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小さな窓から

椋鳩十氏「かずよさんのこの詩集『小さな窓から』は、愛と命の清らかな、限りなく清らかな詩集だ。若い人も、大人も、老人も、心が美しく清められるにちがいない詩集だ。……かずよさんの作品は、人々に生きることへの希望を感じさせるとともに、生きることの意義をといかける作品でもある。」

  • B5変型上製106頁
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 1986/11/15発行
小さな愛情 軍嶋龍樹 石風社 画文集 障害 養護学校 三浦吉十
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小さな愛情
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小さな愛情

家族、友達、犬…障害をもちながらも、自分らしく、のびのびと心で描いた素朴な詩と画の世界。

  • 66頁 A4判変型上製カラー
  • 定価:本体価格3000円+税
  • 1995/05/28発行
タプティ詩篇_カバー
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タプティ詩篇 時量師舞う空に
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タプティ詩篇 時量師舞う空に

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タプティ詩篇 時量師舞う空に
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鸚鵡たちの知らない 朝焼染む密林の 風の窓を流れてゆく ヒトたち 詩という方法を問い、物語の時空へと侵入してゆく、ある螺旋の道。その問いとともに〈計測されてゆく存在の像〉が浮かび、旋回するホログラムの舞が始まる。 &lt …

  • 四六判上製 329頁
  • ISBN978-4-88344-260-7
  • 定価:本体価格2300円+税
  • 2016/01/30発行
身世打鈴 シンセタリョン 姜琪東 大山 姜 差別 在日 韓国 朝鮮 俳句 石風社 俳句集 パンチョッパリ
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身世打鈴(シンセタリョン)
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身世打鈴(シンセタリョン)

燕帰る在日われは銭湯へ──「本書はいわゆる〈句集〉ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いである。/考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句である」(本書あとがきより)

書評

折々のうた

大岡 信
詩人・評論家

  河豚の座の韓の悪口(あっこう)吾(あ)を知らず  姜琪東
『身世打鈴』(平九)所収。題名は身の上話の意味の韓国語。昭和十二年高知県生の韓国人。加藤楸邨に傾倒し「寒雷」同人となる。楸邨に最も信頼された門弟の一人。
 句はむろん在日韓国人として受けてきた屈辱の一こま。河豚に舌つづみをうちながら、韓国人がいるとも知らず韓国の悪口を言い合うありふれた日本人像。楸邨没後俳句への情熱も急速に冷え、思いたって句集二冊をまとめた中の一冊。

俳句で綴る「在日」の哀歓

姜琪東
俳人(自著を語る)

 在日韓国人が俳句という最も日本的な表現様式で己の生きざまを鮮烈に詠む。そのねじれの中に、その慟哭の中に、人間が存在する──『身世打鈴』の新聞広告のコピーである。「そのねじれ」とは、韓国人でありながら日本固有の文芸である俳句をつくることに対する私自身の複雑な心情をさしているのである。
「趣味は?」と訊かれて「俳句です」と答えると、たいていの人が驚いたような顔で私を見返す。口にこそ出しては言わないが「在日韓国人のあなたが、どうして?」という表情である。
 俳句を作るようになって二十六年。この間「よりによって、なぜ俳句なのか」という目に見えない詰問に取り囲まれてきた。先の広告文ではないが「最も日本的な表現様式である」俳句に深入りすることは、韓国人の魂を奪われることであり、民族的アイデンティティーを喪失することではないか、という自虐の念がいつも頭の片隅に潜在していた。

  ビール酌むにつぽん人の貌をして
  燕帰る在日われは銭湯へ
  草笛や韓の歌とは気づかれず

韓国人(朝鮮人)でありながら日本に生まれ、祖国の文化圏からへだたったまま■異国日本■の文化にどっぷり浸かって生きているのが〈在日〉なのである。日本のテレビを見、日本の新聞・雑誌を読み、年がら年中日本語の中で暮らしていて、それでも日本に同化しないで韓国人の矜持をたもちつづけることは、伝染病の病室に閉じこめられて感染するなと言われるようなものである。
 在日韓国人・朝鮮人社会では、日本に同化することをいさぎよしとしない風潮が根強く残っている。もしも在日の若い女性が日本の振り袖でも着ようものなら、一世の年寄りたちは「哀号!(アイゴウ)」と声を上げて嘆き、親のしつけが悪いと言ってののしることになるだろう。韓国人にとって日本への同化は屈服なのである。

