書評

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この道一筋

昭和50年代から平成19年青春佐賀総体まで、その拳ひとつで親子以上の信頼を築きあげてきた指導者と生徒たちの、四半世紀に及ぶ情熱と激闘の記録。──リングに刻む子弟の絆。

書評

ボクシング、その心の強さ

岩田直仁
西日本新聞記者

 一九八七年、全国高校総体ボクシング大会が札幌市で開催された。注目選手はライトフライ級に続いてライト級制覇を狙う豊国学園(福岡県)の鬼塚勝也。準決勝でその夢を絶ち切ったのは、徳島の生徒だった。後に鬼塚はWBAスーパーフライ級王者に、徳島の川島郭志はWBCスーパーフライ級王者になる。高校ボクシング史に語り継がれる勝負である。
「二人とも学生時代から抜きん出た選手でした。でも、高校、大学でボクシングに青春を賭けたほとんどの選手は、大きな脚光を浴びることもなく、リングを去っていくんです」
 自らもそんな名もなきボクサーだった。佐賀市大和町の出身。地元・龍谷高校でボクシング部に入り、推薦で中央大学へ。ヒットアンドウエイが得意なサウスポーのボクサータイプ。「周囲から『おまえは左腕一本で大学に行った』と冷やかされたもんです。とはいえ、プロで食っていける才能なんて、誰にでもあるわけないじゃない」。大学卒業後に就職したが、すぐに退職。満たされない心を抱えたある日、新聞記者の父から譲り受けた一眼レフを手に、出掛けたのは後楽園ホールだった。
「後輩の写真を撮ってやろう、という軽い気持ち。そんな写真をボクシング雑誌に持ち込むと、買ってくれた」。転機になった。八三年から高校ボクシングに対象をしぼり、国体、インターハイ、全国高校選抜などに足しげく通ううちに写真家として認められ、拳を交わす選手だけでなく、リングサイドの指導者にほれ込んでいった。
 この本には「高校ボクシング指導者の横顔」というサブタイトルがある。鬼のような形相で叱咤する男がいれば、おおらかな笑顔で見守る男もいる。「癖がある人が多いし、魅力も人それぞれ」。ただ一つだけ、共通点がある。「絶対にあきらめない心の強さ。それを生徒に伝えようという思いです」。モノクロ写真の中の男たちの顔には、張り詰めた精神と奥行きのある優しさの両方があふれている。
 東京と郷里の佐賀を行き来しながら、写真教室などの講師を務める。これが記念すべき第一冊となる。四十九歳。

作品貫く「無償の情熱」

後藤正治
ノンフィクション作家・神戸夙川学院大学教授

 高校ボクシングの世界を撮った写真集『この道一筋』が刊行された。まず特記すべきは、昭和50年代から平成19年の佐賀総体まで、四半世紀をかけた仕事であることであろう。リングサイドで、ヘッドギアをつけた高校生部員と、部員に覆いかぶさるようにアドバイスするオジサン指導者のツーショットが数多く収録されている。
 写真家は高尾啓介氏。氏とは面識がある。西宮市にある定時制高校ボクシング部の顧問教諭と部員たちを追った拙著『リターンマッチ』の取材中、相前後して高尾氏も取材に来られていたからである。
 写真集には、この顧問教諭もアップで撮られている。部員へのいつくしみというのか、深みのある表情は何度見ても飽きない。写真家にとって〝この一枚〟といえる写真であろう。他にも印象深いワンショットが幾枚もある。
 見終わって浮かんだのは〈無償の情熱〉という言葉であった。高校ボクシングはマイナースポーツである。部員も指導者もボクシングに打ち込むことによって目に見える見返りが得られるわけではない。それでも彼らはリングという場に魅入られ、熱い時間を過ごしていく。その中で、思わぬ自己表現や生の発露を行っていることが読み取れるのである。
 著者略歴によれば、高尾氏は大学時代、ボクシング部員であったとか。長期に及ぶ仕事は氏の青春の決算にかかわる部分もあったのだろう。
 この写真集の作品性は、高校生と指導者と撮り手の、いずれも無償の情熱という共通分母によって支えられている。

  • A4判並製122頁
  • 978-4-88344-153-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/11/20発行
世間遺産放浪記

痛快無比の「世間(せけん)遺産」247葉!


働き者の産業建築から、小屋、屋根、壁、近代建築、職人、奇祭、無意識過剰な迷建築まで、庶民の手と風土が生んだ「実用の美」の風景。沸騰する遺産ブームの中で、見過ごされてきたもうひとつのヘリテイジ(=遺産)を日本全国津々浦々に追った旅の記録。痛快無比、心に沁みるオールカラー247葉300ページ! 

(●荒俣宏氏(「サンデー毎日」7/27)、藤森照信氏(「毎日新聞」5/13)、松村洋氏(「読売ウィークリー」6/17)、飯田辰彦氏(「公明新聞」6/5)ほか各氏絶讃紹介!)

書評

全国を訪ね歩き撮影した無名の造形

藤森照信
建築史家、建築家

 世間にはヘンな人がいっぱいいる。どうでもいいことにやたらうるさいとか、やる気が実力をしのいでカラ回りするとか、会社でも地域でも見回せば一人は見つかる。選挙公報なんか読んでいると、ヘンな人の鉱脈の露頭を見るようだ。
 ヘンな人と同じように、世間にはヘンな物がいっぱいある。人と同じで、さいわいそばの人しか知らないから、世間全体では話題にも迷惑にもならず隠れているが、近づいて眺めると放っておくにはおしい。
 藤田洋三は、そういうヘンな物を求めて全国を歩き、これまで〝鏝絵〟と〝藁塚〟の本を出してきた。前者はコテエと読み、伊豆長八に代表される左官職人が蔵の壁などにコテで描いた漆喰の絵。後者は、ワラヅカと読み、稲刈の後、田んぼに作られる保存用のワラの山。いずれも、放っておけば消えてゆく無名の造形。絶滅危惧種。
 人びとの間の無名の造形となると、柳宗悦の民芸ということになるが、柳は、なぜかというべきか当然というべきか、自分の体より大きな物には目を向けなかった。限界とかいうことではないが、民芸の視線からはみ出す体より大きな物の領分に民芸的視点を向け、正確にいうと、柳的・民芸的というより、今和次郎的・考現学的視点を向けてきたのが藤田洋三なのである。
 表紙の写真で、世間のヘンな物にはキャリアの私の目玉もまいってしまった。いったいこれは何なんだ。建物にはちがいないが、板壁の途中から塗られた土壁がそのまま屋根の棟の上までつづき、てっぺんで6本の筒(煙突?)となって突き出す。これだけでも用途不明、国籍不明、年齢未詳、意味不可解なのに、加えて、右端の筒は根元からポッキリ折れて、屋根上にころがっている。
 物もアヒルもいくつか並ぶだけで面白さが生れる。唐突に6本並ぶだけで十分面白いのに、加えて尻の1本がズッコケているのだ。元の建物は名作とはいえないが、写真は名作というしかない。
 建物は、外からみて中が分かる、という性格を持つが、この6本筒建築は想像もつかない。
 本を買ってページをめくるしかない。なかなか登場しない。「8 屋根もまた顔」の章に「176 鞘蔵 大分県中津市耶馬渓町」としてやっと登場。〝さやぐら〟なんて聞いたこともなり。刀の鞘の蔵とも思えないし。解説を読もう。
「屋根の突起物は竹で編んだ泥柱。この建物はお米や漆器を収納した泥の匣(はこ)。台風で飛ばされてしまったかつての藁屋根の天井の間に生まれる空間は、火事の時、屋根だけ燃やして種籾や家財を守る村人の知恵」
 分かりにくいが、この上に乗っていた草葺き屋根が台風で飛んだ後の姿なのである。屋根と倉を空間をはさんで切り離す防火の工夫を〝置き屋根〟というが、6本の泥の筒は置き屋根を支える支柱だった。それにしても、支柱を「竹で編んだ泥柱」で作ろうとは、燃えない柱を考えてのこととはいえ、ふつうの人のやることは専門家の想像を超えはしないが横にズレる。
 10分類247件の物が登場するのだが、何例かひろってみよう。
「建築は働く」分類は、牡蠣灰窯、製材用水車、ゴエモン風呂のキューポラ、釣瓶井戸ほか18件。釣瓶井戸や水車はある年以上の読者は思い浮かぶだろうが、他はむずかしいかもしれない。カキの貝殻を焼いて石灰を作るのが牡蠣灰窯。ヤジキタも入ったゴエモン風呂の大きな釜は、長州の防府が産地として名高かったそうだが、そのキューポラ(鉄を溶かす炉)。
「手の土木」分類は、ネーミングから内容がしのばれるように、村人の手でできるていどの土木構造物が19件。今ではほとんど見られない土橋がいい。土橋といっても丸太を渡して上に土を乗せ、草をはやして押さえた橋。高度成長前まで田舎では当り前だった。
「小屋は小宇宙」はこれはもう、「暮らしの中から生まれた、その土地にしか存在しない様々な小屋を求めて流浪(さすら)ってきた」という著者の独演会。ダイナマイト小屋にはじまり、洗濯小屋、杭小屋、真珠小屋、サクランボ小屋、ついには瓦屋根のバス停まで27件。
 こんな調子で〆(しめ)て247件なのである。
 どうして著者はこんな物を求め歩くのか。そうして採集された物を見て読んで、読者は何がうれしいのか。藤田洋三は「手の土木」のところで小さく答えている。「僕の精神安定剤」
 そうかもしれない。大ブームの世界遺産も、世界と国民の精神安定剤なのだろう。世界と国民向けの薬もいいが、自分のために自分で探した「僕の精神安定剤」のほうが効くと思う。誰でも探せます。

