書籍

自然・農業既刊
発行日▼50音順▲
 (18件中) 1〜10件目
水の話 水 黒田征太郎 近藤等則 絵本 歴史 地球 石風社 トランぺッター
booktitle
水の話
zeikomi
¥0円
水の話

いのちは全てつながっている──。水は宇宙からやってきた。そして地球上の全ての生命は水から生まれた。地球という小さな星がもっとハッピーな星になるよう……。「地球を吹く」トランぺッター近藤等則と黒田征太郎のコラボ絵本

  • A4判上製 33頁
  • 978-4-88344-213-3
  • 定価:本体価格1300円+税
  • 2012/07/07発行
世間遺産放浪記 俗世間 藤田洋三 写真 建築 石風社 小屋 土壁 遺産 庶民
booktitle
世間遺産放浪記 俗世間篇
zeikomi
¥0円
世間遺産放浪記 俗世間篇

それは、暮らしと風土が生んだ庶民の遺産。建築家なしの名土木から、職人の手技が生んだ造作意匠、無意識過剰な迷建築まで、心に沁みる306遺産をオールカラーで紹介する第2弾。

  • A5判変型並製367頁
  • 978-4-88344-208-9
  • 定価:本体価格2700円+税
  • 2011/12/30発行
アフガン農業支援奮闘記 旱魃 洪水 水不足 蕎麦 茶 アルファルファ 中村哲 高橋修 橋本康範 伊藤和也 進藤陽一郎 山口敦史 石風社 ペシャワール会 農業 さつまいも
booktitle
アフガン農業支援奮闘記
zeikomi
¥0円
アフガン農業支援奮闘記

「アフガニスタンに自給用の農作物を」。異なる文化、過酷な風土の中で悪戦苦闘しつつ積み重ねられた農業支援六年余りの克明な記録。小麦・米・トウモロコシ・アルファルファ・ソルゴー・さつまいも・茶・ぶどう・蕎麦など、失敗の数々といくつかの成功。その試行錯誤を克明に記すことで、次世代へと繋ぐ報告集。

書評

アフガニスタンにおける農業支援の詳細な実践の記録

岩島 史
京都大学大学院農学研究科博士課程

 本書は、アフガニスタンで活動するNGO「ペシャワール会」が、2002年に発足させた「緑の大地計画」のうち、ダラエヌール地区の試験農場を中心とする農業支援計画の記録である。「緑の大地計画」は「1飲料水源の確保、2農業用水路の建設、3乾燥に強い作物の研究・普及から成り、旱魃で荒廃したアフガン農村の復興を長期的な展望でめざ」すものであった。2007年8月、同会の試験農場で働いていた伊藤和也氏が拉致・殺害された事件以降、中断せざるをえなかった農業計画を「できるだけ正確に広く知っていただく」ことが、「責務」であるという同計画の責任者らによって上梓されている。
 1章では「ペシャワール会」が農業計画をはじめるまでの経緯、2章では計画に参加した日本人ワーカーそれぞれの意気込みや参加に至る経緯が書かれている。3章では実際に試験農場で栽培をはじめた作物について品種選びから作付けの時期や畝の立て方まで、数々の栽培試験をし、失敗と工夫を重ねたことが詳細に記録されている。4章では、試験農場で栽培に成功した作物を近隣農家へ普及する過程で経験した、現地の人に任せることの大切さと難しさについて述べている。5章では世界的な政治情勢が他人事ではない状況のなかで、現地の生活・文化に馴染んでいく様子や人びとととのふれあいが描かれ、マスメディアの中の「アフガニスタン」とは異なる等身大の人びとの姿が垣間見える。ただし、編著者が全員男性であるため、本書における「人びと」とはすべて「子どもと男性」である。最後の章では、伊藤氏の拉致・殺害事件と農業計画中断の決断にまつわるメンバー間のやりとりが記載されており、編著者らの「断腸の思い」が伝わってくる。巻末の資料も非常に充実しており、現地の気温や土壌phから施肥や水やりの方法など、アフガニスタンの厳しい気象条件の下で作物を実らせるための7年間のさまざまな工夫が詳細なデータの蓄積として残されている。農業計画の責任者であった高橋氏の栽培方針と現地農家からの提案との相違点も作物ごとにまとめてあり、非常に興味深い。
 本書を通じて一貫して語られるのは、編著者である高橋氏が京都府で農業改良普及員をしていたという経験にもとづく「現地主義」の理念である。「現地主義」の内容は「主役は農家」「現地の技術を改良しながら」「資機材は現地調達を基本として」の3点であるという。これは今や国際協力において必ず求められ、なおかつ議論も多い理念である。本書でもそれを実践することのむずかしさが試行錯誤する記録の中ににじみ出ており、農業支援の記録として貴重であるだけでなく、支援する人と現地の人とのかかわりの記録として、国際協力にかかわるすべての人にとっても示唆に富んだ書である。

アフガン、実った笑顔 ペシャワール会農業の記録出版

古田大輔
朝日新聞

 アフガニスタンとパキスタンで医療や農業の支援活動をしているNGO「ペシャワール会」(本部・福岡市)の農業分野の軌跡をまとめた『アフガン農業支援奮闘記』が出版される。2008年8月にアフガンで拉致・殺害された伊藤和也さん(当時31)らが旱魃と戦乱で荒廃した大地に挑んだ7年余の汗と涙、そして、現地に再び実りと笑顔をもたらした記録だ。

 アフガン東部での農業支援は01年6月、旱魃対策の井戸掘りから始まり、はがて、25キロにも及ぶ水路の建設とその周辺に農地を復活させる「緑の大地計画」に移る。
 京都府職員として長く農業の普及指導に努め、退職後は国際協力機構のもと、アジア各国で支援に飛び回ってきた高橋修さん(79)ら計6人の日本人職員が主に支援にあたった。その中に伊藤さんもいた。
 予想もしていなかった困難が相次いだ。異常な高温と乾燥。アルカリ性の土壌を改良しようと硫黄を持ち込んだら、テロリストと疑われた。せっかく育った作物を盗んでいく者もいた。「なんでもいいから種よこせ。アフガンの手助けに来たのだろう!」と居丈高に要求されたことも。成功の影にあるそんな苦難も本には記されている。
 作物は元々栽培が盛んだった小麦だけでなく、飢餓から農民を救うためのサツマイモや現地品種よりも収穫量が大きかった日本米、栄養価の高い大豆や換金作物としての茶などに広げていった。成功体験を重ねることで、現地の人たちからの信頼が高まり、活動も円滑に進むようになっていった。水路周辺には内戦で避難していた人たちが戻り、集落もできていった。
 職員を支えたのは飢餓と闘う決意と、アフガンの人々の温かさだった。「寂しいだろう」と手作りの伝統楽器で民謡を披露してくれたり、自分たちの食事を減らしてまでもてなしてくれたり。そんな心の交流も紹介している。
 伊藤さんの事件が発生し、日本人職員は現地代表の中村哲医師(63)を遺して全員帰国した。本では、日本人職員撤退後の09年2月に現地の農家からかかってきた国際電話が紹介されている。
「日本米の新米は中村先生のところに届けた。サツマイモもお茶にあう甘い芋がとれた。この冬のサツマイモの保存も去年やった通りに管理している。(中略)大丈夫だ。農業計画はちゃんと前進させているぞ」

