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はにかみの国

石牟礼作品の底流に響く神話的世界が、詩という蒸留器で清冽に結露する。1950年代作品から近作までの三十数篇を収録。石牟礼道子第一詩集にして全詩集。*芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

書評

「まじない」の力 全開

伊藤比呂美
詩人

 石牟礼道子さんの書くものは、日本語のたましいの熱に触れるといつも思っていました。水や草や泥などというものの持つ熱にいつも触れつくと。
 これは詩集です。長い小説にくらべれば、詩とは、ささやかな、雨夜に独り言をつぶやくような、ごはんを作ったり洗濯したりするような表現です。その中でこそ、かもしれない。たましいの熱は発揮され、詩のことばは、生き物のように呼吸をはじめ、日常の生活の、食べたい、愛したいという欲望と同じように、わたしの中になんともたやすくはいりこんできました。
〈花がひらく/赤ちゃんが死ぬ/肉汁(しちゅう)の匂いのこぼれる扉をひらく〉
 詩は読みにくいと、よく言われます。詩はどうもわかりませんと。どうして人がそう言うのかわたしにはわかる。行から行に、詩人の意識が飛んでいってしまうからです。人が、それなしではいられないと思っている論理のみちすじをすっ飛ばし、感情をむき出しにして、定型詩ではないから、詩人の個人的なものであるべきリズムにのって、うみだされてくるわけです。つまり詩を読むというのは、他人の生理を取り入れるような作業であります。
〈乳頭にちらつくのは/雪の気配のようであるが/わたしはもう/ねむくてたまらない〉
 詩の読み方を教えましょう。まず、この本を手にとってはじめから読みとおすのです。わかるわからない、のれるのれないは別にして、読みとおす。それから本を閉じてしばらく置く。そしてまた開くのです。こんどはページをめくり、なんとなく探し物をする心持ちで、ぼんやりとことばを見つめておりますご、あなたが探し物を見つける以前に、ことばは向こうからあなたを探しあてて、吸いついてきます。吸いつかれたら、そのことばを手にとってよくながめる。こうしてわたしはこの詩集を読みましたし、ここに引用していることばたちが、わたしに吸いついてきました。
〈めめんちょろの/野蚕さんになって/這うて漂浪くのが/役目でございます〉
 詩っていうのは、論理なんてどうでもいいのです。もしかしたら人に伝えることすら、どうでもいいかもしれません。ただ、詩人はことばがいとおしくてたまらないのです。ことばをつぶやいていたい、ことばを手の中に入れてなで回していたい、そういう欲望が、詩を書く人の中にはあるのです。でもそれだけじゃありません。
〈蛙のあしをひき裂くように/じぶんの愛をひき裂いてしまったので/もうなんにも生まれ替わることはできません〉
 詩の原型は「まじない」です。人の心やもののけにつたわり、それを動かし、いやし、あるいはのろう。それが太古からの詩の役割であったはずなんです。現代詩という世界はそれを忘れかけていましたけど、石牟礼さんはけっして忘れていない。むしろ詩のかたちで、本来の力を全開大にひらききったようだ。
〈こなれない胃液は天明の飢饉ゆづりだから/ざくろよりかなしい息子をたえられない〉
 こなれない胃液や天明の飢饉ゆづりについてい、たぶん、石牟礼さんの持っているイメージとは違うものをわたしは持ったまま、何年もたち、いつか、どこかで、何かを思いわずらっているときに、ふと、「ざくろよりかなしい息子をたべられない」と口ずさむときが来るような気がしてなりません。それがおそらく、詩が読まれるという行為が完結するときです。

時空を超えた母なる海との出合い

道浦母都子
歌人

〈花びらを
 縁どりながらひろがる海が
 天上の夕映えを 懐胎しつづけていた〉

 詩集を読むよろこびは、こんなフレーズに出合うことにある。
 ときは夕映え、海はくれない色に染まり、海と空の境が、花びらを散らしたように濃いくれないに縁どられてゆく。
 天上の夕映えを、海に没しようとする太陽を、両手を広げて待ちうけているのは海。
 いのちの懐胎をつづける母なる海だ。

 私の故郷である紀州の海沿いには、「はなふり」という伝説がある。春秋の彼岸の日、夕陽は真西に没する。海に没する直前、夕陽の巡りを花が降るように、しらしらしらと光の花びらが舞う。土地の古老によると、それは西方浄土の幻だという。
 石牟礼さんは紀州から遠く離れた九州びと。
 彼女が見つめている海は、不知火の海。それなのに、私には、まだ目にしたことのない故郷紀州の「はなふり」が、このフレーズから立ちあがってくる。
 花びらのようなくれない、花びらのような光。
 石牟礼さんにとっての不知火、私にとっての紀州の海。たとえ、呼び方は違っても、海は海。私たちのいのちを懐胎しつづける母性の海だ。

〈大切なものを
 ぜんぶ 呑みこんで
 今朝も満ちているのだよと
 海霊(うなだま)さまの声が耳元でして
 生まれる前に死んだ
 きれいな泡のような 赤子たちの声といっしょに
 尺取り虫がゆく〉

 前掲の詩はこのようなフレーズで終わる。
 この詩のタイトルは「尺取り虫」。へえーっと、突拍子もない声をあげる私。先程とは一転しての驚き。
 これもまた、詩を楽しむよろこびの一つだ。
 石牟礼道子なる女人は、とんでもないことを考えるひと。ひょっとすると「海霊さま」の生まれ変わりかも。私までもが、とんでもなく心ざわめく。

『はにかみの国』は、ページをくるたびに、そんなよろこびと驚きを、もたらしてくれる。ただし、怠け者の読者には、そのよろこびは伝わらないかもしれない。
 海のようにどどど──っと押し寄せる言葉。肉体性を帯びた力のある言葉を楽しむには、読者は読者なりの力技がいる。
 考え抜いた末、私はこの詩集を一篇ずつ声を出して読むことにした。うんと大きく、うんとなだらかに発生し、詩の中を流れる波音のような音楽を自分自身のいのちのリズムと重ねながら読む。
 すると、

〈てのひらは 渚
 夕陽の引いてゆく渚〉

〈こんやも螢ほどの正気です〉

〈おんなを ちょうだい
 おとこを ちょうだい〉

 私の声と石牟礼さんの言葉が、稲妻のようにスパークする。スパークとは、石牟礼さんが言葉に託した「言霊」が、私に乗り移ること。私の声がいつしか、石牟礼さんの澄んだ海のような声に変化していくこと。
 石牟礼さんは、はにかみ国の歌姫。
 滅多に人前で、歌ってはくれない歌姫さまだ。でも、その声を、私たちは海が奏でる子守歌を聞くように楽しむことができる。
 私たちのこころが波のように凪ぐとき、「やわらかな水沫(みなわ)の声明(しょうみょう)」となった歌姫さまの声が、はにかみの国から届く光のように聞こえてくるはず。

〈でんわにさようならをしていると
 しゅっぽおーっと
 湯気のまじる朝の機関車の音が
 でんわの中から鳴った〉

 そう、突然、海からのでんわのように。

『はにかみの国』ただ一つ

司 修
小説家、画家、装丁家

 書店で目を瞑って取り出した文庫本を、ぱっと開いたら、こんな言葉に突き当たった。「あの方は、わずかな知性しかもたない者にとっても驚くほど解り易く、これら(魂)のことを語られた」
『パイドン』というタイトルだった。

 石牟礼道子全詩集『はにかみの国』が選に漏れたのは、詩壇という小さな箱に入りきれない大きさであったからだろう。また、洗練されたフランス料理の味ではなく、持ち重りのする塩むすびに千切り大根の具が入った豆かすの沈むみそ汁の味だったからかもしれない。そのような意味からすれば、この詩集が小さな箱に入れられなかったことは幸いしたともいえよう。しかし、『はにかみの国』が多くの人に読まれることを望むぼくとしては、小さな箱を壊す意味からしても受賞を願っていた。
『はにかみの国』には、現代詩が遠ざけてしまった大切なものが染みこんでいる。昔話のようなおおらかさで語られる詩の一つ一つは、特別な人々のためではない、普通に暮らす人々のための人臭い神話といってもいい。詩を構成するけして古くならない言葉は、静かなたたずまいの中に、強い生命力が見え隠れする。古くならないからこそ何時までも新しいのだ。現代詩にない土俗的な文体はより新しく感じられる。

 むじょうにつめたく優しい冬の水よ
 おととい生れの赤子のおむつがうつらうつら
 米のとぎ汁にゆられてきても
 なあに 三寸流れりゃ清の水
 高菜漬の胡椒もさっばりふり濯ぐ(川祭り)

「蓮沼」という詩は、蓮の根にやどる蛭の大親分が「いまさき 遠雷が鳴ったと思ったが/なんだ おまえが来たのか」と、生まれてから幾層紀も通り抜けて沼にやってきた者を迎える。沼に生息する虫や魚たちと沼の暁闇の幻想から、「おとうとの轢断死体をみつけた朝」が立ち上がる。
 
