=5月=
30日 石上断感 吹風断章 3
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石上断感 吹風断章 3 5/30 (Fri) 

アフガン断章 3

小社の藤村から、なにか福岡の版元の展示に使うから創業期の写真を出せといわれ、ようやく一枚探し出し手渡すと、却下された。理由は「これじゃ誰も同一人物だと思いませんよ」ということだった。わが外観が、23年の月日の中で無惨に変わり果てていると言うことのようだ。本人はそれほどの自覚はないもので、こういう心無い仕打ちに会わなければ、その落差に気付かない。
さて、中村哲さんと甲斐大策さんのアフガンに関する本を10册ほど出したが、アフガンとの不思議な縁は続くものである。
昨年の秋頃だつたか土本典昭さんから電話がかかってきた。御存じの方も多いと思うが、氏は三里塚を撮った故小川伸助監督と共に日本を代表する記録映画監督である。特に水俣病患者の生活を漁村に住み込んで記録した「水俣―患者さんとその世界」は、昭和30年代から始まった日本の工業化社会の矛盾を、一地方の漁村と漁民のくらしの中に起きた「公害」(資本と国家の犯罪)を通して描き切った優れたドキュメンタリーとして知られる。
その土本さんから、カーブル国立博物館収蔵品の絵葉書を作れないかと打診があった。土本監督は、1988年にアフガニスタンで記録映画「よみがえれカレーズ」を製作し、その過程でまだ破壊を免れていた博物館内の撮影も行ったのである。1988年というのは、200万人の死者と600万人の難民を出したアフガン戦争が一応の終結をみ、ソビエト軍が撤退を開始した年である。撮影は社会主義政権下の館の協力のもとスムースに行われたが、その際土本さんはナジブラ副館長と絵葉書制作の約束をしたのである。打ち続く内戦の中で月日は流れ約束は果されずにいた。ところが2001年9月11日の事件でアフガンが世界の注目を浴びると共にその約束が蘇ってきたのである。
私と土本さんの縁はさらに古く、33年前に遡る。1970年5月25日東京は厚生省で水俣病患者(いわゆる一任派)に対し死者ひとり30万円の見舞金契約がなされようとしていた。その時それを阻止しようと厚生省の一室に駆け込み会場を占拠し逮捕された市民グループがあった。その中に土本さんも私もいたのである。厚生省の玄関では石牟礼道子さん(*)たちが水俣病患者の写真パネルを先頭に抗議のデモを繰り返していた。
その後土本さんは水俣に赴き「水俣―患者さんとその世界」の撮影に入った。その年私も水俣の患者さん宅に住み込み漁の手伝いをすることになった。22歳の秋のことである。映画は翌年完成したのだったか、私はその映画の九州での上映事務所を1年間ほどまかされることになった。

No.10



石上断感 吹風断章 2 5/15 (Thu) 

