書評

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淵上毛錢詩集

熊本は水俣が生んだ夭折の詩人が伝説の海から鮮烈に甦る。二十歳で発病、死の床に十五年。死を見すえつつ生のみずみずしさをうたう……。

書評

詩の贈りもの

猫柳

 現代詩は抒情の否定といわれることがある。本当に、そうかな。これは、安易な感傷に流れる詩作への戒めであって、やはり詩の根底は抒情だと思う。現代詩人たちも、ひょっとしたら存分に叙情詩を書きたいと思うことがないだろうか。私なら、ある。
 時折、こういう思いに駆られていたところ、「詩は抒情よ」と言いたくなるような詩集に出会った。しかも、上等の抒情である。日ごろは口にしない詩の原点に連れ戻される。
『淵上毛錢詩集』を手にして、とても懐かしく、うれしく思った。実は、わが十代の終り頃、図書館で日本詩人全集を読み、好きな詩をノートに書き写した。その時、毛錢の詩を知った。そして、長い間忘れていた。
 変色したノートを出してみると、『猫柳』という題の詩を写していた。「猫柳の/ねるの玉を/握りしめて/小径に/屈み込んでしまった/このまま/このまま/日が暮れなければいい」。あっと思った。私のペンネームは、子ども時代の原風景である貧弱な一株の猫柳からつけたものだったからだ。
 この本は、詩のことだけでなく多くのことを改めて考えさせてくれた。編者の前山光則氏は散文系の方である。だから逆に、詩と詩人を深いところから温かに甦らせることができたのかもしれない。詩を読むよろこびを久々に贈られた気がする。

伝記的事実捨て去る真骨頂

山本哲也
詩人

 詩が、精神とか人生とかをふりかざすようになったらだいなしである。人生訓まがいの行分け散文が、本物の詩集より売れる時代、この詩集の刊行はありがたい。
 毛錢の詩は、淵上毛錢という人間の素(す)でできている。集中に「もう題なんかいらない」というタイトルの詩があるが、そうなのだ、もう題なんかいらない。形式も、詩の方法論もいらない。毛錢は、カリエスという不治の病の運命を見すえて、過剰な言葉を削り、感傷を削って、生の原型、詩の原型そのものを書き残した。
 毛錢の詩集がこうして一冊なること、現在の出版事情からすれば、これは稀有のことであろう。編者の前山光則氏が「五十回忌を迎えるにあたって、催しや石碑だけでなく、毛錢の詩が手頃なかたちで読めるように」というように、収録作品七十四編が「風土と抒情」「雲よ、風よ」「スッケンギョーで きやー渡れ」「生と死の間」の四パートにわかれて編まれているところに、編者がこの一冊にこめた意図が透けてみえる。水俣方言のフレーズには、その詩の末尾に脚注がつき、作品を裏打ちするように、巻末に編者前山光則氏の「淵上毛錢小伝」がくる。七〇年代に国文社から出た?巻本『淵上毛錢全集』以後、はじめての毛錢詩集である。
「小伝」を読めば、毛錢という詩人の、天衣無縫ともいうべき無頼、三十五歳の死に至るまで十五年間のカリエスで寝たきりの生の酷薄さ、それらはみえすぎるほどみえる。だが、毛錢の詩の真骨頂は、そのような伝記的事実を捨て去ったところにあるのだ。
 自閉的になりがちな対象を扱いながら、毛錢の詩はつねに、言葉の底に開放感がある。「ぼくが/死んでからでも/十二時がきたら十二/鳴るのかい/苦労するなあ/まあいいや/しっかり鳴って/おくれ」(「柱時計」)この健康なユーモア。これが毛錢詩の「素」なのである。

「美しい空つぽ」を希求

岡田哲也
詩人

 淵上毛錢、本名淵上喬、法名十方院釈毛錢居士。彼は一九一五年、水俣に生まれた。かつての名門士族、淵上家の次男だった。彼をモデルにした小説『ある詩人の生涯』のなかで火野葦平は、「喬は一生名門の亡霊とたたかい通した」と描いているが、本物の喬も幼い頃から、知らぬ人なき悪童だった。
 家からはみだし、ふるさとからはみだし、と言うよりどこにいても所を得ないような人間はいるものだ。彼はやがて熊本市の九州学院から、東京の青山学院へと進む。そして養子に出される。さらに放蕩に拍車がかかる。
 世はまさに大正デモクラシーの嵐が吹き荒れていた。彼はこの頃、詩人山之口貘を知り、青山学院を退学する。寄席の下足番、新聞配達、港湾労働者、輸送トラック助手︱︱。彼の職歴の部分だ。まあこれは、労苦というより、青春の浪費のようなものだろう。
 しかし、三五年、はたちの時、結核つぎに股関節カリエスが発病し、以後十五年間ふるさと水俣でほとんど寝たきりの日々をすごすことになる。何という皮肉か。その病のすさびに書き始めたのが、詩だった。
 「来て見れば 来て見れば/誰もかれもが石垣の石に似てゐて/ほし魚のしつぽのやうな故里の/らちもない話といふものが/こんなにもこたへてくるものであらうか」(作品「流逝」)
 ところで、私は毛錢のふるさと水俣の隣町、鹿児島県出水で生まれた。彼のことを知ったのは、私が東京におさらばして出水に戻ってからのことだった。入りびたっていた居酒屋のおかみが、淵上一族の出だった。だが当時の私は、彼女から毛錢の話をされても、あまり乗らなかった。さして読んでいなかったこともある。それより、「人間どこに住んでも都であり、地獄である」と思いつめていた私は、どこへも行けなかった毛錢が、ベッドにくびかれた土着の囚人のように感じられたのだ。とんだ読まずぎらいというものだが、人は時として、あまりに卑近な同類を目のあたりにすると、思わず顔を背けるものらしい。
 「屋根といふものがなければ/暮しはできないものなのか/もの哀しい習俗のぐるりの/屋根屋根を濡らして/遙かなる狐の嫁入りが行く(略)僕はこのまんま/美しい空つぽになりたくて/ほそい山経に群れてゐる」(「眺望」)
 「じつと雨を見てゐると、/しまひには雨が自分のやうに思へてきて、/へまなぼくがさかんに/降つてゐるのであつた。」(「梅雨」)
 毛錢の作品では、この「美しい空つぽ」になるという思いが、まるで交響曲のテーマのようにくりかえし奏でられる。病の苦しみや生きる痛みが増せば増すほど、この美しい空つぽへの希求は、より大きなものとなって登場する。彼の作品には、方言を使った作品も少なからずあるが、それらは泥臭いどころか、はんなりとしたユーモアと味わいに昇華している。それは彼の資質にもよるのだろうが、私にはやはり業苦ともいえる不治の病が与えたフィルターで濾されたものにうつる。
 「ぼくが/死んでからでも/十二時がきたら 十二/鳴るのかい/苦労するなあ/まあいいや/しつかり鳴つて/おくれ」(「柱時計」)
 彼は寝たきりだったが、彼の精神は縦横無尽に、この世界を駈けつづけた。敗戦後、彼が、地元の水俣文化会議のリーダーとして、多忙な時を過ごしたのも、その表れのひとつだろう。むろん彼は、時局に便乗することもなく、地方で〈東京〉風を吹かしてのぼせることもなく、自足して腐ることもなかった。生きることに忙しかった彼は、とても威張るどころの騒ぎじゃ無かったのだろう。永眠したのは、五〇年三月九日だった。
 「貸し借りの片道さへも十万億土」
 これは彼の絶句だが、この度の詩集は、貸し借りなしに買える求めやすい一冊となった。三部構成の編集は、小気味良いし、新しく改められた年譜も有難い。編集の前山光則氏の毛氈への敬意が、それこそ「素朴な煮しめ」のような味わいを生んでいる。