身の丈をじっと見つめ出合う

松尾孝司

 放浪することは、人生枯れてからするものではないのだ。好奇心のおもむくまま、出合いを求めて訪ね歩く。それが、世界遺産、近代化遺産とは対極にある「世間遺産」を世に送り出すことにつながった。
「鏝絵放浪記」「藁塚放浪記」に続く「放浪記シリーズ」の三冊目である。「ホンモノはわかりにくい。わかりやすいものはアブナイものが多いんです」
 川にかかっていた橋は、廃電柱と泥でできていた。「台風で流されて困っていた、ばあちゃんのために、おじさんが架けた橋」だったという。いくつもの手形の残った土壁もカメラの中に切り取った。温泉旅館の跡には大きな自然石を手彫りでくり抜いた岩風呂が残っていた。鋲で補強された門司港の建物はモダンアートそのものだ。
 左官職人の余技である鏝絵を追いかけているうちに出合った情景。人・モノ・暮らし、それに衣食住……生きた証しの残った現場の前で、いつも立ち尽くしていた。
「世界遺産は、お上のものですが、世間遺産は世間のもの」と笑い飛ばす。「上を見る前に、身の丈の世界を見つめよう」とのメッセージ、哲学である。
 モノだけではない。風景も切り取った。山の中の田んぼの横のタマネギ小屋は輝いていた。魚を干している風景を見つめ、ホタテ貝の山を照らした。人間の営みの風景である。
 二十五歳のころから六年間、ゲートボール新聞の取材で大分県内を駆け巡った。会った人はざっと六千人。人生を聞き続けたことが財産になった。
 雨の中、車で何ヵ所もの世間遺産へと案内してくれた。最後は遊園地の橋脚。別府の火山岩で造られたアーチ橋が連なり、その上をケーブルカーが走っていた。「庶民のための明日に架ける橋ですよ」
 手仕事にあこがれ東京綜合写真専門学校に学んだ。いまも一年のうち半分近くは八千円で買った中古のレンズをつけたカメラを手に外を飛び回る。コピーライターである妻の久美子さんの支えも大きな力だ。「放し飼いにしてくれましたから、ここまでこれました」
 大分県別府市在住。五十六歳。

オモシロサは「無意識過剰」の力

南陀楼綾繁
ライター・編集者

 ぼくが住んでいる西日暮里は、山手線で最後に駅ができた場所というコトもあり、「駅前商店街」が存在しない。改札を出ると、道灌山通りという殺風景な大通りが広がっているだけである。
 道灌山通りの商店がこれまたイタくて、肉屋や魚屋、そば屋や寿司屋はひとつもないのに、花屋が三軒に靴屋が二軒(しかも向かいだ)あるというアンバランスぶり。あまりに寂しい街並みなので、「スサミ・ストリート」と命名したほどだ。
 このスサミ・ストリートにもときどきラーメン屋だの居酒屋だのができるのだが、次から次へと潰れていく。開業プランナーだかなんだかに入れ知恵されて、書き文字風の看板や揃いの作務衣に大金を投じた結果、三ヶ月で撤退するのだからお気の毒である。
 こういった「いまどき」っぽい店では、客は店のセンス(おおむね陳腐)を共有することを押し付けられる。小さな店なのにあわよくばチェーン化をというあさましさにウンザリする。それに較べて、「気がつけば何のテコ入れもせずに二十年……」という風情の靴屋のなんとすがすがしいコトか。
 前置きが長くなった上に強引なつなげかたで恐縮だが、昨今云われている「世界遺産」はいわば新規出店みたいなもので、「いろんなものをパッケージにして売ってやろう」という欲がギラギラしている。しかし、藤田洋三『世間遺産放浪記』で紹介されている二百四十七の物件は、時代を経ていい具合に風化したものばかりなのである。
「世間遺産」とは、無名の庶民がさまざまな目的でつくった建造物だ。タマネギ小屋、トタンの納屋、イモ貯蔵庫など田んぼに立つ不思議なカタチの小屋をはじめ、石や木を積んだ垣や橋、煙突や水車、井戸、屋根や壁など、病院や銭湯のように、「モダニズム」の文脈で評価される建築もあるが、大半は記録されることなく消えていく。
 しかし、これらの物件のなんと魅力的なことか! 魚の鏝絵(漆喰のレリーフ)のある左官小屋、泥と電柱でつくられた橋、土管が材料の壁、マツボックリの小屋など、奇妙なカタチに満ちている。
 たとえば、福岡県の「炭カル小屋」は、カルシウムを乾燥させるために、何段にも板が渡されている。骨組みがそのまま巨大な小屋になっているのだ。大分県の「焚き木積み」は、ひとつひとつが小さな小屋みたいになっていてカワイイ。
 田んぼで見かける「稲わら干し」は、土地によって呼び方やカタチ(物干し台型、ピラミッド型、トーテム型)が変わってくる。本書には島根県温泉津町の「ヨズクハデ」が紹介されているが、すぐ近くのぼくの田舎とはちょっとカタチが違う。
 古くからのやり方を踏襲しつつも、その場その場の瞬間的なアイデアがふんだんに盛り込まれているのもイイ。パワーショベルのタイヤでつくった祠なんて、よく思いついたmのだ。
 福岡県にある工場の倉庫(?)の壁が鋲で補強されている写真も、やたらとインパクトがある。モダンアートの作品のようだが、実用性を求めた結果であり、意図して生まれたものではない。
 著者は、高度成長期につくられたサクランボのカタチをした巨大看板や、国鉄の車掌小屋(ピンクに塗られている)、瓦屋根のバス停などにも眼を向けている。世間遺産とはたんに懐かしいもの、レトロなもののコレクションではないのだ。
「過去の出来事を過去のこととしてとらえるのではなく、これまでとは違う未来へ足をふみだすための物語を探す旅。『手で感じ、足で思い、指先で考える』のが世間遺産の流儀」なのだという。
 建造物だけでなく、炭焼きや鍛冶屋など職人たちの仕事の風景、「ひょうたん様」「河童楽」など地方で行われる奇祭も、同じく「手の仕事」ということで載っている。
 かつて赤瀬川原平は、意図せずして芸術となっている物件を〈超芸術〉とし、当時無用物扱いされていた巨人軍選手にちなんで「トマソン」と名づけた。「世間遺産」がトマソンと違うのは、あくまでも実用性を追究した結果こうなった、という点だ。本人たちにとってはアタリマエのものが、意外なオモシロサを生み出している。オビにあるように「無意識過剰」の力である。
 たとえば、広島県の「左官の城」は、神楽を奉納する舞方の家の壁面に龍や仮面、神楽のポスターなどが増殖している。これはトマソンというよりは、ミニコミ『畸人研究』が紹介している「オレの家」に近い。世間一般の感覚から振り切れてしまった方々の独特のセンスが爆発している点では、職人と畸人さんは意外と近い存在なのかもしれない。
 本書はオールカラーで二千三百円と、地方出版社の本にしてはずいぶん頑張った値段になっている。お買い得と云えるが、残念なことに、製本が甘い。書評を書くために本を広げたら、真ん中のページが取れてしまった。これも一種の世間遺産? なんて、シャレにもならんぞ。

  • 304頁/A5判変並製
  • 978-4-88344-146-4
  • 定価:本体価格2300円+税
  • 2007/04発行
井上岩夫 詩集 鹿児島 詩人 石風社 豊田伸治 島尾敏雄 全集 1 
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井上岩夫著作集[1]全詩集
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¥0円
井上岩夫著作集[1]全詩集

「ああまだこの世に詩人が生き残っていた」島尾敏雄(作家)


戦争と土俗とモダニズムを引き連れて孤高の詩精神が甦る。苦いユーモアとともに、世界の核心に垂鉛を降ろす。──「私の前にはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていた、という強烈な衝撃を私は受けたのだった。」(島尾敏雄・作家)