 まだ若かったまなこに緑藻を浮かべていた
 その目で沼のように うっすらとわらいながら
 ふむ この枕木で寝て かんがえてみゅう
 かんがえるちゅう
 重ろうどうば 計ってみゅう
 まあ線路というやつは
 この世を計る物差しじゃろうよ

 そんなに思っていたので あっさり
 後頭部ぜんぶ 汽車にくれてやった
 残された顔のまわりに
 いっしょに轢かれた草の香が漂い
 ふたつの泥眼を 蓮の葉の上にのせ
 風のそよぐにまかせて 幾星霜

 レクイエムも方言によって残酷なほどに歌われる。轢断死したおとうとが蘇るように「少年」という詩が後に「なんのことはない/ただの でくの棒だった」と続く。そこに素晴らしい「えにしの糸」の表現がある。

 おそるおそる ふり返ってみたら
 いましも しろい馬は
 食いしばった歯のあいだから
 糸よりもほそい唾液を
 すうっと光らせて
 立ちどまったところだった

 そうして「あの いづめの音がきこえ/波の襞のような闇の中/しなやかな/少年が通る」のである。
 この詩集の初出一覧を見ると、「水俣市教職員同人集『寄せ鍋』」であったり、画集であったり、写真集や週刊誌であったりして、詩と無関係な場所での発表ばかりである。また、制作年も、一九五八年から一九九五年まであり、未発表作品も六作加えられている。著者のあとがきに「書いては隠し、隠しして来たような気がする。ようなという言い方には何も彼も曖昧にしたい気分がこめられている。やりそこなってばかり生きてきたからと思う」とあるように、詩集として世に問うということは考えられていなかった。それゆえ詩壇の箱に縁がないのである。
 詩集の最後に「緑亜紀の蝶」と題された不知火海や石垣島や与那国の海が登場する。
「浜辺に、いったいいくつになっているのか、年齢も定かでないふさぎ神のお婆さんが睡っておりました」と始まる。この世のゆううつな思いを一手に引き受けている婆様の夢見語りは、それこそ詩なのか民話なのかわからない境目であり、詩の飾りなど一欠片もない。詩という特別世界の理解がなければ読めない詩ではない。もろもろの知識を必要としない詩である。こうした条件が備わると詩でなくなるという考えはぼくにはない。

  • 170頁 A5判上製
  • 4-88344-085-0
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2002/08/10発行
別府華ホテル 観光王と娘の夢 佐和みずえ 石風社 別府 観光 温泉 油屋熊八 温泉旅館 旅館 繁盛
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別府華ホテル
zeikomi
¥0円
別府華ホテル

奇抜なアイディアと規格外の行動力で日本一の泉都を築いた観光王・油屋熊八をモデルに描かれた繁盛記。地獄巡りの開発、温泉マークの発明、観光バスガイドの創設、九州横断道路の提唱、はては富士山頂に「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の柱を立てて別府観光の礎を築いた男の、とその娘の生涯を描く。

書評

涙、涙の「冒険譚」

中谷健太郎
地域生活圏研究所所長

 大正三年(一九一四)、三月下旬にカナダのバンクーバーを出港したアメリカ汽船コロラド号の、波おだやかな船上からこの物語は始まる。「グッモーニン、バロン。本日も仔牛のステーキになさいますか?」
「バロン」と呼ばれる、(背広のボタンが今にも弾けそうな…)「油屋熊八郎」と、(首筋から肩、肩から腰にかけて…小さな顔の中に、大きな涼しい目、先がツンと上を向いた鼻、笑うと白く健康な歯がこぼれる)少女「華乃」の、波瀾万丈の物語だ。
 時は日本近代の夜明け、年号は明治・大正・昭和に渉る。海を隔てた中国大陸に向き合って、登場人物たちの「江戸の名残の心意気」が九州・別府に炸裂する、と言いたいけれど、歴史の仕掛け舞台はちょっと甘い。炸裂するのは熱血「熊八郎」と元芸者「辰子」、それに、なんと言っても凛々「華乃」と逞しい漁師「襄一」の大恋愛物語である。それがなんとも劇画調でわかりやすく、私はあちこちのページで涙ぽろぽろだった。
 むろん当時の別府温泉が舞台である。目抜きの「流川通り」を埋立てて、その突端に「桟橋」を構築し、町の内外に乗り合いの「観光バス」を走らせ、地獄見物他の「遊覧ルート」を創設する。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」。どれもが黎明期の別府に展開された実話の「冒険譚」である。しかしそれでもやっぱり、これは「夢物語」なのだ。登場人物は「そっくりさん」たち、懐かしい「教養小説」、そう、「主人公の人格形成、発展を中心として書かれた小説」(広辞苑)、もっと、えげつなく言えば「読んで賢くなる小説」である。
 涙の隙間に立ち止まって私はちょっとだけ賢くなった。二十八歳で由布院に帰り、自分で「旅館経営」を始めた頃の、眩しいばかりの「夢」と「緊張感」、日々の「苦労」と、返ってくる確かな「喜び」を、まざまざと思い出した。七十二歳の今、もう一度あの「煌めきに満ちた冒険の日々」に向き合ってみようと思い始めている。

「大分合同新聞」東西南北

「大分合同新聞」東西南北

 一枚の写真から、その小説は生まれたという。そこには数々の奇抜なアイデアで別府温泉を有名にした油屋熊八が、一人の娘と一緒に並んで座っている。このほど、彼をモデルに描いた小説「別府華ホテル 観光王と娘の夢」が発刊された▼著者は劇画の原作や児童書などを手掛けている大分市在住の佐和みずえさん。写真の女性から架空の娘、華乃を登場させ、熊八が米国から帰国後、別府で活躍する生涯を描いた。物語は娘の恋もからみ、親子の涙ありの奮闘ぶりがまるでドラマを見るように展開する▼小説とはいえ、時代背景と熊八の功績は各所に織り込まれている。ホテルを経営する傍ら、地獄巡りを開発したり、全国で初めて観光バスガイドを導入したり。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と富士山頂に標柱まで立てた。彼の痛快な人生を物語を通して学ぶことができる▼佐和さんはかつて別府市に住んだ時、公園で見つけた記念碑で初めて熊八のことを知った。ユニークな名前。しかも自分と同郷の愛媛県宇和島市生まれだったことから、いつか小説にしたいと思ってきた。ここで出会ったのが一枚の写真。構想が一気に広がったという▼国内外に別府観光を知らしめた熊八。次々と繰り出した大胆な発想と行動力には驚くばかりだ。もてなしの心を大切にし、何事も前向きに他地域と連携するなど、彼の精神は忘れたくない▼架空の娘を配したことに「奇抜すぎるかもしれませんが」と佐和さん。「とにかく熊八のような快男児がいたということを知ってほしい。そして皆さんに元気を出してもらえればうれしい」と話している。

  • 337頁 四六判並製
  • 4-88344-141-5
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2006/11/30発行
アフタにスタンの大地とともに 伊藤和也 追悼文集 アフガン アフガニスタン タリバン 凶弾 死 ペシャワール 伊藤 和也 中村 哲 農業 青年 夢 遺稿 追悼 写真 大地
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アフガニスタンの大地とともに
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¥0円
アフガニスタンの大地とともに

「現地に行かなければ何も始まらない」


アフガニスタンの農業復興を夢みながら、08年8月、志半ばで凶弾に斃れた1青年の遺した深き心。彼と行動を共にした日本人ワーカーによる追悼文と多数の写真で綴る遺稿・追悼集

書評

〝菜の花畑の笑顔〟が広がる世界へ

古居みずえ
ジャーナリスト

「アフガニスタンを元の緑豊かな国に戻したい。子どもたちが将来食べ物に不自由しないようにしたい」。そう志した日本の若者、伊藤和也さんが、武装グループに殺された事件はまだ記憶に新しい。
 伊藤さんの参加していたペシャワール会は中村哲医師(現地代表)を中心にアフガニスタンの村々で水源確保事業のための井戸掘削作業など、長年地元に根付いて支援活動をしているNGOの団体だ。
 本書は伊藤さんの書き残した会報と会の仲間たちのメッセージで構成され、彼のひたむきな姿が伝わってくる。伊藤さんは二〇〇三年、会の活動に参加し、五年間アフガニスタンの大地で働いてきた。私自身、パレスチナという所へ二十数年通い続けている。NGOとジャーナリストという違いはあるが、いずれも現地の人たちとの信頼関係がなければ成り立たない仕事だ。
 しかも伊藤さんたちの仕事は、人々の生活に直接、関係するだけにもっと厳しい現実があったと思う。そんな中で「僕に何かあったら、アフガニスタンにこの身を埋めてくれ」とご家族にも話すほどの志を持ち、活動を続けていた伊藤さんが、三十一歳の若さで凶弾に倒れたことは無念としかいいようがない。
 救われるのは仲間の人たちの「伊藤さんが描いていた未来をあきらめないこと、伊藤さんが(写真に)残した菜の花畑の女の子のような笑顔が広がる世界を作っていく努力を続けること」という言葉だ。
 伊藤さんが危険で、地道な仕事を続けることができたのは、何よりもアフガニスタンが好きで、アフガニスタンの人々、特に子どもたちを愛していたからにほかならないと思う。彼の生き方は、国際支援とは本来どうあるべきか、日本にいる私たちはどう生きるべきかということをあらためて考えさせてくれる。

