「恨」の癒えるとき

作家 帚木蓬生

 著者は一九二八年、慶尚北道安東の寒村に生まれた。洛東江の支流沿いにある村は百戸ほどしかなく、大半が小作農だった。日本の土地収奪事業のために村民は貧しく、一日二食、粥か麺が主体で、それも春の始めには底をつき、男たちは松の皮をはがし、女たちは草の根を掘って食の糧としなければならなかった。年寄りと幼児は栄養失調で死んでいった。
 曾祖父が一台で築いていた著者の生家も、台所は火の車だった。両班(ヤンバン)の家筋ではないが、祖母と母は両班の出であり、家の中には凛とした雰囲気が漂っていた。四歳になると曾祖父から漢文の手ほどきを 受け、六歳のときにはもう漢文とハングルが読めるようになっていた。小学校は六キロ離れており、そこで初めて日本語教育に接する。村の子ども全部が学校に行けるわけではなかった。二、三年遅れで入学した子もいれば、学費が続かない子もいた。著者を慕っていた女の子は小学二年で学校をやめ、やがて家族とともに満州へ去っていった。
 小学校では、毎朝東に向かって皇居遙拝があり、行事のたびに「君が代」と「海行かば」を歌わされた。小学四年で朝鮮語の授業がなくなり、日本語のみが強要された。
 創氏改名の強制もいよいよひどく、実名のままでは進学もできない。曾祖父は悩んだ末に、本貫の地名をとり平山と創氏した。
 五年生の担任だった浅沼先生は長野県の農学校出身で、平山少年の学業にことの外厳しかった。「こんな成績で、お父さんに顔向けできるか」と著者の手を鞭で叩き、猛勉強させた。その激励にこたえて平山少年は十三倍の難関を突破し、大邱師範学校に合格する。村の小学校始まって以来の快挙で、もちろん卒業式では答辞を読んだ。
 師範学校には、全国から優秀な朝鮮人子弟が集まっていた。学費免除のうえ、月二十五円の官費が支給された。日本人の学友もいて、寮生活は軍隊さながらだった。著者はここで先輩たちの抗日運動の歴史を知る。布団の中でハングルの本を読み、民族意識に目覚めていく。「朝鮮歴史」が密かに回し読みされ、将来は植民地政策の先兵にならねばならない自分たちの危うい立場に苦悩する。
 一九四五年四月、学業の途中で郷里の小学校に配属される。戦争に駆り出される朝鮮人青年に、日本語を教えるための教育動員である。ガキ大将だった竹馬の友は独学で英語を学び、日本陸軍に志願して古里を出ていた。後に彼は南方の英軍俘虜収容所の監視兵となったが、それが仇でBC級戦犯に指名、遂に家族の許には戻ってこなかった。
 日本の敗戦とともに、著者は師範学校に向かい、祖国の解放を祝う級友と再会、互いに本名で名乗りあう。音楽担当の朝鮮人教諭は涙を流しながら、禁じられていた母国の曲をテノールで歌った。
 戦後、教壇に立つようになって、卓抜な教育者だった浅沼先生のことが思い出された。こんなとき先生であればどうするだろうかと、会えなくなった恩師に問いかけた。
 一九五〇年、朝鮮戦争が勃発。著者は担任の児童を引率し、安東駅頭で出征兵士を見送った。やがて自らも報道要員として現地召集される。山河を埋める彼我の死体。同族同士が血を流し合う惨劇は眼をおおうばかりだった。
 著者が初めて日本の土を踏んだのは一九六八年、京都の韓国中高校に赴任したときだ。アパートを借りようとして何度も断られ、差別を知る。ボクシングのテレビ中継で韓国人よりも日本人を応援する生徒たちに驚き、教師も生徒も母国語を話せないのに落胆する。僑胞たちの貧しさも予想以上のものだった。生徒たちに、朝鮮文化に対する誇りをもたせるにはどうしたらいいのか。著者は彼らと語らい、文化祭のための韓国歌曲や民謡を指導する。生徒たちは舞台の上で、父祖の地にはぐくまれた歌を高らかに口にした。
 翌年、浅沼先生の消息が判り、妻子を伴って信濃へ旅する。恩師は南方で戦死していた。霊前で韓国式に二拝の礼を上げ、著者はこう叫ぶ。「先生、朝鮮から平山が参りました。生きておられる先生にお目にかかれないのが、残念でなりません。朝鮮の教え子を代表して、ご冥福をお祈り申し上げます」
 さらに京都から福岡の韓国教育文化センターに転任。在日韓国人子女の民族教育と韓日の文化交流に腐心するなかで生れたのが、「一人の人間が動けば、文化は自ずと交流される」の信念である。自分自身が韓国文化そのものなのだと著者は自らにいいきかせ、「日本人に韓国を正しく知らせる」仕事に邁進する。
 在日十六年で著者はいったん韓国に帰り、定年まで教師として勤めあげた。現在は福岡にも居を構え、新たに韓日両国を行き来する毎日を送っている。
 身をもって現代朝鮮史の激動を生きぬき、日本をも知りつくした著者だけに、本書で紡がれるひと言ひと言が、読者の胸にやさしく沁み入ってくる。その根底に流れる調べは「恨」である。しかし「恨」は怨念でも復讐でもない。「実現されなかった心の祈願が、内部に沈殿し積もった情の固まり」であり、その裏には、決して望みを失わず、美しく調和のとれた世界を希求する強靱な精神がよこたわっている。
 死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥もないことを/葉群れにそよぐ風にも/私は心を痛めた。/星をうたう心で/すべての死にいくものを愛さねば/そして私に与えられた道を/歩んでいかねば。/今宵も星が風にこすられる。( 尹東柱『序詩』森田進訳)
 著者よりもひとまわり年長の尹東柱は、一九四五年二月十六日福岡刑務所で、誰にも看取られることなく有為な前途を断たれた。まさしく著者は詩人の遺志を継ぎ、彼が生き長らえていたならば辿ったであろう道を歩んだといえる。
 日韓を隔てる海峡に信頼の橋を架ける営みは、著者の人生が具現する「恨」のかたちに眼をこらし、耳を傾け、寄り添うところから始まるように、私には思える。