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悲劇の豪商伊藤小左衛門 武野要子 伊藤 小左衛門 博多 石風社 武野 要子 商人 豪商 商都 朝鮮 小屋瀬 近松 歌舞伎 アジア 中世 黒田 藩 禁制 
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悲劇の豪商 伊藤小左衛門
zeikomi
¥0円
悲劇の豪商 伊藤小左衛門

東アジアの海を駈けめぐった中世博多商人の血を受け継ぎ、黒田の御用商人として近世随一の豪商にのぼりつめながら、禁制を破った朝鮮への武器密輸にて処刑。鎖国に揺れる西国にあって、海を目指して歴史から消えた、最後の博多商人の生涯

  • 227頁 四六判並製
  • 4-88344-046-x
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1999/11/0発行
HIGAN 島田有子 写真 熊本 島田美術館 島田有子写真集 彼岸 石風社 泥 木村伊兵衛 普賢岳 埋立地 
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HIGAN
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¥0円
HIGAN

木村伊兵衛写真賞候補作


泥が乾き、風が吹き、鳥が騒ぐ──。普賢岳を対岸に見る埋立地。そこで展開された生と死のアンビバレントな世界に息をのみ、魅せられ、撮り続けた黙示録的風景。(解説・浜田知明)。木村伊兵衛写真賞候補作。

書評

残酷なまでに美しく、深い祈りが漂う

五木寛之
作家

 最近の出版物の氾濫は空恐ろしいくらいのものだ。よくもこれほどの本が世の中にあふれかえっているものだと、思わずため息が出てしまう。
 とはいうものの、自分自身もその大量消費現象の一翼を担って、日々無駄な活字を送り出している一人なのだから、ときには言いようもない自己嫌悪にかられたりするのも当然だろう。
 しかし、そんな洪水のような印刷物の奔流のなかにも、思わずふと目を惹かれ、なにげなくページをめくっているうちに、つい時のたつのを忘れてしまうといった本もあるというのは、有難いことでもあり、また一方で困惑する気分もどこかにないわけではない。困惑、というのは勝手な言い草だが、「こんないい本が隠れているんだから、やっぱり数限りない出版物にも根気よく目を通さなきゃならんのだよなあ」といった気持ちと説明すればわかっていただけるだろうか。本当のところは、もう本は沢山、と、お遍路にでも出て山や川を眺めながら歩き続けたいような心境なのだ。
 さて、このところ縁あって手にとらせてもらった本のなかで、ことに忘れがたい鮮明な印象が心に残ったのは、一冊の写真集だった。
『HIGAN』(島田有子写真集)という大判の本がそれである。
 私は写真に関しては素人だが、この本のページをなにげなく開いたとき、ああ、と息がとまるような感じがした。こんなふうに写真を見るという経験は何年ぶりだろう。あまりにも日々の暮しのなかに写真が氾濫しすぎていて、ほとんど不感性になってしまっている自分の目の乾いたウロコが、一瞬、音を立ててばらばら落ちるような感じだった。
 この写真集はすごい。どうすごいかは、文章におき換えることが断じて不可能であるという点においてすごいのである。それはこの写真集を自分でさがし出して、そして自分の目で確かめてもらえばはっきりするだろう。それ以外の書評だの、解説だの、ブックレビューだのといったかたちでは、決して伝わらないすごさなのだ。定価八〇〇〇円のこの写真集が、私にとっては八〇万円でも安いと感じられたのだから。
 普賢岳をはるかにのぞむ人工の埋立地を、この写真家は「私の彼岸」と感じたという。彼岸は此岸であり、地獄はそのまま浄土でもある。この写真集の作品には、どれも残酷なまでに美しく、同時にどこか深い祈りの感覚が漂っているようだ。すごい作品を見た、と思った。