  • 401頁 A5判並製
  • 978-4-88344-184-6
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2010/03/01発行
左官礼讃 小林澄夫 鏝 漆喰 左官 小林 澄夫 藤田 洋三 壁 日本 庭 建築 写真 泥 風景 職人 技 バイブル
booktitle
左官礼讃 Ⅱ
zeikomi
¥0円
左官礼讃 Ⅱ

左官職人の『バイブル』第2弾!


私達は戦後、眼に見える〈物〉を大切にするばかり、それらの〈物〉を生みだす眼にみえない過程(プロセス)をないがしろにすることで、成果や結果だけを求める拝物主義、拝金主義に陥ってしまった。職人の技術は、眼にみえないプロセスであり、身体とともにある眼にみえないフォルム(形)である。……(本文より)
懐かしい風景と、未来の風景のため。
〈泥の壁は美しい夢を見る──〉

書評

泥の壁は美しい夢をみる

瀬尾真志
エッセイスト

 黒銀杏。切大葉。本海苔。仙台。晒海藻。アラビアゴム粉末。三千本膠。極上稀飛切一本生濱。純白特雪生濱。改良白生濱。油苆。雪晒硝赤。硝赤ツタ。本生麻。カナリヤ。朱赤間石。大磯。国華石。熊野那智。茶根岸。松サビ。九條土。耐水プラスター。秋田産アスファルト。土佐水化純白粉灰。鹿児島産純良仲貝灰。……ナグラ、言葉の大群だ。素材性、季節感、時代性、地方色、国際色、化学……いろいろな世界とのつながりを感じる。出典は左官材料カタログ集『境屋商報』だ。発行元の酒井茂平衛商店は江戸時代から浅草蔵前橋に店を構えていた老舗の左官材料店だった。埼玉の本庄市の店じまいした建材屋の棚の奥からこの小冊子が見つかり、巡り巡って著者の手元へたどり着いた。本書の中で「昭和十三年の左官材料」という随想で紹介されている。
 本書は、土の文化誌・月刊「左官教室」を中心に、月刊「さかん」、「チルチンびと」季刊「東北学」、季刊「銀花」などに書いた文章を集めたものだ。土のあるくらしを愛する多くの人々の期待に、福岡の出版社が応えた。2001年に一巻目、このたび待望の続編が上梓された。著者が生まれてから、子ども時代、学生時代、社会人……未来のはなしが綴られている。編集者のセンスがいい。記憶、音、風景、人、巡のテーマで新たな文章群が生まれ、鮮やかな作品となった。夜に、田舎の少年時代をおもう。コンクリートがいっぱいの風景を嘆く。著者の風景論がおもしろい。「風景は私のむこうにあるものではなくて私の内にも外にもあって私を包んでいるもの。私が生まれる前にもあって、私の死の後にもあるもの。私たちがデザインしたりつくったりできないなにか。かつて魂と呼ばれたものの全てではなかろうか」
 心洗われるフレーズがある。「西行する」という言葉だ。左官の世界では知られた言葉だという。著者の随想や詩文の中で、肌身に染みる言葉となってひときわ輝きを増している。「西行するとは、鏝一本持って仕事を求め諸国を旅することである。それは、左官にとっては修行の旅であり、地方地方のその土地の材料や仕事を学んだり、すぐれた技能を持った職人の仕事を習ったり、一緒に仕事をしながらそれを盗み取る旅でもある。流れ流れてその土地土地の左官の親方のところにワラジをぬぎ、みずからの腕を売りこみ、助っ人として長逗留したり、一宿一飯の恩義で旅銭をもらって次へと旅立っていくといった風である」
 著者は、左官専門誌編集者と紹介される。広い視野で今を敏感に生き、左官の現場にひたすら通う。取材を通して、職人と語り、土を触り、壁を撫で、現場で文を書く。カメラを構える。左官ジャーナリストである。まさに、現代を凝視する泥のジャーナリストだ。風景とは何か、歓待とは何か、世界を見つめている詩人である。本書は左官風土記、左官歳時記のような書物である。22世紀に伝えたい本である。詩人は旅をし続ける。
 今、左官の技が見直されている。丸の内のカフェに泥壁画がある。銀座の書店に大津磨きの壁が見られる。有楽町の酒肆で竃がシンボルになっている。日比谷の最高級ホテルのロビーに土壁が使われた。左官という仕事、左官職人という生き様が注目されている。本書は、左官の世界を広く知るための格好の基本書であろう。

壁を養う暮らしを慈しむ

塩野米松
作家

 左官という仕事が忘れられてしまった。
 法隆寺が創建当時の姿を保ち、世界最古の木造建築として現存している理由は木の癖を活かし、飛鳥の大工以来の伝統を受け継ぐ工人たちがいたからであるが、忘れてならないのは壁の力である。
 建物は柱や梁だけで持つものではない。柱の間を埋め、補強する壁があってのことである。
 その美しく、丈夫な壁をつくり続けてきたのが日本の左官である。木舞という芯にスサというワラや麻糸、和紙などを刻んで、泥に混ぜ合わせ塗り込み、壁を築いていく。
 水で練られた土は乾けば縮む。縮めば柱や貫の間に隙間が出来る。当然である。時間をかけ、十分に縮めてから、隙間を埋め、じっくりと壁を養生していく。自然素材で家を造るというのはそういうものなのである。
 施主もそれを知っていたから急がなかった。五、六年も先の祝言に間に合うように左官を頼むのである。壁を作りながら人はそこで暮らすのである。不自由はない。祝いの日の直前に漆喰を塗り、仕上げをする。
 手間を惜しまず作ったから壁は強くしたたかである。そういう技と思想があったから、日本の建造物は美しく、自然の中に風景としてとけ込み、長い時間のヤスリに耐えたのだ。
 その左官の仕事を見続けてきた著者は、同名の前著で、左官の仕事の美しさと職人たちを称えながら、消えていくことを嘆いた。時間をかける左官の仕事の良さがわからない時代になったのだ。
 続巻のこの本では嘆きは悲しみの歌に変わっている。日本の壁の美しさ、三和土(たたき)のすばらしさは過去の物になってしまったのか。嘆きは散文にすれば愚痴になる。美しく見送ろうとすれば、目は心の内を向き、言葉は詩になる。慈しみの目は悲しみつつ、先の世に夢を託している。左官に新たな目を、それが日本の美の再興につながるはず。

