よい時代に生まれた幸せそのものだった」と、ふと感懐を洩らす。それが完全になくなった戦後十年を過ぎたころ、至善は記憶の中に生きている博多の街の風景を一つ一つ丹念に描き始めた。人々の記憶から忘れ去られるのを愛惜する心がある。時代は変わったのだ。私たちの考えはもはや「時代遅れ」なのだという老いの身の自覚もあり、諦めの気持ちもある。しかし、至善は描き続けた。
 絵にも文にも郷愁だけでなく、一抹の哀愁が漂う。とくに印象的な絵と文を一つだけあげるとすれば、「ごりょんさん」が毛布を引き回してまとった姿に寄せる至善の思い入れの深さである。この絵に限らず、彼が描いた女性たちはみなかわいらしく美しい。
 すべてに人間的だった明治。二十一世紀のいま、私は取り戻すことのできない、そして多分に美化された「明治のよさ」に憧れ、幻想を抱く。祝部至善が愛してやまなかったこの世界は、現代人に向かって何が本当に美しいのかを教えているともとれる。この本は、たくまずして不毛の現代を顧みる文明論的な内容を含んでいる点で、単に「昔はよかった」式に老人の郷愁を誘うばかりではなく、広い層の読者の共感を得ると思う。地方都市における明治風俗史の記録としての価値もある。
 巻末に、編者代表のフォトエッセイスト日野文雄による要を得た解説が付いている。

庶民の風俗、生き生きと

錦織亮介
北九州市立大教授・日本仏教美術史

 この度西日本文化協会より祝部至善氏の『明治博多往来図会』が刊行されました。東京国立博物館所蔵の51点の絵画と、雑誌「西日本文化」掲載の表紙画と解説を中心に編集されています。
 この本には明治・大正の博多の庶民の生活風景が生き生きと描かれています。人々の話し声、物売りのふれ声、街の喧騒さえ聞こえてくるようです。これらの市井の風俗は今はもう見ることができません。博多が近代都市になる過程で失われたものです。それだけに懐かしさにあふれています。

 祝部氏は、明治26(1883)年11歳のとき、博多の浮世絵師野方一得斎(のがたいっとくさい)について絵を学びはじめ、また同じ頃に矢田一嘯(やだいっしょう)にも油絵を学んでいます。しかし本格的に絵を学んだのは、櫛田神社社司の祝部家に入夫婚姻した後、大正7(1918)年36歳で上京して松岡映丘に師事してからです。同12(23)年関東大震災のため帰郷するまでの6年間、映丘のもとで新しい大和絵を学んでいます。
 博多に戻ってからは、家業の櫛田裁縫専門学校校長をつとめる傍ら、福岡県展などの地元の公募展への出陳のほか、新聞雑誌にも多くの挿絵を描くなど、作画活動を続けていました。
 今日では、祝部氏と言えば明治の風俗画を思い起こしますが、祝部氏が博多の古い風俗を描きはじめたのは70歳ごろ(昭和28〈53〉年ごろ)からと思われます。ただ、風俗画を描きはじめた動機については、はっきりとは述べていません。
 本書の編集者日野文雄氏は、地域差はあるが触れ売りや門付けの姿が街から消え始めたのが昭和28年から30年ごろであり、祝部氏にとっても明治が終りを遂げた時期ではなかったか。内なる明治の終焉を感じた時、明治を懐かしむだけではなく、明治の博多を記録しておかねばという決意から、71歳の翁は風俗画の筆を執ったのではないかと推測しています。これを裏付ける事実は、祝部氏が明治・大正博多風俗図を2セット描き、1セットは手元に置き(現在は福岡市博物館の所蔵)、もう1セットを昭和38(63)年に東京国立博物館に寄贈していることです。これは、自分が描いた風俗画が、確実に後世に伝えられることを意図したものと思われます。
 いま一つのきっかけは、鏑木清方が昭和23(48)年の第4回日展に出品した「朝夕安居(ちょうせきあんご)」図です。明治20年ごろの東京の下町風景を絵巻物風に描いたもので、失われ行く東京の下町風景が詩情豊かに描かれ、おおいに評判になった作品です。氏は画作の動機を「今私がしきりと画きたいもの、またかいておきたいものは、昭和なかばまで続いて来た市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないように思はれるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならなかった」と述べています。また清方は、展覧会のための大画面の作品とは違った、卓上で眺めて楽しむ絵巻、画冊などの卓上芸術の支持者でもありました。
 祝部氏は、この清方の態度に共感するところが多く、博多版の風俗画制作を思い立つきっかけの一つも、この「朝夕安居」図にあったと私は考えています。祝部氏の風俗画は、作品の形式、画題、画風のすべてが、師の映丘より清方に、そしてこの図に近いことに驚きます。両者の違いは、清方が詩情を主にしたのに対し、祝部氏は風俗の正確な記録に重きを置き、各図に解説を付した点でしょう。