虚実一如の世界

光岡明
作家

 私は比較的活字を読みなれているだろう。読みながら立ち止まって考えこむことはあ っても、理解できればどんどん先へ進む。しかしこの島田有子写真集『HIGAN』のページを繰りながら、次第にその手が遅くなり、間遠になって、三分の二ぐらいのところで止まってしまうという初めての経験をした。残り三分の一は日を改めて見直したのである。
 そのとき私は写真を見ているのは確かに私だが、同時に明らかに写真から見返されており、見ている私と見返されている私とが一体となって、どこかの宙空で浮遊している、と思ったのである。これは後からの解釈であって、その時は放心していたのに違いない。
 写されているのは長崎県の普賢岳を遠くに望む有明海の熊本側にある埋め立て地である。海はほとんど見えない。動くものと言えば、風にそよぐ自生した雑草、群れる鳥たち、泥を吐く埋め立てパイプ、バスで、八割までが埋め立て地全景である。そこに人影はなく、櫓、柵、電柱、クレーン、大型ユンボなど、工事用機材は労働時間外の静止のなかにある。全景のほとんどが夕方であり、無音の世界である。埋め立て地はまだ水を貯めていたり、どろりと液状のものから、乾いて団子状の塊の連続から砂塵を巻き上げんばかりのものまである。こう書き連ねても当然そうあるであろうなんの変哲もない埋め立て地の風景である。
 その変哲もない風景が島田有子によって切り取られると、なぜ人を宙空に浮遊させるのだろうか。
 私たちは新古今和歌集の「三夕」の和歌が持つ「秋の夕暮」観の残滓を引きずっている。書くまでもないことだろうが「三夕」とは「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行」「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂連」「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家」の和歌
のことだ。この悲哀、感傷、寂寥、寂寞の感覚は、「故郷(ふるさと)」「旅愁」「赤とんぼ」「夕焼小焼」の童謡、唱歌にまでつながり、私たち日本人の心情の基礎を作ってきた。しかしこの『HIGAN』にはその残滓がまったくない。あるのは夕日
に直面する島田有子の伝統から切れた孤絶感である。島田有子はあとがきで「HIGAN」は「彼岸」だと書いている。島田有子に仏教者的感性があるかどうか、私はそこまで確かめていないが、「彼岸」だとしても「此岸」は島田有子にあるのだろうか。
 島田有子にとって埋め立て地は「此岸」の一角であるだろう。開発の名のもとに海が埋め立てられ、相貌を変えていく。道路が作られ、上下水道が引かれ、人が住む街ができることはわかる。生態系、気象系、おのずからあった眺望を押し潰して、新しい「人の世」が自然にとってかわってできるだろう。しかし人は人が作ったものを壊すことがある。あるいは放棄することがある。そのとき再び埋め立て地が現前しないか。現前しないとはだれも保証できない。きちんとした「此岸」はあるのだろうか。
 島田有子の「此岸」を見る眼は喜びや悲しみ、怒り、不安、あるいは批判からもほど遠い。伝統的な思考、感性から切れ、孤絶した地点で見る。だからこそ埋め立て地は埋め立て地の単独のことばを語り出す。そのことばを私は残念ながら文章にできない。しかし埋め立て地自身が語っているとわかるのである。その状態は外から見れば、多分茫然自失として見入っているだけのことだろう。そのとき私たちは宙空という虚の世界にいる。虚そのものは写真でもことばでも現せないが、実際は一種の擬似世界を作って、その照り返しがひとつの真実の世界となって写し出されるのだろう。もし『HIGAN』が仏教的色彩でこれほど力強く現した写真集はないと思う。