  • 194頁 A5判並製
  • 4-88344-041-9
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1999/05/01発行
中村 哲 ペシャワール アフガン アフガニスタン 国際化 らい ハンセン病 NGO 北西辺境州 イスラム 石風社 辺境で診る辺境から見る 中村哲
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辺境で診る辺境から見る
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辺境で診る辺境から見る

「ペシャワール、この地名が世界認識を根底から変えるほどの意味を帯びて私たちに迫ってきたのは、中村哲の本によってである」(芹沢俊介氏「信濃毎日新聞」)
戦乱の中、診療所をつくり、千の井戸を掘り、緑の大地を拓く医師アフガニスタン・パキスタンで19年。時代の本流を尻目に黙々と歩む一医師の果敢な思考と実践の軌跡。戦乱の中、診療所をつくり千の井戸を掘り用水を拓く。時代の本流を尻目に、黙々と歩む一医師の、その果敢な思考と実践の軌跡のエッセンス。

書評

アフガン復興への現実的展望

芹沢俊介
評論家

 パキスタン北部の山岳地帯にある町ペシャワール、この地名が世界認識を根底から変えるほどの意味を帯びて私たちに迫ってきたのは、中村哲の本によってである。
 著者はペシャワール会の医者として、二十年にわたり現地で、ハンセン病コントロール計画をはじめとする医療活動に従事する一方、大旱魃にみまわれたアフガニスタンに数多くの井戸を掘ってきた。現地の人たちとともに、農民が土地を失って難民となる事態を防ごうとして懸命の努力を傾けてきた。
 素朴な疑問が浮かんでこよう。なぜパキスタンの町がアフガン復興の拠点となるのだろうか。著者は書いている。浮浪者、物乞い、泥棒、そして三百万人のアフガン難民たちを、ペシャワールは苦もなく受け入れると。著者はそうした姿に、著者のいう「平和・相互扶助の精神」を見たのだ。それこそが真の人類共通の文化遺産であると思ったに違いない。
 あの悪名高かったタリバン政権に関しても、現地の生活者の視点に立つとまったく違う像が描き出される。著者の目には、タリバンによる治安回復は驚くべきで、人々はおおむねこれを歓迎していたと映った。アフガニスタンの広大な国土の九割が、兵力わずか二万人のタリバン政権で支配され続けたのは、決して圧制のためではなく、世界でもっとも保守的なイスラム社会の住民たちの期待に応えたからだ、と著者は述べる。
 このような著者の目を通して見るとき、正義の米国対悪のタリバンという構図は虚偽であり、タリバン後の自由なアフガンという見通しもまるで根拠のない、非現実的なものだということがわかる。実際、タリバン政権崩壊後、治安は乱れ、貧しい人々の生活はいっそう悪化している。復興支援という名の西欧風の押し付けも完全に行き詰まっている。
 そうした現実をかたわらに、長期的展望に立つ著者はめげる気配もない。誇り高いアフガン気質は農村にこそ生きているという現実感覚を踏まえ、年間二〇万人を診察するという医療活動や、井戸掘りなど水源確保を目的とした作業地の拡大に尽くしている。農村復興の要がそこにあるというのだ。読後、人間愛についてつくづく考えこんでしまった。

魂の叫び……珠玉の文章

白垣詔男
西日本新聞編集局

 一九八四年からパキスタン、その後アフガニスタンでも難民らの診療を続けている福岡市出身の医師中村哲さんの初の時事評論と随筆集。「人間にとって一番大切な権利は生存権」と言い切る中村さんの「魂の叫び」が並ぶ。物質文明の中で生活する日本人が読むと心洗われ「人間とは何か」を考えさせてくれる魅力的な一冊だ。
 時事評論は、中村さんが本格的にアフガニスタンにかかわり始めた八九年から昨年秋まで、西日本新聞はじめ日本の新聞や、中村さんを支える非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(福岡市)会報に発表した中から厳選した。
 この間、アフガニスタンでは、軍事介入していた旧ソ連軍の撤退(八九年)、内戦(八九─九四年)、イスラム神学生の武装集団タリバン政権登場(九四年)、米国の空爆でタリバン政権崩壊(二〇〇一年十二月)、暫定政権発足(同)とめまぐるしい動きがあった。
 しかし、中村さんと現地病院、診療所スタッフらは、「幾多の戦乱と権力の変遷、現われては消える海外援助活動とは無縁に、患者や現地スタッフたちと泣き笑いを共にし、現地活動を継続してきた」。
 中村さんが現地代表を務める「ペシャワール会」の事業は、医療に加え飲料水確保、さらに農業土木工事まで広げる。すべて、現地の人々の命を守るためである。
 これらの資金は、同会が募集した「アフガンいのちの基金」(十億近く集まった)と急激に増えたペシャワール会会員の会費だった。同会は、米空爆が始まると会員が急増、八千人を超えた。
 本書には、二十年近く両国で医療活動など、現地の人々の立場で活動してきた中村さんの「珠玉の言葉」が並ぶ。それらは、光が当たるときだけ、にぎにぎしく動き回る大半のNGOの活動家らとは違う、大地に根ざし活動を継続してきた者だけが語り得る重たい響きを持つ。それは、湾岸戦争、米空爆などイスラム社会で「敵」を増やしている日本政府の愚行を、食い止める努力にもなっている。
 巻末には〇〇年七月から八月にかけて西日本新聞文化面に五十回連載した随筆「新ガリバー旅行記」を収録している。