  帰化せよと妻泣く夜の青葉木菟(あおばづく)
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒濤帰化は屈服と父の言

「なぜ俳句なのか」という設問にそろそろ結論を出さなければならない。在日をテーマとして書くとき、なぜ俳句でなければならないのか。私自身上手に説明できない。なぜ山に登るのかと問われるのと同じである。だが、詠むことで救われ励まされる私があり、俳句を通して新しい自分を発見することがあるのである。
 風土の中で人間性がつちかわれていくとき、その国の文化や慣習に感化されていくことは当然のなりゆきであろう。私が日本の俳句という詩形に巡り合ったこともまた同様である。そのことを日本社会への同化と非難するなら、私はその言葉を甘受する覚悟である。そもそも自分の思考形態が日本語で始まったことが、宿命の始まりなのである。

  迎火や路地の奥より身世打鈴  
  寒燈下母の哭くとき朝鮮語
  鳳仙花はじけて遠き父母のくに

 身世打鈴とは身の上話という意味である。韓国人は唄うように泣きながら、辛いことや悲しいことを延々と語る。泣き語ることで胸のうちを晴らすのである。
「本書はいわゆる■句集■ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いの記である」とあとがきに書いた。私が、俳句で在日の姿を綴るということは、俳句という名の短刀(どす)を逆手にとって日本人の胸元に突きつけることなのである。

  宿命や吾に国籍蚊に羽音
  韓の名は意地の砦よ冬銀河
  「恨(ハン)」と「怨(オン)」玄界灘に雪が降る

無限抱擁の優しさ

李 恢成
作家

 句集『身世打鈴』は、十七文字の中に凝縮された「在日」韓国人・朝鮮人の世界である。或いは、「在日」と「日本人」のはざまを生きる人間の情念が率直に告白されている精神世界だともいえるだろう。
 姜琪東氏のこの句から私は、氏が日本人の従来の俳句とはおのずと異なる境域に立っているのを感じたが、それは「身世打鈴」という、おおかたの日本人にはエキゾチックに響くかも知れないタイトルのせいでは勿論ない。この言葉にこめられた「恨」とか「怨」の感情領域が、日本語を活性化し異化しながら、その世界をおしひろげようとしているからに外ならない。こうした日本語は祝福されるべきものであろう。なぜならば、言語とは歴史の中で規範をこえ異域をひろげていく自己要求をもつものだから。まさにその意味でこの句集は、「在日」の生命力をバネにし、新境地に迫っているともいえる。
  河豚の座の毒も食らはむパンチョッパリ
 この一句には注記があり、
 「”パンチョッパリ“と嘲笑ふ者あり、それもよし。我は半日本人なり」とある。
 在日二世の、開き直った心境を披瀝したものであろう。「半日本人」であれば「半朝鮮人」でもあるわけだ が、こういう引き裂かれた人間の感覚を誰が笑いえようか。筆者もまた「在日百年」の歴史の落し子以外の何物でもない存在である。
  燕帰る在日われは銭湯へ
 この一句は、どう読みこまれるべきなのだろう。 徊趣味とか余裕派というたぐいのものではあるまい。これは、「在日」として生きる心を謳ったマニフェストなのだ。「銭湯へ」とは、平常心の表白であり、筆者が辿りついた心懐とみなされよう。「燕帰る」とはたんなる季語とはいえぬ政治的寓意をしのばせているものとも解される、鋭い季語だ。しかし、この句の本旨は、現実逃避におもむいてはいない。現実をありのままに受容し、あわてずうろたえず、むしろ楽しんでいこうとする自然体の心がにじんでいる。その澄んだ境地から「軽み」と「ユーモア」が感得できる質の高い作品となった。
 この句集は、個人史であるが同時に家族の形成と変容を詠みこんでいる。
  四十路より韓の名名のり盆支度
  帰化せよと妻泣く夜の青葉木莵
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒涛帰化は屈服と父の言
  韓の名はわが代までぞ魂祭
  孫生れなば 耶と名づけむ花木槿
 幾つかの句を任意にひろってみれば、この家族の肖像は「在日」の実態と深く結びつく。日本人を妻にもつ夫の両親は堅固な民族心の持主であり、わが子らは混血の新たな人生を持つ。家族三代にまたがる「血」と「地」の葛藤。「泣く妻」と「火蛾狂う」母と「屈服」せぬ父と子らのあいだで三竦みになる「夫」。「夫」は、わが子に添い寝しながら「帰化」すべきかどうか迷う。
 その「夫」にとって、「韓の名は意地の砦」であり、齢四十にして克ちとった人生の旗なのである。
 余談めくが、姜琪東氏は「四十路」までは「大山」という日本姓を使っていた。十数年前に私と会った時、青年時代は夜鳴きそばの屋台を引いていたと語った。その屋号は「大統領」であったとか。夜な夜なチャルメラを吹くこの無名の大山青年は、将来「大統領」になる夢を見ていたのだろうか。まさか、そんなことではないだろう。一国をたばねる大統領ほどの気概をもち、人生のあかしをもとめて生きてきた姿がほうふつとしてくる。その日本とは、根生いの地であるが、「指紋」を強制する「灼け地」であり、「永住」は許されても「韓の悪口」が「他国者」意識をかき立たせる「怨の国」なのだ。
 するどく醒めた感性が、強制送還される在日朝鮮人青年を救いたいと想うときに生まれる一句、
  血のやうな夕焼けの湾船来るな
 光州事件の虐殺(句の注記には「暴動」となっているが)に対しては、
  荒縄で柩縛りぬ梅雨に入る
 このような民族の血のたぎりもまたこの句集の一翼を占めている。
 けれども、「在日」のわが家とか「在日」そのものを問う心がこの句集の核心であることはまぎれもない。
  鳥帰るかなた韓国父祖の国
  チョゴリ着て羞ぢらふ妻や冬薔薇
  韓の歌妻に教へて磯涼み
  萌ゆるより踏まれて巷の草の芽よ
 日本というまほろばに生きる「在日」の多くは、日本人との新たな血縁の中で、抱擁家族としての知恵と愛をはぐくんでいる。この無限抱擁こそが人間の創造につうじ、「怨」と「恨」を愛の世界に誘うものなのだとこの歌人はいっているようだ。
 この句集は、従来の「身世打鈴」ではない。歴史の負の遺産を逆手にとって、明るみの世界に踏み込もうとする「在日」の心優しい男の試みとなっている。