農業復興にかけた一生を凝縮

鎌田 慧
ルポライター

 アフガニスタンで誘拐され、殺害された若きNGOスタッフの遺稿と追悼文を集めた一冊。
 伊藤和也さんは、三十一歳で無念の死を遂げたのだが、中学生当時すでに「将来農業関係の仕事をしたい」と書いていた。その志を戦乱で疲弊したアフガニスタンの農業復興にかけた、短い、しかし充実した一生がこの本に凝縮されてある。
 彼の死が報じられたあと、彼が撮ったアフガンの子どもたちの笑顔が新聞に掲載されていた。そのまっすぐな、信頼しきった眼差しをみて、わたしは彼の仕事が、アフガンの大地に根付いているのを感じさせられた。
 それらの写真が、この本のカラーグラビアになっていて、伊藤さんが荒れ地に育てた、豊かな実りを確認できる。
「子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になればと考えています」
 この控えめな言葉は、彼がNGOペシャワール会に参加したときの志望動機だった。その中断させられた夢をささえるかのような、彼とともに働いたひとたちの悲しみと痛みのこもった文章がこころを打つ。
 世界のあっちこっちで、自己犠牲的に働いている伊藤さんのような若いスタッフと、わたしは旅先で出会って、心強い思いをしてきた。そのなかでも彼がユニークなのは、農業という専門技術で、ひとつの国の復興に役立ってきたことである。
 たとえば、収穫量の多い日本米の栽培を成功させ、その脱穀のために図面を見ながら「千歯こき」を試作し、現地の人たちの労力を軽減させた。作物を植え、育てるというたしかな営みが、彼の死後もアフガンの大地に残され、その遺志が子どもたちに受け継がれる。
 息子の不慮の死を受け入れている両親の文章もいい。父親は「アフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません」と書いている。

  • A5判並製263頁
  • 978-4-88344-172-3
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2009/04/10発行
ムツゴロウの遺言

防災と農地造成の旗印の下、世界有数の「生命の海」が危機に瀕している。死に行く干潟は何を警告しているのか。──海を殺す公共事業。その矛盾と欺瞞の干拓事業を検証する。

書評

いのちの思想をつなぎ戻せるか

米田綱路
図書新聞編集

「生態系の食物連鎖の中でしか生きられず、しかも生態系の頂点に立つ人間という生き物が生存できるかどうかは、地球とそこに生きている生物たちと共存する以外に方法はないことを知るべきだ。戦後の繁栄に目が眩み『自然を捨てた日本人』に未来はない」。
 長崎県諫早市に住み、昨年七月に亡くなられた「諫早干拓緊急救済本部」代表の山下弘文氏は、本紙一九九九年一月一日号への寄稿にこう記された。すでにその時点で、九七年四月一四日に行なわれた潮受け堤防一二〇〇メートル区間の閉め切りから、早くも二年近くが経過していた。山下氏はここで、乾燥し干上がった干潟の水辺で生き延びている生物たち、そのいのちの姿を伝えている。冬眠に入っている、前年に生まれた三センチ位のムツゴロウの幼魚。深い穴を穿って生き延びている、特産種のアリアケガニなどのカニ類。「こうした生き物たちを目にすると、そのしたたかさに感動するとともに、人間のあさはかさを見る思いがする」。山下氏はこう記していた。
 潮受け堤防の閉め切りに際して執り行われた「記念式典」では、長崎県知事や県議、諫早市長など一一人が、紅白の幕のなかで一斉にボタンを押し、鋼板二九三枚が次々に下ろされたという。ボタンが押されてから「閉め切り完了」まで、その間わずか四五秒。潮流を遮断するために落とされた鋼板は、あたかも「ギロチン」の如くに、干潟というかけがえのない生命の宇宙上に打ち落とされた。本書『ムツゴロウの遺言』によれば、水圧装置を作動させる一一個のボタンにはダミーも含まれていたという。著者はこう書いている。「死刑執行の際もだれのが決め手になったか分からなくするためにダミーが用意されるそうだが、潮受け堤防の仮閉め切りの場合も、形は死刑執行と似ていて責任逃れのように見えた」。
 わずか四五秒で「ギロチン」に閉め切られた水域の面積は、過去六〇〇年間に積み重ねられた干拓地の広さと同じになるという。著者は、この二つの時間の違いにさまざま問題が隠されている、と指摘する。人間が長い時間をかけ、少しずつ営々と広げてきた干拓地、それに対し一瞬にして自然の風景と生命のいとなみを激変させ、一挙に進められていく「干拓事業」。そこには人間と自然の関わり合いの、あまりに大きな位相の変化が浮き彫りになってはいないか。
 戦後初期に計画された食糧増産を目指す干拓事業が、国の減反政策や海外からの食糧輸入急増によってその目的の変更を余儀なくされ、また干潟を生業の場とする漁民の反対と抵抗で事業化が宙に浮くなかで、干拓の名目は「防災対策」「優良農地造成」へと掛け替えられた。つまりそれは「洪水や高潮から住民の暮らしを守り、収益性の高い農業を営む優良農地の確保を目指す」というものだ。しかし、名目と唱えられたお題目の変化とは裏腹に、この「事業」を通して変わらぬ人間のすがたが本書にはリアルに描き出されている。果たして、この干拓で得られるものはいったい何なのか。その「成果」は、住民のみならず、後の世を生きる世代に届くのか。そうした問いを増幅させながら、私はそこに、干拓事業のみならず、二〇世紀の人類が生み出してしまった取り返しようのない「倒錯」を映し見たのであった。
 干上がった土地に累々と転がる生命の亡骸、その凄惨な光景を象徴として、私たちが喪失したものは何か、本書はその意味を読む者に問うている。それはムツゴロウやカニ、貝などの生き物たちだけに止まらない。人類を生かしていたはずの「いのちの思想」もまた、そこで喪われたのだ。私は本書を読み、人類が自らの幸福を標榜して二〇世紀犯した「自然へのジェノサイド」、それが引き起こした果てしない喪失の前に、一瞬気が遠のく。人々の暮らしの利便と生活の向上を、自らもその内に抱かれているはずの自然に結びつけることに失敗し果てた二〇世紀の「倒錯」を、私たちはこの先、取り返せるのか。いのちの営みを切り刻んだその「倒錯の光景」を、私は干上がった干潟に累々と転がる生き物の亡骸と、その背景で進む「事業」の行く末に見ざるを得ないのである。
 干拓工事が始まり、潮受け堤防外側の漁場は激変した。いや、それ以前から、有明海の漁場は人間の身勝手さに抗するかの如く、変化し始めていたのだ。魚は死に、不漁が続き、漁民の暮らしは逼迫して、干拓事業の工事現場で働かなければならないという皮肉な構図がそこにはできた。しかし国の出先機関は、干拓工事と魚の死との「因果関係は不明」との態度を変えていない。さらには潮止め後も、大雨によって諫早市街が度重なる水害に見舞われた。「防災」という名目は、それではいったい何だったのか。それは「不測の事態」として処理される類のものか。
「防災」は新たな、自然のみならず人間の生命系をも蝕んでいく「人災」を生んだのだ。本書に記された、潮受け堤防のすぐ側の小長井町漁協の理事の言葉に、私は干潟とともに人間が何を喪ったかを聞く思いがした。「干拓事業の影響で人間関係も壊れてしまった。生活の形態が変わってしまった。干拓工事に行く方がいいみたいになり、組合員数もそちらが多く漁業で飯を食う人の力がなくなってきた。少数意見で動くわけにもいかない。漁を続けるか、迷っている」。
 諫早湾奥部の広大な干潟、それ自体が天然の「下水処理場」であったと著者は言う。そこにはゴカイや貝、カニ、それを餌にする渡り鳥たち、ムツゴロウなどの多くの生き物が、水質の浄化を助ける浄化槽を生み出していたのだ。だが、「ギロチン」によってこの天然の「下水処理場」は破壊された。閉め切られた堤防内部には下水道が流れ込み、生命は殺され水質が悪化していく。渡り鳥の飛来する干潟は、こうして潰されていった。動いた行政は水質浄化策に乗り出すが、天然の「下水処理場」である生命の宇宙、すなわち干潟を潰し、人口の水質浄化策のために巨費の税金を投入するという発想の転倒と、そこに立ち現れる「倒錯の光景」に、私は山下弘文氏のいう「人間のあさはかさ」の実態を感じないわけにはいかなかった。
 干拓事業については、諫早平野の農家などで推進論が根強いという。名目に掲げられた「防災対策」「優良農地造成」が必要だというのがその理由だ。干拓事業の見直しを求める自然保護運動に対し、行政は「一度決まったら、見直し中断は無理」との姿勢を崩さない。さらには、「地元のことによそ者が口出しするな」という意識の根強さを本書は伝えている。こうして、死にゆく干潟をよそに、地域利害が絡み人間関係の軋轢や住民の利害対立が続いていく。そして、生命系の破壊と「不測の事態」が打ち続いて、さらにはますます事業費が膨らみ、干拓という公共事業に依存する住民が増え、「地域振興」の旗印のもと自然環境保護の施策は抑制され、のちの世代に干潟という生命の豊饒さを語り継ごうとする取り組みは阻止される。住民には、経済的のみばかりではなく精神的にも、さらには生命的にさえ、負担、負荷が増し続けるのだ。
 去る八月二八日、農水相は干拓縮小と一部に干潟を「再生」させると発表した。しかし、人間の身勝手さをよそに、いったい自然の、そして人間の何が「再生」されるというのか。
「大切なのは住民の立場でいまの時代に何をなすべきかを考えることだ」。本書はそう問いかける。なぜ干拓地をつくるのか、つくることそれ自体が目的化していないか──。それは人類の、自然に内包された生命に対する想像力を試される問いである。それを問い切り、いのちの思想を日々の生活に繋ぎ戻すKとはできるか。これからの時代へ向けて、私たちを包む生命系を回復する未来が、そこにこそ賭けられているのである。

  • 四六半並製285頁
  • 4-88344-070-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2001/05/01発行
旅あるいは回帰

熊日文学賞受賞!