  • 251頁四六判上製
  • 978-4-88344-095-5
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2003/05/20発行
医は国境を越えて 中村哲 国際化 石風社 イスラム ペシャワール アフガン アフガニスタン らい ハンセン NGO 中村 哲
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医は国境を越えて
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医は国境を越えて

アジア太平洋賞〈特別賞〉受賞


貧困・戦争・民族の対立・近代化──世界のあらゆる矛盾が噴き出す文明の十字路で、ハンセン病の治療と、峻険な山岳地帯の無医村診療を15年にわたって続ける一人の日本人医師の苦闘の記録。

書評

国際化とは、日本とは、人間とは。

 一九九三年、アフガニスタンの山岳地帯、ダラエ・ヌール渓谷一帯で悪性マラリアが大流行した。駆けつけた日本人チームは村民から大歓迎された。
 キニーネを点滴すると劇的に回復する。一人分二二〇円。資金が底をついた。これを報じた日本の新聞の「人の命が二二〇円」の見出しが波紋を広げ、五年分のマラリア・流行病予算ができたと中村哲さんは喜んだ。パキスタン北西部ペシャワルを拠点に医療活動を続ける人だ。
 渓谷に朝の薄明かりがさしはじめるころ、祈りの朗唱が響き、一日がはじまる。村によっては小学校もあるが、大半の村には一種の寺子屋があって、コーランを通じて読み書きを覚える。親が農業や牧畜で忙しいとき、子どもは放牧や水くみを手伝い、学校には行かない。
 ある団体が日本と協力して「恵まれない子どもたちのため」村に学校を建設する案を携えて相談にきた。中村さんは答えた。子どもたちは「哀れだ」とは思っていない。ヒツジを追い、たきぎを背負う労働も、家族のきずなを強め、共同体の中で必要な協力や生活の技術を学ぶ教育ではないだろうか。
 もちろん、暮らしをよくするための技術や、広く日本や世界を知る知恵を受けることは大切だろう。しかし、あの子どもたちを哀れと見る彼らは、学校にはない、日々の生活を通して自然に教えられる「教育」に気づいているとは言えないと思う。「私はこのての『国際協力』にある種の不信感を抱いている」と中村さんは『医は国境を越えて』に書いている。
 八四年にペシャワルの病院に赴任してから十六年、中村さんはパキスタンの辺境から日本を見続けてきた。国際化とは、日本とは、人間とは。その一言一言が重い。きょう、『医は国境を越えて』の中村さんに第十二回「アジア・太平洋賞」特別賞が贈られる。

  • 355頁四六判上製
  • 4-88344-049-4
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1999/12発行
ダラエ・ヌールへの道 中村哲 ペシャワール 中村 哲 ダラエ アフガニスタン 石風社 アフガン らい イスラム ハンセン病 NGO 国際化
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ダラエ・ヌールへの道
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ダラエ・ヌールへの道

アフガニスタンの山岳地帯の村々に診療所建設を展開するひとりの日本人医師が、現地との軋轢、日本人ボランティアの挫折、自らの内面の検証等、血の噴き出す苦闘を通してニッポンとは何か、「国際化」とは何かを根底的に問い直す渾身のメッセージ

書評

一知半解の事情通に対する痛烈な批判

山内昌之
東京大学教授、歴史学

「アフガニスタン──それは光と影です」
 一九八四年以来、アフガン難民の医療に従事する筆者の指摘には、ずっしりとした重みがある。前著の『ペシャワールにて』に続く、アフガニスタンやパキスタン現地の人との交友と診察の貴重な記録である。最新のアフガニスタン情勢の紹介にもなっている。
 欧米や日本から来た論客やボランティアのなかには、アフガン人の難民キャンプ生活を見て、「イスラムの後進性」や「男による女性虐待に金切り声を上げる」者が多いという。こうした外国人の解釈や異文化論こそ、アフガン人の言動より「さらに解らない」というのが著者の感想である。これは、一知半解の事情通に対する痛烈な批判になっている。
「日本︱アフガン医療サービス」の主宰者であり、アフガン国内ダラエ・ヌールにつくった新診療所で文字通り生命を賭して診療を続ける中村氏には、とくにアフガン社会の解放とか救済といった気負いはない。むしろ、戦火の恐怖で言語も失った人びとの病を癒し、高熱と全身の痛みで耐えられなくなった患者に少しでも「人間」としての誇りを取り戻させる。
 中村医師の医療活動の信念は明快である。「べたべたと優しくするよりも、泣き叫びを放置して思い切り心の膿を出させる方がよい。事実と結果が最も雄弁である」。
 しかし、こうした考えは時にスタッフに大きな忍耐力を強いる。ある外国人がやってきて、「病棟の無秩序と悲惨な女性患者の境遇」を嘆いたそうである。
 しかし、中村氏は「即座にその意味が分からなかった」という。それは、「瀕死の野良犬が人間に立ち直るのを大きな希望で見てきたからである」。それでも、せっかく治癒したこのハンセン氏病患者が気管切開をして失語状態になってしまう。極限状態を経験するのは患者だけではないのだ。
 各種の会議にありがちは「無駄口と議論」への嫌悪と出席拒否も、著者ほどの体験を重ねるとまるで自然な振る舞いに思えてくる。
 どんなにつらい環境にあっても、ユーモアや余裕を忘れない中村氏の姿が随所に見いだされる。アフガン難民の治療にあたる日本人医師やレントゲン技師があまりといえばあまりの現地民の対応に怒りはじめると、唐の高僧・玄奘が仏典を求めてペシャワールあたりに来た時の言辞をさりげなく紹介する。「この地は人情が頗る悪い」と『大唐西域記』が記録しているというのだ。高僧でさえこの調子だから、「偉くもない我々凡人が簡単に解るものではない」。
仏教でいう「悪智」に陥らず、観念の格闘で終わらないようにしよう、という中村医師の勧めは、広くわれわれにもあてはまる素晴らしい警句ではないか。
 それでも、「率直さ」だけは忘れないようにしたい、というのも著者らしい。玄奘も「悪智」こそもたなかったが、率直に悪口を末代まで記している、という指摘には思わず喝采を送りたくなる。クリスマスの日、ペシャワールに出た医師は患者五〇人に「見たこともない高級の洋菓子」を土産に買って帰る。一週間の食事代にもなるケーキを暖かいストーブの側で食べながら、談笑する光景は感動的である。久しぶりに笑顔が戻った患者を温顔で見守る中村氏のシルエットが、ストーブの明かりに照らされて浮かぶようである。