「三夕」の和歌と「HIGAN」

光岡明
作家

「夕焼け小焼けの赤とんぼ…」とか「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる…」と歌い継がれてきたように、夕暮れが持っているものさびしさ、もの悲しさ、泣きたいようなひとりぼっちの感情は、長く日本人全体の共有の財産だった。
 この共有財産化には、日本の和歌が果した役割が大きい。
 まず「古今集」が四季を確定し、つづいて「新古今集」がそれぞれの季の情趣を深めた。私たちは四季の変化はどんな太古のむかしでもあったことで、別に「古今集」や「新古今集」が「発見」したわけでもあるまい、と考えがちだが、四季があることとそれをはっきり意識することとは別物で、意識するにはことばの力を借らねばならないのである。そしてことばがもっとも精妙な力を発揮するのが「文学」である。例を引こう。
私たちは「秋の夕暮」について、「新古今集」の次の「三夕」の和歌を持っている。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行
さびしさは其の色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂蓮
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家
 どの和歌も人口に膾炙している。あるいはしていた、か。この「三夕」の歌は「共通の性質として、一方では従来の悲哀寂寥の余情を継承しているとともに、他方では、中世的世界観と仏教者的感性の深い刻印を帯び」るだけでなく、「いたずらな感傷や興味本位の趣向など
をいっさい排し、すべての装飾や色彩を取り去ったあとに残る物の背後に、ほとんど無に等しい物の背後に、宇宙そのものの広大さを感じさせる」「これば日本の夕暮の通念化されたコノテーションとして、永くわれわれの脳裡に刻みつけられた」(川本皓嗣「日本詩歌の伝統」岩波書店)■■ちなみにコノテーションとはことばに付帯する言外の意味で、直接事物を指示するデノテーションに対する。
 しかし、いつの時代、どこの地方にも熊本で言うモッコスがいるもので、江戸前期の俳人向井去来の弟子の風国が、わたしは夕暮れに悲哀感も寂寥感もありませんといって、夕暮れの元気のいい句を作ったところ、お師匠さんから「一端遊興騒動の内」と切り捨てられ、これは「一己の私」だと叱られている。
 明治時代になって、歌、句の一大革新運動が起こった。革命児正岡子規の出現である。子規は写生を重んじた。この私の文章の文脈で言えば、デノテーションの精密化である。そこでは写生する人の「一己の私」が大切にされた。風国も明治以降に生まれておれば、なにもお師匠さんから叱られることはなかったのである。いっぽうで歌や句の持つコノテーションはばらばらに分解されていった。先に書いた「夕焼け小焼けの赤とんぼ」や「夕焼け小焼けで日が暮れる」まで辛うじてまとまりを持っていたと言えようか。
 ここに島田有子写真集「HIGAN」がある。普賢岳を対岸に見る熊本市郊外の埋め立て地の風景写真集である。ここに見る夕暮れの風景(それだけではないが)は、「三夕」のコノテーションをわずかながらも引きずっている私に、実にさまざまなことを考えさせる。
 この写真集を見終わってすぐ気がつくことは、島田有子本人の孤絶感である。西行、寂蓮、定家にも孤絶感はあった。「古今集」を超える新しい歌を作るという営為は、いまでこそ観念の操作に過ぎないと顧みられないが、本人たちにとってはまさに孤絶の作業であったはずだ。しかしこの三人には自然を歌いつづけてきた日本の和歌の伝統があった。彼らの孤絶感には何度でも立ち返ることのできる根拠があった。島田有子にあるだろうか。
 「HIGAN」は「彼岸」だとあとがきで島田有子自身が書いている。だからと言って「仏教者的感性の深い刻印」があるか。深層心理ではあるかもしれないが、その「彼岸」はあくまで本人だけのものであろう。立ち返るべき根拠のない、「此岸」のない「彼岸」。
 これは地球が自壊を起こしているという予感なのではないか。確かに写真にはクレーンが写り、ブルドーザ
 ーの跡が残り、電柱が立っている。人の手が自然を変えつつあることがわかる。人間は理性(技術)を活発に使うことによって、自然と異和なものを作りつづける。その先にあるのは地球の崩壊だ。
 島田有子の孤絶感はここで「三夕」の三人と完全に違ってくる。自分自身も理性を使う人間として、島田有子自身もあとがきのように口ごもらざるを得ない。帯にあるように、まさに神も伝統もない、理性が行き着くであろう先の「黙示録」である。

  • 139頁 B4判変型上製カラー
  • 4-88344-045-1
  • 定価:本体価格8000円+税
  • 1999/06/30発行
東アジア 新時代 海図 朝日新聞 西部本社 社会部 グローバル アジア 経済 石風社
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東アジア
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¥0円
東アジア