土壁を通して時代を見つめる

久保智祥

「土壁のような人」と形容したら失礼だろうか。長い年月、風雨にさらされた土壁に独特の風合いが生まれるように、40年以上も左官専門誌の編集者として土壁や左官を見続けてきたその人の風貌や話す内容、文章には、不思議なぬくもりと一抹の寂しさが漂う。
 68年。就職した出版社でたまたま配属されたのが月刊誌「左官教室」だった。時代は高度成長期。工事現場で左官はコンクリにモルタルを塗る作業に追いやられ、非人間的な現場は「取材していても楽しくなかった」という。
 だがある時、奈良の古道、山辺の道にたたずむ泥壁の納屋の美しさに魅せられる。「心が開かれていき、ホッとしました。塀に囲まれた東京の現場から逃げたかったんですね」
 それから、全国に残る伝統的な土壁や左官の普請現場を訪ね歩いた。
 左官は、土や、わら、水などの自然素材を、その土地の気候や天候に応じて混ぜ合わせ壁を塗る。人間が制御できない自然をそのまま受け入れる存在だ。そして、自然素材で塗られた壁も、外部の自然と連続していて内との間に壁をつくらない。「左官は人を値踏みしないんです。左官も土壁も、壁をつくらずに来るものを受け入れる〝歓待の精神〟があって、僕に多くのことを教えてくれた」
 そんな現場で教わり、見つめた土壁の多様な美しさと左官たちの仕事の豊かさをコラムにまとめたのが1冊目の『左官礼讃』(01年)になった。その後、07年に「左官教室」が廃刊するまでの文章を主にまとめたのが本書だ。
 現在は月刊誌「さかん」の編集長として執筆を続けているが、本書で取り上げた昔気質の職人はどんどん亡くなり、建築の工業化は止まらない。漂う寂しさは、土壁を通して見えた現代の風景──歓待の精神が失われ、殺伐とした時代ゆえなのかもしれない。

  • 272頁 四六判上製
  • 978-4-88344-171-6
  • 定価:本体価格2200円+税
  • 2009/05発行
アフタにスタンの大地とともに 伊藤和也 追悼文集 アフガン アフガニスタン タリバン 凶弾 死 ペシャワール 伊藤 和也 中村 哲 農業 青年 夢 遺稿 追悼 写真 大地
booktitle
アフガニスタンの大地とともに
zeikomi
¥0円
アフガニスタンの大地とともに

「現地に行かなければ何も始まらない」


アフガニスタンの農業復興を夢みながら、08年8月、志半ばで凶弾に斃れた1青年の遺した深き心。彼と行動を共にした日本人ワーカーによる追悼文と多数の写真で綴る遺稿・追悼集

書評

〝菜の花畑の笑顔〟が広がる世界へ

古居みずえ
ジャーナリスト

「アフガニスタンを元の緑豊かな国に戻したい。子どもたちが将来食べ物に不自由しないようにしたい」。そう志した日本の若者、伊藤和也さんが、武装グループに殺された事件はまだ記憶に新しい。
 伊藤さんの参加していたペシャワール会は中村哲医師(現地代表)を中心にアフガニスタンの村々で水源確保事業のための井戸掘削作業など、長年地元に根付いて支援活動をしているNGOの団体だ。
 本書は伊藤さんの書き残した会報と会の仲間たちのメッセージで構成され、彼のひたむきな姿が伝わってくる。伊藤さんは二〇〇三年、会の活動に参加し、五年間アフガニスタンの大地で働いてきた。私自身、パレスチナという所へ二十数年通い続けている。NGOとジャーナリストという違いはあるが、いずれも現地の人たちとの信頼関係がなければ成り立たない仕事だ。
 しかも伊藤さんたちの仕事は、人々の生活に直接、関係するだけにもっと厳しい現実があったと思う。そんな中で「僕に何かあったら、アフガニスタンにこの身を埋めてくれ」とご家族にも話すほどの志を持ち、活動を続けていた伊藤さんが、三十一歳の若さで凶弾に倒れたことは無念としかいいようがない。
 救われるのは仲間の人たちの「伊藤さんが描いていた未来をあきらめないこと、伊藤さんが(写真に)残した菜の花畑の女の子のような笑顔が広がる世界を作っていく努力を続けること」という言葉だ。
 伊藤さんが危険で、地道な仕事を続けることができたのは、何よりもアフガニスタンが好きで、アフガニスタンの人々、特に子どもたちを愛していたからにほかならないと思う。彼の生き方は、国際支援とは本来どうあるべきか、日本にいる私たちはどう生きるべきかということをあらためて考えさせてくれる。

農業復興にかけた一生を凝縮

鎌田 慧
ルポライター

 アフガニスタンで誘拐され、殺害された若きNGOスタッフの遺稿と追悼文を集めた一冊。
 伊藤和也さんは、三十一歳で無念の死を遂げたのだが、中学生当時すでに「将来農業関係の仕事をしたい」と書いていた。その志を戦乱で疲弊したアフガニスタンの農業復興にかけた、短い、しかし充実した一生がこの本に凝縮されてある。
 彼の死が報じられたあと、彼が撮ったアフガンの子どもたちの笑顔が新聞に掲載されていた。そのまっすぐな、信頼しきった眼差しをみて、わたしは彼の仕事が、アフガンの大地に根付いているのを感じさせられた。
 それらの写真が、この本のカラーグラビアになっていて、伊藤さんが荒れ地に育てた、豊かな実りを確認できる。
「子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になればと考えています」
 この控えめな言葉は、彼がNGOペシャワール会に参加したときの志望動機だった。その中断させられた夢をささえるかのような、彼とともに働いたひとたちの悲しみと痛みのこもった文章がこころを打つ。
 世界のあっちこっちで、自己犠牲的に働いている伊藤さんのような若いスタッフと、わたしは旅先で出会って、心強い思いをしてきた。そのなかでも彼がユニークなのは、農業という専門技術で、ひとつの国の復興に役立ってきたことである。
 たとえば、収穫量の多い日本米の栽培を成功させ、その脱穀のために図面を見ながら「千歯こき」を試作し、現地の人たちの労力を軽減させた。作物を植え、育てるというたしかな営みが、彼の死後もアフガンの大地に残され、その遺志が子どもたちに受け継がれる。
 息子の不慮の死を受け入れている両親の文章もいい。父親は「アフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません」と書いている。