アフガン断章 2
画家の甲斐大策さんの第一印象は、その絵画と同様に強烈だった。額縁なしで展示された絵は、近代の絵描き達の「個としての表現」とは異質な匂いや存在感を漂わせていた。それは、克明に描かれた移動民の暮らしやバザールの喧噪というイスラム世界のエキゾチシズムだけではない。一見異国趣味にみえる表皮の底に私がこれまで経験したことのない世界が感じられた。このころの甲斐さんの作品には後の水墨や抽象はまだなかったように思う。それは表現というよりは過剰さに満ちた伝承世界の物語を絵画によって紡ぎだそうとしているように見えた。その時の私には、その絵画が現実のアフガニスタンと通低しているという感覚さえ希薄だった。 
個展の会期中に、島田さんに誘われて甲斐さんと初めて舞鶴にある小料理屋の二階で飲んだ。もうひとり熊本の友人も来ていた。私は甲斐さんと向い合せになり、少し緊張しながらトルコ映画について話したのを覚えている。つまり私の中央アジアについての知識というのはせいぜいその程度のものだったのだが、映画の落石シーンで少しだけ盛り上がった(あとで甲斐さんが「生命の風物語」の「パシャイ」のなかで印象的な落石シーンについて書いていたことを知ることになる)。
そのころすでに甲斐さんが山岳雑誌「岳人」に「生命の風物語」を連載していたのかどうか定かではないが、何度かお会いするうちにその雑誌の切り抜きを見せてもらい、それは1988年に金田太郎さんのトレヴィルから出版された。ところが初めて会った時には、甲斐さんが凄い文章を書く人だとは知らずに私は「絵本を書く気はありませんか」などと言っていた。
私が甲斐さんの最初の本を出すことになるのは「神・泥・人 アフガニスタンの旅から」(1992年)だが、これも西日本新聞の山本巌さんの依頼で新聞紙上に連載されたものが基になっている。甲斐さんは「あとがき」に、天安門事件の最中に北京特派員勤務から帰った巌さんに依頼されたと書いているその後甲斐さんには、ペシャワール会会報の表紙絵とそれにまつわる掌編物語を描いてもらうことをお願いした。その後「アジア回廊」(父上巳八郎氏との共著 1996年)「餃子ロード」(1998年)を出版し、トレヴィル社が閉じたので、「読者はこの短編集を読んで興奮する私をわかってくれるだろうか」と故中上健次氏が絶賛した「生命の風物語」(1999年)「シャリマール」(1999年)を小社から復刊させてもらった。ペシャワール会報の掌編物語も近々「聖愚者の物語」として出版される。
不思議な縁で、それまで縁もゆかりもなかったアフガニスタンという国に、私はしだいに引きずり込まれて行くことになった。(03.5.14)


No.8



石上断感 吹風断章 1 5/6 (Tue) 

アフガン断章 1

石風社をはじめて22年、編集者稼業も30年になった。「少年老い易し、ああァ」という以上の感慨もない。
何を書こうという当てもなく書きはじめたが、取っ掛かりとして最新刊「辺境で診る辺境から見る」(中村哲著)から始めよう。
中村哲さんの文章に最初に出会ったのは15年ほど前になる。西日本新聞に連載されていた「地の果てから パキスタン北西辺境州の人々」(1987.9.7〜10.6 17回連載)という中村さんの文章に触発されて、「中村さんの本を出したいが」と新聞社に打診した。担当者は山本巌さんだった。葦書房(ここに私は1974年春から7年半勤めていた)の久本さんも出したかったようだが、私の方が声をかけるのが一足早かった。
西日本の連載だけでは1冊にならないので他の文章を収録したり書き足してもらって中村さんの最初の本「ペシャワールにて」が出たのが1989年3月だから、実際に本が出るまで1年以上かかったことになる。その間私はペシャワール会の事務局に赴き会員への礼状書きの手伝いをしたり帰国した中村さんに会ったりしていた。
通常、著者と編集者の関係は本が出てしまえばあらかた終わる。ところが私はその後中村さんの本を「ダラエヌールへの道」「医は国境を越えて」「医者井戸を掘る」そして今回の「辺境で診る辺境から見る」と通算5冊出すことになる。それだけではなく中村さんを支援するペシャワール会にも深入りすることになり、あげく会の広報責任者になってしまい、パキスタン・アフガニスタンにも何度も足を運ぶことになった。
本を出す経緯についてはこれまでも喋ったり書いたりしているが、一言でいうと、中村さんという人物に触発されたというか嫉妬したということである。もう少し具体的にいうと、中村さんの「現地の人々との関係の深さ」に嫉妬したのである。
ただ、私がアフガニスタンにいささか関心を持つようになったのは中村哲さんに知り会ったのが始めではない。実はその前に画家の甲斐大策さんに会っているのである。御存じのように甲斐さんはアフガンに精通する日本でも有数の画家である。その甲斐さんが福岡の画廊で個展をされた折、甲斐さんの友人であり私の兄貴分である島田真祐さん(熊本・島田美術館館長 作家)に紹介されたのである。
階段が軋む木造二階屋の画廊に踏み入れると、そこには中央アジアの風を纏ったような偉丈夫の画家が美女を脇にして立っていた。(2003.5.6)

No.6




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