書評

人は「そのた」でしかない

廣瀬晋也
鹿児島大学教授

 井上岩夫の「荒天用意」(一九七四年)は、「あとがき」によれば、著者三十年にわたる詩業のなかから選んだ新旧の作品で構成した詩集である。序詩以下、長短七十七編の詩が収録されている。この中に、「そのた」(一九七二年)と題する一編がある。
〈そのた/そのほかではない そのた/備考でもない 備忘でもない/いちばん右はしの/あろうがなかろうがどうでもよい そのた/空白のままがよいところにもあるそのた/(中略)/そのた そこに在っても所詮/在らされている そのた/どのような項目にも属さず あらゆる項目を包括する/自在な隷属の残忍なよび名/人々とひとびとの間を埋め/野次馬とヤジウマの断れ目をつなぐ/等身大のただの空間/空間の中のただのチェックマーク〉
 押さえたつぶやきから伝わってくるものは、独自性などとは無縁の、なにものでもない「そのた」であることへの怒りといらだちだが、それだけではない。永井龍男の小説「一個」の主人公が思い起こされる。定年退職を間近にひかえた彼は、自分は代替可能の「一個」にすぎないという意識にとらわれ、将来への不安から錯乱に陥る。これに対して、井上の「そのた」には、「そのた」であることをひきうける者の覚悟がうかがえる。この「そのほかではない そのた」だと語る人物が不敵な面構えをしていることは確かである。
 人が「そのた」であり、「そのた」でしかないという思いを、井上はその長い軍隊生活からひきずっているのであろう。「荒天用意」には、「戦争」「照門は見た」「止まるな丸田」など、戦地の体験に基づく作品がある。井上と同年、一九一七(大正六)年生まれの島尾敏雄は、詩集末尾に「井上岩夫さんの詩集に添って」という一文を寄せている。島尾は「『後列の後尾にしか並んではいけない』『そのた』としての不動の位置が、彼の詩にたじろぎのない強さを与え」たと評する。
 井上は同詩集中「声」(一九六四年)においても、人が戦後社会を生きるなかで置き忘れてしまったことを問い、執着や断念や失意が交錯する日常を冷徹に見つめ、耐える。
〈はげしい雑踏の流れの中で/ふと くびすをかえす男がある/釘をうってしまった棺桶の蓋を/もう一度明けねばならない女がある/何度も確かめた空家の戸をどやしつけ/そのまま佇ちつくす男がある/聞きそびれたものは何なのか/撃ち落した山鳩のまだあたたかい胸に/耳をあてがう老いた猟人がある〉
 井上岩夫は復員後、鹿児島市で印刷工房を経営するかたわら、相次いで詩誌を創刊し、また「南日詩壇」の選者をつとめるなど、鹿児島詩壇の中核にあって詩活動をつづけた。

透きとおった抒情の絶唱

岡田哲也
詩人

 作家井上岩夫といっても、知る人は少ないだろう。彼は一九一七年、鹿児島県の片田舎に生まれ、応召されて大陸に渡り、捕虜となり、帰還して来た。その後、鹿児島市でガリ版による印刷所を始め、そのかたわら詩を書き、さらに小説を書き、一九九三年亡くなった。詩集に「荒天用意」や「しょぼくれ熊襲」などがあり、小説に「カキサウルスの鬚」や「車椅子の旅」などがある。
 鹿児島県の北部、出水市に住むわたしは、年に一、二度彼と会うことがあった。酔えば誰にでも突っ掛かってゆく彼と焼酎を飲みながら、私も生意気なのだが、やるせなくまたやりきれなくなることが幾度かあった。田舎わたらいをしながら、いたずらに〈中央〉にこびず、〈地方〉をあなどらず、師にもつかず師ともならぬ人の生き方とはこんなものか、と思う時もあった。
 しかし、奥様に先立たれたあと、晩年はひっそりとしたものだった。見るにしのびなかった。
 その井上岩夫の著作集全三巻のうち、詩集を収めた第一巻が刊行された。版元もだが、ここまでこぎつけた編集者の豊田伸治氏の情熱と執念に、ただ脱帽のほかない。なつかしさに駆られて読みながら、わたしはいつしか素直に、その作品を味わっていた。戦後間もない頃の作品に、「作品2」というのがある。
「こんこんと眠るのはかなしい。屈辱は死にまで垂れている。不逞くされて、白眼をむいて/ごうごうと眠るのもかなしい。生は脚光によごれ/死は苦役によごれている。」
 戦争によって彼が見たものは、化けの皮がはがされた時代であり人間であり、そして自分自身であった。
 彼の詩は、その化けの皮をはがす行為そのものであり、彼の小説は、はがされたあとの自分をしゅうねく注視しつづける行為であった。
 戦後、彼の人生は、脚光に汚れた生よりも、苦役によごれた死よりも、シャバの苦労とインキと焼酎にまみれた人生だった。ただそのなかから上澄みのようにしみあがってくる透きとおった抒情があった。酔っぱらったら、「かなわないな」と思わせるところがあったが、次のような作品にも、遙かに「かなわないな」と思わせるところがあった。
「海がふと黙りこむ/臆病なヤドカリが/こっそり殻を脱ぎかえているのです//地球の足どりがふと鈍る/いちじくの葉っぱのカタツムリが/むきをかえているのです//雨はいつだってふっています/カタツムリの葉っぱに ヤドカリの海に/ひっそり やさしく 降っています/だが人々の心にまでは届かない/そこは遠すぎる砂漠なのです」(雨)
 説明も解釈も不用な絶唱だと思う。月並みな言葉だが、良いものは良い。いつ読んでも、その時その時の味わいがある。
 あるいは彼は、作品「岩」のなかで「君は荒海をみたことがあるか/あの底知れぬ静謐に対峙したことがあるか/アラナミでもドトウでもない/あれは ふと絶句したり吃ったりする(中略)きれぎれの痛む記憶を渚にうちあげる/あれは 許し続ける怒りの本質だ」と書く。
 井上岩夫は、なにを許し続けたのだろうか。そして、なにに怒り続けたのだろうか。
 おそらく、ひんむいた時代や自分の化けの皮に裏うちされていたものが、許し続ける怒りの本質であったのだろう。
 島尾敏雄と交友があった彼は、同年ということも手伝ってか、特攻隊長としての彼と、その他大勢の一兵卒としての自分を、面白おかしく語ることがあった。「島尾さんは高貴、俺は卑小」、そんなことを口走ったが、むろん誰も信じていなかった。戦後の社会も、またぞろ顔や看板や毛並みがもてはやされるようになって来たが、彼はそういう後ろだてがない所で、良く頑張ったと私は思っている。
 だから、井上岩夫の現代的意義などと言われても、困るのだ。私は好きですが、あなたも読んでみませんか、ということにつきる。

洞の底の含羞 『井上岩夫著作集』刊行に寄せて

石牟礼道子
作家

 亡くなった鹿児島の井上岩夫氏の、分厚い詩集が世に出た。
『井上岩夫著作集1・全詩集』である。あと二巻が用意されていると聞く。
 いわゆる出版人ではない青年が京都で学習塾と営みながら、井上さんの詩にほれこみ、友人たちを尋ね、散逸していた詩稿を探し出して編集し、装幀も立派な本に仕上げた。
 出版までのいきさつを多少は知って、待っていた一人としては、今どき珍しい壮挙ではあるまいかと思う。
「九州一円では知られた詩人」だったが、「文学の世界もそれなりの根拠を持って東京を中心に動いてい」る中で「井上さんが一部の目の見える人たちを除いて『無名』だったのはある程度という保留付き」であり、死後ではあるが「新人」として世に問いたいのだと、資力をなげうってこの挙を成した、豊田伸治さんの編集後記にある。
 読み進むうちに背筋が伸びてくるのは、詩人とこの編者の、今どき希な古典的な矜持にうたれるからであろう。それに何より読者として心性の高いこの詩的事業に参画するよろこびを与えられる。
 生前、井上さんは、自分の没後こういう奇特な青年があらわれて、全集を編んでくれるとは、思われなかったのではないか。霊あらば羞かみ哭きをなさるのではあるまいか。
 自ら蟇左衛門と名乗っておられたにしては痩身であった。あたりはばからぬ狷介さを発揮しつつ、あと一杯、焼酎が足りないと書く人でもあった。胸底の洞(うろ)に處女のごとき含羞が隠れていて、生きることは業であるということを、これほどしんしんと悟らせる人も少ない。自分のことを詩人はこんなふうにいう。
  足の先の凶暴な靴
  の中からまた徐々に逼いのぼって帰る俺。
 素足の足の裏が知っている人間の現在について、わたしも記憶が戻ることがあるけれども、靴について、この人のように考えたことはなかった。
  あそこに
  やくざな靴が待っていて
  客を拾った
  歩きだした
  それがジンルイの疲労の
  はじまりだった
 それゆえこの靴は戦場にも行かされた。
 軍靴の中から戦後、「徐々に逼いのぼって帰る俺」の夢枕に、陸軍二等兵丸田四郎という「大飯くらい」が出てくる。要領の悪い二等兵が、戦場においていかに悲惨であるか。薩摩の旗印を俗に十の字というけれども、別名マルニギュウノジというこの兵隊の死を描き出して、「止まるな丸田」と題した長い一篇は、詩人の無念さを私たちも共有させられる。
  お前の軍靴が償った不毛の距離
  あの日落伍した俺の辿り残した道程に
  俺はたおやかな白い野菊を植えた
  蛍を放った
  雪を舞わせた
  三十五年!
  お前の死が償った中支江蘇省のまっかな落日の下に
  再び軍服を着た牛追いをお前は見ただろう
 それにして、消費物資並みにだぶついている文学とやらもセールで売られている。一行の詩語をかくとくするのに、この詩人が払っている人生の対価が、いかなる埋蔵量の中から掘り出されているのか、わたしたちは、ちらりとぐらいはおしはかることができる。
 たぶん焼酎も足りて機嫌のよい時、詩人の手つきも、あのこまやかなきりぎりすの「さわりひげ」に似てくるのだなと想像することもできる。次のような美しい一聯から、それを教えられる。
  草のやかたのきりぎりす
  露から生まれた時の天敵
  すり合わす翅で月を回して
  のこぎりの手でのこぎりの足で
  黒い鞠を回している
 ちなみにこのきりぎりすは、父父父父父、と鳴いているのだそうだ。父という字だけで三行もあるこの一聯を読みながら、わたしは生命の連続性を探ってゆくには、妣というのが糸口になるのかと考えていたのを少し補足した。こんなふうに音声化されたかぼそい虫の声は、やはり、妣に対応しているのかと思い出し、悪かったなあと立ち止ったのである。
 御魂あれば焼酎を献じて申し上げたい。
 蟇左衛門とは、自意識も過剰すぎると存じますが。