グローバル・スタンダード(世界金融攻勢)を前にアジアは真実、危機に瀕しているのか? アジアの底流を読み、経済のみでなく、人々の日々の営みから、明日のアジアを展望する。

書評

下からの東アジア論

河村誠治
国際東アジア研究センター主任研究員

 本書は、主として、朝日新聞西部本社が一九九七年初めからつい最近まで同社新聞に掲載してきた東アジア現地ルポを加筆・編集したものである。その目的は、変化の激しい東アジアの「いま」を書き留め、新しい時代につなげたい、とある。第一線で活躍する記者たちの執筆だけあって、わが国を含めた現地(地域)の人々に焦点が当てられている。われわれ読者とも深くかかわる現実の問題が軽快な語り口で述べられており、全二六九ページは一気に読み終えられる。
 表題の「東アジア」は、「九州・西中国・沖縄と密接につながる身近な地域」で、「東シナ海や黄海に面した国・地域」であり、主たる対象国・地域として、日本、韓国、中国、台湾が挙げられている。大方の脈絡はこうである。
 東西冷戦時代に固く閉ざされ分断されていた黄海・東シナ海がすっかり開放され、地域住民の相互交流が拡大したが、他方で漁業、漁業資源、漁民の生活、経済水域の線引き、領土・領海問題などをめぐる激しい対立も生じている(第1章「荒れる二〇〇カイリ」)。ともあれ、その東アジアの国・地域を結びつけてきたのは、ハブ港湾、航路、海運業者、船員である(第2章「港と海運をめぐる攻防」)。黄海・東シナ海が狭くなった結果、密航から外国人労働者の就業のあり方までの新たな社会問題が日本、韓国、台湾に突きつけられるようになった(第3章「回流する外国人労働者」)。東アジアの文化・芸能・スポーツ界に生きる人々に目を当てれば、ハングリーな直向きさと向上心がよくわかる(第4章「クロスオーバー文化芸能」、第5章「越境するスポーツ」)。東アジアの多くの人々の心は、いま、夢と現実のはざまで大きく揺れている(第6章「漂泊するアジアの心」)。その対極にあるのがわが国の海上保安官たちであり、領海を守ろうという使命感と苦労は積もる一方である(第7章「第七管区海上保安本部」)。今後の東アジアの行方を占う上で、開発独裁型の経済成長が行きづまった韓国の動向はとくに目がはなせない(「危機の韓国経済報告(経済部編)」)。東アジアでの交流の姿をアジアで活躍の三氏に聞くと、エコノミストは直接投資が中国大陸だけに集中しないことを、女優は東アジアの違いを認めることを、歴史家は東アジア史に見られた都市間交流の復活を説いている(終章「新時代のアジア」)。
 私が編者であれば、とくに大切な終章は、外部の識者にゲタをあずけるようなことはせず、それまでの全8章をベースに結んだはずである。識者の意見が必要なら別章を設ければよい。実際、終章の識者の発言からは、交流の具体的姿がほとんど見えてこない。いくら東アジアのいまを「書き留め、新しい時代につなげたい」と言っても、一冊の著書である以上、また単なる新聞記事の寄せ集めと寄せ集めと誤解されぬためにも、脈絡をもっとはっきりすべきであったし、今日の東アジアを総括する自己主張があってしかるべきであった。
 そうだからと言って、本書を過小評価するわけにはいかない。最後になったが、他にはない本書の特長を四つ挙げておく。一、個々の記事が現実に忠実で、また普通の学術書にはない新鮮さがあり、多様な東アジアの方向性を探る上で有益である。二、わが国を東アジアの一員とし、東アジア域内からわが国の存在を見いだそうとしている。ちなみに、多くの経済統計(但し書き)では、経済発展段階の違いと称し、「日本を除く東アジア」と明記しているが、それは東アジアの独自性を否定し、環太平洋地域構想に加担する考えの表れである。三、経済成長や金融・通貨危機などの経済問題に偏ることなく、各種の社会問題を拾い上げている。それは、歴史、社会、風俗、習慣、文化などを重視していることの表れでもある。四、目指そうとするところは、開発独裁という「上からの東アジア論」ではなく、地域住民の視点から見た「下からの東アジア論」であり、ユニークである。