  • 323頁 四六判上製
  • 978-4-88344-051-1
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1993/11発行
アフガン農業支援奮闘記 旱魃 洪水 水不足 蕎麦 茶 アルファルファ 中村哲 高橋修 橋本康範 伊藤和也 進藤陽一郎 山口敦史 石風社 ペシャワール会 農業 さつまいも
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アフガン農業支援奮闘記
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アフガン農業支援奮闘記

「アフガニスタンに自給用の農作物を」。異なる文化、過酷な風土の中で悪戦苦闘しつつ積み重ねられた農業支援六年余りの克明な記録。小麦・米・トウモロコシ・アルファルファ・ソルゴー・さつまいも・茶・ぶどう・蕎麦など、失敗の数々といくつかの成功。その試行錯誤を克明に記すことで、次世代へと繋ぐ報告集。

書評

アフガニスタンにおける農業支援の詳細な実践の記録

岩島 史
京都大学大学院農学研究科博士課程

 本書は、アフガニスタンで活動するNGO「ペシャワール会」が、2002年に発足させた「緑の大地計画」のうち、ダラエヌール地区の試験農場を中心とする農業支援計画の記録である。「緑の大地計画」は「1飲料水源の確保、2農業用水路の建設、3乾燥に強い作物の研究・普及から成り、旱魃で荒廃したアフガン農村の復興を長期的な展望でめざ」すものであった。2007年8月、同会の試験農場で働いていた伊藤和也氏が拉致・殺害された事件以降、中断せざるをえなかった農業計画を「できるだけ正確に広く知っていただく」ことが、「責務」であるという同計画の責任者らによって上梓されている。
 1章では「ペシャワール会」が農業計画をはじめるまでの経緯、2章では計画に参加した日本人ワーカーそれぞれの意気込みや参加に至る経緯が書かれている。3章では実際に試験農場で栽培をはじめた作物について品種選びから作付けの時期や畝の立て方まで、数々の栽培試験をし、失敗と工夫を重ねたことが詳細に記録されている。4章では、試験農場で栽培に成功した作物を近隣農家へ普及する過程で経験した、現地の人に任せることの大切さと難しさについて述べている。5章では世界的な政治情勢が他人事ではない状況のなかで、現地の生活・文化に馴染んでいく様子や人びとととのふれあいが描かれ、マスメディアの中の「アフガニスタン」とは異なる等身大の人びとの姿が垣間見える。ただし、編著者が全員男性であるため、本書における「人びと」とはすべて「子どもと男性」である。最後の章では、伊藤氏の拉致・殺害事件と農業計画中断の決断にまつわるメンバー間のやりとりが記載されており、編著者らの「断腸の思い」が伝わってくる。巻末の資料も非常に充実しており、現地の気温や土壌phから施肥や水やりの方法など、アフガニスタンの厳しい気象条件の下で作物を実らせるための7年間のさまざまな工夫が詳細なデータの蓄積として残されている。農業計画の責任者であった高橋氏の栽培方針と現地農家からの提案との相違点も作物ごとにまとめてあり、非常に興味深い。
 本書を通じて一貫して語られるのは、編著者である高橋氏が京都府で農業改良普及員をしていたという経験にもとづく「現地主義」の理念である。「現地主義」の内容は「主役は農家」「現地の技術を改良しながら」「資機材は現地調達を基本として」の3点であるという。これは今や国際協力において必ず求められ、なおかつ議論も多い理念である。本書でもそれを実践することのむずかしさが試行錯誤する記録の中ににじみ出ており、農業支援の記録として貴重であるだけでなく、支援する人と現地の人とのかかわりの記録として、国際協力にかかわるすべての人にとっても示唆に富んだ書である。

アフガン、実った笑顔 ペシャワール会農業の記録出版

古田大輔
朝日新聞

 アフガニスタンとパキスタンで医療や農業の支援活動をしているNGO「ペシャワール会」(本部・福岡市)の農業分野の軌跡をまとめた『アフガン農業支援奮闘記』が出版される。2008年8月にアフガンで拉致・殺害された伊藤和也さん(当時31)らが旱魃と戦乱で荒廃した大地に挑んだ7年余の汗と涙、そして、現地に再び実りと笑顔をもたらした記録だ。