井上岩夫著作集を編集して──その詩を読み解く

豊田伸治
「井上岩夫著作集」編者

 どうして京都に住む私が、生前それほど交際があったわけでもない井上岩夫さんの「著作集」を出されたのですか、という趣旨のことを何度も聞かれます。埒があかないと『惚れた作家への情熱・傾倒』などという常套句が登場します。否定するわけではないのですが、何か面映ゆい気がします。そもそも傾倒する作家は大抵本になります。困難でも手に入るし、少なくとも図書館で読めるのに、井上さんだけがその全貌を見ることが出来ない、という事実に駆り立てられた、という側面はありました。それにしても、どうして私が駆り立てられたのかということになると、話は元に戻ってしまうことになるわけですが。井上さんの作品は纏まった形で残す価値があるし、誰もしないなら自分がするしかない、と自分で自分に言い聞かせたわけで、いわば道楽のようなものです。
■難解の裏にあるもの
 第一巻が「全詩集」なので、ここでは詩について書きます。平易だと言う人もいますが、難解だと言う人の方が多いようです。勿論平易なのもあれば、意味を探るより言葉の流れに身をゆだねていれば、胸を打つものもあります。ただ井上さんは詩はリズムの心地よさだけで歌おうとはしません。選び抜いた語句の配列と、綿密に計算された比喩の組み合わせが難解に見せているのです。そこをうまく見付けるのが理解の第一歩です。紙幅の都合があるので、できるだけ短い詩で、試してみましょう。
〈たてがみがかき分けていく/水晶空間/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター//瞼は/つねに置き去られる厩舎である/眼球のそら高く駆けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障の馬丁が立っている〉
「まばたき」という詩です。傍点を(この転載では太字で表記)つけた部分はタイトルからも、最後の「瞼」という部分からも、何の比喩かは明らかです。そこを「かき分けていく」馬は、見える対象物ということになります。一瞬一瞬に見えているものは、「半馬身おくれて」つまり後ろ姿しか見えていない、と書いてあります。人はものの本質は半分しか、然も過ぎてしまったものしか見えない。だからといって、『眼あきは不便なものだ』などという塙保己一の逸話のようなことが書いてあるわけではありません。見えているのは白内障の馬丁なのです。井上さんの作品には、時にこういう病や障害を背負わされた人物が主人公として出てくるのですが、この詩でそこまで読みとる必要はありません。でもただ見えているのではなく、「たてがみをくしけず」っていることは見ておかなければなりません。病(この詩では眼)に犯されたもののみが捉える本質とでも言うのでしょうか。それが「えいごう」です。この詩でその内実まで入り込む必要もありません。
 まだすべてに触れているわけではありませんが、このぐらいでよいでしょう。難解とされる詩はこのように比喩が響き合っています。そのあたりを読みとれば、読んだ感触が残ります。
■底に漂う「悲」
 一つの詩作品には、それなりの世界に対する一つの切り口があります。井上さんの作品はその切り口から見える世界が深いのです。その底には「悲」が漂っています。悲壮でも悲観でもありません。悲歌とでも言えばいいのでしょうか。勿論それが表立って登場することはないのです。それは恥ずかしげに身をよじり、韜晦し、時には戯画となって、時には嗔(いか)りとなって表現されます。また時には小さきものへの哀歌となります。それは資質と、戦争体験と、「薩摩」という土地に暮らすことになるモダンな精神が、くぐらなければならなかったものを暗示しています。その全貌はやはり小説やエッセイが揃って明らかになるのですが、少しずつでもかいま見ることが出来るのが詩の強みなのでしょう。
 井上さんにとっての未知の読者に届くことを願いながら。京都にて。

文学に映した戦争

松下純一郎
熊本日日新聞文化生活部記者

 井上岩夫。鹿児島に生きた詩人、作家。だが、その存在を知る人は少ない。今回、熱心な一読者の手で出版された著作集からは、詩への熱い情熱と、孤独を恐れぬ凄絶な生きざまが、重く伝わってくる。その根底にあるのは、紛れもなく戦争体験だった。
     ○
 著作集第一巻は全詩集。第二詩集「素描」(一九五四年)はじめ、「荒天用意」(七四年)「しょぼくれ熊襲」(七九年)などを収めた。いずれも推敲を重ね、余分な語句を削り落とした作品群。「捨てるだけ捨ててみると、残りは十二篇になっていた」 (「しょぼくれ熊襲」あとがき)と、言葉への厳しさと自戒がのぞく。
 生前交友のあった同世代の作家島尾敏雄さんは、昭和三十年代初め、井上さんの経営していた印刷所で出会う。島尾さんは、その時の印象をこう記した。「私のまえにはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていたという衝撃を私は受けたのだった……」(「荒天用意」跋)
     ○
〈戦争について語ることも、書くことも、今は空しい。殺し合いの現場に行きもしない人々によって、戦争はあらかた語られ尽くしたようだ。唯一つ、これだけをつけ加えておこう。どうしても読解できない緊急作命によって一つの部隊が行動に移ることがあるということを。//わたしは覚えている。あの後尾の一人が誰であったか。あたりまえのように装具を着け、砲をひき出し、前の男が歩くとおり次々に歩いて消えていった、あの行く先を誰も知らない、そして誰かが知っていると信じている、長い縦隊の後尾の一人が誰であったかを。〉(「荒天用意」)
 「後尾の一人」とは誰か。評論家渡辺京二さん(六二・熊本市)が読み解いている。
 渡辺さんは昭和五十年代初め、井上さんの作品に触れて心動かされ、自ら編集していた文芸誌「暗河」を紹介。以後、井上さんは同誌に発表し続けた。「『後尾の一人』とは何の個性的特徴も持たぬ一個の無名者なのです。(略)戦争とは、行き先も知らぬ縦隊の後尾にたしかにひとりの男が歩いていたということなのだよ、と作者はいっています。作者が戦場から持ち帰ったのは、こういう『一人の実在』に関する譲渡できぬ思い込みでした」(「土俗としての戦争──井上岩夫論」=『暗河』二四号)
 出水市に住む詩人岡田哲也さんは、三十年の世代差を超え、「本物の詩人として見ていた」と言う。岡田さんの言う詩人とは「徒党を組まず、一人でその世界に立ち向かう人」。あたかもドン・キホーテ。「鹿児島も地方文化人みたいな人が跋扈している。井上さんはそれを拒んだ。偉そうなことを言ってなんだい、という生き方」「戦争を体験したことで、化けの皮をはがした人間の生身を見てしまったんだと思う 、自分の姿も含めて。この目で見たぞ、この耳で確かめたぞ、と」(岡田さん)
     ○
 井上さんは優れた小説も残した。渡辺さんが最初に触れたのも小説「カキサウルスの鬚」だった。入り組んだ手法、洗練された文章。モダニズムを踏襲する一方で強烈に「鹿児島」のにおいをふりまいていた。「鹿児島特有の階層感情、そして土俗せいがほとばしっていた。南米文学にも通じる前衛性を感じた」という。
 井上さんはその後、二度目の応召(昭和十八年)の後の体験を基にした小説「下痢と兵隊」を「暗河」に発表した。部隊の同僚や部下たちのこと、ささいな会話、心理の葛藤などが二百二十枚につづられた。締めくくりはこうだ。「何だ、これだけのことか、何もなかったじゃないかと舌うちする人もあるだろう、凄惨な死闘や飢餓や意表を衝く作戦などが出て来なければ人々はもうセンソウに出会ったとは思わないだろうから。そんな戦記や小説に比べればこれは屁のようなものには違いないが、ゴミでしかなかった一人の兵隊にもまたゴミなりのセンソウがあったことを観て戴ければそれでいいのである」
「後尾の一人」がここにいる。
     ○
 井上さんの生涯の友は酒(しょうちゅう)だった。三男の巨器(なおき)さん(五〇・鹿児島市)は父の家業を継ぎ同居していたら、夜もおちおち寝ていられなかったという。「夜になるとふらりと出掛け、どこそこで見知らぬ客に声を掛けてはけんかしていたようだ。夜中の二時、三時、飲みつぶれているから迎えに来てほしいと店から電話があるんです。それも知らない店から」一時は父を嫌悪していた巨器さんだが、「誇り高かった」父を今は許せる、という。
 厳しさは鹿児島の文学仲間にも容赦なく向けられた。その裏に、作品を理解してくれないもどかしさや憤りが、突き上げていたとも見られる。
 今回、企画編集した豊田伸治さんは熊本大在学中に「暗河」に参加、その後井上さんを知った。会ったのは一度きり。「作品や資料を散逸させたくなかったし、全国的には無名の詩人だが、その優れた仕事をまとめることで現代日本文学の中での位置を問いたかった」。著作集はこの語、小説集、エッセー集と続く。
 地方に生きた詩人の戦後が、やっと明らかになっていく。