  • 四六判並製271頁
  • 4-88344-031-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1998/06/20発行
恨の海峡 恨 ハン 申鉉夏 日韓 朝鮮 近代史 半島 石風社 帚木蓬生
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恨の海峡
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¥0円
恨の海峡

時代や政治の荒波に翻弄され続ける日韓近代史を生きた一人の教師が、深い智恵をもって記した自伝。──醜くもなく美しくもなく

書評

「恨」の癒えるとき

帚木蓬生
作家

 著者は一九二八年、慶尚北道安東の寒村に生まれた。洛東江の支流沿いにある村は百戸ほどしかなく、大半が小作農だった。日本の土地収奪事業のために村民は貧しく、一日二食、粥か麺が主体で、それも春の始めには底をつき、男たちは松の皮をはがし、女たちは草の根を掘って食の糧としなければならなかった。年寄りと幼児は栄養失調で死んでいった。
 曾祖父が一台で築いていた著者の生家も、台所は火の車だった。両班(ヤンバン)の家筋ではないが、祖母と母は両班の出であり、家の中には凛とした雰囲気が漂っていた。四歳になると曾祖父から漢文の手ほどきを 受け、六歳のときにはもう漢文とハングルが読めるようになっていた。小学校は六キロ離れており、そこで初めて日本語教育に接する。村の子ども全部が学校に行けるわけではなかった。二、三年遅れで入学した子もいれば、学費が続かない子もいた。著者を慕っていた女の子は小学二年で学校をやめ、やがて家族とともに満州へ去っていった。
 小学校では、毎朝東に向かって皇居遙拝があり、行事のたびに「君が代」と「海行かば」を歌わされた。小学四年で朝鮮語の授業がなくなり、日本語のみが強要された。
 創氏改名の強制もいよいよひどく、実名のままでは進学もできない。曾祖父は悩んだ末に、本貫の地名をとり平山と創氏した。
 五年生の担任だった浅沼先生は長野県の農学校出身で、平山少年の学業にことの外厳しかった。「こんな成績で、お父さんに顔向けできるか」と著者の手を鞭で叩き、猛勉強させた。その激励にこたえて平山少年は十三倍の難関を突破し、大邱師範学校に合格する。村の小学校始まって以来の快挙で、もちろん卒業式では答辞を読んだ。
 師範学校には、全国から優秀な朝鮮人子弟が集まっていた。学費免除のうえ、月二十五円の官費が支給された。日本人の学友もいて、寮生活は軍隊さながらだった。著者はここで先輩たちの抗日運動の歴史を知る。布団の中でハングルの本を読み、民族意識に目覚めていく。「朝鮮歴史」が密かに回し読みされ、将来は植民地政策の先兵にならねばならない自分たちの危うい立場に苦悩する。
 一九四五年四月、学業の途中で郷里の小学校に配属される。戦争に駆り出される朝鮮人青年に、日本語を教えるための教育動員である。ガキ大将だった竹馬の友は独学で英語を学び、日本陸軍に志願して古里を出ていた。後に彼は南方の英軍俘虜収容所の監視兵となったが、それが仇でBC級戦犯に指名、遂に家族の許には戻ってこなかった。
