どうして京都に住む私が、生前それほど交際があったわけでもない井上岩夫さんの「著作集」を出されたのですか、という趣旨のことを何度も聞かれます。埒があかないと『惚れた作家への情熱・傾倒』などという常套句が登場します。否定するわけではないのですが、何か面映ゆい気がします。そもそも傾倒する作家は大抵本になります。困難でも手に入るし、少なくとも図書館で読めるのに、井上さんだけがその全貌を見ることが出来ない、という事実に駆り立てられた、という側面はありました。それにしても、どうして私が駆り立てられたのかということになると、話は元に戻ってしまうことになるわけですが。井上さんの作品は纏まった形で残す価値があるし、誰もしないなら自分がするしかない、と自分で自分に言い聞かせたわけで、いわば道楽のようなものです。
■難解の裏にあるもの
 第一巻が「全詩集」なので、ここでは詩について書きます。平易だと言う人もいますが、難解だと言う人の方が多いようです。勿論平易なのもあれば、意味を探るより言葉の流れに身をゆだねていれば、胸を打つものもあります。ただ井上さんは詩はリズムの心地よさだけで歌おうとはしません。選び抜いた語句の配列と、綿密に計算された比喩の組み合わせが難解に見せているのです。そこをうまく見付けるのが理解の第一歩です。紙幅の都合があるので、できるだけ短い詩で、試してみましょう。
〈たてがみがかき分けていく/水晶空間/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター//瞼は/つねに置き去られる厩舎である/眼球のそら高く駆けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障の馬丁が立っている〉
「まばたき」という詩です。傍点を(この転載では太字で表記)つけた部分はタイトルからも、最後の「瞼」という部分からも、何の比喩かは明らかです。そこを「かき分けていく」馬は、見える対象物ということになります。一瞬一瞬に見えているものは、「半馬身おくれて」つまり後ろ姿しか見えていない、と書いてあります。人はものの本質は半分しか、然も過ぎてしまったものしか見えない。だからといって、『眼あきは不便なものだ』などという塙保己一の逸話のようなことが書いてあるわけではありません。見えているのは白内障の馬丁なのです。井上さんの作品には、時にこういう病や障害を背負わされた人物が主人公として出てくるのですが、この詩でそこまで読みとる必要はありません。でもただ見えているのではなく、「たてがみをくしけず」っていることは見ておかなければなりません。病(この詩では眼)に犯されたもののみが捉える本質とでも言うのでしょうか。それが「えいごう」です。この詩でその内実まで入り込む必要もありません。
 まだすべてに触れているわけではありませんが、このぐらいでよいでしょう。難解とされる詩はこのように比喩が響き合っています。そのあたりを読みとれば、読んだ感触が残ります。
■底に漂う「悲」
 一つの詩作品には、それなりの世界に対する一つの切り口があります。井上さんの作品はその切り口から見える世界が深いのです。その底には「悲」が漂っています。悲壮でも悲観でもありません。悲歌とでも言えばいいのでしょうか。勿論それが表立って登場することはないのです。それは恥ずかしげに身をよじり、韜晦し、時には戯画となって、時には嗔(いか)りとなって表現されます。また時には小さきものへの哀歌となります。それは資質と、戦争体験と、「薩摩」という土地に暮らすことになるモダンな精神が、くぐらなければならなかったものを暗示しています。その全貌はやはり小説やエッセイが揃って明らかになるのですが、少しずつでもかいま見ることが出来るのが詩の強みなのでしょう。
 井上さんにとっての未知の読者に届くことを願いながら。京都にて。