  • A5判上製函入 487頁
  • 4-88344-030-3
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 1998/07/30発行
久留米がすりのうた 井上でん物語 岩崎京子 久留米 かすり 絣 がすり 井上 岩崎 京子 着物 からくり おでん 機織 仕事着 藍
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久留米がすりのうた
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久留米がすりのうた

偶然と好奇心が生んだ庶民の美


祖母の機織りを手伝いながら、着古してかすれた藍染めを見て「おでん加寿利」を創作した少女期、そして天才発明少年・からくり儀右衛門と共に、素朴で可憐な「絵絣」を完成させた久留米がすりの母・井上でんの前半生を清々しい筆致で描く長編小説

書評

優れた工芸品は少女の創意から

 藍色と白を基調にした木綿の布に、素朴で可憐な絵柄が織り込まれた久留米絣(がすり)。高度な技術とセンスが必要とされ、技術者に重要無形文化財保持者も含まれるこの工芸品は、約二百年前、一人の少女・井上でんの閃(ひらめ)きから生まれた。
 本書は、彼女が久留米絣を考案するまでの前半生を描いた伝記小説だ。「好きこそものの上手」の言葉通り、でんは機織りを見るのが大好きな少女だった。寺子屋での勉強より、糸が布になる不思議さに魅せられ、祖母の機織りを手伝ううち、見よう見まねで整経(せいけい、機に糸をかけること)を覚え、機織りを修得。
 当時の織物は無地ばかり。花や鳥が大好きな少女の目には味気なく見えた。京染めのような柄は作れないのかと思った矢先、着古した仕事着のかすれた色を見て、でんはハッとする。機織りの時に白い糸を先に混ぜると、雪のような模様ができることに気づいた。それは「あられ織」として評判を呼び、でんは藩御用達の大店(おおだな)で織り子達に教えることになり、武家の家でも技術を伝授した。
 だが、好奇心旺盛な彼女はそれだけでは満足しない。桜や魚、鳥、更には久留米の町の情景を新柄として織りたい──そんな夢を語る少女に興味をもったのが、近所に住む15歳の天才発明少年・からくり儀右衛門(ぎえもん)。彼もまた好奇心を膨らませ、機の構造を変えたらどうかと提案。実験を重ね、ついに絵絣を完成させる。
「こん糸は撚(よ)りの強か。そりけんで、こげん風合いの出っとでっしょう」など、全編に躍動する久留米弁の会話が、登場人物の輪郭を生き生きと描き出している。

  • 四六判並製 208頁
  • 978-4-88344-156-3
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2007/12発行
街道茶屋百年ばなし 元治元年のサーカス 岩崎京子 街道 元治 サーカス 岩崎 京子 田代 三善 蒸気 異人 横山 御一新 時代 小説 児童 鶴見 東海道 鶴見 史料
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元治元年のサーカス
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元治元年のサーカス

幕末・開化期の横浜。来航した異人の珍道中を描く「イッピンシャンの冒険」から、生麦事件の裏で活躍したとされる少女を描いた「黒い瞳のスーザン」、曲芸師の親方のもとに飛び込んだ少年と一座が舶来のサーカスに出会うまでを描いた表題作まで、〈御一新〉の嵐に翻弄されつつもひたむきに生きる人々の姿を、すがすがしい筆致で描いた短編時代小説集

書評

歩く速さはいろいろに

樋口伸子
詩人

 アンダンテという音楽用語がある。〈歩くようにゆっくりと〉という意味の演奏速度を表す言葉だが、時代によって歩く速度は違うだろう。本書を読むと、街道を流れた時間に思いが巡る。
 物語の舞台は、幕末から開化期の横浜鶴見地区の街道筋。一膳めし屋「ろくいむ」の看板娘、十二歳のおけいが出会った人びとの珍談や村の出来事が悲喜こもごもに語られ、どの短編も読み飽きない。
 もちろん、ゆっくり歩く人ばかりではなく、早馬も駆ければ、大名行列も通るし、わけありの新内流しから、うわさ好きのおかみさんや血の気の多い若者まで、人の道の歩き方はいろいろ。
「黒船・蒸気車・異人さん。ニッポンがまだ初々しかった時代の横浜市井人情譚」とは帯の一節。転換期の庶民と著者の好奇心がうまく重なり、人物も会話も無理のない文の魅力で生き生きと動く。
 軽業師志願の少年と舶来サーカスことはじめを描いた表題作も面白いが、お伊勢参りを題材にした「犬の抜け参り」が、信心にかこつけた当時の物見遊山の道中記に、現代の団体ツアーがだぶっておかしくも楽しい。
 何しろ大旅行だから、積み立て講で賄うにしろ、準備だけでも大わらわ。そこで御師(おんし)という神官まがいが手形や宿の手配など道中の一切の世話をする。ツアー・コンダクターと同じだ。
 子供だってついて行きたい。平吉と太市は着の身着のままで、おとっつあん達の後から抜け参りに出立。みじめな難儀の中にも人の情けを知り、道連れとなる犬との珍道中がけっさくだ。お札を首につけた殊勝な代参犬の姿に街道沿いの人もほろりとなる。
 江戸と横浜の間(あい)の街道だけでなく全国の街道に、お上の大変時にも庶民には庶民の明け暮れがあったのだ。困窮の中でさえ楽しみの達人であれるのが庶民である。
 あと二巻は『子育てまんじゅう』、『熊の茶屋』。鍛冶屋、紺屋などの働く様に見惚れつつ三部作の街道を歩いていると、おや、懐かしい言葉が耳に。「へえ、玄界灘に面した、よか港町ですたい」。筑前芦屋から船を仕立てて有田焼きを売りに来た茶碗売りだ。
 著者は、『かさこじぞう』や映画にもなった『鯉のいる村』で知られる児童文学者。三十余年前に舞台となった小千谷地方の風景が中越地震の後テレビに何度も流れた。本書と同様、アンダンテの速度が生活の基にあった頃の話。

御一新を生きる庶民の哀歓

かねこたかし
児童文芸作家

 著者は『鯉のいる村』『花咲か』などで知られる童話作家だが、本書は「街道茶屋百年ばなし」としてくくった時代小説短編集三部作の第三部である。三部作の舞台は幕末・開化期の横浜。黒船、蒸気車、異人さん……と波のごとく打ち寄せる〈御一新〉の中で、ひたむきに生きる庶民たちの哀歓をさわやかな筆致で書いている。
 三部作の第一部『熊の茶屋』と第二部『子育てまんじゅう』は、それぞれ過去に出した『東海道鶴見村』『鶴見十二景』の解題復刻版だが、第三部の本書は初出が同人誌である。鶴見上町の一膳めし屋の十二歳になる看板娘おけいちゃんの視点で書いている。
 著者によれば、鶴見界隈は「宝の山」らしい。「そこには名主の日記をはじめいろいろな記録が残っているし、江戸期の名店の跡もあるし、そこに登場してくる方々は個性的だし、同時に日本中どこにでもいるという普遍性もありました」と「あとがき」にある。
 古史料からヒントをもらうと、記録を探したり、事情を知る人を訪ねたりして検証にかかる。だが、物語のメーンはあくまでも庶民であり、その哀歓である。例えば「黒い瞳のスーザン」は生麦事件関連で書いているが、事件そのものではない。大名行列の供頭に斬られたイギリス青年を介抱したとされる美少女の話を探り出し、その娘にスポットを当てている。
「イッピンシャンの冒険」はペリー艦隊の一員としてやってきた異人牧師の珍道中。表題作は、曲芸師の一座に飛び込んだ少年が舶来サーカスに出合うまでの話。いずれも史実とフィクションが上手にからまり、作為といったものが感じられない。全編にわたり滋味豊かで、味わい深い作品集だ。

  • 四六判並製 286頁
  • 4-88344-120-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/03発行
十五歳の義勇軍 満州・シベリアの七年 宮崎静夫 石風社 十五歳 戦争 満州 シベリア 抑留 満蒙 義勇軍 開拓 中国 美術 宮崎 静夫 海老原 喜之助 ドラム缶 死者 西日本文化賞 みゆき画廊 俘虜
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十五歳の義勇軍
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十五歳の義勇軍

十五歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願、十七歳で関東軍に志願、自爆間際で敗戦、四年間のシベリア抑留を経て帰国、炭焼き、土工をしつつ、絵描きを志した著者による感動のエッセイ集。
阿蘇の山村を出たひとりの少年が、満州・シベリアでの過酷な体験を経て、一個の画家となった――。

