異文化交流導いた人の出会い

1996/12/15「熊本日日新聞」

「異文化交流の歴史には、偶然と人間関係が大きな役割を果す」と著者はいう。東へ向かったザビエルと、西へ向かったトルレスの出会い。ザビエルは日本の豊後にキリスト教の種を播き、トルレスはそれを育てた。しかし、この両人の働きには、さらに大友宗麟との出会いが必要であった。
 大分合同新聞に連載の「豊後と異国の物語」をまとめた本書は、「グローバルな歴史の流れと異文化の地域への伝わり方」を結びつけて考えるという世界史的視野で、地域と人をとらえているところに特色がある。
 宗麟が他の大名たちと異なったのは、ヨーロッパの物質文明である鉄砲・大砲にも彼らと同じく興味を示しながらも、他にさきがけてヨーロッパ精神文化に強い関心を示したことであり、その真剣さが宣教師たちの信頼を得たのであろう。しかし、彼は慎重であり、寄進や布教許可は与えても、改宗の意思は明らかにせず、禅宗にもかかわって宗麟と称する。彼が受洗しフランシスコを称するのは隠退後の天正六年のことである。
「私が再び大砲を求めますのは、海岸に住んで敵と境を接しているため、これが大いに必要なものだからです。私が領国を守り、これを繁栄させることができるなら、領内のデウスの会堂、パードレおよびキリシタンたち、ならびに当地に来るポルトガル人一同も繁栄するでしょう」
 宗麟が単純な好意から宣教師たちの活動を援助したというより、内外諸地域の動向を注意深く把握しながら、イエズス会布教活動をも彼の政略の一端として利用し、イエズス会もその意図を心得て動いたと考えるべきだと著者はみる。
 十六世紀後半は豊後国が日本の歴史の中で最も輝いた時代であった。中世以来の伝統を背負い、九州諸国の大半を抑え、日本のみならず「豊後の王」の名で海外まで知られた男が演出し、体現したものは、大航海時代の西欧世界と、国内統一を目前にした戦国期日本社会を巧みに汲み上げたさまざまな人々のエネルギーの輝きであったのである。