闇の中で見えぬものを視る

歌人 伊藤一彦
1994/06/01「西日本新聞」

 中国文学研究の第一人者で九州大学名誉教授だった目加田誠氏が去る四月三十日に九十歳で亡くなった。中国文学の泰斗を文字通りわれわれは失った。
 その目加田氏が昨年の夏に出版した小さな歌集『残燈』は静かな反響を起していた。いや、現在もその反響は続いている。盛唐の詩人について目加田氏がどれほど優れた研究者であっても、短歌に関しては素人だった。死の一年半ほど前から失明の恐怖の中で作歌を始めたことについて『残燈』のまえがきには次のように記してある。

 私はもう眼が見えぬ。この十年来、心臓を患って入院すること十三回。同時に網膜剥離、続いて白内障の手術がうまく行かず体力の衰えと共に、どのように眼鏡を工夫しても次第に見えなくなってしまった。(中略)読書はもとより、新聞、テレビ一切駄目になってしまった。こうなると、まるで闇の底にうごめいているようなもので、もうどうすることもできない。(平成四年)十一月の半ば頃、私はせめて短歌でも作ろうかと思い出した。

 それは次のような短歌である。老病死を直接に歌う作を引いてみよう。
・老い病みてまなこもめしい亡骸(なきがら)の如かる我の三度の飯食(いいは)む
・暗き目のいよいよ暗き雨の朝今日の一日をいかに過(すぐ)さむ
・我死なば長き病も目の見えぬ深き嘆きも皆消えゆかむ
・冷雨ふるこの闇の夜の底にいてわれ我が魂の鬼火を燃やさむ
・誠よ、もう、よいではないか、早くおいで皆待っているよ、と母の声する
 自分をすでに「亡骸」のようだと言い、「亡骸」は三度の飯を食うより早く母のいる彼岸に行ってしまった方がよいのではないか、そんなまさに冷たい雨の降りしきる夜闇に青白く燃える「鬼火」のような歌である。しかし、たとえ「鬼火」であっても、火であることに変りはない。目加田氏は歌い続けた。歌っている間だけは夜闇に負けていないかのように。「われ我が魂の鬼火を燃やさむ」には静かだが強い気迫がこめられている。
・死も生も一なりという古の聖の言葉ただに虚しく
 胸をつかれた歌である。中国の「古の聖」のさまざまの人生と哲学を知悉していた目加田氏にしてなお「聖の言葉」は「虚し」いものとして目に映るしかなかったかと思うからである。そして、中国文学の権威云々という世間的自分をかなぐり捨てて、赤裸の心を表現している目加田氏に私は真の意味における文学する心を感じる。彼岸の母の声が聞えると言いながら、死と生の間の絶対のデスタンスを凝視していた作者の絶望──それは「古の聖」に対する絶望というより、「古の聖の言葉」に救済されぬ自己へのそれであろう︱︱の伝わってくる作である。
 目加田氏は「まえがき」の中で、「風化雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何らかの形で吐き出したいのである」と書いていた。『残燈』に「やり場のない切ない気持ち」は確かに吐き出されている。では、次のような歌はどうか。
・竹の葉にそよげる風か雨の音か暮れてかすかに涼しさの入る
・銀杏の葉庭に散り敷く美しさまぶたに見ゆる木枯らしの朝
・咲くと言い散ると伝うる桜花しづこころなく春は過ぎゆく
「詠じ楽し」んでいるとは言わない。しかし、これらはまぎれもなく「風化雪月」の歌であり、老病死と全力でたたかっているがゆえの「風雅」の心が読者に惻々と伝わる。三首目はことに秀作であると思う。見えぬ桜がありありと歌われている。作者は視力が十分にあった時よりもなお鮮明に心の中に桜の一ひら一ひらを視ていたのではなかったか。そうであったとすれば、目加田氏にとって短歌を歌うとは、闇の中で見えぬものを視るための行為であったとも言えるような気がする。
 最後に「夢」の歌二首を引き、目加田氏のご冥福を祈りつつペンを置く。
・京へゆきし二人の孫の夢に来て椿の花でままごとをせり
・暗く沈むわが心をば開けよと夢に出でたる金色の雲