 アフガン東部での農業支援は01年6月、旱魃対策の井戸掘りから始まり、はがて、25キロにも及ぶ水路の建設とその周辺に農地を復活させる「緑の大地計画」に移る。
 京都府職員として長く農業の普及指導に努め、退職後は国際協力機構のもと、アジア各国で支援に飛び回ってきた高橋修さん(79)ら計6人の日本人職員が主に支援にあたった。その中に伊藤さんもいた。
 予想もしていなかった困難が相次いだ。異常な高温と乾燥。アルカリ性の土壌を改良しようと硫黄を持ち込んだら、テロリストと疑われた。せっかく育った作物を盗んでいく者もいた。「なんでもいいから種よこせ。アフガンの手助けに来たのだろう!」と居丈高に要求されたことも。成功の影にあるそんな苦難も本には記されている。
 作物は元々栽培が盛んだった小麦だけでなく、飢餓から農民を救うためのサツマイモや現地品種よりも収穫量が大きかった日本米、栄養価の高い大豆や換金作物としての茶などに広げていった。成功体験を重ねることで、現地の人たちからの信頼が高まり、活動も円滑に進むようになっていった。水路周辺には内戦で避難していた人たちが戻り、集落もできていった。
 職員を支えたのは飢餓と闘う決意と、アフガンの人々の温かさだった。「寂しいだろう」と手作りの伝統楽器で民謡を披露してくれたり、自分たちの食事を減らしてまでもてなしてくれたり。そんな心の交流も紹介している。
 伊藤さんの事件が発生し、日本人職員は現地代表の中村哲医師(63)を遺して全員帰国した。本では、日本人職員撤退後の09年2月に現地の農家からかかってきた国際電話が紹介されている。
「日本米の新米は中村先生のところに届けた。サツマイモもお茶にあう甘い芋がとれた。この冬のサツマイモの保存も去年やった通りに管理している。(中略)大丈夫だ。農業計画はちゃんと前進させているぞ」

  • 401頁 A5判並製
  • 978-4-88344-184-6
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2010/03/01発行
花咲か 江戸の植木職人 岩崎京子 石風社 桜 サクラ さくら ソメイヨシノ そめいよしの 植木 江戸 駒込 岩崎 京子 長野 ヒデ子 植樹 キク 菊
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花咲か
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花咲か

ソメイヨシノの始まり始まり


江戸の町にソメイヨシノがやってきた! 江戸・駒込の植木師にひろわれた少年が、小さな花々の命と向き合い、江戸の町にあでやかな新種の桜を植樹し、開花させるまでのひたむきな姿を、清々しい筆致で描いた長編。(表紙絵・長野ヒデ子)

書評

ひきついだ命を大切に

吉橋通夫
児童文学作家

 被災地の桜は、まだ「つぼみ固し」ではないでしょうか。一日も早く、満開の桜を楽しめる日々がもどってくることを願っています。
 いま日本で一番多く見かける桜は、ソメイヨシノという品種です。咲き始めは淡い紅色で、満開になれば白い大輪の花を咲かせます。
 江戸時代に染井村(いまの東京駒込)から広まったとされるソメイヨシノは、落ちた種から発芽することは、ほとんどないそうです。自分ひとりの力では増えていくことが出来ないので、人の手で接ぎ木や挿し木などをして増やしていきます。それに、肥料をやったり、根もとの草を刈ったり、からんだツタを切ったり、あれこれ世話をしてやらないと、きれいな花を咲かせてくれません。

 この本は、ソメイヨシノをひろげるために力を尽くした染井村の植木職人、常七の物語です。
 十三歳で弟子入りした常七が残した日記のようなメモをもとにして、物語が進んでいきます。
 そのメモは、「さつきとをか、あめすこしづつたびたび。おやかたより、あづきあんやきもち二ケおふるまひ。大きさこのくらゐ」と旧かなづかいで書いてあり、「このくらゐ」のあとには、もらった焼きもちの大きさが丸印でなぞってあります。
 旧かなづかいは読みづらいですが、この本では、ちゃんと新しいかなをつけてくれいるし、読み慣れると意味が分かってきます。速読しないで、じっくりかみしめながら読んでみてください。
 
 歴史ものは、今では使わないむずかしい言葉が出てくるので、苦手な人が多いようですね。でも、何百年も前に生きていた人たちの暮らしぶりや風俗を知るのも楽しいことですよ。その時代にタイムスリップすれば、歴史の中で暮らしていた人たちの息吹が伝わってきます。昔の人は、こんなふうに生きてきたんだ、現代に生きる自分も、彼らの人生の続きにいるんだ……と思えてきます。過去に生きていた人々と今の自分の人生が、とぎれることなくつながっていることの不思議さとおもしろさ。
 自分の命は、いきなりこの世に生まれたのではなくて、たくさんの人たちの夢や希望をひきついで、今ここにあるのですね。ひきついだ命を大切に生きていきましょう。
 作者の岩崎京子さんは、ことし八十九歳。今も徹底した取材をしながら勢力的に書き続けています。

  • 254頁 四六判並製
  • 978-4-88344-173-0
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2009/04発行
日本人が見た'30年代のアフガン 尾崎三雄 アフガニスタン アフガン 農業 尾崎 三雄 日本人 昭和 明治 大正 写真 書簡 農夫 東大 農学部 カブール ジャララバッド カシミール
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日本人が見た'30年代のアフガン
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日本人が見た’30年代のアフガン

王政アフガニスタンで尽力した日本人たち


1935年(昭和10年)、熱砂のアフガニスタンで農業指導に奔走した日本人がいた。一人の明治人とその妻が、苛酷な日常を通じて異文化と真摯に向き合い、日々の生活と内面の葛藤を綴った貴重な記録。写真多数。