  • 106頁 A5判上製
  • 4-88344-025-7
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1997/10/05発行
シルクロード 詩 紀行 秋吉 久紀夫 石風社 中国 中国現代 中国文学 砂漠
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シルクロード
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シルクロード

シルクロードへの旅──それは不毛の砂漠に生々しい人間の歴史と暮らしを想起する旅であった。古(いにしえ)の時代から近現代まで、あらゆる文学史料を渉猟しつつ記した、中国文学による灼熱のポエジー

  • 四六判上製296頁
  • 4-88344-113-X
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2004/08/30発行
212
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詩集 魂のぽわん
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詩集 魂のぽわん

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詩集 魂のぽわん
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幻想的な物語性を持った散文詩は、人の暗部に潜んでいるものを浮かび上がらせる――。

  • A5判上製103頁
  • 978-4-88344-212-6
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2012/06/10発行
殘燈 歌集 目加田誠 目加田 中国 文学 失明 詩経 唐詩選 杜甫
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殘燈
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殘燈

「中国文学の泰斗」が、病の果てに光を失いながらも「生きる」ことのつらさと喜びを歌い上げた、惻々たる病床歌集。──闇の底から生の叫び。

書評

闇の中で見えぬものを視る

伊藤一彦
歌人

 中国文学研究の第一人者で九州大学名誉教授だった目加田誠氏が去る四月三十日に九十歳で亡くなった。中国文学の泰斗を文字通りわれわれは失った。
 その目加田氏が昨年の夏に出版した小さな歌集『残燈』は静かな反響を起していた。いや、現在もその反響は続いている。盛唐の詩人について目加田氏がどれほど優れた研究者であっても、短歌に関しては素人だった。死の一年半ほど前から失明の恐怖の中で作歌を始めたことについて『残燈』のまえがきには次のように記してある。

 私はもう眼が見えぬ。この十年来、心臓を患って入院すること十三回。同時に網膜剥離、続いて白内障の手術がうまく行かず体力の衰えと共に、どのように眼鏡を工夫しても次第に見えなくなってしまった。(中略)読書はもとより、新聞、テレビ一切駄目になってしまった。こうなると、まるで闇の底にうごめいているようなもので、もうどうすることもできない。(平成四年)十一月の半ば頃、私はせめて短歌でも作ろうかと思い出した。

