徹底した被害者の視点

熊本大学医学部助教授 原田正純
1996/03/29「毎日新聞」

「最初の水俣訪問でもっとも深い印象を与えられたのは、植物人間の状態で入院中の松永久美子さんと、同じように重篤な胎児性患者である上村智子さんの無言の姿であった。二人の無残な生きざまに接して、はじめて水俣病の重い現実を見たという思いがした」
 最近出版された『水俣病事件と法』の中で、富樫貞夫さんは水俣病との出会いをこう述べている。それがその後の彼の行動を決定づけた。ここにも出会いを大切に、見たことによって責任を背負った学者がいる。
 四大公害裁判の中で水俣病事件ほど多種多様な裁判をしたものはない。損害賠償請求訴訟だけでも第一次、第二次、第三次と続き、さらに福岡、大阪、京都、東京地裁と地域的な拡がりをもみせた。原告は二千人を超えた。ほかに棄却取り消し、不作為違法確認、待たせ賃などの訴訟、水俣湾ヘドロ仮処分、救済仮処分など行政に対する訴訟や請求があり、さらにわが国初の公訴棄却となった川本事件や暴圧裁判など水俣病被害者が起訴された事件、チッソの元幹部が被告となった刑事事件など驚くほど多くの事件が法廷に持ち込まれた。
『水俣病事件と法』はその時々の裁判の争点や判決について富樫さんが加えた解説と批判の論文集である。最初の論文が一九六九年十一月、最新のものが九五年十月に書かれているから、実に二十六年間の考察の集積ということになる。
 論文ではあるが、患者支援の機関誌や新聞、一般の雑誌に掲載されたものが主であるので難解さはない。それでいて質は高い。これを読むと富樫さんが寄り添うように被害者の側に立ち、冷静だが熱情をもった眼差しで被害者を見つめているのを感じる。そして明確に被害者の側に立ってみると、司法が必ずしも被害者の側に立っているとは限らないことが見えてくる。
 そうした司法の判断に対し富樫さんは「裁判所に課せられた任務はこれまでの事件の経過、認定に必要な基礎的データが欠落した事情、されには疫学的条件を含めた医学的知見などを総合的に判断して原告らが救済の対象とすべき水俣病の被害者であるかどうかを裁判所の責任において認定することである。しかし、大阪地裁は実にあっさりとこうした任務を放棄してしまった」、「本件の特質を考え合わせつつ、法の趣旨を探究し、慎重に利益考量を行うという姿勢が微塵もない。これはまさに官僚法学的思考の典型といってもよい。このような法解釈はおよそ説得力を持ち得ない」と厳しい調子で批判を加えていく。
 水俣病に関しては医学をはじめあらゆる学問がその狭い概念だけでは捉えきれないところがあった。この本からも既存の法概念の枠組みから抜け出そうとする試みが読み取れる。その典型が第一次訴訟の時に論理構成された「安全性の考え方」である。既存の法概念からではなく原子物理学者、武谷三男氏の放射線の安全性に対する考え方からヒントを得て組み立てられたものだ。
「どんな微量の放射能でも有害は有害だが、それをどこまで我慢するかというのが許容量という概念だということ。それは自然科学的概念ではなく、むしろ社会的ないし社会科学的概念である。有害の証明はないというがむしろ有害と証明された時はもう手遅れである。したがって、無害と証明されない限り安全ではない」「既成の法論理をわれわれの観点からどうとらえ返していくかということが問題になる」「この考え方は安全性が問題になるあらゆる場合に適用されるべきだ」……。現在問題になっているエイズ薬害なども、ここでいう安全無視の最も悲劇的な典型例であろう。誤りは繰り返されたのである。
 認定をめぐっては、医学に対しても厳しい目を向ける。例えば「認定制度に関する医師は患者に対して大変疑い深い態度をもって臨んでおられます。認定申請をする患者のなかには嘘をつく者がいるといわんばかりの態度です」「先生は感覚障害というのは自覚的なものだから患者が感覚が鈍いといえばそれが嘘だと見抜かない限りそのまま信用するしかないし、ここに問題があるといわれます。そのため、感覚障害だけの所見で水俣病だと認定するのは問題だと考えておられるのではないでしょうか。先生をはじめとして水俣病認定に関わる医師たちは、なぜこれほどまでに患者を疑ってかかられるのでしょうか。私にはどうしても分かりません」(T教授への公開書簡より)
この本の特徴は徹底して現場の被害者の視点に立って法律を捉えていること、そして、ほとんどの水俣病に関する裁判の中身が実にコンパクトにわかりやすくまとめられていて事典的機能を持っていることである。この一冊で水俣病に関わる法的な問題点はわかるといっても過言ではない。
 水俣病が発見されて四十年目の今年、国の責任も、ニセ患者よばわりされた被害者たちを水俣病と認めるかどうかも曖昧なまま決着がはかられようとしている。私たちは医学や法律が果してきた功罪をこの機会に検証しなければならないと考えている。いいタイミングの出版である。