スペイン、ポルトガルの村や街や修道院を孤独な旅人がおとなう、魂の巡礼。……紡がれた言葉をひとつひとつ辿ると、こころのざわめきが静まる……

書評

時の重なりに漂うスペイン

古木信子
作家

 全体を通して「静けさ」が言葉を紡いでいる印象を受けた。教職を勤め終えた著者は、母親を見送った後、毎年数カ月スペイン・カスティーリャ地方のバヤドリードに住み、言語や文学を学ぶため、そこでプライベートスクールに通っている。
 この本は、その町を基点にして中世の王国であったカスティーリャ地方の修道院や遺跡、古都を訪ね歩いた記録だが、日時などは細かく記されていない。路線バスを乗り継ぎながら、何度も同じ場所に旅しているので、文が前後している場合もある。
 このエリアの殆どは、日本人など見たこともない人々が住む田舎のようだ。羊飼いの描写も多い。そしてその旅の繰り返しの中で、著者は次第にその風土や人々の暮らしに寄り添っていく。
 路線バスは、野にポツンとある乗客の家の前で停車する。降りる高校生に祖母は元気かと聞く運転手。著者に道を教えた後、心配して分かれ道まで付いてくる老人。クリスマス近いバル(食堂)で、突然歌い出す妻を失くした酔っ払いの夫と、それを囃す男たち。克明な描写はそのまま映像となって、読者の目にスペインが焼きつく。
 本の中程では、著者の憧れの詩人ヒメネスの生まれたモゲルが紹介され、彼の散文詩(吉田訳)も掲載されている。村の佇まいや乾いた気候が100年前とさほど変わらないことや、彼女の旅の日時が省かれているせいで、詩人の幼年期と今の村の有り様が渾然一体となって、時の重なりに漂っているような感じになる。この本の魅力の一つであろう。
 漂うといえば、ポルトガルの国境近くを旅していた著者は、日没時、濃い紅の雲とそれを映す湖面の照り返しで、バスの中にほの赤い光の粒子が浮遊する一瞬に遭遇するが、孤独な旅であるからこその「祝福」だったのかもしれない。
 ある村で、ロバに手をかまれてそのまま口を開けてくれるまで、一緒に歩くというユーモラスなシーンもある。著者はロバが大好きだ。

  • 四六判上製232頁
  • 978-4-88344-190-7
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2010/10/01発行
木喰 弥勒 祐徳 石風社 絵本 江戸 飢饉 上人
booktitle
木喰さん
zeikomi
¥0円
木喰さん

きっと、心が笑い出す
飢饉がつづいていた江戸時代、日本全国を旅しながら、願いをこめて、まぁるく微笑んだ仏像をほりつづけた木喰上人をえがく、初めての絵本。

書評

生まれ変わりではないか

井口幸久
西日本新聞記者

 木喰(もくじき)は江戸時代の僧。二十二歳で仏門に入り、四十五歳で木食戒(かい)を授けられた。木食戒は、凡人には信じ難いほど厳しい。肉食を絶ち、火を通したものを食べてはならず、米、麦など五穀を食べてもいけない。着物は一枚、横になって寝ることも許されない。山岳を回り、仏を刻み、梵字(ぼんじ)を学び……。
 九十三歳で亡くなるまで、木喰は諸国を回って千体の仏像を刻んだと言われる。その後、仏たちは忘れられ、子供の遊び道具となり、盗まれたものもある。民芸運動の柳宗悦が再評価し、今日、円空と並び称され親しまれている。
 弥勒祐徳さん=宮崎県西都市在住=は一九一九年生まれ。中国大陸での戦火が拡大し、不況は深刻だった。赤貧洗う暮らしの中で中学に進学したが、授業料が滞り、登校停止を言い渡される。それを両親に言い出せぬ弥勒少年は、日向国分寺で時間をつぶした。そこには最大の木喰仏、五智如来が鎮座していた。消失した日向国分寺の再建のため、木喰は十年間この地に留まり、多くの仏像を残している。
「彫刻のまねごとですな。木の枝を拾うては、小刀で刻んじょりました」
 戦後、中学校の美術教師となった。一貫して絵を描き続け今日に至る。定年退職してからは木喰の辿った道を歩き木喰仏を描いた。その数は数千枚に上る。
「木喰仏は何度描いても同じものが描けませんな。つまり、生きちょるということですな」
 直線的な円空仏に対して木喰仏は丸い姿。円は角が立たず序列も生じず、すべての人を包むのだと弥勒さんは見る。昨年まで自宅で寝たきりの妻を介護しながら精力的に絵を描いた。そのひた向きな生き方に対して西都市は市民栄誉賞を贈っている。行政が個人の生き方を表彰するというのは異例中の異例。人々がいかに彼を愛しているかが、知れようというものだ。
「自分は復活する」と木喰は予言した。弥勒さんは八十九歳にして初の絵本である。数十枚の油彩で綴った木喰の生涯を眺めると、弥勒さんその人が木喰の生まれ変わりではないか──。そんな気持ちにさせられる。

  • A4変型上製36頁
  • 978-4-88344-159-4
  • 定価:本体価格1400円+税
  • 2008/03/01発行
宮原社宅_cover_web
booktitle
三池炭鉱 宮原社宅の少年
zeikomi
¥0円
三池炭鉱 宮原社宅の少年

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三池炭鉱 宮原社宅の少年
zeikomi
¥0円

三池争議の吹き荒れた昭和三〇年代の大牟田   炭鉱社宅での日々を遊び盛りの少年の眼を通して生き生きと描く   ///////////////////////////////////////////// …

書評

のどかな暮らしの先に深い意味

斎藤美奈子
文芸評論家

 福岡県大牟田市宮原町二丁目。三井三池炭鉱で働く人々が住む「宮原社宅」があった場所である。
 高さ2㍍ほどのブロック塀に囲まれた社宅に住むのは200世帯ほど。塀の外を社宅の人々は「外(がい)」と呼んだ。長屋式の社宅が並ぶ一角には共同風呂があり、隣の講堂では映画が上映された。
 著者は敗戦の翌年、この宮原社宅で生まれ、高校を出るまでここで育った。ベビーブームの走りの時代で、小学校の児童数は2千人を超えていた。
 そんな社宅での子どもの暮らしを本書は克明に描き出す。生活排水が流れ込む川でフナやザリガニをとり、台車を暴走させ、馬跳びや馬乗りやコマやパチ(メンコ)やラムネン(ビー)玉に熱狂し……。が、のどかな自分史に見えた本書に、じつは深い意味が込められていたことを、私たちは終盤近くで知るのである。
 東京の大学に進学後、知り合った女学生は、自分も福岡県大牟田市宮原町二丁目の出身だといった。ただし、彼女が住んでいたのは生け垣に囲まれたお屋敷のような「職員住宅」。
 同じ住所に住んでいたのに互いを知らない。〈職員住宅の人たちからすれば、私たちの方が「外」と呼ばれる存在だったのだ〉〈私たちは分断され閉鎖された状況を、当たり前のように受け入れながら育ってきていたのだ〉
 三池炭鉱はかつて囚人労働や強制労働が行われた炭鉱でもあり、また三池闘争(1960年)の舞台としても知られている。
 闘争の最中、昇進を打診された父に農中少年はいった。〈お父(と)さんが係り員になって、給料が上がることは嬉しか。ばってんそれは、三池労組を出るということやろう〉〈それは、いやばい。考えられん〉
 三池炭鉱宮原坑跡は昨年、ユネスコ世界文化遺産のひとつに登録された。そのすぐ側にあった暮らしがいまはない。クラッとするような感覚に襲われる。(朝日新聞2016年8月14日)

  • 四六判上製 256頁
  • 978-4-88344-265-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2016/06/10発行
上海より上海へ

従軍慰安婦・慰安所 第一級写真資料


兵站病院の軍医が克明に記した日記をもとに「残務整理」と称して綴った回想録。看護婦、宣教師、ダンサー、芸人、慰安婦、芸妓、女給……戦争の光と闇に生きた女性たちを、ひとりの人間の目を通して刻む。従軍慰安婦・慰安所第一級写真資料。重要資料「花柳病ノ積極的豫防法」兵士の性病対策レポート。