 それは次のような短歌である。老病死を直接に歌う作を引いてみよう。
・老い病みてまなこもめしい亡骸(なきがら)の如かる我の三度の飯食(いいは)む
・暗き目のいよいよ暗き雨の朝今日の一日をいかに過(すぐ)さむ
・我死なば長き病も目の見えぬ深き嘆きも皆消えゆかむ
・冷雨ふるこの闇の夜の底にいてわれ我が魂の鬼火を燃やさむ
・誠よ、もう、よいではないか、早くおいで皆待っているよ、と母の声する
 自分をすでに「亡骸」のようだと言い、「亡骸」は三度の飯を食うより早く母のいる彼岸に行ってしまった方がよいのではないか、そんなまさに冷たい雨の降りしきる夜闇に青白く燃える「鬼火」のような歌である。しかし、たとえ「鬼火」であっても、火であることに変りはない。目加田氏は歌い続けた。歌っている間だけは夜闇に負けていないかのように。「われ我が魂の鬼火を燃やさむ」には静かだが強い気迫がこめられている。
・死も生も一なりという古の聖の言葉ただに虚しく
 胸をつかれた歌である。中国の「古の聖」のさまざまの人生と哲学を知悉していた目加田氏にしてなお「聖の言葉」は「虚し」いものとして目に映るしかなかったかと思うからである。そして、中国文学の権威云々という世間的自分をかなぐり捨てて、赤裸の心を表現している目加田氏に私は真の意味における文学する心を感じる。彼岸の母の声が聞えると言いながら、死と生の間の絶対のデスタンスを凝視していた作者の絶望──それは「古の聖」に対する絶望というより、「古の聖の言葉」に救済されぬ自己へのそれであろう︱︱の伝わってくる作である。
 目加田氏は「まえがき」の中で、「風化雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何らかの形で吐き出したいのである」と書いていた。『残燈』に「やり場のない切ない気持ち」は確かに吐き出されている。では、次のような歌はどうか。
・竹の葉にそよげる風か雨の音か暮れてかすかに涼しさの入る
・銀杏の葉庭に散り敷く美しさまぶたに見ゆる木枯らしの朝
・咲くと言い散ると伝うる桜花しづこころなく春は過ぎゆく
「詠じ楽し」んでいるとは言わない。しかし、これらはまぎれもなく「風化雪月」の歌であり、老病死と全力でたたかっているがゆえの「風雅」の心が読者に惻々と伝わる。三首目はことに秀作であると思う。見えぬ桜がありありと歌われている。作者は視力が十分にあった時よりもなお鮮明に心の中に桜の一ひら一ひらを視ていたのではなかったか。そうであったとすれば、目加田氏にとって短歌を歌うとは、闇の中で見えぬものを視るための行為であったとも言えるような気がする。
 最後に「夢」の歌二首を引き、目加田氏のご冥福を祈りつつペンを置く。
・京へゆきし二人の孫の夢に来て椿の花でままごとをせり
・暗く沈むわが心をば開けよと夢に出でたる金色の雲

