重なり合った心で語る甘美な世界

作家、アラビスト 小滝 透
「週刊読書人」1992年3月30日号

 この「神・泥・人」と題するアフガニスタン記は1960年代後半より現在まで同地と深く関わりあってきた著者の足跡を記したものである。
 しかし、それは単なる旅行記でもなく風土記でもなく著者の持つ幼い頃の旧満州国大連の思い出から出発する。
大連で迎えた敗戦直後の思い出が巡り巡っていつしかアジアへの回帰を招き、アフガニスタンとの出会いを生み出す。
 ハイバル峠を西側へ抜け、初めてアフガニスタンの大地に触れた彼の魂は、その後移動民(遊牧民)のさすらう暮しの素晴らしさと悲哀に触れ、遠来の客をもてなす包容力とその底に流れる激しい異邦人への拒絶を感じ、さらにはそこに現在生きている人々の伝統的価値観と近代化の狭間でおこる衝突と動揺を淡々と語っている。
実際、著者が初めてアフガニスタンの地を踏んで以来、この地では様々な事件や変革がおこってきた。
 1970年代の王制の崩壊後、いくどものクーデターがくり返され、ついにはソビエト軍の介入をみるや、アフガニスタンの全土は今に至る激しい内戦に突入した。
 著者の見たアフガニスタンの内情は実にこうした急速な近代化と国際情勢の激変により揺れ動く国家と国民の姿であったはずである。
 そして事実、こうした事件はその都度本書の中でも語られている。
 しかし、こうした現状を書くにつけても、著者の記述にはどこか透んだ静謐さが感じられる。また、長く異邦人として住む中で必ず起きるいらだちや疎外感も著者においてはアフガニスタンへの思いの中でいつしかきれいに昇華されている。
 したがって、ここで語られている世界は、アフガニスタンの大地や人々の具体的な記述でありながらも、同時にそれを超越した一つの甘美な世界でもある。
 広くはるかなアフガニスタンの大地も、雑踏と喧噪の交錯するバザールの世界も内戦のため国外で暮らさざるをえなくなった難民たちの現情も我々に伝えられる報道とは全く別の姿を見せる。
 それは既に著者の心の一面が確実にアフガン人の一面と重なり合って同化しているからにほかならない。
 著者の見る眼は日本人の眼であると同時にそれを越えてアフガン人の眼と化している。
 長いアフガニスタンとの交流の中、いつしか彼の心の中にはアフガニスタン人が巣食ってゆきそれが日本人である彼自身と混合していったにちがいない。
 本書の記述の底に流れる一種独特の雰囲気は、こうした両者の共存と調和によってかもし出されているからであろう。
 そしてそれは最後には大連での少年時代に回帰してゆくものかもしれない。
 事実、本書の記述は大連での敗戦に始まり、アフガニスタンでの体験を経て、最後に再び中国(西安)の記述で終わっている。
 一般に我々日本人はシルクロードに代表されるアジア内奥部の国々に強い憧れを抱いてきた。そして本書はその憧れをアフガニスタンの大地を介して強く我々に訴えかけ、アジアの地へと誘っているのである。