  • A5判並製263頁
  • 978-4-88344-172-3
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2009/04/10発行
花咲か 江戸の植木職人 岩崎京子 石風社 桜 サクラ さくら ソメイヨシノ そめいよしの 植木 江戸 駒込 岩崎 京子 長野 ヒデ子 植樹 キク 菊
booktitle
花咲か
zeikomi
¥0円
花咲か

ソメイヨシノの始まり始まり


江戸の町にソメイヨシノがやってきた! 江戸・駒込の植木師にひろわれた少年が、小さな花々の命と向き合い、江戸の町にあでやかな新種の桜を植樹し、開花させるまでのひたむきな姿を、清々しい筆致で描いた長編。(表紙絵・長野ヒデ子)

書評

ひきついだ命を大切に

吉橋通夫
児童文学作家

 被災地の桜は、まだ「つぼみ固し」ではないでしょうか。一日も早く、満開の桜を楽しめる日々がもどってくることを願っています。
 いま日本で一番多く見かける桜は、ソメイヨシノという品種です。咲き始めは淡い紅色で、満開になれば白い大輪の花を咲かせます。
 江戸時代に染井村(いまの東京駒込)から広まったとされるソメイヨシノは、落ちた種から発芽することは、ほとんどないそうです。自分ひとりの力では増えていくことが出来ないので、人の手で接ぎ木や挿し木などをして増やしていきます。それに、肥料をやったり、根もとの草を刈ったり、からんだツタを切ったり、あれこれ世話をしてやらないと、きれいな花を咲かせてくれません。

 この本は、ソメイヨシノをひろげるために力を尽くした染井村の植木職人、常七の物語です。
 十三歳で弟子入りした常七が残した日記のようなメモをもとにして、物語が進んでいきます。
 そのメモは、「さつきとをか、あめすこしづつたびたび。おやかたより、あづきあんやきもち二ケおふるまひ。大きさこのくらゐ」と旧かなづかいで書いてあり、「このくらゐ」のあとには、もらった焼きもちの大きさが丸印でなぞってあります。
 旧かなづかいは読みづらいですが、この本では、ちゃんと新しいかなをつけてくれいるし、読み慣れると意味が分かってきます。速読しないで、じっくりかみしめながら読んでみてください。
 
 歴史ものは、今では使わないむずかしい言葉が出てくるので、苦手な人が多いようですね。でも、何百年も前に生きていた人たちの暮らしぶりや風俗を知るのも楽しいことですよ。その時代にタイムスリップすれば、歴史の中で暮らしていた人たちの息吹が伝わってきます。昔の人は、こんなふうに生きてきたんだ、現代に生きる自分も、彼らの人生の続きにいるんだ……と思えてきます。過去に生きていた人々と今の自分の人生が、とぎれることなくつながっていることの不思議さとおもしろさ。
 自分の命は、いきなりこの世に生まれたのではなくて、たくさんの人たちの夢や希望をひきついで、今ここにあるのですね。ひきついだ命を大切に生きていきましょう。
 作者の岩崎京子さんは、ことし八十九歳。今も徹底した取材をしながら勢力的に書き続けています。

  • 254頁 四六判並製
  • 978-4-88344-173-0
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2009/04発行
169-150x219
booktitle
われら雑草家族
zeikomi
¥0円
われら雑草家族

大学を中退して徒手空拳で始めた農業と平飼いの養鶏。家族五人の悪戦苦闘の日々は、格差社会もなんのその。火事にも、台風にも、世間にも負けず、大地に生きる雑草家族の日々を綴る。

書評

考えさせられる幸せの基準

松垣 透
編集委員

 最近、幸せの気分について考えることがある。格差社会だの、派遣切りといった言葉が溢れ、正しい自身の立ち位置を見失いかけているのではないかと思う。そうしたときにこの本に出会った。
 そのタイトルの「雑草」という言葉にまずひかれて、手にとって読み始めた。内容は本の装丁通り武骨で、何気ない日々の生活を書いているのだが、これがいいのだ。鶏を飼い、野菜を作るという素人農法で、「ロビンソンの日々」の毎日。自分たちの食べるものをつくり、採取し、拾い、貰う。現金収入は基本的には卵を売ることで得るが、それはごくわずかな金額でしかない。周囲からは綱渡りの極貧生活と見られていたかもしれない、と書く。その通りだろう。
「世間体などを一切気にしなければなんとかなるものだ」と、小屋のような家まで建てた。そうした生活を文章で表現している。自身のことを書くときの素直な表現もいい。素直に反省もしているのもかわいい。子供たちとの会話もいい。子供たちとの接し方もいい。なかでも妻の素直な文章がいい。手作りの家を台風に飛ばされながら、そのトタン屋根を修理する様子など、目に浮かんでくる。ユーモアもあるから、ただ苦しくて悲惨な生活には見えない。餅をネズミに持っていかれ、それを見つけて取り返すくだりは笑った。
 家族についても考えさせられる。子供たちが成長して、自分の将来の進む道を決めるときに、その「教育」が正しかったこと、両親の教えをきちんと理解していたことが分かる。それぞれの進む道はそれぞれでしっかりと選んでいる。
 幸せの基準について考えさせられたのは、何もないのにここでは豊かなのだ。お金ではないことは分かっていても、そのことにこの本を前に、厳しく気付かされる。今の世のなか、何が幸せで、何が必要で、何がいらないのか。この本ではそんなことを考えさせられ、自分の将来を見つめ直すきっかけにもなった。

  • 230頁 四六判並製
  • 978-4-88344-169-3
  • 定価:本体価格1600円+税
  • 2008/11/10発行
丸腰のボランティア

異文化の中で、病院をつくり井戸を掘り、畑を耕し用水路を建設する。中村医師とともに汗を流す日本人ワーカーたちが綴る、パキスタン、アフガニスタンからの現場からの報告。──国境や国家の越え方にもいろいろある。グローバリズムに抗して……

