「三夕」の和歌と「HIGAN」

作家 光岡明
1999/06/26「熊本日日新聞」

「夕焼け小焼けの赤とんぼ…」とか「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる…」と歌い継がれてきたように、夕暮れが持っているものさびしさ、もの悲しさ、泣きたいようなひとりぼっちの感情は、長く日本人全体の共有の財産だった。
 この共有財産化には、日本の和歌が果した役割が大きい。
 まず「古今集」が四季を確定し、つづいて「新古今集」がそれぞれの季の情趣を深めた。私たちは四季の変化はどんな太古のむかしでもあったことで、別に「古今集」や「新古今集」が「発見」したわけでもあるまい、と考えがちだが、四季があることとそれをはっきり意識することとは別物で、意識するにはことばの力を借らねばならないのである。そしてことばがもっとも精妙な力を発揮するのが「文学」である。例を引こう。
私たちは「秋の夕暮」について、「新古今集」の次の「三夕」の和歌を持っている。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行
さびしさは其の色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂蓮
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家
 どの和歌も人口に膾炙している。あるいはしていた、か。この「三夕」の歌は「共通の性質として、一方では従来の悲哀寂寥の余情を継承しているとともに、他方では、中世的世界観と仏教者的感性の深い刻印を帯び」るだけでなく、「いたずらな感傷や興味本位の趣向など
をいっさい排し、すべての装飾や色彩を取り去ったあとに残る物の背後に、ほとんど無に等しい物の背後に、宇宙そのものの広大さを感じさせる」「これば日本の夕暮の通念化されたコノテーションとして、永くわれわれの脳裡に刻みつけられた」(川本皓嗣「日本詩歌の伝統」岩波書店)■■ちなみにコノテーションとはことばに付帯する言外の意味で、直接事物を指示するデノテーションに対する。
 しかし、いつの時代、どこの地方にも熊本で言うモッコスがいるもので、江戸前期の俳人向井去来の弟子の風国が、わたしは夕暮れに悲哀感も寂寥感もありませんといって、夕暮れの元気のいい句を作ったところ、お師匠さんから「一端遊興騒動の内」と切り捨てられ、これは「一己の私」だと叱られている。
 明治時代になって、歌、句の一大革新運動が起こった。革命児正岡子規の出現である。子規は写生を重んじた。この私の文章の文脈で言えば、デノテーションの精密化である。そこでは写生する人の「一己の私」が大切にされた。風国も明治以降に生まれておれば、なにもお師匠さんから叱られることはなかったのである。いっぽうで歌や句の持つコノテーションはばらばらに分解されていった。先に書いた「夕焼け小焼けの赤とんぼ」や「夕焼け小焼けで日が暮れる」まで辛うじてまとまりを持っていたと言えようか。
 ここに島田有子写真集「HIGAN」がある。普賢岳を対岸に見る熊本市郊外の埋め立て地の風景写真集である。ここに見る夕暮れの風景(それだけではないが)は、「三夕」のコノテーションをわずかながらも引きずっている私に、実にさまざまなことを考えさせる。
 この写真集を見終わってすぐ気がつくことは、島田有子本人の孤絶感である。西行、寂蓮、定家にも孤絶感はあった。「古今集」を超える新しい歌を作るという営為は、いまでこそ観念の操作に過ぎないと顧みられないが、本人たちにとってはまさに孤絶の作業であったはずだ。しかしこの三人には自然を歌いつづけてきた日本の和歌の伝統があった。彼らの孤絶感には何度でも立ち返ることのできる根拠があった。島田有子にあるだろうか。
 「HIGAN」は「彼岸」だとあとがきで島田有子自身が書いている。だからと言って「仏教者的感性の深い刻印」があるか。深層心理ではあるかもしれないが、その「彼岸」はあくまで本人だけのものであろう。立ち返るべき根拠のない、「此岸」のない「彼岸」。
 これは地球が自壊を起こしているという予感なのではないか。確かに写真にはクレーンが写り、ブルドーザ
 ーの跡が残り、電柱が立っている。人の手が自然を変えつつあることがわかる。人間は理性(技術)を活発に使うことによって、自然と異和なものを作りつづける。その先にあるのは地球の崩壊だ。
 島田有子の孤絶感はここで「三夕」の三人と完全に違ってくる。自分自身も理性を使う人間として、島田有子自身もあとがきのように口ごもらざるを得ない。帯にあるように、まさに神も伝統もない、理性が行き着くであろう先の「黙示録」である。