書評

苛酷な体験から明澄な世界へ

久野啓介
元熊本近代文学館長

 第2次大戦中に国策として推し進められた満蒙開拓青少年義勇軍に、高等小学校を出たばかりの15歳で志願し、さらに17歳で関東軍に志願入隊、敗戦と同時にソ連の捕虜となり、4年間のシベリア抑留。帰国後、画家となり、「死者のために」シリーズなど鎮魂と反戦の絵を描き続けてきた著者が、折りにふれて新聞・雑誌に書いた120編のエッセーを集めたものである。
「満州・シベリアの七年」と副題されているが、「その七年が私の青春の総てであった。人はそれを苦難の歳月とも云うが、私にしてみれば濃密な学びの場であり、己れを視つめ、確かめることのできた得難い日々としても忘れることはない」と「あとがき」に書くところに、並みの人ではない著者のしたたかな資質をうかがい知ることができる。
 また帰国から50年後、中国東北部を再訪して見たものが、熱烈歓迎とは裏腹に、「植民地満州の時代の日本人(軍)の所業であり、まぎれもなく浮かぶ東洋鬼(トンヤンクイ)の姿は、否定しようもなかった」(『シベリア再び』)と、かつて加害者側の尖兵であった自分を見つめることにやぶさかでないことも、特記しておかねばならないだろう。
 そして民族間の加害と被害、収容所煉獄の苦難と学び、異郷と故郷など、幾重にも錯綜した苛酷な体験の末に、著者がたどり着いた境地は、意外と明澄な世界であったようだ。例えば「ツワの花」と題する掌編がある。 
 ツワの花の季節に、研ぎ屋の老夫婦がやって来る。鋸(のこぎり)の目立てを頼むと、元は大工だったという老人は、確かな手つきでやすりを動かしながら、「齢をとると、高い所がいけまっせんけんなあ……」などと言う。普通なら楽隠居のはずなのに、身につけた手仕事で二人が支えあって生きる姿には、老いの哀愁があった。ひと仕事終えた二人は、淹れた茶を飲み、振りだした雨の中を、寄り添って帰って行く。
 それだけの話だが、書き手の目線の低さとデッサン力の確かさで、静かな感動がじんわりと胸にしみた。滋味あふれる一文である。

  • 四六判上製 278頁
  • 4-88344-192-1
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2010/11/10発行
わが内なる樺太 工藤信彦 外地であり内地であった「植民地」をめぐって 樺太 国境 ソ連 石風社 工藤 信彦 詩人 歴史 サハリン 豊原 ロシア 植民 北海道 外地 内地 朝鮮 国家 北方 領土
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わが内なる樺太
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わが内なる樺太

十四歳で樺太から疎開した少年の魂が、樺太四十年の歴史を通して「国家」を問う。1945年8月9日、ソ連軍樺太に侵攻、8月15日の後も戦闘と空爆は継続、幾多の民衆が犠牲となった。──忘れられた樺太の四十年が詩人の眼を通して綴られた──

書評

樺太にかかる歴史の霧をあざやかに晴らす

テッサ・モーリス=スズキ
豪州国立大学教授(翻訳・大川正彦)

 樺太は「日本の忘れられた植民地」と言ってよい。過去の植民地の歴史への関心の高まりがあるにもかかわらず、いまだに、植民地樺太の歴史については、ほんの一握りの学術研究しかない。そればかりか、著者・工藤信彦が本書で指摘するように、『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻(一九九二年刊)のような仕事でさえ、この歴史をほとんど黙殺している。
 このように長きにわたる当惑せざるをえない黙殺という文脈のなかでは、工藤の『わが内なる樺太』の刊行はとりわけ喜ばしい。戦前・戦中に樺太に生まれ育った著者は、教育と日本文学の著述に人生を費やし、教師としての身を退いたのち、日本の歴史・記憶・文化における樺太の在り処に関心をむけた。本書に収められたエッセイ群をとおして、樺太の植民史にかかわる著者の丹念な研究と、工藤自身の個人的な記憶、そして植民地樺太における教育生活・文学生活におけるひときわ優れた人物である父の記憶とがひとつに結びあわされる。
 ひょっとすると、いま述べた植民地という語には引用符が付されるべきかもしれない。それというのも、本書の中心テーマは日本の植民史における樺太の奇妙で両義的な位置そのものでもあるのだから。樺太は日本の唯一の真の「入植者植民地」であった。ここでは、「内地」からの移民の数が、先住民や、日露戦争での日本の勝利の後に残った数少ないロシア人の数をはるかに上回っていた。したがって、帝国秩序における樺太の在り処は、朝鮮や台湾といった他の主要な植民地の場合とは異なっていた。工藤が強調するように、樺太の日本人入植居留民たちは自分たちが植民地で生活していけるとはけっしてみなさず、むしろ日本の他地域から北海道(これもまた同様に、「植民地化される」と同時に「植民地化する」ものとみてよい島である)に移り住んだひとたちと類似した地位をもつと考えていた。
 樺太の場合、この地位は次の事実によってことさらに混乱させられる。すなわち、日本が支配した樺太の南部は、公式には三十年のあいだ「外地」として遇されていたが、一九四三年には、拓務省から内務省に移管され、こうして公式には「内地」の一部になった、という事実である。このように配置替えがあったにもかかわらず、日本はアジア太平洋戦争の終結時にポツダム宣言を受諾したとき、樺太は侵攻するソビエト軍に対して放棄された。今日でさえ、日本の検定教科書や公式の出版物では、この島は樺太と名づけられ、北緯五十度の線に沿って国境が引かれ分断されている。とはいえ、他の争点が浮かぶ実際上では、「ロシア・サハリン」と認定されているようである。つまり、『わが内なる樺太』があざやかに示すように、樺太は、日本の植民史の重要な局面を(今日ですら)包みこんでいる、両義性と忘却という奇妙で、公式に作られた濃霧のもっとも鮮明な具体例となっている。
 工藤信彦によるこの本を繙くなら、樺太史にかかわり文書史資料にもとづいた研究と、工藤個人とその家族にかかわる個々具体的な記憶とが織り込まれていることで、そのような濃霧は消え去り、この霧がかくも長きにわたって覆ってきた魅力あふれる歴史が明らかにされるだろう。『わが内なる樺太』は樺太史にかかわる数少ない既存の学術研究を綿密に分析しているばかりではない。植民地樺太の創出、樺太の教育システムと文化制度の展開、アジア太平洋戦争での日本の敗北の後に同島から大量に帰還した入植者たちに関する豊富な情報を提供している。
 しかし、本書はたんなる歴史物語りをはるかに越えるものでもある。熱情と詩情あふれる感受力によって綴られ、なんといっても、自らが探査する歴史にによって全実存そのものが形づくられてきた人物の手になるものである。『わが内なる樺太』は、国家・国民、植民地主義、アイデンティティということの意味への洞察に充ち溢れている。読者が本書から息吹を受けとり、戦前・戦中の樺太という目を瞠るけれども、あまりに長く無視されてきた物語を探究されるよう、評者はつよく希望する。

国境 忘れられた「存在」

岩下明裕
北大教授・ユーラシア国境政治

 国境とは何か。本来、それは国家の権力が物理的に及ぶ空間の境界(ライン)であると同時に、その空間に暮らす人々が心のなかで一体感を共有する認識の境界でもある。
 しかし、現実には物理的なラインとこの認識上のラインは往々にして一致しない。それでも「領土問題」として国境をめぐる係争が顕在化している境界は、多数の国民に意識される。北方領土と竹島。例えば、政治化した境界をめぐるこのズレの問題は、係争の当事者からみれば、不十分に感じられるとしても、それは確かに「存在している」。
 国境をめぐる問題の真の所在は、その「存在」が認識されていないところにある、と評者は考える。国家が支配する権力空間のなかで、多くの国民に忘れ去られている境界に近い島嶼(とうしょ)。今では、与那国、対馬、小笠原など国境島嶼の存在がそれだ。その存在がメディアや国民の注目を浴びるのは、せいぜい、外国の「脅威」が強調されるシーンにおいてに過ぎない。国境地域の現実に普段は関心も興味ももたない人々の過剰な国境への想像力とロマンは、しばしば現地に暮らす人々を傷つける。
 この「内地」の人々の国境地域に対する無自覚ぶりを反転させた象徴的な事例が、樺太をめぐる問題といえる。工藤信彦は本書で、日本国家が喪失した領土、樺太の存在にかかわる議論を整理し、その意味を読者に突きつける。工藤によれば、「樺太」問題の真の悲しみとは、戦後にその物理的存在が喪失したことにあるのではない。ソ連との間に北方領土問題を抱えるがゆえに、日本国は樺太の喪失を追認することができず、存在はあえて「空白」とされ続けた。そして今日、「空白」としての存在もまた忘却の彼方にある。
「存在」耐えられない軽さ。「平穏」な国家にとって、国境問題とは重荷でしかないのだろう。

  • 四六判上製・311頁
  • 978-4-88344-170-9
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/11/20発行
ヨーロッパを読む 阿部謹也 石風社 中世 阿部 謹也 ヨーロッパ 賤民 宇宙 世間 個人 デューラー 歴史 西洋史 個 中世史 社会学 近代 知識 智 史学 日常 ポリフォニック
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ヨーロッパを読む
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ヨーロッパを読む