書評

戦前日本アジア戦略の「布石」

布施裕之
編集委員

 ちょうど十五年前、アフガニスタンへ取材に行った際、地元の古老から「アフガンの低地部には日本のミカンのような果物がなる」という話を聞いた。その果物は、バザールに並ぶオレンジよりも小さく、皮の薄い柑橘類で、現地に伝わる話では、何十年も前に日本から種か苗木を取り寄せて育てたものだという。
 当時のアフガンはソ連軍の撤退が始まる直前で、現地入りした外国マスコミの回りには、「案内役」だの「地元住民」だのと称して、その実秘密警察にしか見えない怪しげな連中が取り巻いていた。だから、ミカンのことも、日本人記者の歓心を買うための「おとぎ話」だろうと高をくくって、本気にしなかった。
 ところが最近「日本人が見た‘30年代のアフガン」という本を読んで、この古老の話を突然、思い出した。戦前、アフガンで農業の技術指導をしていた日本人農業技師、故尾崎三雄氏の手紙や紀行、写真をまとめた本の中に、現地で「柑橘栽培」に取り組んでいる、というくだりを見つけたからである。
 尾崎氏は一九三五年(昭和十年)、勤務先の農林省の命でアフガンへ渡り、三年間にわたって、植林、灌漑、果樹栽培などの指導に当たった。「世界の最果て」への赴任だけに、子息によると、出発の際には「親兄弟と水盃の別れをして故郷を離れた」という。その尾崎氏が、アフガン各地の農業事情を視察した結果「最も望みあるもの」と見なしたのが、低地部・ジャララバードでの柑橘類の栽培だった。紀行や手紙からは、尾崎氏が、わざわざ地元種の標本を集めたり、日本から種子を送らせたり、現地の助手に調査を命じたりしていた様子がうかがえる。
 それにしても、この時期に日本からはるか辺境の南西アジアへ、外交官以外の人員が送られたというのは、それだけでも驚くに値する。なにしろ三五年と言えば、満州事変後の騒然とした時代で、翌年に二・二六事件、翌々年には盧溝橋事件が起きている。尾崎氏の派遣は、直接には三〇年のアフガンとの国交樹立を受けたものだが、その目的は果たしてありきたりの友好促進や人材交流にあったのだろうか。
 戦前の日本のアジア政策に詳しい山室信一・京大教授は、その背景には、英国とソ連がせめぎ合うこの地域に「人的布石」を打ち、「アジアへの影響力を扶植」するという戦略的な狙いがあったと指摘する。特に主眼がおかれたのは「対ソ包囲網の形成」で、それは三六年八月に決定された「帝国外交方針」が、「(ソ連に)隣接する欧州および亜細亜諸国ならびに回教諸民族」の「啓発に力(つと)むべし」と定めていることからも明らかだろいう。
 事実、山室教授によると、尾崎氏自身、帰国後の三九年、専門の農業問題とは別に「アフガンからソ連やイギリスなどの勢力を追放することが、日本がアジアの盟主としての地位を確立するために求められている」とする現地情勢報告を発表している。辺境の地に送られた農業技師は、少なくとも時の政府からみれば、アジア情報網の最前線としての使命をも担わされていたのである。
 日本のミカンがアフガンに移植されたという話の真偽は定かではない。現地で農業指導をしている国際協力事業団(JICA)でさえ「そんな話は聞いたことがない」と首をかしげるのだから、やはり怪しげな古老の「おとぎ話」に過ぎなかったのかもしれない。
 しかし、三〇年代にアフガンで行われた日本の農業指導が、当時の「アジア主義」の、スローガンにはとどまらない側面をかいま見せているのは間違いない。そして、現地情勢を正確にとらえた農業技師の紀行や手紙や写真の中に、戦前の日本人の戦略的な思考能力の高さをありありと思い浮かべるのである。

  • 312頁 四六判上製
  • 4-88344-100-8
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2003/08発行
井上岩夫 豊田伸治 石風社 著作集 エッセイ 拾遺 石牟礼道子 詩 
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井上岩夫著作集[3]エッセイ他拾遺
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井上岩夫著作集[3]エッセイ他拾遺

著作集完結!


戦後へ続く酔中夢。批評と諧謔が人間の実相を抉り出す。戦中と戦後を隔つクレバスの闇底で、人という業に対峙し、軍隊という夢魔を撃つ詩精神の実弾。「胸底の洞(うろ)に處女のごとき含羞が隠れていて、生きることは業であるということを、これほどしんしんと悟らせる人も少ない。」(石牟礼道子・作家)。全3巻完結。

書評

〈戦争〉文学的に昇華──完結して

豊田伸治
編集・出版人(予備校講師)

 井上岩夫を最初に知ったのは、熊本大学中退後京都に帰り、数年たったころだったかと思う。熊本の批評家渡辺京二さんから、大発見なので、ぜひ読んでみるように、という旨の手紙をいただいたのだった。薦められて読んだ「カキサウルスの鬚」と「衛門」は衝撃だった。このような〈戦争文学〉は初めてだった。私がそのジャンルにそれほど詳しいわけではない、という点を差し引いても、その二作は私の前に鮮烈な驚きとして表れた。勿論、それぞれ扱う情景も構図も異なっている。しかしどちらも、従来の、悲惨さを強調するものでも、知的高みから批判的精神で描くものでもなかった。全く違った視線で描かれていた。
 それはどのような視線かを簡潔に言うのは難しい。氏の作品はどれも入り組んだ構造をしていて、容易には正体を見せない謎めいた相貌をしているからだ。その謎を解きほぐし、受けた感銘の中身を確かめるというのも、井上作品の楽しみである。
 その二作品を読んですぐ、詩集『荒天用意』を注文した。この浩瀚(こうかん)な詩集も謎めいた相貌をしていた。以来、出版されるか、熊本の雑誌『暗河』に発表される作品すべてと付き合うことになった。
「井上作品の魅力を一言で言うと?」と質問されることがよくある。一言では無理なので、取材されるといつもその辺りが曖昧になる。だから、その質問への返答の代わりに(ならないかも知れないが)、私なりの謎解きを試してみよう。できるだけ短い詩で。
 〈たてがみがかき分けていく/水晶空間(4文字傍点)/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター(8文字傍点)//瞼は/つねに置き去られる廐舎である/眼球のそら高く駈けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障(そこひ)の馬丁が立っている〉
「まばたき」というタイトルが付いている。ここから、筆者が付した傍点部分が何の比喩かは明らかだろう。時が駈けぬける瞬間が描かれている。それも「逸(はや)る四肢は馬腹に抱いて」いるのだから、本当に瞬きの間のことだ。それでも現実は「半馬身おくれ」でないと捉えることができない。ただ見ていても眼は現実を十分には認識できない。残りの半馬身は「水晶空間」の隙間をすり抜けてyく。ところが、全貌が見えている者がいる。「白内障の馬丁」だ。しかもただ見えているのではなく、その本質に触れている。「たてがみ」を「くしけず」っているのだから。
 この作品に限るなら、ここまでで読んだ感触が残る。他の作品もイメージしながら、もう少し先まで行ってみよう。
 病む者、欠落を抱えた者、いらなくなった者、最後尾の者にだけ投影される現実がある。この世界の至る所に隙間があるからだ。日常生活の中にも、人間関係の中にも、その見えない隙間、存在をよろめかす隙間が、クレバスのように待ち構えている。氏は〈戦争〉でそれを見た。踏み込んでしまったと言ってもよい。人はそれぞれ戦争からつらい体験や消し難い苦悩を持ち帰っただろう。しかし、そういうものは、いかに痛烈であろうと、文学としては成立しない。氏が抱え込んだものが存在基盤の隙間だったからこそ、社会的戦後は終わったと白書が宣言しても、内面的戦後はまだ始まってもいない、と呟かずにはいられなかった。先の詩の視点の低さに注目してほしい。馬は「そら高く」「雁列を跳び越え」ても、視線は低い所から出ている。その足元の、サツマの土俗を引きつれて、〈戦争〉が文学的に昇華された時、戦争体験などない私のような世代にも訴えかける作品に結実したのである。
 井上氏は戦後文学の正当な位置を占めるべき作家である。あまりにも時間がかかったが、この著作集が再評価、あるいは新発見の引き金になればと思う。それが地元鹿児島で起こればなおうれしい。