書評

「世界」に向き合う日本人

与名原恵
ノンフィクションライター

「私でも何かの役に立つでしょうか」。
 現地ボランティアを希望する女性は、中村哲医師に尋ねたという。彼は、こう答えた。「いえ、役に立ちません」。そして言葉を続け、日本で身に付けた技術は現地では役に立たない。当初はじゃまになるくらいだ。けれども半年、一年とたつうちに現地の様子もわかり、何が必要かもわかってくるだろう。
 一九八四年からパキスタン・ペシャワールで診察を始めた中村医師のねばり強い活動とその成果は、よく知られるとおりだ。そして、この二十二年間でパキスタン、アフガニスタンへ五十人に及ぶ人びとが現地ボランティア・ワーカーとして赴いている。本書は、彼ら本人による活動報告をまとめたものだ。
 医療、農業、水源確保、用水路建設、植樹など、さまざまな分野で力を尽くしたいと現地で活動しているが、多くの苦難に直面する。あまりに過酷な現実、宗教、風習の違い。複雑な人間関係。そして、内戦、米国のアフガン攻撃、大地震……。
 夏は四〇度を超える現場だ。日本でやってきた方法論が一番正しいわけではない。不合理に思えても、そこには歴史と伝統に裏付けられた理由もある。そのなかで、彼らは悩み、苦しみ、自分ができることを見つけ出してゆく。悲しみも怒りもさらけだし、そして喜びの瞬間をかみしめる。「丸腰」ゆえに、人や土地を受け入れ、「命を預ける」関係を育んでゆくのだ。とりわけ、九〇年から現在まで看護師として働く女性の報告は、この時間の重さと深い意義を語っている。
 彼らの体験を通して、知ることが多くある。たとえば、国連やNGO(非政府組織)の活動の問題点。さらに、私たちが日本で得ている情報がいかにかたよったものなのか。目が開かれる思いだ。
「美しい国」をかかげる日本。けれども他国に対して「閉じて」いくのではないかという恐れを感じている。本書によって「世界」に向き合う態度を学んだ。

海外でやっていいことダメなこと

大谷猛夫
中学校教師

「自衛隊を海外に出すこと」が国際貢献だと考えているのが、自民党・公明党の連立内閣です。小泉前首相は憲法前文の中から「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という一文を前後の脈絡なしに引用して、自衛隊を海外に出動させたがっていました。これを引き継いだ安倍内閣も同様です。
 日本国民が、海外で困っている人のところへ出かけていって援助する、というのは武装した軍隊がでかけていくことではありません。『丸腰のボランティア』の本では国際貢献という言葉はまったく使われていませんが、私たちができることは何なのか、してはいけないことは何なのかがはっきり示されています。
 二十年以上パキスタン辺境州でアフガニスタン・パキスタンの戦火にあわれた人たちの医療と生活の支援をしてきた中村哲さんを中心とする「ペシャワール会」のボランティアの人たちの思いが、この本では淡々と述べられています。医療関係の人はもちろん、農業や井戸掘り技術を持った人たちができることをしていく、というこれだけのことです。しかも日本の尺度ではなく、現地の物差しで「私たち協力者がしなければならなのは何も特別なことではなく、今まで地元の人たちがしてきた良いことはそのまま続けて、改善したらもっと良くなるようなことは改善して地元の人たちと一緒に仕事をしていく」という精神です。
 アフガニスタンの人が言います。「井戸の掘り方を教えてくれた。完成するまで手伝ってくれた。完成したら、道具まで置いていくという。後は我々でできる。学んだことは他の村人や子どもたちに教えていける」と。
 ペシャワール会は日本の国際ボランティアの草分け的存在です。この他にもベトナムのストリートチルドレン救済やフィリピンの人たちとフェアトレードに取り組む人たちもいます。現地の人の自立を助けています。

新しい自分の誕生記録

下嶋哲朗
ノンフィクション作家

 即、冒険に出られる。若いとはこの勢いをいう。今時の若者は、何年かすればかならず失うその勢いを行使しない。かわりに既成の社会や価値観に浸かり、ケータイ、ゲーム、テレビ等々カタカナ語の小道具の小さな世界に背を丸めて没我する。そこに実感はないから覇気がない。たとえ若者であっても未知の自分への挑戦を恐れ、自らを革新しない者は、早老人である。小道具に入れ込む無数の老いた若者を見るたびに「もったいない」と思う。
 そもそも冒険とはなんだろう。家を出、既成社会の構成員たるをやめ、庇護されるを拒否して現場に飛び込む勇気である。既成の小さな自分を捨て、新しく大きな自分を自ら生み出そうとの行動である。それは小道具を捨て現場へ出なければならないのだ。現場において「我」の存在を実感するとき、必然自らの精神を取り囲む狭小な垣根はたちまち朽ち果てる。新しい自分が広がり行くを実感する。存在する自信の獲得である。こうして勢いよく成長する「我」を実感する爽快な心地よさの体験が冒険なのだから、深い悩みこそあれそこには失敗とか後悔などは絶対にない。仮に脱落したとしても、それは己の限界を悟ったのである。迷わずほかの道を進めばいい。「我」の冒険は「我」だけができる唯一のものであるゆえに貴重なのだ。「すべて現場から学んだ」と副題を付けた本書に登場する数十名の若者たちが、この事実を熱く教えてくれる。
 医師・中村哲さんの設立による「ペシャワール会」はつとに知られるが、その活動を支える多数の日本人ボランティア、──若者たちの生の声はあまり知られていない。本書はその若者たち、異文化の中で病院を作り、医療に携わり、井戸を掘り、畑を耕し、用水路を建設した若者たち自らによる記録だが、意図せずして新しい自分の誕生記録となった。
 「会」の現地代表中村さんがパキスタン・ペシャワールで診療を始めたのは一九八四年。戦争、内戦、干魃が起こり人々は被災し死傷したり難民となった。医療器具もそろわない困難なところで日本人二〇名が働いている。日本で医者をしていれば金儲けもでき安楽な生活は保障されている。なのに命も危ない国へ「なぜ行くのか」と自問し「青春をなげうって行くんだね」と悲壮視する友人や家族たち日本人に「青春を求めに行くのだ」と内心思う。現場においては「日本の知識と常識を覆され」て我は何をする人か、我は何ものなりかと悩む悩みが自己探求を深めて、逃避への誘惑に打ち勝つ。そこから新しい自分が生まれ出る。「会」は集団活動である。しかし、日本を含む各国からのNGOが押し寄せては、サッと引いていくなか「あなたたちは絶対に逃げない。私達はあなた達日本人だけは信じることができるんです」と人々にいわせる信頼は、新しい自分の誕生によって生じたものだ。その代償は金銭などではない。「日本から八千キロも離れた小さな渓谷で、我々のことを心から信じてくれる人々がいます」との日本では体験し得なかった信頼される喜びである。
 アフガニスタンは一九七九年のソビエトの侵攻以来いまだに戦火が絶えない。そればかりか、二〇〇〇年からは大干魃に見舞われ人口の半分以上が被災し数百万人が飢餓線上にある。完全武装した民兵に護衛されて作業を続けている外国の企業などは、襲撃と拉致と殺害が繰り返されたが、非武装・丸腰の日本の若者たちが襲われたことは一度もないという。それが「日本人への信頼につながり、軍事によらない日本人の『安全保障』となる」、結びの言葉である。若者たちは現場において日本の平和を鍛えてもいる。