 祝部氏はこの風俗画を描き上げたあと、ありし日の福博の往還の様子をさらにこまかく「西日本文化」の表紙画に描きました。昭和37(62)年から氏が没する49(74)年まで、100号にわたっています。各号に付した解説文も興味深く、博多の庶民の暮らしが見事に回想され、活写されています。侍が曳馬の訓練と称してかき山の列に馬を乗り入れていた時代があったことなど、誰も知らなかったことでしょう。また画中の女性の装束、帯の結び方、髪形などの詳細な記述は、さすが裁縫学校長ならではの観察とおもわれます。
 祝部氏は、日本画のほかに、和裁はもちろん、博多おきあげ(押し絵)技術者、茶道南坊流会員、郷土研究会会員、弓道範士など多芸多忙の人でもありました。この出版が祝部氏の再評価につながればと願います。

明治の博多 日常を活写

松尾孝司
編集委員

 明治という時代の暮らし、往来のにぎわいが伝わってくる。
「あぶってかもは、よござっしょう」
 これはスズメダイを売りに歩く物売りのふれ声だ。「炙って咬んで食べる魚」という意味がある。博多の味「おきうと」売りは、
「おきうとワイ、とワイ、きうとワイ」
とやってきた。辻芸人、アメ売り、とうがらし売り……街は人と人との出会いの場だった。

時事を織り込み
 この秋、刊行された日本画家祝部至善さん(一八八二─一九七四年)の画文集「明治博多往来図会」には、江戸時代のなごりが残ったそんな明治の博多が描かれている。
 博多の井戸水は塩分が多いため、現在、福岡県庁のある千代松原の大井戸からくんで、たるに入れて、車力(大八車)に積まれて売られていた。街でバイオリンを弾く「艶歌師」の姿がモダンな時代の到来を告げる。人力車に乗って壮士芝居をPRする書生風の男性は、もしかしたら川上音二郎一座の役者かもしれない。結婚して初めて里帰りする花嫁の姿が初々しい。
 時事を題材にした絵もある。一八九四年、日清戦争・旅順港陥落を伝える、福岡日日新聞の号外を配る男。頭の鉢巻きに小さな国旗を挟み、腰には鈴。戦勝に高揚する時代の気分がよく伝わってくる。てんびん棒にかついで小包を配っている人や伝染病患者搬送の現場を伝える絵もある。
 祝部さんの視点は、ニュース感覚にあふれている。江戸の浮世絵師が博多にいたら、題材になったかもしれない庶民の生活の現場を鮮やかに描き出している。今の新聞ならば、さしずめ生活感を伝える「社会面」のような世界だろう。