「死者の社会史」から「世間論」まで、ヨーロッパにおける「近代の成立」を鋭く解明しながら、世間的日常と近代的個に分裂して生きる日本知識人の問題に迫る、阿部史学の刺激的エッセンス

書評

キリスト教的な宇宙観とのずれ

高橋義人
京都大学教授

 農村部の日本人は今日でも自分の家や村を小宇宙、その外側に拡がる山や海、さらにはそのなかに潜む霊や死を大宇宙と捉えている。そしてこの小宇宙と大宇宙とは同心円をなしていると信じている。本書によると興味深いことに、中世までのヨーロッパ人も同じような宇宙観を有していた。このような宇宙観の下では、時間は円環をなしていた。一年は春に始まり、夏、秋、冬を経てふたたび春に戻る。同じく人は死んで「あの世」に行ってからも輪廻転生によって「この世」に甦る。
 ところが中世になってキリスト教が次第に普及してくるとこうした普遍的な宇宙観、時間観は否定されるようになった。そこに賤民身分というものが成立するにいたったと著者は言う。
 大宇宙の要素である火とか水とか性などと関わる職業は本来は神聖な仕事であり、畏敬されこそすれ、賤視されることはありえなかった。彼らは小宇宙と大宇宙のいわば「間」に暮らしている人々だった。彼らが「賤民」となったのは、キリスト教が二つの宇宙の存在を否定したときから始まる。
 日本について同じ問題を論じた網野善彦氏の仕事とともに、本書は新しい見方を呈示してくれている。
 キリスト教はさらに直線的な時間観(救済史観)を導入した。歴史はアダムとエヴァに始まり、救世主イエス・キリストの登場を経て、ついには終焉(最後の審判)を迎えるのだ、と。しかしクリスチャンであるにもかかわらず、日本人と同じように今でも輪廻転生や円環的な時間を信じている西欧人はかなりいる。このように西欧人の心の深層に流れている古代的な宇宙観や時間観と、西欧人の建前をなすキリスト教的なそれとの間には明らかなずれがある。このずれを読むこと、それが「ヨーロッパを読む」ことなのだ。
 その他、死者の見方、ボスやデューラーの絵の解釈、交響曲の成立、娼婦論など話題は多岐にわたっている。
 今年、これほど興奮して読んだ本、教えられることの多かった本はない。

キリスト教が西欧を変えた根源の解説へ

芹沢俊介
評論家

 私にとってこの本の面白さは、キリスト教がヨーロッパに与えた根底的で巨大な影響について、日本との比較で明らかにしてみせてくれたことにある。ヨーロッパを読むことは同時に、日本を読むことなのである。
 ヨーロッパが現在のヨーロッパになったのは、キリスト教の浸透以後のことであり、それ以前のヨーロッパ、つまり十、十一世紀以前のヨーロッパは今の我々と同じであったというように阿部は述べている。つまり今の日本は一千年前のヨーロッパだと言うのである。阿部はそのことをさまざまな角度からとらえて行くのだが、この認識には目を洗われたような新鮮な驚きがあった。たとえばこんな箇所がある。見知らぬ者どうしが団体を組んだ場合、その会の幹事の決め方は日本ではまずくじ引きかジャンケンである。ヨーロッパでは決してそうはならない。必ず誰かが自発的に手をあげる。この違いについて阿部は、日本人は日常生活であらゆる機会にこのようなかたちで神判=神の意志(呪術、迷信などを含む)に頼るのだが、なぜこうなるかと言えば聖と俗、大宇宙と小宇宙、死後と現世といったものの境界があいまいなためだというふうに説明する。ヨーロッパにおいてこの境界を明確に分離したのがキリスト教であった。
 この点に関連してさらに二つの点で日本はキリスト教と無縁であった。日本には無償の贈与という考え方が現実に根付いていないという点が一つ。「タダより高いものはない」という互酬性の論理が生きて力をふるっている。ヨーロッパにおいてはその相互贈与の慣行のなかにキリスト教によって無償の贈与という観念が持ち込まれたとき、大きな転換点を迎えた。もう一つは個人という観念が現実に根付いていないという点で。
 第一のポイントについて阿部の主張はおおよそこうなる。それまでの習いでは、ヨーロッパにおいてもモノを贈られたら必ずモノでお返しをしなくてはならなかった。この互酬関係をキリスト教が壊した。教会はモノを贈られても現世では返さない。天国(死後の世界)で返すという回路をつけた。これは正確には相互贈与の慣習を壊したというよりも、その習慣が成立する時間・空間を現世から天国にまで拡張して、一元化したことを意味した──このことはさらに二つの宇宙、家を中心とした世界(世間)である小宇宙とその外に広がる大宇宙を、キリスト教が一元化したことをも告げていた──。また、天国(地獄)という観念を持ち込むことによって、現世の生の世界と死後の世界を分離した。現世では一度死んだら、死にきりという考え方はキリスト教が入ってきて以後に生まれた。そうしておいて死後の幸福は、生前の善行(教会への贈与である寄進を主とする)いかんにかかっているという考え方を生み出して行く。善行を積むことが天国への切符になるという発 想を断ち切るにはルターの登場を待たねばならなかった。ルターは人間が救われるか否かは生前の善行とはまるで関係がない、救いにかかわるのは信仰だけだと主張した。
 個人という観念についてはこう述べられている。日本人とヨーロッパ人の決定的に違う点は罪の意識の問題である。阿部は罪の意識が出てきたということと個人の形成とは深い関係にあること。具体的に言えば、キリスト教の権力によって、成人男女全員が罪の告解というものが強制されたこと、それによってヨーロッパの人は自分が自分(の罪)について語らざるを得なくなり、そかも告解された罪はその個人が自己の責任として引き受けなければならなくなったこと、このことが重要な契機になったと指摘している。キリスト教は告解制度が作られたときとほぼ並行して神判に関与するのをやめた。これに対して日本では罪の意識はいまも、世間という現世共同体との関係のなかでしか存在しないのである。日本人のほぼ全員が世間の中で生きているゆえに、社会を構成する個人としてよりも、自己決定を避け、世間に対して受け身にふるまうのである。なるほど、だからくじ引きをしたりジャンケンをしたりするのか!
 この本は一九八三年から十年間にわたる連続講演の記録で、読みながら私はしばしばキリスト教の根付かなかった国に生まれた幸と不幸をこもごも味わったのである。

人々の顔や気持が見える歴史学

樋口伸子
詩人

■庶民の心性にまで省察
 私達にとってヨーロッパとは何だろうか。日本の近代化はヨーロッパを手本として進められた。本、映画、芸術などから憧憬を交えて影響を受けた人も多い。駆け足旅行であれ、行けば随所で中世にできた建造物や町並みを見ることができる。〝まるで中世を旅するような〟という旅行者のうたい文句そのままに、西欧の歴史に触れた気になるが、あくまでも表面を撫でただけという思いが残る。それらの町にどんな生活があったのか知りたいと思う時に、「ヨーロッパを読む」は当時の人々の暮らしにまで分け入り西欧中世の深層に読者を伴い、そこから現在を逆に照らし出してくれる。
 第一章「死者の社会史」から「アルブレヒト・デューラーの自画像について」までの八章からなり、各章が一冊の本になる程に密度濃く多岐にわたる内容をもっている。どの章でも読者を引きつけるのは歴史学者としての著者の視点のせいである。その視線は為政者の歴史にでなく、常にその時代の庶民の暮らしや、人の心の動きに向けられており、時間・空間・モノという三つの枠の中での人と人との関係の歴史が説明される。
 不勉強にして私は人の心性にまで省察を及ばした歴史家をこれまで知らない。また歴史はあったことの叙述であり、なべて事例の列挙に終わる教科書歴史に魅力がないのは、歴史が想像を許さないせいだと思っていた。
■幾何学の証明にも似る
 氏は若い時にドイツ農村の史料を調べ、村の風景は目に浮かぶが、そこの道を歩く農民の顔と気持が見えてこないのに愕然としたという。当時の農民の顔や気持が見えるまでに歴史を掘り起こす。氏の魅力的で斬新な歴史研究の基本はここにあると思う。
 膨大で広範囲な記録史料が縦横に駆使され、資料は想像と発見を伴って読み取られていく。一見意表をつく仮説とみえることでも、細部まで論証する氏の明晰さは幾何学の命題を証明する鮮やかさに似ている。どこにどんな補助線を引くかが想像力の問題だ。
 この人の補助線は神話・伝説、伝承、グリム童話から文学作品にまで及ぶ。その方法が特に生彩を放つのは「笛吹き男は何故差別されたか 中世絵画にみる音の世界」の章である。ここで用いられるのは十五世紀の画家ヒエロニムス・ボスの絵である。
■中世世界に新しい視点
 前章の「中世賤民成立」では、迷信俗習が生きていた古ゲルマンの世界をキリスト教が一元化して取り込む過程で、差別された職業と差別を生む畏怖という心の動きが二つの宇宙という新しい視点から論じられた。その各論として差別された放浪音楽師をあげて、キリスト教が音楽をどう捉え器楽を排除したかが「最後の審判」、「音楽地獄」などの怪奇な絵から読み解かれる。またボスの皮肉な教会観も描かれている。
 ボスの細密で百鬼夜行的な地獄・天国の絵の中には、差別の発端となった人間狼、大宇宙と小宇宙、動物との関係、男女の性愛、これまで著者が中世世界を開けた際の鍵がびっしりと描かれていて刺激的である。
 「ヨーロッパ中世における男と女」の章では、牧師と姦通した女性を描いたホーソンの小説『緋文字』と、中世フランスの神学者アベラールとエロイーズの往復書簡集があげられる。ここにはキリスト教の説く聖性の規制に縛られず、欲望からの交わりも神聖な行為であるという、「愛の誇りのために生き」る女性がいた。著者はエロイーズに十二世紀ヨーロッパ社会のなかでようやく姿を現わした個人をみる。宗教をもたない私達が〈個〉を考える上で深い示唆にとむ章である。
■真摯で開かれた学究
 これはヨーロッパ礼賛の本でもないし、学会に囲い込まれた歴史書でもない。謎にみちた中世ヨーロッパ史から、私達が生きる世間論にまでわたる本書は福岡市の出版社・石風社で行われた著者の講演記録集である。
 つとに知られた一人の歴史学者が十余年にわたってほぼ毎年、目下研究中の初穂を百人内外の一般聴衆に披瀝する。公開講座は多いが、このような例は稀有なことだろう。石風社レクチャーのなりたちは人々の縁であるが、それが続いたのは阿部氏の真摯で開かれた学究の魅力のせいである。
阿部史学という言葉があるならこれまでのその流れが辿られる貴重な一冊といえよう。読者その河の支流で足を止めたり、また本流に戻ったりしつつ、ヨーロッパを遠く近く感じながらいま自分が生きる河口に導かれるのである。

