真の国際化は異質との接触

一橋大学教授(当時)ドイツ中世史、西洋社会史 阿部謹也
1992/03/19「西日本新聞」

 私はまだペシャワールに行ったことがない。蒼穹に白い頂を屹立させたヒンヅークシの美しい山々も見たことがない。アラブのバザールも知らない。それなのに、パキスタン・アフガニスタンで医療活動を続けている福岡市出身の医師・中村哲氏著「増補版・ペシャワールにて」を読んでいると、あたかもペシャワールのJAMS(ジャパン・アフガン医療サービス)の病院で患者の膿みをとり、ときにバザールでカバブーを買っているような気にさせられる。
■現代世界の焦点
 どんなに小さな町でも村でも、それなりに世界の縮図ではある。しかしペシャワールは文字通り現代世界の焦点といってもよいだろう。ここには自分たちの文明の普遍性を標榜している欧米先進諸国が奉仕という形式のもとでその傲慢な素顔を見せているし、現代日本の旅行者や若者も現在の日本の病める姿をさらけ出している。旧ソ連やアメリカの露骨な干渉が何のために行われたのか、住民は日々肌身で感じとっている。国連難民高等弁務官という地位や国連という名が日本では海外協力の錦の御旗にされているが、その実態がどのようなものであるのか住民はつぶさに知っている。ここには明治以来百年日本人が自分の目にかけてきたサングラスあるいは鱗を払い落すすべてのものがある。
 ペシャワールに思いを馳せるとき、私はまた東京・福岡という回路を通して考えてしまう。私は中村氏が糾弾している東京に住んでいる。そして年に一度福岡に行くことを楽しみにして月日を送っているといっても過言ではないだろう。それが何故なのかこれまで余り考えたことはなかったが、中村氏が生まれ、ペシャワールの会がつくられる福岡を考えてみると、そこには何らかの関連があるような気もする。
 一昨年と昨年、私はドイツで国際学会に出席し、昨年は「日本の世間と西欧の社会について」講演をした。そのときマレーシア出身の学者が日本の世間という概念にたいへん関心を持ち、マレーシアでもその話をして欲しいといわれたことがあった。その前の年に私はこれまでの日本とヨーロッパ・アメリカという構図だけでなく、東南アジアそのほかのアジア諸地域を含めた歴史認識を形成してゆかなければならないと考え、明治維新に関する東南アジアの学者たちと日本の研究者たちとの大きな違いについて考えるべきだということを岩波書店の『よむ』という雑誌に書いたことがあった。
■自ら変える意志
 しかし、本書を読んでいるとこうした問題のすべてがペシャワールでは明瞭な形で現れているように思える。国際化という言葉が叫ばれて久しいが、かねてから私は国際化とは異質な文化(人と人の関係のあり方)の中に自分の文化(人と人の関係のあり方)と共通な基盤を発見し、そこから互いの文化の違いが生ずる経過を現在まで辿ってくる作業だといってきた。中村氏は文字通りそれを実践されている。国際化とは、異質な人々と接することによって自分が変わってゆくきっかけをつかむことでもある。自分を変えようという意志がないところには真の国際化はない。西欧のミッションや国連の事業がうまくゆかない理由の一つにはこの問題がある。
 最も重要なことは現地に長く滞在し、そこで何が求められているのかを把握することなのだが、このようなことをこれまでどれほど多くの人や公的機関がなおざりにしてきたことか。インテリを代表とする近代文明の担い手たちが、自分たちこそ知の最先端にいるという幻想にとりつかれてからこのような事態が始まったのである。それはヨーロッパでほぼ16世紀に始まり、日本ではこの百年の間の出来事である。
「ハンセン病」をめぐる偏見についての本書の指摘はまさにこの問題とかかわっている。中村氏は「ハンセン病」をめぐる偏見が近代化に応じて強くなり、科学的知識の普及に連れて差別も無慈悲なものになってゆくことを指摘している。
 パキスタン北西辺境州やアフガニスタンでは患者も共同体に一定の席を割り当てられているという。感染という科学的な概念が普及すると「うつる」というメカニズムが、精神的なものを媒介することなく人々の頭脳に定着し始め、差別が激しくなったという。
「近代化とは中世の牧歌的な迷信が別のもっともらしい科学的迷信におきかえられてゆく過程であるに過ぎない」と中村氏がいうとき、ルーマニアの亡きルネサンス研究者クリアーノのような現代の学問の最先端の人々がようやく気づき始めたことを中村氏はすでにペシャワールで自らの体験の中で確認していたのである。
■自分の外のこと
 現在日本でも外国人労働者に対する差別が激しくなっているが、このような状況の中ですら日本史家たちは「ハンセン病」に対する差別や「ハンセン病」の存在さえ日本の学生は知らなくなっていると嘆いているにすぎない。専門の学者ですらこのような状態であるから、日本では部落差別や外国人労働者に対する差別を自分の外の出来事として捉えようとする風潮が強い。私は部落差別の問題は被差別部落以外の人々の中に今も強く残っている世間意識がある限り、容易には解消しないと考えている。しかしこの世間意識に対する関心はほとんどゼロに等しい。
 日本のインテリは社会という言葉を容易に使うが、社会は個人を単位として成立している建て前になっており、自立した個人の存在を前提としている。しかし日本ではその程度の個人もいまだ十分には存在しておらず、今後も西欧的な個人が定着する見通しはほとんどないといってよいであろう。にもかかわらず西欧風個人を前提にしてすべての概念が立てられているところに問題がある。
 世間とはそれぞれの個人がもっている人間関係の絆であり、郷土や出身校、会社、などの中でそれぞれが独自に結んでいるものである。一人一人の世間は従ってそれぞれ異なっている。世間は個人以前に存在するものと考えられており、個人が世間を変えることが出来るとは誰も考えてはいないのである。しかし世間は個人にとっては実在であり、皆が世間を意識しながら暮らしているのである。その世間そのものは排他的で差別的な構造をもっており、私達の差別的な言動の根源に世間という枠がある。そして世間意識の存在に気づかないが故に私たち自身の差別的言動にも気づかないのである。
 本書は私たちをこのような世間意識から解放し、「ハンセン病を病むことだけが人間の平等の印でしかない」世界を見せてくれる。このような世界を見た人の言葉を私たちは信じなければならない。本書を読むことによって私たちがどのような絆で結ばれているのかをも自問することになるだろう。