書評

親子二代にわたる「祈りの書」

森崎和江
作家

 一九三七年の七夕の夜、中国との間で戦闘状態に入った。シナ事変と呼んだ日中戦争はやがて長期戦化詩、太平洋戦争へと拡大した。その三七年の晩秋に召集され、前線へと送られた一軍医の刻名な記録集が、今回遺族の手によって刊行された。麻生徹男著『上海より上海へ』である。副題に「兵站病院の産婦人科医」とある。
 当時著者は九州帝国大学を卒業して産婦人科医となって間もない、若い父親だった。その手記を刊行した天児都(くに)さんは著者の次女で父出征の折は二歳。現在福岡市在住の産婦人科医である。
 同書は私家本として著者が生前にまとめた『戦線女人考など』を中心にし、写真集「戦線女子考」をはじめ、「軍陣医学論文集」や陣中日誌その他加えたもので、日中戦争当時の占領地での陸軍の公私にわたる日常が、いきいきと描かれている。かつて私は私家本『戦線女人考など』を読む折を得て、ひどく感動し、この書の一般への刊行をひそかに願っていた。というのは、同書に朝鮮人従軍慰安婦のことが軍医である著者の体験を通して描かれている上に、写真もまた歴史資料としてこの上もなく貴重だ、ということもあった。けれどもそれ以上に、これら第一級の資料を残した著者の、日常性および非日常性にたいするあくことのない能動性に打たれたのだった。そうした姿勢なしには、戦場における性的慰安の対象である女たちのことも残らなかった。昭和の記録として、半世紀後の私たちの心をゆさぶる力となっている著者の情熱を、何よりも尊く思うのである。
 著者はその私家本の序文に記している。「私達日本人は中国にとって善き隣人ではなかった。わが国振りの国民皆兵を思い、又一九三七年の南京に思いを馳せるなら、一億の大和民族之れ皆戦犯である。私は此の大和民族の一員として一九三七年より四年間、中支の大陸に居た」と。三七年の南京とは、日本軍による中国民衆の虐殺事件である。その直後に著者たちは南京へ入っているのだ。関連の写真も、とっている。
 記録魔のように、こまやかに対象に接近して文章化し、一日も休むことなく日記をつけ、また留守宅に長文の便りを出し、趣味のカメラを多様に駆使して、時にスナップを、時に芸術化を、時に資料化をと、この一医師は軍隊の医師をはみ出して、何かに迫ろうとしつづけているのである。
 こうした生き方が脈々と流れていたからこそ、慰安に関する軍隊への提言も、占領地の民衆の表情も、傷ついた兵士のことも、後世に残していただいた。単に著者が産婦人科医だったから、性の記録が残ったわけではない。そして死を目前にして、当時の体験のありのままを書き記そうと努められた心の内に、先の序文の、「私は此の大和民族の一員として」中支にいたのだ、という痛切なことばが、あたかも時代的原罪のようにひびいていたことを思う。
 著者の体験から半世紀たって、やっと、私たち日本人は、一私人である自分の心の中をさしのぞきながら、当時の人間観がわが心の底にもこびりついていはしないか、と、反省するのである。そして、当時の一将兵が、この記録を残してくれたことの真意を、有難く思う。アジア諸民族の前に頭を垂れつつ、この記録にほっと救われた思いがする。
 そして刊行に踏み切ってくださった遺族の、短い文章が持っている現代文明への批判をふりかえる。天児都さんは、父上の遺稿や写真が、旧軍隊批判という美名にかくれた個人たちの売名行為によって、さまざまに利用されたことをさらりと附記した。それら行為は私には、他民族とか女たちの人格とかを無視して痛みを感ずることのなかった、かつての日本人の人権意識の生き残りのように思えてしまう。同書は、親子二代にわたって表現された日本文化への、祈りの如き書だと、その刊行の必然を思いみている。

多芸多才な軍医による戦時記録

高島俊男
中国文学者

 この本の著者、麻生徹男さんは、九州福岡の産婦人科のお医者さんである。明治四十三年生まれ。四年前になくなっている。
 昭和十二年の秋、二十七歳の時に軍医として大陸の戦線におもむき、三年あまりを上海・南京など長江ぞい各地で勤務した。この本は、麻生医師の手記、およびその間にとった写真を、没後娘さんがまとめたものである。
 この本がめっぽうおもしろいのは、このお医者さんが、おそろしく有能で、多芸で、にぎやかな人だからだ。
 その一々をかぞえあげるならば──
 まず戦場の軍医はふつうの医者よりよほどいそがしい。本職は産婦人科だから兵隊相手のばあい性病が専門であるが、それ以外に外科の手術もするし精神科も見る。重傷でかつぎこまれた兵隊が死ねばあとしまつもする。「人間一人を灰に作り上げるには驚く程の薪が必要であった」とあるように、とことんめんどうを見たのである。
 またレントゲン技師もやる。戦地のレントゲンだからまず電気を作り出すことから始めねばならぬ。したがって部隊の発電機担当者である。移動式X線装置の駆使に関しては国軍第一と陸軍省医務局長からおほめをたまわったそうだから半端な技師ではない。
 このことでもわかるように、このお医者さんは機械に強い。特に自動車が好きである。国産車の性能がうんと悪かった昔のこと、まして戦地だから、整備も修理もやれてはじめて自動車好きだ。そういう人はめったにいないから、この人は部隊の全車両の整備責任者である。あわせて兵器一切の補修担当者である。兵站部隊だから大した兵器はないのだろうが、それにしても便利な人だ。
 ずいぶんといそがしいだろうに、毎日丹念に四種類の日記をつける。英文日記、独文日記、陣中日記、業務に関する資料提出日誌。そのうえ留守宅あての通信。まめだねえ。
 自動車以上に好きなのが写真である。お母さんの家が写真屋だったので子供のころからカメラに親しみ、応召前は関西の写真作家集団に属するプロ級。戦地へは愛機スーパーイコンタを持参し、上海で新鋭機ローライコードU型を手に入れ、部隊の従軍写真帖作成担当者として陸軍報道部写真班の腕章を着用し、とった写真が千数百枚。そのうち精選六十数点を「戦線女人考」と題してまとめたのがこの本の巻頭にそっくりおさめられてあり、なお文中にも多数を配する。題を見てもわかるようにふつうの戦争写真ではない。
 たとえば、その名も高い日本陸軍専用衛生サック「突撃一番」の実物写真、あるいは慰安所および兵站司令部「慰安所規定」の写真など。当時の報道カメラマンでこの種の記録をのこしてくれた人はたんとはいまい。
 しかし何といってもこの人の最大の特徴は写真の題にもある「女人」だ。いつも女の人にかこまれているのである。生まれた時からそうなので、「私は父の経営する福岡産婆養成所の校舎の一部で産まれた。家の周りは色町で、何かにつけて女の多い所であった。初めての応召の時など、博多水茶屋券番の綺麗どころ一行が、紫の券番旗を翳して大挙、駅まで見送ってくれた」という人である。お父さんも婦人科医で、顧客の多い色街に居をかまえ、かねて学校の生徒はすべて助産婦志望の若い娘さんだから、まわりは女ばかりなのだ。
 戦地へ行ってもそうで、まわりはみんな看護婦さん。慰安所では「週二回も何十人もの慰安婦の局部のみ覗かねばならぬ」。占領地には福岡色街の店が多数進出していて、子供のころからなじみの芸者さんたちにたいへんにもてる。
 また非常なダンス好きで、軍務の余暇にはパリッと背広に着かえて、髪の毛だけは急に生えないから坊主頭で、せっせとホールに通う。最前線の武漢へ移動しても、「在った、有った。終に見つけたダンスホール。上海以来、夢の中に、寝ても覚めても忘れることの出来なかった、奇麗に磨かれたフロアと、スウィング・ミュージック」と、ちゃんと見つけてしまうのである。いいのかね、帝国軍人が。
 そしてどこでもナンバーワンの美人ダンサーと仲良くなる。この本も各地のダンサーたちとの交遊を書いた部分が多い。もちろんみな写真つき。
 この人の写真や記録は、日本軍が慰安所をやっていたことの動かせぬ証拠ばかりだから、写真が無断使用されたり、迷惑をこうむることも多かったらしい。娘さんが本を編んだのも、写真の著作権を主張し、あわせて「麻生軍医は朝鮮人慰安婦徴集の首唱者」との中傷に反駁する意図があるようだ。しかしそういう生々しいことを別にしても、一人の多芸多才の軍医の写真と文章による戦時記録として、貴重かつおもしろいものとわたしは思うのである。

  • A5判上製260頁
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 1993/08/15発行
医者、用水路を拓く 中村哲 アフガニスタン アフガン らい ハンセン ペシャワール 石風社 中村 国際 NGO 用水路 井戸 イスラム
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医者、用水路を拓く
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¥0円
医者、用水路を拓く

