多芸多才な軍医による戦時記録

中国文学者 高島俊男
1993/11/22「毎日新聞」

 この本の著者、麻生徹男さんは、九州福岡の産婦人科のお医者さんである。明治四十三年生まれ。四年前になくなっている。
 昭和十二年の秋、二十七歳の時に軍医として大陸の戦線におもむき、三年あまりを上海・南京など長江ぞい各地で勤務した。この本は、麻生医師の手記、およびその間にとった写真を、没後娘さんがまとめたものである。
 この本がめっぽうおもしろいのは、このお医者さんが、おそろしく有能で、多芸で、にぎやかな人だからだ。
 その一々をかぞえあげるならば──
 まず戦場の軍医はふつうの医者よりよほどいそがしい。本職は産婦人科だから兵隊相手のばあい性病が専門であるが、それ以外に外科の手術もするし精神科も見る。重傷でかつぎこまれた兵隊が死ねばあとしまつもする。「人間一人を灰に作り上げるには驚く程の薪が必要であった」とあるように、とことんめんどうを見たのである。
 またレントゲン技師もやる。戦地のレントゲンだからまず電気を作り出すことから始めねばならぬ。したがって部隊の発電機担当者である。移動式X線装置の駆使に関しては国軍第一と陸軍省医務局長からおほめをたまわったそうだから半端な技師ではない。
 このことでもわかるように、このお医者さんは機械に強い。特に自動車が好きである。国産車の性能がうんと悪かった昔のこと、まして戦地だから、整備も修理もやれてはじめて自動車好きだ。そういう人はめったにいないから、この人は部隊の全車両の整備責任者である。あわせて兵器一切の補修担当者である。兵站部隊だから大した兵器はないのだろうが、それにしても便利な人だ。
 ずいぶんといそがしいだろうに、毎日丹念に四種類の日記をつける。英文日記、独文日記、陣中日記、業務に関する資料提出日誌。そのうえ留守宅あての通信。まめだねえ。
 自動車以上に好きなのが写真である。お母さんの家が写真屋だったので子供のころからカメラに親しみ、応召前は関西の写真作家集団に属するプロ級。戦地へは愛機スーパーイコンタを持参し、上海で新鋭機ローライコードU型を手に入れ、部隊の従軍写真帖作成担当者として陸軍報道部写真班の腕章を着用し、とった写真が千数百枚。そのうち精選六十数点を「戦線女人考」と題してまとめたのがこの本の巻頭にそっくりおさめられてあり、なお文中にも多数を配する。題を見てもわかるようにふつうの戦争写真ではない。
 たとえば、その名も高い日本陸軍専用衛生サック「突撃一番」の実物写真、あるいは慰安所および兵站司令部「慰安所規定」の写真など。当時の報道カメラマンでこの種の記録をのこしてくれた人はたんとはいまい。
 しかし何といってもこの人の最大の特徴は写真の題にもある「女人」だ。いつも女の人にかこまれているのである。生まれた時からそうなので、「私は父の経営する福岡産婆養成所の校舎の一部で産まれた。家の周りは色町で、何かにつけて女の多い所であった。初めての応召の時など、博多水茶屋券番の綺麗どころ一行が、紫の券番旗を翳して大挙、駅まで見送ってくれた」という人である。お父さんも婦人科医で、顧客の多い色街に居をかまえ、かねて学校の生徒はすべて助産婦志望の若い娘さんだから、まわりは女ばかりなのだ。
 戦地へ行ってもそうで、まわりはみんな看護婦さん。慰安所では「週二回も何十人もの慰安婦の局部のみ覗かねばならぬ」。占領地には福岡色街の店が多数進出していて、子供のころからなじみの芸者さんたちにたいへんにもてる。
 また非常なダンス好きで、軍務の余暇にはパリッと背広に着かえて、髪の毛だけは急に生えないから坊主頭で、せっせとホールに通う。最前線の武漢へ移動しても、「在った、有った。終に見つけたダンスホール。上海以来、夢の中に、寝ても覚めても忘れることの出来なかった、奇麗に磨かれたフロアと、スウィング・ミュージック」と、ちゃんと見つけてしまうのである。いいのかね、帝国軍人が。
 そしてどこでもナンバーワンの美人ダンサーと仲良くなる。この本も各地のダンサーたちとの交遊を書いた部分が多い。もちろんみな写真つき。
 この人の写真や記録は、日本軍が慰安所をやっていたことの動かせぬ証拠ばかりだから、写真が無断使用されたり、迷惑をこうむることも多かったらしい。娘さんが本を編んだのも、写真の著作権を主張し、あわせて「麻生軍医は朝鮮人慰安婦徴集の首唱者」との中傷に反駁する意図があるようだ。しかしそういう生々しいことを別にしても、一人の多芸多才の軍医の写真と文章による戦時記録として、貴重かつおもしろいものとわたしは思うのである。