真の「国際援助」とは

多田茂治
ノンフィクション作家

 心のこもった真の「国際援助」とはどういうものか、本書を読めばよくわかる。
 福岡出身の医師中村哲氏のパキスタン・アフガニスタンの僻地医療活動を支えるペシャワール会が発足したのは一九八三年。翌年、中村医師はパキスタン北西部の拠点ペシャワールに着任。カイバル峠を越えればアフガンだ。この一帯はハンセン病の多発地帯であり、結核、白血病、マラリア、腸チフス、寄生虫などの患者も多かった。貧困地帯でもある。
 本書は、中村医師の活動に共鳴してペシャワールに馳せ参じた日本の若者たち(約五十名)の活動記録である。九八年にはペシャワールにPMS(ペシャワール会メディカル・サービス)基地病院が開設されて本格的な医療活動が始まるが、二〇〇〇年にはアフガンの乏しい「命の水」の水源確保事業も開始。寒暖の差が激しいなかでの井戸掘り(すでに一四〇〇本以上)、灌漑用水路工事、植樹、試験農場開設、野菜栽培と仕事は増える一方。現地スタッフも増えるが、なにしろ異文化(イスラム)と鼻つき合わせての日常なので、驚き、とまどい、怒り、ときには「参った!」の連続だが、中村先生作のウルドゥー語のテキストには「お互いが理解し合うには時間がかかる。ゆっくりゆっくり……」
 そんな日々を重ねて、みんな大きくなってゆく。〇一年十月、アメリカのアフガン空爆が始まると、中村医師は「私はこの狂気に断固反対する。PMSは決して撤退しない」と激怒し、また一つ仕事を増やした。難民キャンプへの食糧支援。みんな生き生きと大忙しだった。
 題名の「丸腰」がよく効いている。アメリカべったりの小泉政権はイラく戦争が始まるや、いちはやく自衛隊をサマワに派遣して日章旗を揚げさせたが、重装備の隊員はもっぱら砦の中にこもっていて、何程の事も成し得なかった。
 ペシャワール会の丸腰のボランティアたちは現地住民のなかに溶け込み、厚い信頼を得て、大きな仕事をいまも続けている。丸腰の熱意のほうが武力よりも強い。

  • 400頁四六判並製
  • 978-4-88344-139-6
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2006/09/20発行
藁塚放浪記

北は津軽の「ニオハセ」から宮城の「ホンニョ」飛騨の「ワラニゴ」宇和の「ワラグロ」出雲の「ヨズクハデ」、南は薩摩の「ワラコヅン」、はては韓国、アフガンまで、秋のたんぼをかけめぐり、藁積みの百変化を追った30年の旅の記録。
藁塚(わらづか)=稲刈りを終え、乾燥させた稲束を脱穀したあと(または脱穀の前に)、藁を積み上げられたもの。

書評

「最後の日本人」たちが生んだ米作り文化の貴重な記録

与那原恵
ノンフィクションライター

 稲刈りを終えた秋のたんぼに、脱穀したあとの藁の束が積み上げられている。これを「藁塚」というそうだ。藁塚は地方それぞれに呼び方がある。ボウガケ(青森)、ワラニゴ(岐阜)、マルボンサン(京都)、シコホヅミ(佐賀)などなど。地方のぬくもりが響いてくるような呼称だ。
 著者は、この藁塚を追って日本の北から南、さらには韓国、中国まで三十年にわたって歩き、記録した。資料を探しだし、土地の人々の証言を得て、貴重な一冊となって結実した。
 まず各地の藁塚、その個性的な造形に驚かされる。藁の干し方も、その風土によってさまざまだ。藁塚の形には大別して二種類あって、ひとつは中心に棒杭を突き立て芯にして積み上げるもの。もうひとつは杭を用いないものだ。
 宮城県のホンニョは、棒杭を中心にらせん状に藁を巻く。岡山県のイナグロは、小さな小屋のように藁を積み上げる。大分県のトーシャクは切りそろえた稲束をぐるりと見せ、その上に傘のような稲と天に伸びる頭がある。
 秋のはかない日差しの中で黄金色に輝く藁塚の立つ姿は、ほんとうに美しい。どれも、ただ稲藁を乾燥させるという目的だけではない、そこに生きる人たちの実りの感謝と喜びの感情があたたかく伝わってくる。
〈藁塚は、野に積まれた庶民の手の記憶。それらは決して芸術作品ではないが、米作りを中心とした祖先の営みや、民族の記憶をも彷彿とさせる〉
 著者は藁塚を世界遺産ならぬ「世間遺産」だという。著者の作品は、左官職人の卓越した技術である「鏝絵」を紹介した本で目にしている。「手の仕事」への深い尊敬と愛情が著者の一貫したまなざしである。
 大陸から伝わったという「練塀」という泥壁の技術がある。泥に砂や藁スサを加え水でよく練って壁にしていくものだ。よく乾燥させた藁は、壁に用いられたばかりでなく、俵になり、ムシロになり、草履になり、肥料になり、畳の芯にもなった。米作りの労苦の果てに得た「宝」を有効に使う手だてがあったのである。
 しかし現在では稲刈り機が藁を切り刻み田に捨て、米は農協のライスセンターで強制乾燥させられるという。そういえば、本書にあるような藁塚の光景を見なくなって久しい。著者も悲痛な筆致で〈無償の行為を生み続けた「最後の日本人」たちが消えていく過程を記録したものだ〉と書いている。
「米」をとりまく文化を私たちは見捨てた。厳しい自然の中で育まれた人間の営みを忘れ去ろうとしている。たんぼは今、深い雪に覆われているだろう。どうか元気で春を迎えてほしい。

