音楽が熱を振りまいていた頃

社会経済学者 松原隆一郎
「週刊朝日」2003年9月19日号

 三十年近く前、大学に入学するため上京した。一人暮らしを始めた夜、渋谷にほど近い駅前で古びた「I」という名のスナックを見つけ、前途を一人で祝そうと扉を押した。先客はおらず、暗いカウンターの中には黒いロング・ドレスをまとい髪の長い女性がいた。「浅川マキみたいだな」と思った。
 ラックにLPレコードが並べてあるので指で繰ると、本当にマキのレコードがあった。『浅川マキの世界』。リクエストすると、暗い店内にマキの声が広がった。「夜が明けたら」や「ちっちゃな時から」。「かもめ」は寺山修司の作詞だ。
「ダルマ下さい」とボトルを注文した。すると女性が、「あなた学生さんでしょ? ウチは学生さんにはホワイト飲んでもらうの」と言う。大人にピシャリとはたかれたような気がした。お陰で今に至るまで、高い酒を飲むとなんだか居心地が悪くなる。もっともその「ふしあわせという名の猫」みたいな顔をしたママさんは、半年もしないうちに居なくなった。噂では、借金を踏み倒して姿を消したのだという。これも大人の世界か、と感心した。
 当時の私は大学の授業にはほとんど関心がもてなかった。それよりも、街で日々出会う出来事が刺激的で、目がくらむ思いがした。なかでも山下洋輔トリオには驚愕した。鮨屋の職人のような風貌の坂田明がアルトサックスから痙攣するように鋭角的な音をねじり出す。繊細にして爆弾のようなドラムスは森山威男。スティック捌きは早すぎて手首から先が見えない。嵐のように激しさを増す演奏を聞くたびに、自分は世界史的な事件に立ち会っていると感じた。
 そんなある日、新宿ピットインに浅川マキが出演した。ゲストは驚いたことに、山下トリオだった。楽器だけだと完全なフリーフォームなのにどう伴奏するのかと訝ると、案に相違して、「ジン・ハウス・ブルース」などフォービートのブルースを奏でた。
 日本のフリー・ジャズが、もっとも熱を帯びた時代だった。富樫雅彦が「パラジウム」から「スピリチュアル・ネイチャー」へと演奏スタイルを変え、阿部薫は狂気の演奏を繰り広げていた。昨年出版された副島輝人の名著、『日本フリージャズ史』(青土社)をひもとくと、八〇年代以降も梅津和時の「どくとる梅津バンド」や最近の不破大輔の「渋さ知らズ」まで盛り上がりが連続するかに書かれているが、彼らの演奏はパンク・ロックやダンス・演劇といった異分野と融合を果たしている。音楽が枠の中で純粋化を極め、そこからはみ出そうとする熱を振りまいていたのは、やはり八〇年代初頭までではなかったかと思う。
 私にとっての浅川マキは、そうした時期に、見えない虚の中心点として演奏者をつないだ歌い手だった。初期のフォーク調のマキが好きなファンは多いのだろうが、私はフリー・ジャズ奏者たちとの火花の散るステージが好きだった。「アケタの店」では、マキのステージの終わりに突然段ボール箱からラッパの近藤等則が現われ、「セントルイス・ブルース」を吹いたことがあった。だから今でも私が愛聴してやまないのは、近藤やつのだ☆ひろが参加した「CAT NAP」だ。
 マキの三十年間のエッセイを編んだ『こんな風に過ぎて行くのなら』を読むと、そうした日々が蘇ってきた。ロック出で生ギターを弾く萩原信義が端正なジャズを追求する今田勝との間で〈「今田さん おれ、イモですか」「イモだよ」〉などと火花散る会話を交わしていたと初めて知った。マキの周辺には様々なジャンルから一騎当千の演奏者が集まっていたのだから、そうした確執は日常のことだったのだろう。
 時は流れた。いつしか大学祭の仕切りを請け負っているプロダクションなるところから「ギャラはいくらなのか、一覧表にして広告する」といった電話がマキのところにかかってくるようになったという。音楽が、事件ではなく日常の仕事になってしまったのだ。