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アフガン断章 3
小社の藤村から、なにか福岡の版元の展示に使うから創業期の写真を出せといわれ、ようやく一枚探し出し手渡すと、却下された。理由は「これじゃ誰も同一人物だと思いませんよ」ということだった。わが外観が、23年の月日の中で無惨に変わり果てていると言うことのようだ。本人はそれほどの自覚はないもので、こういう心無い仕打ちに会わなければ、その落差に気付かない。 さて、中村哲さんと甲斐大策さんのアフガンに関する本を10册ほど出したが、アフガンとの不思議な縁は続くものである。 昨年の秋頃だつたか土本典昭さんから電話がかかってきた。御存じの方も多いと思うが、氏は三里塚を撮った故小川伸助監督と共に日本を代表する記録映画監督である。特に水俣病患者の生活を漁村に住み込んで記録した「水俣―患者さんとその世界」は、昭和30年代から始まった日本の工業化社会の矛盾を、一地方の漁村と漁民のくらしの中に起きた「公害」(資本と国家の犯罪)を通して描き切った優れたドキュメンタリーとして知られる。 その土本さんから、カーブル国立博物館収蔵品の絵葉書を作れないかと打診があった。土本監督は、1988年にアフガニスタンで記録映画「よみがえれカレーズ」を製作し、その過程でまだ破壊を免れていた博物館内の撮影も行ったのである。1988年というのは、200万人の死者と600万人の難民を出したアフガン戦争が一応の終結をみ、ソビエト軍が撤退を開始した年である。撮影は社会主義政権下の館の協力のもとスムースに行われたが、その際土本さんはナジブラ副館長と絵葉書制作の約束をしたのである。打ち続く内戦の中で月日は流れ約束は果されずにいた。ところが2001年9月11日の事件でアフガンが世界の注目を浴びると共にその約束が蘇ってきたのである。 私と土本さんの縁はさらに古く、33年前に遡る。1970年5月25日東京は厚生省で水俣病患者(いわゆる一任派)に対し死者ひとり30万円の見舞金契約がなされようとしていた。その時それを阻止しようと厚生省の一室に駆け込み会場を占拠し逮捕された市民グループがあった。その中に土本さんも私もいたのである。厚生省の玄関では石牟礼道子さん(*)たちが水俣病患者の写真パネルを先頭に抗議のデモを繰り返していた。 その後土本さんは水俣に赴き「水俣―患者さんとその世界」の撮影に入った。その年私も水俣の患者さん宅に住み込み漁の手伝いをすることになった。22歳の秋のことである。映画は翌年完成したのだったか、私はその映画の九州での上映事務所を1年間ほどまかされることになった。
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