「外国人によってアフガニスタンが荒らされた」という思いは、官民を問わず、党派を超えてアフガニスタンに広がっているという。
 そんな中で、井戸を掘り、用水路を拓く著者の試みは例外的に支持を受けている。それはなぜなのか? まさにいま問題になっているテロ対策特別措置法が国会で審議されていた時、参考人として招かれた著者は「現地の対日感情は非常にいいのに、自衛隊が派遣されると、これまで築いた信頼関係が崩れる」と強調し、自衛隊派遣は有害無益で、飢餓状態の解消こそが最大の課題だと訴えた。
 しかし、この発言に議場は騒然となり、司会役の自民党の衆院議員は取り消しを要求する始末だった。時計の針を六年前の著者の発言時点に戻せば日本はどこでまちがったかが明らかになる。
 その意味でも、この本は実に「タイムリー」な本である。
 自衛隊派遣は著者たちのようなNGOの活動を危険に陥れるだけであり、まさに「有害無益」なのだ。「給油活動」なるものもその延長線上でしかとらえられないことは言うまでもない。
 評者は著者を〝歩く日本国憲法〟と言っているが、平和憲法の下でこそ「どんな山奥に行っても、日本人であることは一つの安全保障であった」という著者の指摘は成り立つのである。
 喜ばれないものを派遣して、喜ばれているものを危うくすることが「国際協力」であるはずがない。医師である著者が「百の診療所よりも一本の用水路」を合言葉に現地で奮闘する姿は、これこそが国境を越えた協力の姿だということを示す。
 一つ一つ地に着いた言葉でつづられる「報告」に読者は粛然とさせられると思うが、著者が病気で二男を失う場面には、思わず、神はどうしてそんな試練を著者に与えるのかと叫ばずにはいられなかった。幼い子を亡くして著者は、空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちがいっそう分かるようになったという。