  • A5判上製函入670頁
  • 978-4-88344-165-5
  • 定価:本体価格7000円+税
  • 2008/06/30発行
あかるい 黄粉餅 内田 麟太郎 石風社 詩集 エロ テロ ナンセンス 暮尾淳
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あかるい黄粉餅
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あかるい黄粉餅

知る人ゾ知る 麟太郎ワールド


エロ・テロ・ナンセンス……知る人ゾ知る、麟太郎ワールドのエロティックで過激な自由な詩集。解説・暮尾淳

書評

おおらかに性の喜び歌う

小林清人
読売新聞文化部

 内田麟太郎さんの新詩集『あかるい黄粉餅』は話題を呼びそうだ。過激なまでに率直な性の表現が、本当にあかるい。これほどあけすけに、おおらかに性の喜びを歌った詩はかつてなかったのではないか。
 性は「きもちいい」ことであり、そのリズムは「うっくん うっくん」なのである(「黄粉餅」)。だから、「おわってもなかよしで。おわってもずーっといっしょにねてて。おわってもずっとはなしてて。おわってもまたなかよしはじめ」るのだし、「美代ちゃんのぬくもりと。ぼくのぬくもりと。行ったり来たりして。行きっこするごとになかよしになって。なかよしになりすぎて。美代ちゃんが死んだら、ぼくは泣くみたいになって」くるのだ(「美代ちゃん」)。
 一九四一年、福岡県大牟田市生まれ。東京在住。日本絵本大賞を受賞した絵本作家でもある。詩の内容から推測すれば、不幸な少年の日があり、若いころには左翼運動の体験もあったらしい。
 ロシア文学者内村剛介さんがシベリア抑留体験をつづった著書の中で「地球が、そして宇宙が人間のものであるとするなら、その宇宙を支えているものは性だ」と書いていた。「すべてあり得る。すべて起こりうる。そして拠るべきものは何もない」と、究極のニヒリズムを感じさせるような言葉を記した同じ本の中でのことだったので、とりわけ印象深く心に残っている。
 現代の貧血した世界を救うのも、性なのかもしれない。この詩に歌われたような性のぬくもりがある限り人間は生き延びられる。「死ぬなんて、もったいない」。そんな気持ちにさせてくれる詩集である。

  • A5判上製101頁
  • 4-88344-018-4
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1996/11/03発行
笑う門にはチンドン屋 安達ひでや ちんどん チンドン お笑い 安達 大道芸 イカ天 バンド CD ロック
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笑う門(かど)にはチンドン屋
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¥0円
笑う門(かど)にはチンドン屋

チンドン屋定番曲収録CDつき!


「チンドン屋が天職でございます」。親も呆れる漫談小僧、ロックにかぶれ、保証もかぶって日銭稼ぎに始めた大道芸の路上から、すべては始まった──。あの「イカ天」が生んだけ稀代のチンドン・バカが綴る、因果のはての極楽をご覧あれ。

書評

ロックから転身した著者が綴るチンドン業界の今と未来

松村 洋
評論家

 昨年9月、JR総武線亀戸駅前で、久しぶりにチンドン屋さんを見かけた。お決まりの派手な着物にカツラと厚化粧。だが、チンドン太鼓にゴロスと呼ばれる大太鼓の2人だけで、管楽器演奏をカセットテープで流していた。メンバー不足は、やはり寂しかった。その後、チンドン屋さんには遭遇していない。
 昭和30年代を境に、チンドン業界は衰退の一途をたどってきた。この時代遅れの街頭宣伝業は早晩消滅するはずだ。それが、一般的な見方だろう。だが、本当にそうか? ひょっとしたらチンドン屋はしぶとく生きのびるかもしれないぞ。そう思わせてくれるのが本書である。
 著者は1964年生まれ。彼が福岡市で「アダチ宣伝社」を旗揚げし、チンドン屋の道を歩み始めたのは94年、30歳のときだった。同社のスタッフは現在、アルバイトも含めて総勢15人ほどになり、九州各地と山口県を中心に、街回りの宣伝業務のほか、さまざまなお祭り、イベントなどで活躍している。
 ところが、熊本出身の著者は、子どものころ、チンドン屋を実際に見たことがなかったのだそうだ。音楽にのめり込んだ彼は、大学を中退して博多でロック・バンドを結成した。そのバンドは、当時の人気テレビ番組「イカ天」(「イカすバンド天国」)にも出演し、なかなか人気があったという。
 その後、彼はラジオ番組のパーソナリティーに抜擢されたり、大道芸で投げ銭を稼いだり、さまざまな仕事をしたが、あるときチンドン屋の真似事をした。これが性に合っていたらしい。今では「チンドン屋が好きで、やめたくてもやめられない」と彼は書いている。
 だが、もともと音楽畑の人だから、たとえばアコーディオンの話の中に、テックスメックス(テキサス〜メキシコ系音楽)やザディコ(米ルイジアナ州の黒人音楽)なんて、マニアックな音楽の名がポンポン飛び出す。こんな人、旧世代のチンドン屋さんには絶対いないはずだ。
 じつは80年代前半に、ジャズ界からチンドン界に入った若者がいた。サックス奏者の篠田昌巳氏(92年没、享年34)である。
 同じころ関西では、立命館大学「ちんどん屋研究会」を作った林幸治郎氏が大阪の「青空宣伝社」に入り、やがて独立して「ちんどん通信社」(現「東西屋」)を起こした。ここらが、いわばニューウェイブ・チンドンの出発点で、著者は約10年遅れで彼らを追ったわけだ。
 本書には、著者がチンドン屋になった経緯、仕事のエピソード、大先輩の親方たちや後輩の話、チンドン屋の歴史、「全日本チンドンコンクール」の様子などが、素直な筆致で楽しく綴られている。チンドンやイベントの出し物を工夫する著者の柔らかな発想が面白い。
 ロックからチンドンに転身した著者は、チンドン屋を内側と外側の両方から、バランスよく見ることができる。チンドン屋の優れた知恵と技術を受け継ぎながら、広い視野からチンドン屋をとらえ直す。そうしたニューウェイブ・チンドンの発想が、よくわかる本である。
 新しい若手チンドン屋の人数は、まだ決して多くない。だが、チンドン業界の未来を担うのは、この人たちだ。ホリエモンに言われるまでもなく、これからはインターネットがますます生活の中に浸透していく。だが、そうなればなるほど、かえって生身の人間同士が直接出会うコミュニケーションもまた求められるかもしれない。とすれば、まさに「手の届くところにお客さんの喜怒哀楽がある」チンドン屋の出番ではないか。
 版元は確かな本作りで信頼できる福岡の出版社で、本書はチンドン演奏のCDが付いてこの定価。お買い得である。