歌集「残燈」に赤裸の心

伊藤一彦
歌人

 中国文学研究の第一人者で九州大学名誉教授だった目加田誠氏が去る4月30日に90歳で亡くなった。中国文学の泰斗を文字通りわれわれは失った。
 その目加田氏が昨年の夏に出版した小さな歌集『残燈』は静かな反響を起していた。いや、現在もその反響は続いている。盛唐の詩人について目加田氏がどれほど優れた研究者であっても、短歌に関しては素人だった。死の1年半ほど前から失明の恐怖の中で作歌を始めたことについて『残燈』のまえがきには次のように記してある。
「私はもう目が見えぬ。この十年来、心臓を患って入院すること十三回。同時に網膜剥離、続いて白内障の手術がうまく行かず体力の衰えと共に、どのように眼鏡を工夫しても次第に見えなくなってしまった。(中略)読書はもとより、新聞、テレビ一切駄目になってしまった。こうなると、まるで闇の底にうごめいているようなもので、もうどうすることもできない。(平成四年)十一月の半ば頃、私はせめて短歌でも作ろうかと思い出した。」
 それは次のような短歌である。老病死を直接に歌う作を引いてみよう。
  老い病みてまなこもめしい亡骸の如かる我の三度飯(いい)食(は)む
  暗き目のいよいよ暗き雨の朝今日の一日をいかに過さむ
  我死なば長き病も目の見えぬ深き嘆きも皆消えゆかむ
  誠よ、もう、よいではないか、早くおいで皆待ってるよ、と母の声する
 自分をすでに「亡骸」のようだと言い、「亡骸」は三度の飯を食うより早く母のいる彼岸に行ってしまった方がよいのではないか、そんなまさに冷たい雨の降りしきる夜闇に青白く燃える「鬼火」のような歌である。しかし、たとえ「鬼火」であっても、火であることに変りはない。目加田氏は歌い続けた。歌っている間だけは夜闇に負けていないかのように。「われ我が魂の鬼火を燃やさむ」には静かだが強い気迫がこめられている。
  死も生も一なりという古の聖の言葉ただに虚しく
 胸をつかれた歌である。中国の「古の聖」のさまざまの人生と哲学を知悉していた目加田氏にしてなお「聖の言葉」は「虚し」いものとして目に映るしかなかったかと思うからである。そして、中国文学の権威云々という世間的自分をかなぐり捨てて、赤裸の心を表現している目加田氏に私は真の意味における文学する心を感じる。彼岸の母の声が聞えると言いながら、死と生の間の絶対のデスタンスを凝視していた作者の絶望──それは「古の聖」に対する絶望というより、「古の聖の言葉」に救済されぬ自己へのそれであろう──の伝わってくる作である。
 目加田氏は「まえがき」の中で、「風花雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何らかの形で吐き出したいのである」と書いていた。『残燈』に「やり場のない切ない気持ち」は確かに吐き出されている。では、次のような歌はどうか。
  竹の葉にそよげる風か雨の音か暮れてかすかに涼しさの入る
  銀杏の葉庭に散り敷く美しさまぶたに見ゆる木枯しの朝
  咲くと言い散ると伝うる桜花しづこころなく春は過ぎゆく
「詠じ楽し」んでいるとは言わない。しかし、これらはまぎれもなく「風花雪月」の歌であり、老病死と全力でたたかっているがゆえの「風雅」の心が読者に惻々と伝わる。3首目はことに秀作であると思う。見えぬ桜がありありと歌われている。作者は視力が十分にあった時よりもなお鮮明に心の中に桜の一ひら一ひらを視ていたのではなかったか。そうであったとすれば、目加田氏にとって短歌を歌うとは、闇の中で見えぬものを視るための行為であったとも言えるような気がする。
 最後に「夢」の歌2首を引き、目加田氏のご冥福を祈りつつペンを置く。
  京へゆきし二人の孫の夢に来て椿の花でままごとをせり
  暗く沈むわが心をば開けよと夢に出でたる金色の雲

  • 97頁四六判上製
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1993/08/10発行
西海遊歩 林檎樹下にて 片瀬博子 石風社 文学論 風土 山頭火 夏目漱石 中原中也 伊東静雄 林芙美子 梅崎春生 小泉八雲 岡松和夫 村田喜代子
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西海遊歩
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西海遊歩

文学と風土を語る──。山頭火、夏目漱石から林芙美子、村田喜代子まで、文学者のゆかりの地を訪ね、自らの原体験に重ねて作品を読み解く。

  • 308頁 四六判上製
  • 4-88344-024-9
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1997/08/20発行
子どもにもらった詩のこころ みずかみかずよ 石風社 働正 詩 エッセイ 愛
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子どもにもらった詩のこころ
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子どもにもらった詩のこころ

幼いころから、何気ないおとなの言葉に傷つき、血をにじませた私です。だからこそ、言葉をより大切に思い、言葉のもつ生命を信じます。(本文より)

  • B5判変型105頁
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 1986/11/15発行
237
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かずよ 一詩人の生涯
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かずよ 一詩人の生涯

詩人・みずかみかずよ。没後25年。ひとりの詩人がみずみずしくよみがえる。小学校の教科書に多くの詩が掲載されたみずかみかずよ。50代で亡くなったその生涯を、人生の同伴者・水上平吉が綴る──。

  • 四六判上製 200頁
  • 978-4-88344-237-9
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2013/09/01発行
 (32件中) 11〜20件目