「百の診療所より1本の用水路を!」


白衣を脱ぎ、メスを重機のレバーに代え、大地の医者となる。──パキスタン・アフガニスタンで1984年から診療を続ける医者が、戦乱と大旱魃の中、1500本の井戸を掘り、13キロの用水路を拓(ひら)く。「国際社会」という虚構に惑わされず、真に世界の実相を読み解くために記された渾身の報告。

書評

アフガンで苦闘、ついに緑が蘇る

志葉 玲
ジャーナリスト

 残念ながら、現在ほど「国際貢献」という言葉が欺瞞を伴って使われる時は無かっただろう。二十年余りもアフガニスタン支援に携わってきた著者の中村医師は、本書で繰り返し訴える。「殺しながら救う援助はない」「自衛隊の派遣は有害無益。大旱魃で飢える人々を救うことこそ必要だ」と。米軍がモスクや学校への「誤爆」を続ける一方、懐柔策としての援助を行うことで、本来の援助団体までも、現地の人々から不審の目を向けられ、襲撃される。筆者自身、イラクでの取材中に「自衛隊を送った日本は敵だ!」と罵声を浴び、地元の若者達に銃を突きつけられたことがあるが、同様の問題は、アフガニスタンでもやはり起きていたのだ。
 だが中村医師は卓上の議論ではなく、その行動で欺瞞を打ち破り、現地の人々の信頼をかちとっていく。それが本書の主題である用水路建設だ。地球温暖化の影響で、急速に失われた水を、農地に戻す。「百の診療所よりも一本の用水路を」と、全てを捨てて奮闘する著者の姿にはただただ敬服するしかない。
 工事は決して容易なものではなく、大雨や土石流、水路の決壊など数々の困難に直面する。その上、中村医師を含め作業チームは皆、大規模工事の経験は無く、日本でのような資金・物量に頼る工法も使えない。自然に翻弄され、無い無い尽くしの中、悪戦苦闘する中村医師らは、現地の人々の知恵や技術、そして日本の伝統の治水技術に活路を見出していく。そして、ついには荒廃した大地に見事、緑を蘇らせるのだ。
 本書を読む人は、真の「国際貢献」とは何か、いかに平和を創り出すのか、考えさせられるだろう。絶望に抗い、未来を切り開く勇気を与えられるだろう。そして、自然の偉大さと恐ろしさ、地球環境の破壊が何をもたらすかを知るだろう。これは人間・中村哲の物語であるだけではない。迷走する日本社会に活を入れる好著なのである。

人間として何をなすか

上野 朱
古書店主

「ドクター・サーブ」こと、中村哲医師。パキスタン北西部のペシャワールを拠点とした医療活動や、『医者井戸を掘る』ほか多くの著書でも知られる人物だが、その中村医師がいまだ紛争絶えぬアフガンで、今度は井戸ではなく全長十三キロの灌漑用水路(第一期工事として)を切り拓くという難事業に挑んだ「我々の武器なき戦」の記録である。
 なぜ医者が井戸や用水路を掘るのかについて中村医師の答えは根源的且つ明快だ。安全な飲み水が確保され、灌漑で農地が甦って食糧が自給できるようになれば病気は減る、と。そこには「○○国を民主化する」や「わが国の援助は感謝されている」といった「……してやる」式のおごりや押しつけは微塵もない。
 その地には何が必要か、人々が真に求めるものはなにかを見極め、困難に臨んで「気力ヲ以テ見レバ竹槍」と、自ら矢面に立って実行する肝力溢れる人間の姿は、正しい意味での任侠道を見る思いだ。どこの世界に米軍ヘリの機銃弾の下や濁流寄せる中洲に立ち、ユンボで巨石を運んでいる医者があろうか。
 当然の事ながら中村医師は治水工事の専門家ではなく、現地には機材や資材も不足している。あるのは二十余年にわたる活動で得た信頼と、その信頼の下に集まる人材である。その主体はなんといってもアフガン人自身。そうでなければ支援もひと時のブームにすぎないとの指摘には、耳の痛い向きも多かろう。
 造っては崩れ、崩れては補強しながら水路は伸びていく。工事の要衝に、筑後川・山田堰(せき)の知恵が活かされているのも嬉しい。人の苦労を面白いといっては申し訳ないが、読んでいる自分まで、シャベルのひとつも握っているような気にさせられたのも事実である。
 工期四年、ついに命の水は貯水池に到達する。歓喜して水と戯れる子どもたちの群の中にドクター・サーブは何を探したか。これは読者のためにとっておこうと思う。「地の塩」を実践する人には頭を垂れるしかない。本書を貫くのは、「日本人として」ではなく「人間として」なすべきことは何か、なのだ。

素人が治水工事6年半の記録

池田香代子
翻訳家

 アフガニスタンで二十年以上医療に携わっている医師が、気候変動に伴う大旱魃に直面し、広大な土漠の一大灌漑事業に挑んだ。その六年半の記録である。開始は二〇〇一年九月。その翌月からこの国は、米国を襲った9.11テロへの「報復」として、攻撃にさらされることになる。
 そんな戦争やいわゆる復興支援を含む国際政治を、著者は「虚構」と呼ぶ。そこには軽蔑と絶望、そして決意がこもっている。なぜなら、著者の前には、二千万国民の半数が生きるすべを失った現実が広がっているのだから。日本の振る舞いには気疎さが募るばかりだ。
 巨大な暴れ川と過酷な気象を相手に、ずぶの素人が治水工事にあたる。資金は日本からの浄財のみ。機材も資材もごく限られている。著者は、出身地の九州各地を歩いて江戸時代の治水を研究し、現代アフガンにふさわしい技法を考案していく。現地が保全できない現代工法は採るべきではないとの考え方だ。非業の死を遂げた先人の多いこともさらりと書きしるす。水は諍(いさか)いの種だった。
 著者も、治水を巡る対立の矢面に立つが、長年培った交渉術で味方を増やしていく。著者のまなざしには、石や土を相手の伝統的な技量をごく自然にもちあわせ、愚直なまでに信念を貫くアフガン農民への尊敬の念と、弱く愚かな人間への、ちっとやそっとでは断罪に走らない懐の深さとユーモアが感じられる。
「人を信ずるとは、いくぶん博打に似て」と達観する著者は、激高した老人に投げつけられる土埃にまみれながら、「おじちゃん、落ち着け! 話せばわかる」と声をかけるのだ。
 去る者、終始離れぬ者。あるときは敵対し、またあるときは協力を惜しまぬ者。さまざまな人間たちのただなかに、著者は命がけで立っている。その姿は著者の祖父、玉井金五郎をほうふつとさせる。この名親分を小説「花と龍」に活写した火野葦平は著者の叔父。著者には、弱きを助けるという本来の任侠の血が流れている。
 決壊また決壊、予期せぬ出水。重責を引き受けての難しい決断。過酷な労働。人はここまで捨て身になれるのか。土木工事の顛末を夢中で読んだのは初めてだ。

旱魃に立ち向かう驚くべき行動力

養老孟司

 著者はもともと医師である。二度ほど、お目にかかったことがある。特別な人とは思えない。いわゆる偉丈夫ではない。
 最初にお会いしたとき、なぜアフガニスタンに行ったのか、教えてくれた。モンシロチョウの起源が、あのあたりにあると考えたという。その問題を探りたかった。自然が好きな人なのである。
 そのまま、診療所を開く破目になってしまった。診療所は繁盛したが、現地の事情を理解するにつけて、なんとかしなければと思うようになった。アフガン難民を、ほとんどの人は政治難民だと思っている。タリバンのせいじゃないか。それは違う。旱魃による難民なのである。二十五年間旱魃が続き、もはや耕作不能の畑が増えた。そのための難民が、ついに百万人の規模に達した。それを放置して、個々人の医療だけにかかわっているわけに行かない。
 海抜四千メートルほどの山には、もはや万年雪はない。だから川も干上がる。しかし七千メートル級の山に発する流れは、いまも水を満々とたたえて流れてくる。そこから水を引けばいい。水を引くといっても、医者の自分がどうすればいいのか。
 驚くべき人である。寄付で資金を集め、故郷の九州の堰(せき)を見て歩く。現代最先端の土木技術など、戦時下のアフガンで使えるはずもない。江戸時代の技術がいちばん参考になりましたよ、と笑う。必要とあらば、自分でブルトーザーを運転する。この用水路がついに完成し、数千町歩の畑に水が戻る。そのいきさつがこの一冊の書物になった。
 叙述が面白いも、面白くないもない。ただひたすら感動する。よくやりましたね。そういうしかない。菊池寛の「青の洞門」(『恩讐の彼方に』)を思い出す。必要とあらば、それをする。義を見てせざるは勇なきなり、とまた古い言葉を思い出す。
 だから書評もごちゃごちゃいいたくない。こういうことは、本来言葉ではない。いまは言葉の時代で、言葉を変えれば世界が変わる。皆がそう信じているらしい。教育基本法を変えれば、教育が変わる。憲法を変えれば、日本が変わる。法律もおまじないも、要するに言葉である。「おまじない」を信じる時代になった。
 外務省は危険地域として、アフガンへの渡航を控えるようにという。著者はアフガンに行きませんか、と私を誘う。危険どころじゃない、現地の人が守ってくれますよ。そりゃそうだろうと思う。唯一の危険は、用水路現場を米軍機が機銃掃射することである。アフガンでの戦費はすでに三百億ドルに達する。その費用を民生用に当てたら、アフガンにはとうに平和が戻っている。米国に擁立されているカルザイ大統領ですら、そう述べた。著者はそう書く。
 国際貢献という言葉を聞くたびに、なにか気恥ずかしい思いがあった。その理由がわかった。国際貢献と言葉でいうときに、ここまでやる意欲と行動力の裏づけがあるか。国を代表する政治家と官僚に、とくにそう思っていただきたい。それが国家の品格を生む。
 同時に思う。やろうと思えば、ここまでできる。なぜ自分はやらないのか。やっぱり死ぬまで、自分のできることを、もっとやらねばなるまい。この本は人をそう鼓舞する。若い人に読んでもらいたい。いや、できるだけ大勢の人に読んで欲しい。切にそう思う。