その業界の姿と魅力の秘密を、自らの体験をもとに興味深く紹介していく

吉村明彦
著述家

『広辞苑』の「ちんどん屋」の項には「人目につきやすい服装をし、太鼓・三味線・鉦(かね)・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告・宣伝をする人。関西では〈東西屋〉〈広目(ひろめ)屋〉という」という具体的な解説がある。いっぽう「屋」の項には「その職業の家またはその人を表す語」と同時に「あなどりやからかいの気持ちをこめて人を呼ぶ語」の意味も並ぶ。
 文筆業ならば職業の表記には注意をはらわねばならない。なるべく「〜業」と表記してきたつもりだが、幼いときから呼び慣れてきたチンドン屋さんなど、頭をかかえる場合もある。街頭広告業ではどこか威圧的で、わくわくし、ほのぼのとするようなニュアンスが伝わらない。
『笑う門にはチンドン屋』を手に取ってみると、冒頭の「ボク、チンドン屋です。」という章のなかに早速「チンドン屋は放送禁止用語か?」という見出しがたっていた。私が気にしていることが書いてあると思って、読み進めていった。ここでおわかりのように著者はチンドン屋業を営んでいる。以前に、放送業界にいたため放送コードに対して敏感でもある。著者がテレビやラジオに出演すると、かならず「放送でチンドン屋と紹介してもよろしのですか」「別の言い方はないですか」などと懸念してきかれるという。そんなとき「チンドン屋の僕がチンドン屋と呼んでくれっていってるんだからいいでしょう」と答える。そして「チンドン屋を放送禁止用語だと考える輩は、結局のところどこかでチンドン屋を見下しているのだ」とあった。胸のつかえがとれたものの、そのとおりだろうと思った。
 チンドン屋は、軍国主義が萌芽した明治時代の軍楽隊の退職者たちが、運動会などで楽隊として演奏し、副収入として町回りの宣伝仕事を始めたことが嚆矢だとある。また、昭和6年頃、映画産業が無声映画からトーキーに変わっていくなか、映画館で演奏していた楽士が職を失ってチンドン屋に流れていったという背景もある。つまり、一般社会では、落ちぶれた仕事の象徴でもあったのだ。
 音楽社会でも同様だろう。たぶん「ちん」というのは仏壇に置かれた鈴(りん)の音の連想、「どん」のほうは唐突なやかましい音ではないかと考える。神聖な音と不快な音が重なるわけだから、よけいに不謹慎な騒音を強調するのが「ちんどん」という擬声語なのだろう。だから「ちんどん屋」とは、演奏者への揶揄にみちた表現でもある。
 だが、21世紀の現在ではどうか。1964年生まれで、幼少時から「地球の上に朝がくる」のあきれたぼういずと、ハナ肇とクレイジーキャッツが大好きだったという著者は、1980年代後半の青春期にはロックバンドを結成し、あの「イカ天(平成名物テレビ・イカすバンド天国)」で3週連続人気投票1位に輝いた過去をもつ。30歳の誕生日を転機にチンドン屋となり、現在、大活躍中。こうして顛末が本書に綴られる。
 この業界の若手には著者のように、ロックやジャズの出身者が多いという。はじめ一様に抵抗を示すものの、なぜだか、すぐに口上や踊りやビラ配りという作業に熱心になり、やがて仕事にのめりこんでいく。ロックやジャズの志望者にとっては、おそろしい話かもしれないが、いったいチンドン屋のどこに魅力があるのか。「もっともチンドン屋が力を発揮するのは路上であり、もっとも厳しく、やりがいがあるのもまた路上である」。音楽や芝居など、芸能の原点を感じさせる力強い言葉だと思う。チンドン屋は21世紀の花形職業であり、学ぶところが多いかがよくわかることと思う。
 付録の「チンドン・グレイテスト・ヒッツ!」という定番曲集を聴いてみる。楽しく侘しいのは予想どおりだが、録音もよく、まるでニューオリンズで発生したジャズのようで、録音・発表に対する自信と誇りのほどがよくうかがえる。
 そういえば、その広域な音楽と人間性でいまや誰からも信奉を得ている渡辺貞夫を思い出す。ナベサダが宇都宮工業高校時代、昔チンドン屋をやっていた駄菓子屋の親父にクラリネットの弟子入りしたのは、ジャズ・ファンの間ではよく知られた逸話だった。

  • 246頁 四六判並製
  • 4-88344-117-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/02発行
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