 日本の敗戦とともに、著者は師範学校に向かい、祖国の解放を祝う級友と再会、互いに本名で名乗りあう。音楽担当の朝鮮人教諭は涙を流しながら、禁じられていた母国の曲をテノールで歌った。
 戦後、教壇に立つようになって、卓抜な教育者だった浅沼先生のことが思い出された。こんなとき先生であればどうするだろうかと、会えなくなった恩師に問いかけた。
 一九五〇年、朝鮮戦争が勃発。著者は担任の児童を引率し、安東駅頭で出征兵士を見送った。やがて自らも報道要員として現地召集される。山河を埋める彼我の死体。同族同士が血を流し合う惨劇は眼をおおうばかりだった。
 著者が初めて日本の土を踏んだのは一九六八年、京都の韓国中高校に赴任したときだ。アパートを借りようとして何度も断られ、差別を知る。ボクシングのテレビ中継で韓国人よりも日本人を応援する生徒たちに驚き、教師も生徒も母国語を話せないのに落胆する。僑胞たちの貧しさも予想以上のものだった。生徒たちに、朝鮮文化に対する誇りをもたせるにはどうしたらいいのか。著者は彼らと語らい、文化祭のための韓国歌曲や民謡を指導する。生徒たちは舞台の上で、父祖の地にはぐくまれた歌を高らかに口にした。
 翌年、浅沼先生の消息が判り、妻子を伴って信濃へ旅する。恩師は南方で戦死していた。霊前で韓国式に二拝の礼を上げ、著者はこう叫ぶ。「先生、朝鮮から平山が参りました。生きておられる先生にお目にかかれないのが、残念でなりません。朝鮮の教え子を代表して、ご冥福をお祈り申し上げます」
 さらに京都から福岡の韓国教育文化センターに転任。在日韓国人子女の民族教育と韓日の文化交流に腐心するなかで生れたのが、「一人の人間が動けば、文化は自ずと交流される」の信念である。自分自身が韓国文化そのものなのだと著者は自らにいいきかせ、「日本人に韓国を正しく知らせる」仕事に邁進する。
 在日十六年で著者はいったん韓国に帰り、定年まで教師として勤めあげた。現在は福岡にも居を構え、新たに韓日両国を行き来する毎日を送っている。
 身をもって現代朝鮮史の激動を生きぬき、日本をも知りつくした著者だけに、本書で紡がれるひと言ひと言が、読者の胸にやさしく沁み入ってくる。その根底に流れる調べは「恨」である。しかし「恨」は怨念でも復讐でもない。「実現されなかった心の祈願が、内部に沈殿し積もった情の固まり」であり、その裏には、決して望みを失わず、美しく調和のとれた世界を希求する強靱な精神がよこたわっている。
 死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥もないことを/葉群れにそよぐ風にも/私は心を痛めた。/星をうたう心で/すべての死にいくものを愛さねば/そして私に与えられた道を/歩んでいかねば。/今宵も星が風にこすられる。( 尹東柱『序詩』森田進訳)
 著者よりもひとまわり年長の尹東柱は、一九四五年二月十六日福岡刑務所で、誰にも看取られることなく有為な前途を断たれた。まさしく著者は詩人の遺志を継ぎ、彼が生き長らえていたならば辿ったであろう道を歩んだといえる。
 日韓を隔てる海峡に信頼の橋を架ける営みは、著者の人生が具現する「恨」のかたちに眼をこらし、耳を傾け、寄り添うところから始まるように、私には思える。

