さて、ここでははじめまして。

 突然ですが…… 年に3回も4回も入院する生活をしていると、「わたしの人生=病人」というあきらめもだんだんと育ってくるもので、「もう治らないんだから、せめて楽しいことをやりなさい」と医者から言われた段となっては、わたしの人生には、もう「禁煙」という文字も、誰からも言われる「ビール呑みすぎないこと!」も関係ないもんね。からだに良いこと? ふーん、そういうのがお好きな方はご自由にどうぞ。という具合にねじれてしまい、人さま・家族にとってははなっから顰蹙な性格にますます磨きがかかろうというものである。

 というわけで、人生=病気となると、ほかの病人や病気のこともけっこう気になってきた。どっちの病気がいやかなあ、やはり余命はわかったほうがいいよなあ、だけど通風と糖尿病だけはごめんこうむりたいなあ(ビールが呑めなくなる)、果ては、どうやって「死」に近づいていくんだろうなど、異常なまでの興味がわいてきてしまい、病者が書いた本、病気についてかかれた本などに手が伸びるようになって、もう長い。

 あえて「闘病記」とは書かない。闘っている病者は多いだろう、が、闘えばよいというわけでもなかろうし、それにだいたいわたしはほとんど闘ってないんだもんね。

 というわけで第1回目は、つい最近読んだ『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史・北海道新聞社)。まずは秀逸なタイトルにほれてしまい、なんの病気について書いてあるのか知らないまま手に取った。

 サブタイトル「筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」。鹿野さん、すでにほとんど寝たきり状態で動くのは両手の指が少しだけ。かゆいとこがかけない、自分のお尻も拭けない、眠っていても寝返りがうてない。24時間介護が必要な状態。筋ジストロフィー。これはあまりなりたくないかなあ。でも鹿野さんはまれにみる自己主張の烈しいお方で、それに耐えられないボランティアはどんどんやめてしまう。しかし同時にとても強烈に魅力的な性格なので、また次のボラさんがやってくる。本人はシレッと「オレってカリスマなのかなあ」などおっしゃっている。

 この本はボラさんたちが入れ替わり立ち替わりなので、意思疎通をすべく始められた連絡ノートが始まりとなっている。鹿野さんのワガママとそれに振り回されるボラの方々、しかしそこで「青春」「やりがい」をもらってもいるボラさんたち。

 進行していく病気・筋ジス、しかも24時間介護ってのは「一人で泣く」時間空間も持てないわけであって、それはすごくしんどいことだろうなあ、と思った。それなのに、それなのに、親の元を離れ病院から退院し、ひとり住まいを勝ち取った鹿野さんはえらい。

 そして、疲れたボラ氏が側で横になっている、とある夜更け。突然「バナナが食べたい」と鹿野氏、ボラ氏を起こして食べさせてもらう。ボラ氏が憮然としてバナナを食べさせていると「もう1本食べる」モグモグ。もうあっぱれというしかない。

 そんなふうにして、ふつうなら親元や病院に依存するしかなく社会に出て行かない(行けない・行かせてもらえない)病者の一人として、ガンガンそういう壁を突き破った鹿野さん、エライぞ。──合掌。

 2003年刊。こんな面白いタイトルですんごい病者の本を今になるまで知らなかったわたしは、病者としてとても不勉強であったことよ。著者の鹿野氏との距離感覚もよかった。筋ジスじゃなくっても、介護は、いつかは誰にでももれなくついてくる。近い将来、被介護者になるみなさまにおすすめ本です。 (2011/06/16  編集・中津千穂子記)