風俗をリアルに
 祝部さんは、福岡市博多区の櫛田神社前にあった櫛田裁縫専攻学校の校長を務めた。祝部家は代々、櫛田神社の神職の家だったが、実家は中洲の中島町。この町からは独立美術協会で活躍した小島善三郎や「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭らが出ている。商人の町・博多から川を隔てたこの地域は文化の香りが強かった、と画文集の「解説」を書いた日野文雄さん(写真家)。
 町絵師野方一得斎に日本画を習い、博多人形師の指導に当たった矢田一嘯(いっしょう)に油絵を学んだ。上京後は、大和絵の松岡映丘に師事する傍ら、洋画彫刻塾でデッサンに励み、ヌードデッサンの画塾にも行った。この時代に基礎を築いたデッサン力が、細い筆の線で明治の風俗をリアルに描く素地となった。和洋を問わず絵を極めようとするおう盛な好奇心は図絵の豊かなバラエティーに直結しているだろう。
 収められたエッセー風の文章も、貴重な証言だ。
 たとえば七月の博多山笠。現在の追い山は、前を走る山笠がスタートしたあと、一定の時間を置いて後続の山笠が境内の「清道」の旗を目指してスタートする。ところが、明治二十三年までは、前を走る山笠が神社から東へ五百メートルほど離れた東長寺の前まで走ってからスタートを切っていた、と書き残している。「追いつけ追い越せ」と、むやみやたらと無理なスピード競争はしていなかったという記録である。

「わが町を残す」
 収録された絵は、一九五三年から十年足らずの間に描かれた彩色画が五十二点と、西日本文化協会の機関誌「西日本文化」の表紙のために描いたモノクロの作品約百点。
 五〇年代は、福岡大空襲後の焼け野原から少しずつ復興が進んでいた時代。が、老舗の商家がほとんど焼失し、博多の町には、板付米軍基地の兵の姿が目立った。日本社会全体が急速に欧米化していった時代でもあった。祝部さんにとっては、古里が消えてしまった。他人の町になってしまったのだ。
 絵には、「わが町・博多を残さねばならない」という強い決意がにじんでいる。遠い所へ去ってしまった「博多」を呼び戻そうという意地がひしひしと伝わってくる。祝部さんは、博多を語る会の会員としても博多人形師の小島与一さんらとともに「博多」を語り継ぐ活動を続けた。
 博多の町は、六六年の町界町名変更で、長い時間をかけて形成された地域コミュニティーが分断された。この本は、失われた博多を見つめることで、変わり続ける博多を問い直す機会を与えてくれる。

雑踏の声が聞こえてくる

矢野寛治
コピーライター

 戦後の団塊としては、いささか古いことにも知悉しているつもりでありしが、頁を繰る毎に、私の知識なんぞは、おととい来やがれの心境にさせられた。
 物心ついたころに、往来で目の当たりにしたのは、せいぜい虚無僧、富山の薬売り、傷痍軍人さん、あさりシジミ売り、竹ざお売り、たくあん売り、アイスボンボン売り、こうもり傘ナベ釜修繕屋、ポンポン菓子屋、山伏、豆腐屋、占い師、新聞少年、紙芝居屋のおじさん、正月の獅子舞い、ああそういえば時々新内流しくらいのもので、この図会を見ますと、いやはや明治の博多往来は、多種多様。
 旅順口陥落の号外配りは、鉢巻に小国旗を二本挿している。小包郵便配達の臀部は張って大きく、踏み切り番の乳飲み子を背負ったお母さんの乳房は胸からポロリと露わになっている。高校生は弊衣破帽、女専は紫袴、警察と兵隊の衣装は妙に立派。されども、最も興味を惹くのは行商人と物売り、門付けや庶民のいでたちである。いなせ有り、粋あり、概してみな粗衣だが、どことなくユーモラスで活気がある。祝部至善さんの絵を見ていると、明治の雑踏の音と声が聞こえてくる。

  • A4判上製175頁
  • 4-88344-102-4
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 2003/09/15発行
街・物語 街物語 寺井谷子 石風社 葦書房 現代俳句 俳句 自鳴鐘 北九州市 毎日新聞 写真
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街・物語
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¥0円
街・物語

現代俳句と写真のデスマッチ。俳句は、言葉を拒否する写真にどう切り込むか……。「ひらひらと蝶を零して神の鬱」。

  • 120頁四六判並製
  • 978-4-88344-195-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2011/06/30発行
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