30年にわたり全国を取材

井口幸久

 藁塚とは、ワラを乾燥させるために積み上げた塊のこと。藁にお、藁ぐろ、藁小積などともいう。さらに「ニオハセ」(津軽)、「ワラグロ」(宇和)、「ワラコヅン」(薩摩)など、地域によって呼び方も形も違う。本書は、日本全国を歩き、藁塚を取材した記録である。
 仮に、ワラの積み方が地域によって異なっていることを知っていても、それだけでは史料としての価値はない。藤田さんは三十年にわたり全国の藁塚、数千枚を撮影した。途方もない「無駄」が一冊の本のまとまったとき、大陸の稲作文化と日本のそれとを比較検証する有力な史料になったのである。
 藁塚は1中心に棒杭を突き立て、その周りに積み上げるものと2棒杭を用いないものとに大別される。さらに、気象条件などを加味して大小、高低、形状などに多様な変化が見られる。その形は人々が「手の記憶」として代々受け継いできたものであり、ほとんど変化していないと考えられる。藁塚は、朝鮮半島、中国大陸からインドにも見られ、調査が進めば、稲作の広がりを系統的に調べることも可能であろう。
 藤田さんは、大分県別府市生まれ。「子供のころから図鑑類が好きで小遣いをためては買っていた」という。昆虫、植物に始まり、建築物などへと興味は広がっていった。別府の建物の写真を多数集め、近代和風建築の推移を示す本を出版するなど、その仕事の根底に「歩く、集める」がある。
 印鑑職人だった父の影響もあり、写真家としての仕事も「職人としての手仕事」が基軸となった。そうして取り組んだのが、左官だった。
「土蔵の材料や職人たちの歴史。無名の民の手が生み出したものへの愛着が強い」と藤田さんは言い、泥壁の材料であるワラへの関心が、藁塚につながっていった。
 今日、ワラを積む光景はこの国から消えつつある。農業の機械化とともに、コメを収穫した後のワラは、粉砕されてしまうからだ。本書は、食糧としてのコメだけにしか価値を見いだそうとしない近代文明への、無言の批判でもある。大分県別府市在住。五十五歳。

農民の〝手の記憶〟

「本を語る」

 ボウガケ、ワラニョ、サンカクニオ、ニョウ、マルボンサン、ヨズクハデ……。まだまだあるこれら呪文のような音はみな、同じある〝物体〟の呼び名だという。藁を乾燥させるために収穫後の田んぼに積み上げる「藁塚」。ところ変われば形状とともに名称も変わるそのさまを、日本中、アジアまでも歩き回って調べ上げたのが、写真家の藤田洋三さんだ。
「ずっとおもしろかったなあ」。撮り始めてかれこれ三十年の歳月を感慨深げに振り返る。「文化の根っこを掘り下げているという実感がありましたから。近代化によって断絶しなかった農民の〝手の記憶〟ですよね」
 脱穀後の藁は、巨大なフクロウや神社の社やテントや、いろんなものに見えるさまざまな形状に積み上げられる。しかも「何のために」と首をかしげたくなるくらい、一種の美学に基づいて。「景観条例なんてなくなって、農家はちゃんと景観つくってきたんだってね」
 美しさだけではない。藁塚のあるところ、藁の「用」がある。牛の飼料として、敷き藁として、また養蚕のカイコを飼う「蚕箔(さんぱく)」も藁でつくられる。泥に砂や藁を混ぜて練った土でつくる「練塀」の小屋も、農家とは切っても切れない関係にある。本書でもっともスリリングなのも、あるタイプの藁塚と練塀文化の地域分布が一致するという事実を考察したくだりだ。
「新羅系渡来人といわれる秦氏による技術伝承の跡ではないかと、まあ写真家が勝手なこと言ってるんですが。藁をめぐる営みが、昔はずっと一つながりだったはず」
 写真を学んだ学生時代、土門拳、木村伊兵衛らリアリズム写真の洗礼を受けた。人間の生を撮るその方法を、告発調ではなく、自身が「生きずりの写真」と呼ぶさりげないショットに見いだした。「日本の農村を〝懐かしく〟撮るのなんて簡単。そうではなく、暮らしの実相を撮りたかった。写真におけるリアリズムとは、という問いに、僕なりの卒業論文が書けたような気持ちです」

鏝絵探す旅での出合い

佐田尾信作

 十二年前の晩秋、記者は島根県温泉津町(現・大田市)の谷筋の集落、西田地区に立っていた。半円の弧を描く棚田に点在するピラミッド型の稲ハデ、「ヨズクハデ」の「できるまで」を撮ろうと通っていたのだ。
「ヨズク」とはフクロウ。四本の丸太で組まれた稲ハデに稲穂を架けた姿は、まさにフクロウ。普通のハデに比べて立体的で、耕地の狭いこの里の人々の生活の知恵。あのヨズクたちは今も、あの里で羽を休めているのだろうか。晩秋から初冬のころ、ふと思い出す。
 そのヨズクハデがこの本に載っている。日本列島各地から韓国、中国にまで足を延ばした「藁塚」「稲塚」の記録だ。乾燥させた稲束を脱穀後に積み上げた藁を「藁塚」「藁ぐろ」「藁小積」などと呼ぶ。もみの脱穀前に積み上げて干す稲穂は「稲塚」「稲ニオ」などと呼び、木に架け干しすると、「ハデ」などと呼ぶ。
 写真家でもある著者は左官職人のしっくい彫刻「鏝絵」を世に知らしめた人。同好の士たちと鏝絵を探す旅は藁塚や稲塚と出合う旅だった。
 しっくいの材料は石灰や藁。本書もおのずと、しっくいに筆が及び、石灰窯の痕跡などを探す「お石灰探偵団」まで登場させて笑わせる。しかし、読み進むと、やがて周防灘の祝島(山口県上関町)に残る練り塀にまでたどり着く。「『石灰と泥の技術史』というファインダーを携えながら歩いた藁塚の旅」。著者の旅の本質が理解できた。
 鏝絵でも知られる大分県宇佐市安心院町では、一九九九年から「全国藁こずみ大会」が開かれている。列島各地から出展する、いわば藁塚と稲塚のテーマパーク。第二回大会では西田のヨズクハデも招かれた。あのヨズクたちが九州まで羽ばたいたのか。物言わぬ藁塚が一層、いとおしく思えてきた。

