作家井上岩夫といっても、知る人は少ないだろう。彼は一九一七年、鹿児島県の片田舎に生まれ、応召されて大陸に渡り、捕虜となり、帰還して来た。その後、鹿児島市でガリ版による印刷所を始め、そのかたわら詩を書き、さらに小説を書き、一九九三年亡くなった。詩集に「荒天用意」や「しょぼくれ熊襲」などがあり、小説に「カキサウルスの鬚」や「車椅子の旅」などがある。
 鹿児島県の北部、出水市に住むわたしは、年に一、二度彼と会うことがあった。酔えば誰にでも突っ掛かってゆく彼と焼酎を飲みながら、私も生意気なのだが、やるせなくまたやりきれなくなることが幾度かあった。田舎わたらいをしながら、いたずらに〈中央〉にこびず、〈地方〉をあなどらず、師にもつかず師ともならぬ人の生き方とはこんなものか、と思う時もあった。
 しかし、奥様に先立たれたあと、晩年はひっそりとしたものだった。見るにしのびなかった。
 その井上岩夫の著作集全三巻のうち、詩集を収めた第一巻が刊行された。版元もだが、ここまでこぎつけた編集者の豊田伸治氏の情熱と執念に、ただ脱帽のほかない。なつかしさに駆られて読みながら、わたしはいつしか素直に、その作品を味わっていた。戦後間もない頃の作品に、「作品2」というのがある。
「こんこんと眠るのはかなしい。屈辱は死にまで垂れている。不逞くされて、白眼をむいて/ごうごうと眠るのもかなしい。生は脚光によごれ/死は苦役によごれている。」
 戦争によって彼が見たものは、化けの皮がはがされた時代であり人間であり、そして自分自身であった。
 彼の詩は、その化けの皮をはがす行為そのものであり、彼の小説は、はがされたあとの自分をしゅうねく注視しつづける行為であった。
 戦後、彼の人生は、脚光に汚れた生よりも、苦役によごれた死よりも、シャバの苦労とインキと焼酎にまみれた人生だった。ただそのなかから上澄みのようにしみあがってくる透きとおった抒情があった。酔っぱらったら、「かなわないな」と思わせるところがあったが、次のような作品にも、遙かに「かなわないな」と思わせるところがあった。
「海がふと黙りこむ/臆病なヤドカリが/こっそり殻を脱ぎかえているのです//地球の足どりがふと鈍る/いちじくの葉っぱのカタツムリが/むきをかえているのです//雨はいつだってふっています/カタツムリの葉っぱに ヤドカリの海に/ひっそり やさしく 降っています/だが人々の心にまでは届かない/そこは遠すぎる砂漠なのです」(雨)
 説明も解釈も不用な絶唱だと思う。月並みな言葉だが、良いものは良い。いつ読んでも、その時その時の味わいがある。
 あるいは彼は、作品「岩」のなかで「君は荒海をみたことがあるか/あの底知れぬ静謐に対峙したことがあるか/アラナミでもドトウでもない/あれは ふと絶句したり吃ったりする(中略)きれぎれの痛む記憶を渚にうちあげる/あれは 許し続ける怒りの本質だ」と書く。
 井上岩夫は、なにを許し続けたのだろうか。そして、なにに怒り続けたのだろうか。
 おそらく、ひんむいた時代や自分の化けの皮に裏うちされていたものが、許し続ける怒りの本質であったのだろう。
 島尾敏雄と交友があった彼は、同年ということも手伝ってか、特攻隊長としての彼と、その他大勢の一兵卒としての自分を、面白おかしく語ることがあった。「島尾さんは高貴、俺は卑小」、そんなことを口走ったが、むろん誰も信じていなかった。戦後の社会も、またぞろ顔や看板や毛並みがもてはやされるようになって来たが、彼はそういう後ろだてがない所で、良く頑張ったと私は思っている。
 だから、井上岩夫の現代的意義などと言われても、困るのだ。私は好きですが、あなたも読んでみませんか、ということにつきる。