  • 四六判並製247頁
  • 4-88344-014-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1996/08/15発行
バテレン 布教 キリスト教 宗麟 豊後 加藤知弘 地中海学会賞 ザビエル ロドリゲス
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バテレンと宗麟の時代
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¥0円
バテレンと宗麟の時代

地中海学会賞・ロドリゲス通事賞受賞


戦国時代、それはキリスト教文明との熾烈な格闘の時代でもあった。アジアをめざす宣教師たちの野心が、豊後府内の地で大友宗麟の野望とスパークする。世界史的な視点で平易に描かれた戦国史

書評

異文化交流導いた人の出会い

阿蘇品保夫

「異文化交流の歴史には、偶然と人間関係が大きな役割を果す」と著者はいう。東へ向かったザビエルと、西へ向かったトルレスの出会い。ザビエルは日本の豊後にキリスト教の種を播き、トルレスはそれを育てた。しかし、この両人の働きには、さらに大友宗麟との出会いが必要であった。
 大分合同新聞に連載の「豊後と異国の物語」をまとめた本書は、「グローバルな歴史の流れと異文化の地域への伝わり方」を結びつけて考えるという世界史的視野で、地域と人をとらえているところに特色がある。
 宗麟が他の大名たちと異なったのは、ヨーロッパの物質文明である鉄砲・大砲にも彼らと同じく興味を示しながらも、他にさきがけてヨーロッパ精神文化に強い関心を示したことであり、その真剣さが宣教師たちの信頼を得たのであろう。しかし、彼は慎重であり、寄進や布教許可は与えても、改宗の意思は明らかにせず、禅宗にもかかわって宗麟と称する。彼が受洗しフランシスコを称するのは隠退後の天正六年のことである。
「私が再び大砲を求めますのは、海岸に住んで敵と境を接しているため、これが大いに必要なものだからです。私が領国を守り、これを繁栄させることができるなら、領内のデウスの会堂、パードレおよびキリシタンたち、ならびに当地に来るポルトガル人一同も繁栄するでしょう」
 宗麟が単純な好意から宣教師たちの活動を援助したというより、内外諸地域の動向を注意深く把握しながら、イエズス会布教活動をも彼の政略の一端として利用し、イエズス会もその意図を心得て動いたと考えるべきだと著者はみる。
 十六世紀後半は豊後国が日本の歴史の中で最も輝いた時代であった。中世以来の伝統を背負い、九州諸国の大半を抑え、日本のみならず「豊後の王」の名で海外まで知られた男が演出し、体現したものは、大航海時代の西欧世界と、国内統一を目前にした戦国期日本社会を巧みに汲み上げたさまざまな人々のエネルギーの輝きであったのである。

  • 四六版上製426頁
  • 4-88344-016-8
  • 定価:本体価格3000円+税
  • 1996/11/30発行
博多サツ番日記

B級事件から時代が見える!


3面記事から落ちこぼれたB級の事件・犯罪。サツ番記者が拾った博多の裏話。どこから読んでもおもしろく、やがてせつないB級事件簿

  • 四六判並製231頁
  • 定価:本体価格1200円+税
  • 1987/11/30発行
法の花ごころ 弁護士 女性 離婚 遺言 財産 親権 湯川久子 石風社
booktitle
法(のり)の花ごころ
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¥0円
法(のり)の花ごころ

これから結婚するひと、結婚しているけれど、一度は離婚も考えたひとへ。女性弁護士からの心のこもった知恵とアドバイス

  • 四六判並製285頁
  • 定価:本体価格1200円+税
  • 1990/05/10発行
年々去来の花 弁護士 手帖 湯川久子 石風社 女性 離婚 結婚 遺産 
booktitle
年々去来の花
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¥0円
年々去来の花

結婚・離婚・遺産相続……と、人間関係の修羅場を見つづけてきた著者が、能狂言に重ねつつ人間の愛憎劇を越えるための知恵を紡ぐ

  • 四六判上製211頁
  • 4-88344-004-4
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1995/05/21発行
日本人が見た'30年代のアフガン 尾崎三雄 アフガニスタン アフガン 農業 尾崎 三雄 日本人 昭和 明治 大正 写真 書簡 農夫 東大 農学部 カブール ジャララバッド カシミール
booktitle
日本人が見た'30年代のアフガン
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¥0円
日本人が見た’30年代のアフガン

王政アフガニスタンで尽力した日本人たち


1935年(昭和10年)、熱砂のアフガニスタンで農業指導に奔走した日本人がいた。一人の明治人とその妻が、苛酷な日常を通じて異文化と真摯に向き合い、日々の生活と内面の葛藤を綴った貴重な記録。写真多数。