収穫が終わった田んぼに林立するワラ塚が物語るグローバリズム

下川耿史
風俗史研究家

 注連縄(しめなわ)といえば、現在でも正月用品の定番の一つだが、これは青い頃に収穫したモチ米のワラで作られるそうだ。私は九州の水田地帯で育ったが、恥ずかしながらそのことを本書で初めて知った。
 恥ずかしいことがもう一つあって、取り入れが終わった後のワラを積み上げたもの、つまりワラ塚(私の田舎ではワラ坊主と称していた)は、私にとってはごくありふれた風景であり、全国どこへ行っても似たような形だと思い込んでいたが、その土地の気候風土や用途によって、形がまったく異なるという。いわれて見れば当たり前のことだが、思い込みというのは困ったものだと、あらためて反省した次第。
 ところで本書の魅力の1つは各地方に伝えられたワラ塚の形の面白さにある。この点は300枚に及ぶ写真によって楽しんでもらうしかないが、それぞれが風趣たっぷりで、私は北海道の「豆ニオ」、茨城県の「ワラコヅミ」や島根県の「ヨズクハデ」、大分県の「トーシャク」などの風景を見ながら、「一度はぜひとも実物を見たいものだ」と思った。
 もう1つの特徴は、たかがワラを積み上げただけのワラ塚が、古代朝鮮ばかりか中国や東南アジアとの結びつきを実証する、貴重な証拠だという指摘である。
 たとえばワラ塚は前に紹介したほかに、ニュウとかニオと呼ばれることが多いが、これは水銀の技術者といわれる丹生(ニュウ)一族と関わりがあるようだ。また呼び方は地方ごとに違っても、同じ工法で作られたワラ塚をたどって行くと、日本に漆喰壁の技法を伝えた新羅人の秦氏との関係が深いという。秦氏とはいうまでもなく、京都・太秦の広隆寺を作った一族で、機織りの元祖である。
 さらに大分県安心院町(現宇佐市)で行われた「藁こずみ大会」では、中国雲南省の農民がゲストとして招かれてワラ塚作りを披露したが、できあがったものは大分県や茨城県などで行われているものとそっくりなことが、写真で紹介されている。要するにワラ塚とは1500年以上前にこの国で実現していたグローバル化の生きた証というわけである。
 本書を読むと、日本人はグローバル化という名目で、よその国へ金もうけに出かけているが、実は1500年以上前のグローバル化の恩恵を今もって継承していることが実感される。
 現代のグローバル化は果たして1500年の生命力を持ちうるのだろうか?

  • 240頁 A5判変並製
  • 4-88344-130-X
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/12発行
日本人が見た'30年代のアフガン 尾崎三雄 アフガニスタン アフガン 農業 尾崎 三雄 日本人 昭和 明治 大正 写真 書簡 農夫 東大 農学部 カブール ジャララバッド カシミール
booktitle
日本人が見た'30年代のアフガン
zeikomi
¥0円
日本人が見た’30年代のアフガン

王政アフガニスタンで尽力した日本人たち


1935年(昭和10年)、熱砂のアフガニスタンで農業指導に奔走した日本人がいた。一人の明治人とその妻が、苛酷な日常を通じて異文化と真摯に向き合い、日々の生活と内面の葛藤を綴った貴重な記録。写真多数。

書評

戦前日本アジア戦略の「布石」

布施裕之
編集委員

 ちょうど十五年前、アフガニスタンへ取材に行った際、地元の古老から「アフガンの低地部には日本のミカンのような果物がなる」という話を聞いた。その果物は、バザールに並ぶオレンジよりも小さく、皮の薄い柑橘類で、現地に伝わる話では、何十年も前に日本から種か苗木を取り寄せて育てたものだという。
 当時のアフガンはソ連軍の撤退が始まる直前で、現地入りした外国マスコミの回りには、「案内役」だの「地元住民」だのと称して、その実秘密警察にしか見えない怪しげな連中が取り巻いていた。だから、ミカンのことも、日本人記者の歓心を買うための「おとぎ話」だろうと高をくくって、本気にしなかった。
 ところが最近「日本人が見た‘30年代のアフガン」という本を読んで、この古老の話を突然、思い出した。戦前、アフガンで農業の技術指導をしていた日本人農業技師、故尾崎三雄氏の手紙や紀行、写真をまとめた本の中に、現地で「柑橘栽培」に取り組んでいる、というくだりを見つけたからである。
 尾崎氏は一九三五年(昭和十年)、勤務先の農林省の命でアフガンへ渡り、三年間にわたって、植林、灌漑、果樹栽培などの指導に当たった。「世界の最果て」への赴任だけに、子息によると、出発の際には「親兄弟と水盃の別れをして故郷を離れた」という。その尾崎氏が、アフガン各地の農業事情を視察した結果「最も望みあるもの」と見なしたのが、低地部・ジャララバードでの柑橘類の栽培だった。紀行や手紙からは、尾崎氏が、わざわざ地元種の標本を集めたり、日本から種子を送らせたり、現地の助手に調査を命じたりしていた様子がうかがえる。
 それにしても、この時期に日本からはるか辺境の南西アジアへ、外交官以外の人員が送られたというのは、それだけでも驚くに値する。なにしろ三五年と言えば、満州事変後の騒然とした時代で、翌年に二・二六事件、翌々年には盧溝橋事件が起きている。尾崎氏の派遣は、直接には三〇年のアフガンとの国交樹立を受けたものだが、その目的は果たしてありきたりの友好促進や人材交流にあったのだろうか。
 戦前の日本のアジア政策に詳しい山室信一・京大教授は、その背景には、英国とソ連がせめぎ合うこの地域に「人的布石」を打ち、「アジアへの影響力を扶植」するという戦略的な狙いがあったと指摘する。特に主眼がおかれたのは「対ソ包囲網の形成」で、それは三六年八月に決定された「帝国外交方針」が、「(ソ連に)隣接する欧州および亜細亜諸国ならびに回教諸民族」の「啓発に力(つと)むべし」と定めていることからも明らかだろいう。
 事実、山室教授によると、尾崎氏自身、帰国後の三九年、専門の農業問題とは別に「アフガンからソ連やイギリスなどの勢力を追放することが、日本がアジアの盟主としての地位を確立するために求められている」とする現地情勢報告を発表している。辺境の地に送られた農業技師は、少なくとも時の政府からみれば、アジア情報網の最前線としての使命をも担わされていたのである。
 日本のミカンがアフガンに移植されたという話の真偽は定かではない。現地で農業指導をしている国際協力事業団(JICA)でさえ「そんな話は聞いたことがない」と首をかしげるのだから、やはり怪しげな古老の「おとぎ話」に過ぎなかったのかもしれない。
 しかし、三〇年代にアフガンで行われた日本の農業指導が、当時の「アジア主義」の、スローガンにはとどまらない側面をかいま見せているのは間違いない。そして、現地情勢を正確にとらえた農業技師の紀行や手紙や写真の中に、戦前の日本人の戦略的な思考能力の高さをありありと思い浮かべるのである。

  • 312頁 四六判上製
  • 4-88344-100-8
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2003/08発行
 (18件中) 1〜10件目