  • 507頁 四六判上製
  • 4-88344-005-2
  • 定価:本体価格3500円+税
  • 1995/10/01発行
ティンサ 石風社 根本 百合子 ビルマ バ モオ モウ 女性
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ティンサ
zeikomi
¥0円
ティンサ

ビルマの初代首相バ・モオを父に、反政府活動家を夫に、波瀾に富んだ人生をおくったティンサとその一族の物語。大英帝国の植民地、さらに日本軍政下、時代の理不尽に翻弄されながらも清くたくましく生きたビルマの女性達へのオマージュ。

書評

政治に翻弄された一家の苦難の道のり描く

詩音

 1962年、著者の根本百合子さんは、外交官である夫と共に赴いたビルマ(現・ミャンマー)で、一人の女性と運命的な出会いをする。
「素顔の美しさと身だしなみのセンスのよさには会うたび見とれていたが、奥ゆかしさの中に毅然とした強い筋が一本通っている性格に大きい魅力を感じた」という。太平洋戦争下のビルマで、国家元首を務めたバ・モオ元首相の長女、ドオ・ティンサ・モオ・ナインである。
 本書は、ティンサへのインタビューを通し、モオ家一族の半世紀におよぶ苦難の道をたどるノンフィクションだ。
 ビルマの戦後は厳しい。英国からの独立運動があり、クーデターによる革命政府の樹立、反政府運動、そして民主化運動への武力弾圧は今も続く。
 一家は、激動する政治の波にのみ込まれ、運命を大きく変えられていく。
 カンボジアへの脱出と帰国。戦後日本に亡命した父、15年間地下にもぐり反政府運動を指導した夫、ティンサ自身やティンサの弟、妹も投獄され、息子を二人失うという悲劇にも見舞われる。
 しかし、ティンサは「良い時も、悪い時も、冷静な判断とたゆみない生きる努力を忘れなければ、必ず満足のゆく一生が送れます」との強い信念で困難を乗り越え、生き抜いてゆく。
 息子二人と娘一人を失うが、四男七女に恵まれ、孫を加えた大家族を切り盛りするティンサの知恵と行動力は、力強く清々しい。
 著者によると、最近の政情悪化で連絡が一方通行になり、近況がつかめないという。80歳を超えたティンサの余生が穏やかな日々であることを祈らずにはいられない。
 60余年前の日本の侵攻から、現在に至るビルマの近現代史を理解するうえでも貴重な一冊である。

  • 四六判上製247頁
  • 978-4-88344-149-5
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/07/20発行
いのち

丸山豊記念現代詩賞受賞


みずみずしいこどもの魂をもって、生きとし生きるものへの愛と共感をうたいつづけた詩人・みずかみかずよの全詩業。心があったかくなる生命(いのち)への讃歌。

書評

みずかみかずよ全詩集『いのち』に思う

森崎和江
作家

 第5回丸山豊記念現代詩賞は、みずかみかずよ全詩集『いのち』に贈られる。現在、詩を対象とした賞は全国に数多い。しかし、それぞれ故人の詩集や、全詩集、訳詩集を対象からはずしているのだが、丸山豊記念現代詩賞にはそのような規定はない。
 みずかみかずよさんは一九八八年に亡くなっておられる。『いのち』は、かずよさんが生涯書き続けた詩作品の集成で、夫の水上平吉氏によって編まれた大冊である。選考委員のひとりとして私は、この全詩集が受賞詩集として決定したことを、心からうれしく思っている。そして、同時代を生きたものとして、詩人みずかみ数よさんの生涯かけての精進に、深くお礼を申し上げたい。
 かずよさんの詩作品にはこれまでも折にふれて接してきた。けれども、面識を私は持たない。経歴によれば三五年に八幡市で生まれておられる。そして終生、北九州市で過ごされたご様子である。私は戦後、福岡県内の筑後、筑豊、筑前で暮らしてきた。が、わが心身ひとつさえ、持てあまし、たえまなく心は放浪を続けていて、とうとうお会いする折を持たなかった。
 それでも、こうして全詩集に接していると、その心の軌跡は手にとるように伝わる。そして、没後の今、この詩精神がどのように切実に待たれていたかを、痛切に思わせられるのである。
         ■
 一読いただければ、今日を生きる老若男女のだれの心にも届く大切なものがあることを、感じとってもらえると思う。戦後五十年、繁栄を求め、平和を願いつつ私たちは努力してきた。目を見張るほど一般の生活は向上し安定してきた。敗戦直後、筑後に引き揚げ者として身を寄せた私には、戦後の姿は心に焼きついていて、あの空虚をその後の歳月でよくぞここまで、と思うほどである。
 そして、昨今、ふとこの繁栄の、その影に気がついているのだ。それは思いがけない形でやってきた。大人の私たちの背を、刺すような鋭さで。私たちが、明日を築いてくれる人々として何よりも大切に思っている、少年、少女。子どもたち。まだ幼稚園へも通わぬ幼い魂。その叫び声!
 子どもの心も身体も自然をより求めているのに、大人はそのことにあまり気がついていない。伝えるには未熟な言葉の内側に、せいいっぱいの悲痛をこめて、朝夕子らのまなざしがうったえかける。その視線に、私は、どうこたえているのか。それは子どもどうしのいじめなどへと押しこめてすませられる問題ではないのである。
 詩を書くということは、言葉の発生基盤に深くかかわることを、私は戦後久しく続いた私自身の心身不調によって、肝に銘ずるように知らせられた。私はかつての植民地朝鮮で生まれ育った。子どものころから、詩や絵を楽しんでいた。つまり、朝鮮の風土や自然や人びとのしぐさや生活の様子などにしみとおっている歴史と文化とが、たまたまその大地と青空の間に生み放された心と体に、これがお前の生の時空なのだよと、輝きを放っていたのだ。そこには、風が吹き、光が射し、木が繁り、多くのいのちが互いに生きていた。人間だけではないのである。言葉もまだ持たぬころから、人の魂は、生の環境としての世界を感じとるのである。
 そのことに対する私個人の、他国侵食の痛みのはねかえりについては、これは今日までの彷徨に反映しているわけだが、しかし、五十年後の今、戦後を生きてきたひとりとして、私もまた、幼いいのちたちをしっかりと受けとめてきたのか、と自問するのである。
 詩とは、世界を受けとめる力であり、見えない明日への祈りである。それは言葉の技術ではなく、言葉の魂である。心を耕し耕し、土や水や風や時間を耕し耕し、ようやく、したたってくる明日への祈り。あるいは、エロス。いのちのみなもとなのだ。
         ■
 みずかみかずよさんは童話作家でもある。その作品はみな、自分を捨てず、他者を受けとめる努力の果てに見えてくるものを求める。それは生誕した瞬間、身に映じた宇宙の姿なのかもしれないのだが、悲しいかな、人間は人間の限界を背負って生きるしかない。そのことに対して、まことに誠実で勇気ある詩人である。
  胃を きりとられて/あまり/かるくなったので
  季節の かわりめの/風に ふかれると/とばされそうです
  点滴の ビニールのくだで/しっかり/つながれてはいますが
  いま/とばされたなら/わたしは紙風船
  その手に/うけてくれますか
  自由に/とばせてくれますか
「窓の外へ」という詩である。

  • A5判上製512頁
  • 定価:本体価格3500円+税
  • 1995/07/30発行
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