書評

戦前日本アジア戦略の「布石」

布施裕之
編集委員

 ちょうど十五年前、アフガニスタンへ取材に行った際、地元の古老から「アフガンの低地部には日本のミカンのような果物がなる」という話を聞いた。その果物は、バザールに並ぶオレンジよりも小さく、皮の薄い柑橘類で、現地に伝わる話では、何十年も前に日本から種か苗木を取り寄せて育てたものだという。
 当時のアフガンはソ連軍の撤退が始まる直前で、現地入りした外国マスコミの回りには、「案内役」だの「地元住民」だのと称して、その実秘密警察にしか見えない怪しげな連中が取り巻いていた。だから、ミカンのことも、日本人記者の歓心を買うための「おとぎ話」だろうと高をくくって、本気にしなかった。
 ところが最近「日本人が見た‘30年代のアフガン」という本を読んで、この古老の話を突然、思い出した。戦前、アフガンで農業の技術指導をしていた日本人農業技師、故尾崎三雄氏の手紙や紀行、写真をまとめた本の中に、現地で「柑橘栽培」に取り組んでいる、というくだりを見つけたからである。
 尾崎氏は一九三五年(昭和十年)、勤務先の農林省の命でアフガンへ渡り、三年間にわたって、植林、灌漑、果樹栽培などの指導に当たった。「世界の最果て」への赴任だけに、子息によると、出発の際には「親兄弟と水盃の別れをして故郷を離れた」という。その尾崎氏が、アフガン各地の農業事情を視察した結果「最も望みあるもの」と見なしたのが、低地部・ジャララバードでの柑橘類の栽培だった。紀行や手紙からは、尾崎氏が、わざわざ地元種の標本を集めたり、日本から種子を送らせたり、現地の助手に調査を命じたりしていた様子がうかがえる。
 それにしても、この時期に日本からはるか辺境の南西アジアへ、外交官以外の人員が送られたというのは、それだけでも驚くに値する。なにしろ三五年と言えば、満州事変後の騒然とした時代で、翌年に二・二六事件、翌々年には盧溝橋事件が起きている。尾崎氏の派遣は、直接には三〇年のアフガンとの国交樹立を受けたものだが、その目的は果たしてありきたりの友好促進や人材交流にあったのだろうか。
 戦前の日本のアジア政策に詳しい山室信一・京大教授は、その背景には、英国とソ連がせめぎ合うこの地域に「人的布石」を打ち、「アジアへの影響力を扶植」するという戦略的な狙いがあったと指摘する。特に主眼がおかれたのは「対ソ包囲網の形成」で、それは三六年八月に決定された「帝国外交方針」が、「(ソ連に)隣接する欧州および亜細亜諸国ならびに回教諸民族」の「啓発に力(つと)むべし」と定めていることからも明らかだろいう。
 事実、山室教授によると、尾崎氏自身、帰国後の三九年、専門の農業問題とは別に「アフガンからソ連やイギリスなどの勢力を追放することが、日本がアジアの盟主としての地位を確立するために求められている」とする現地情勢報告を発表している。辺境の地に送られた農業技師は、少なくとも時の政府からみれば、アジア情報網の最前線としての使命をも担わされていたのである。
 日本のミカンがアフガンに移植されたという話の真偽は定かではない。現地で農業指導をしている国際協力事業団(JICA)でさえ「そんな話は聞いたことがない」と首をかしげるのだから、やはり怪しげな古老の「おとぎ話」に過ぎなかったのかもしれない。
 しかし、三〇年代にアフガンで行われた日本の農業指導が、当時の「アジア主義」の、スローガンにはとどまらない側面をかいま見せているのは間違いない。そして、現地情勢を正確にとらえた農業技師の紀行や手紙や写真の中に、戦前の日本人の戦略的な思考能力の高さをありありと思い浮かべるのである。

  • 312頁 四六判上製
  • 4-88344-100-8
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2003/08発行
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日本国憲法の平和主義
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日本国憲法の平和主義

戦争という武力紛争を、法的論理によって回避することは可能だろうか。法律実務家である弁護士が、日本国憲法の平和条項と東京裁判をもとに、戦争と平和について考えた。たとえば、戦争犯罪について、その賠償責任を敗戦国のみが一方的に負うことは、法的に正しいのか。

  • 四六版上製220頁
  • 978-4-88344-239-3
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2013/11/03発行
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