「国際協力」在り方示す

佐高信
評論家

「外国人によってアフガニスタンが荒らされた」という思いは、官民を問わず、党派を超えてアフガニスタンに広がっているという。
 そんな中で、井戸を掘り、用水路を拓く著者の試みは例外的に支持を受けている。それはなぜなのか? まさにいま問題になっているテロ対策特別措置法が国会で審議されていた時、参考人として招かれた著者は「現地の対日感情は非常にいいのに、自衛隊が派遣されると、これまで築いた信頼関係が崩れる」と強調し、自衛隊派遣は有害無益で、飢餓状態の解消こそが最大の課題だと訴えた。
 しかし、この発言に議場は騒然となり、司会役の自民党の衆院議員は取り消しを要求する始末だった。時計の針を六年前の著者の発言時点に戻せば日本はどこでまちがったかが明らかになる。
 その意味でも、この本は実に「タイムリー」な本である。
 自衛隊派遣は著者たちのようなNGOの活動を危険に陥れるだけであり、まさに「有害無益」なのだ。「給油活動」なるものもその延長線上でしかとらえられないことは言うまでもない。
 評者は著者を〝歩く日本国憲法〟と言っているが、平和憲法の下でこそ「どんな山奥に行っても、日本人であることは一つの安全保障であった」という著者の指摘は成り立つのである。
 喜ばれないものを派遣して、喜ばれているものを危うくすることが「国際協力」であるはずがない。医師である著者が「百の診療所よりも一本の用水路」を合言葉に現地で奮闘する姿は、これこそが国境を越えた協力の姿だということを示す。
 一つ一つ地に着いた言葉でつづられる「報告」に読者は粛然とさせられると思うが、著者が病気で二男を失う場面には、思わず、神はどうしてそんな試練を著者に与えるのかと叫ばずにはいられなかった。幼い子を亡くして著者は、空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちがいっそう分かるようになったという。

先ずパンと水を確保せよ!

吉村慎太郎

 政情不安と厳しい自然環境で知られ、日本では省みられることの少なかったアフガニスタンの大地に、誰が用水路建設計画を思いつくだろう。いや、思いついたとしてもその実行と完成までに多くの障害が立ちはだかることは容易に想像できる。しかし、この計画を実現したのが、1984年以来特にアフガン難民救済の医療事業を行ってきた中村哲医師率いる「ペシャワール会」である。
 何故、医師が治水事業に従事したのか? との素朴な疑問が湧くかもしれない。「飢餓と渇水の前に医療人は無力で、辛い思いをする。清潔な飲料水と十分な農業生産があれば、病の多くは防ぎ得るものであった」とは、こうした疑問を直ちに解消してくれる。著者とペシャワール会スタッフたちは現地アフガン人を含めて、「百の診療所より一本の用水路を!」を合言葉に立ち上がった。本書は、主にアフガニスタン東部クナール川を利用した用水路計画工事が着工される2001年9月から、第一期工事(マルワリード用水路、総距離一三キロメートル)が終わる2007年4月までの約5年半に及ぶ活動記録である。
 この計画の開始はもちろん、「米国同時多発テロ」事件と重なる。アフガニスタンは、米国ブッシュ政権によりその実行犯と目された「アル・カイーダ」と緊密な関係を持つタリバーン政権支配の国として、その一ヵ月後に激しい空爆に曝された。日本を含め、国際的な「反テロ戦争」の大合唱とその後の戦争状態や不安定な政治情勢が続く中、しかしこの計画は進められた。障害はそれだけに止まらない。素人集団による土木技術の限界、約10億円にも達する工事資金調達の難しさ、襲い来る洪水、土石流、地盤沈下や旱魃といった自然の猛威、「復興支援ラッシュ」による物価高騰、工事や土地所有をめぐる現地人との争いなども、計画推進を阻んだ。どれひとつ取っても、決して解決は容易ではない。
 この難工事も「誰もやりたがらぬことを為せ」との基本方針に加え、「アフガン問題は先ずパンと水の問題である」との現実認識や政治的中立の堅持、それまでに一五〇〇本もの井戸を掘ったことに見られる著者の指導力と協力者のエネルギッシュな活動、現地人との粘り強い対話を通じて漸く完成を見た。それだけなら、異国での苦労話に過ぎないが、現実の不条理や虚飾を目の当たりにした著者の言葉は、各々異なる文脈で語られながら、「錯覚」に陥った世界の実態を鋭く衝いている。「平和とは決して人間同士だけの問題ではなく、自然との関わり方に深く依拠している」、「『デモクラシー』とはこの程度のもので、所詮、コップの中の嵐なのだ」、「『ピンポイント攻撃』の実態は、無差別爆撃であった」など。
 今から七〇年前に同じアフガニスタンで農業指導に奔走した尾崎三雄(『日本人が見た‘30年代のアフガン』石風社)は著者の先例となる日本人だ。さらに医療活動の傍ら、カメラを手に発展途上国六〇ヵ国以上を旅した山本敏晴『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ──望まれる国際協力の形』(白水社)も現実と葛藤する真摯な日本人の基本姿勢を教えてくれる。

  • 377頁 四六判上製
  • 978-4-88344-155-6
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/11発行
藁塚放浪記

北は津軽の「ニオハセ」から宮城の「ホンニョ」飛騨の「ワラニゴ」宇和の「ワラグロ」出雲の「ヨズクハデ」、南は薩摩の「ワラコヅン」、はては韓国、アフガンまで、秋のたんぼをかけめぐり、藁積みの百変化を追った30年の旅の記録。
藁塚(わらづか)=稲刈りを終え、乾燥させた稲束を脱穀したあと(または脱穀の前に)、藁を積み上げられたもの。

書評

「最後の日本人」たちが生んだ米作り文化の貴重な記録

与那原恵
ノンフィクションライター

 稲刈りを終えた秋のたんぼに、脱穀したあとの藁の束が積み上げられている。これを「藁塚」というそうだ。藁塚は地方それぞれに呼び方がある。ボウガケ(青森)、ワラニゴ(岐阜)、マルボンサン(京都)、シコホヅミ(佐賀)などなど。地方のぬくもりが響いてくるような呼称だ。
 著者は、この藁塚を追って日本の北から南、さらには韓国、中国まで三十年にわたって歩き、記録した。資料を探しだし、土地の人々の証言を得て、貴重な一冊となって結実した。
 まず各地の藁塚、その個性的な造形に驚かされる。藁の干し方も、その風土によってさまざまだ。藁塚の形には大別して二種類あって、ひとつは中心に棒杭を突き立て芯にして積み上げるもの。もうひとつは杭を用いないものだ。
 宮城県のホンニョは、棒杭を中心にらせん状に藁を巻く。岡山県のイナグロは、小さな小屋のように藁を積み上げる。大分県のトーシャクは切りそろえた稲束をぐるりと見せ、その上に傘のような稲と天に伸びる頭がある。
 秋のはかない日差しの中で黄金色に輝く藁塚の立つ姿は、ほんとうに美しい。どれも、ただ稲藁を乾燥させるという目的だけではない、そこに生きる人たちの実りの感謝と喜びの感情があたたかく伝わってくる。
〈藁塚は、野に積まれた庶民の手の記憶。それらは決して芸術作品ではないが、米作りを中心とした祖先の営みや、民族の記憶をも彷彿とさせる〉
 著者は藁塚を世界遺産ならぬ「世間遺産」だという。著者の作品は、左官職人の卓越した技術である「鏝絵」を紹介した本で目にしている。「手の仕事」への深い尊敬と愛情が著者の一貫したまなざしである。
 大陸から伝わったという「練塀」という泥壁の技術がある。泥に砂や藁スサを加え水でよく練って壁にしていくものだ。よく乾燥させた藁は、壁に用いられたばかりでなく、俵になり、ムシロになり、草履になり、肥料になり、畳の芯にもなった。米作りの労苦の果てに得た「宝」を有効に使う手だてがあったのである。
 しかし現在では稲刈り機が藁を切り刻み田に捨て、米は農協のライスセンターで強制乾燥させられるという。そういえば、本書にあるような藁塚の光景を見なくなって久しい。著者も悲痛な筆致で〈無償の行為を生み続けた「最後の日本人」たちが消えていく過程を記録したものだ〉と書いている。
「米」をとりまく文化を私たちは見捨てた。厳しい自然の中で育まれた人間の営みを忘れ去ろうとしている。たんぼは今、深い雪に覆われているだろう。どうか元気で春を迎えてほしい。

30年にわたり全国を取材

井口幸久

 藁塚とは、ワラを乾燥させるために積み上げた塊のこと。藁にお、藁ぐろ、藁小積などともいう。さらに「ニオハセ」(津軽)、「ワラグロ」(宇和)、「ワラコヅン」(薩摩)など、地域によって呼び方も形も違う。本書は、日本全国を歩き、藁塚を取材した記録である。
 仮に、ワラの積み方が地域によって異なっていることを知っていても、それだけでは史料としての価値はない。藤田さんは三十年にわたり全国の藁塚、数千枚を撮影した。途方もない「無駄」が一冊の本のまとまったとき、大陸の稲作文化と日本のそれとを比較検証する有力な史料になったのである。
 藁塚は1中心に棒杭を突き立て、その周りに積み上げるものと2棒杭を用いないものとに大別される。さらに、気象条件などを加味して大小、高低、形状などに多様な変化が見られる。その形は人々が「手の記憶」として代々受け継いできたものであり、ほとんど変化していないと考えられる。藁塚は、朝鮮半島、中国大陸からインドにも見られ、調査が進めば、稲作の広がりを系統的に調べることも可能であろう。
 藤田さんは、大分県別府市生まれ。「子供のころから図鑑類が好きで小遣いをためては買っていた」という。昆虫、植物に始まり、建築物などへと興味は広がっていった。別府の建物の写真を多数集め、近代和風建築の推移を示す本を出版するなど、その仕事の根底に「歩く、集める」がある。
 印鑑職人だった父の影響もあり、写真家としての仕事も「職人としての手仕事」が基軸となった。そうして取り組んだのが、左官だった。
「土蔵の材料や職人たちの歴史。無名の民の手が生み出したものへの愛着が強い」と藤田さんは言い、泥壁の材料であるワラへの関心が、藁塚につながっていった。
 今日、ワラを積む光景はこの国から消えつつある。農業の機械化とともに、コメを収穫した後のワラは、粉砕されてしまうからだ。本書は、食糧としてのコメだけにしか価値を見いだそうとしない近代文明への、無言の批判でもある。大分県別府市在住。五十五歳。

農民の〝手の記憶〟

「本を語る」

 ボウガケ、ワラニョ、サンカクニオ、ニョウ、マルボンサン、ヨズクハデ……。まだまだあるこれら呪文のような音はみな、同じある〝物体〟の呼び名だという。藁を乾燥させるために収穫後の田んぼに積み上げる「藁塚」。ところ変われば形状とともに名称も変わるそのさまを、日本中、アジアまでも歩き回って調べ上げたのが、写真家の藤田洋三さんだ。
「ずっとおもしろかったなあ」。撮り始めてかれこれ三十年の歳月を感慨深げに振り返る。「文化の根っこを掘り下げているという実感がありましたから。近代化によって断絶しなかった農民の〝手の記憶〟ですよね」
 脱穀後の藁は、巨大なフクロウや神社の社やテントや、いろんなものに見えるさまざまな形状に積み上げられる。しかも「何のために」と首をかしげたくなるくらい、一種の美学に基づいて。「景観条例なんてなくなって、農家はちゃんと景観つくってきたんだってね」
 美しさだけではない。藁塚のあるところ、藁の「用」がある。牛の飼料として、敷き藁として、また養蚕のカイコを飼う「蚕箔(さんぱく)」も藁でつくられる。泥に砂や藁を混ぜて練った土でつくる「練塀」の小屋も、農家とは切っても切れない関係にある。本書でもっともスリリングなのも、あるタイプの藁塚と練塀文化の地域分布が一致するという事実を考察したくだりだ。
「新羅系渡来人といわれる秦氏による技術伝承の跡ではないかと、まあ写真家が勝手なこと言ってるんですが。藁をめぐる営みが、昔はずっと一つながりだったはず」
 写真を学んだ学生時代、土門拳、木村伊兵衛らリアリズム写真の洗礼を受けた。人間の生を撮るその方法を、告発調ではなく、自身が「生きずりの写真」と呼ぶさりげないショットに見いだした。「日本の農村を〝懐かしく〟撮るのなんて簡単。そうではなく、暮らしの実相を撮りたかった。写真におけるリアリズムとは、という問いに、僕なりの卒業論文が書けたような気持ちです」

鏝絵探す旅での出合い

佐田尾信作

 十二年前の晩秋、記者は島根県温泉津町(現・大田市)の谷筋の集落、西田地区に立っていた。半円の弧を描く棚田に点在するピラミッド型の稲ハデ、「ヨズクハデ」の「できるまで」を撮ろうと通っていたのだ。
「ヨズク」とはフクロウ。四本の丸太で組まれた稲ハデに稲穂を架けた姿は、まさにフクロウ。普通のハデに比べて立体的で、耕地の狭いこの里の人々の生活の知恵。あのヨズクたちは今も、あの里で羽を休めているのだろうか。晩秋から初冬のころ、ふと思い出す。
 そのヨズクハデがこの本に載っている。日本列島各地から韓国、中国にまで足を延ばした「藁塚」「稲塚」の記録だ。乾燥させた稲束を脱穀後に積み上げた藁を「藁塚」「藁ぐろ」「藁小積」などと呼ぶ。もみの脱穀前に積み上げて干す稲穂は「稲塚」「稲ニオ」などと呼び、木に架け干しすると、「ハデ」などと呼ぶ。
 写真家でもある著者は左官職人のしっくい彫刻「鏝絵」を世に知らしめた人。同好の士たちと鏝絵を探す旅は藁塚や稲塚と出合う旅だった。
 しっくいの材料は石灰や藁。本書もおのずと、しっくいに筆が及び、石灰窯の痕跡などを探す「お石灰探偵団」まで登場させて笑わせる。しかし、読み進むと、やがて周防灘の祝島(山口県上関町)に残る練り塀にまでたどり着く。「『石灰と泥の技術史』というファインダーを携えながら歩いた藁塚の旅」。著者の旅の本質が理解できた。
 鏝絵でも知られる大分県宇佐市安心院町では、一九九九年から「全国藁こずみ大会」が開かれている。列島各地から出展する、いわば藁塚と稲塚のテーマパーク。第二回大会では西田のヨズクハデも招かれた。あのヨズクたちが九州まで羽ばたいたのか。物言わぬ藁塚が一層、いとおしく思えてきた。

収穫が終わった田んぼに林立するワラ塚が物語るグローバリズム

下川耿史
風俗史研究家

 注連縄(しめなわ)といえば、現在でも正月用品の定番の一つだが、これは青い頃に収穫したモチ米のワラで作られるそうだ。私は九州の水田地帯で育ったが、恥ずかしながらそのことを本書で初めて知った。
 恥ずかしいことがもう一つあって、取り入れが終わった後のワラを積み上げたもの、つまりワラ塚(私の田舎ではワラ坊主と称していた)は、私にとってはごくありふれた風景であり、全国どこへ行っても似たような形だと思い込んでいたが、その土地の気候風土や用途によって、形がまったく異なるという。いわれて見れば当たり前のことだが、思い込みというのは困ったものだと、あらためて反省した次第。
 ところで本書の魅力の1つは各地方に伝えられたワラ塚の形の面白さにある。この点は300枚に及ぶ写真によって楽しんでもらうしかないが、それぞれが風趣たっぷりで、私は北海道の「豆ニオ」、茨城県の「ワラコヅミ」や島根県の「ヨズクハデ」、大分県の「トーシャク」などの風景を見ながら、「一度はぜひとも実物を見たいものだ」と思った。
 もう1つの特徴は、たかがワラを積み上げただけのワラ塚が、古代朝鮮ばかりか中国や東南アジアとの結びつきを実証する、貴重な証拠だという指摘である。
 たとえばワラ塚は前に紹介したほかに、ニュウとかニオと呼ばれることが多いが、これは水銀の技術者といわれる丹生(ニュウ)一族と関わりがあるようだ。また呼び方は地方ごとに違っても、同じ工法で作られたワラ塚をたどって行くと、日本に漆喰壁の技法を伝えた新羅人の秦氏との関係が深いという。秦氏とはいうまでもなく、京都・太秦の広隆寺を作った一族で、機織りの元祖である。
 さらに大分県安心院町(現宇佐市)で行われた「藁こずみ大会」では、中国雲南省の農民がゲストとして招かれてワラ塚作りを披露したが、できあがったものは大分県や茨城県などで行われているものとそっくりなことが、写真で紹介されている。要するにワラ塚とは1500年以上前にこの国で実現していたグローバル化の生きた証というわけである。
 本書を読むと、日本人はグローバル化という名目で、よその国へ金もうけに出かけているが、実は1500年以上前のグローバル化の恩恵を今もって継承していることが実感される。
 現代のグローバル化は果たして1500年の生命力を持ちうるのだろうか?

  • 240頁 A5判変並製
  • 4-88344-130-X
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/12発行
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