■庶民の心性にまで省察
 私達にとってヨーロッパとは何だろうか。日本の近代化はヨーロッパを手本として進められた。本、映画、芸術などから憧憬を交えて影響を受けた人も多い。駆け足旅行であれ、行けば随所で中世にできた建造物や町並みを見ることができる。〝まるで中世を旅するような〟という旅行者のうたい文句そのままに、西欧の歴史に触れた気になるが、あくまでも表面を撫でただけという思いが残る。それらの町にどんな生活があったのか知りたいと思う時に、「ヨーロッパを読む」は当時の人々の暮らしにまで分け入り西欧中世の深層に読者を伴い、そこから現在を逆に照らし出してくれる。
 第一章「死者の社会史」から「アルブレヒト・デューラーの自画像について」までの八章からなり、各章が一冊の本になる程に密度濃く多岐にわたる内容をもっている。どの章でも読者を引きつけるのは歴史学者としての著者の視点のせいである。その視線は為政者の歴史にでなく、常にその時代の庶民の暮らしや、人の心の動きに向けられており、時間・空間・モノという三つの枠の中での人と人との関係の歴史が説明される。
 不勉強にして私は人の心性にまで省察を及ばした歴史家をこれまで知らない。また歴史はあったことの叙述であり、なべて事例の列挙に終わる教科書歴史に魅力がないのは、歴史が想像を許さないせいだと思っていた。
■幾何学の証明にも似る
 氏は若い時にドイツ農村の史料を調べ、村の風景は目に浮かぶが、そこの道を歩く農民の顔と気持が見えてこないのに愕然としたという。当時の農民の顔や気持が見えるまでに歴史を掘り起こす。氏の魅力的で斬新な歴史研究の基本はここにあると思う。
 膨大で広範囲な記録史料が縦横に駆使され、資料は想像と発見を伴って読み取られていく。一見意表をつく仮説とみえることでも、細部まで論証する氏の明晰さは幾何学の命題を証明する鮮やかさに似ている。どこにどんな補助線を引くかが想像力の問題だ。
 この人の補助線は神話・伝説、伝承、グリム童話から文学作品にまで及ぶ。その方法が特に生彩を放つのは「笛吹き男は何故差別されたか 中世絵画にみる音の世界」の章である。ここで用いられるのは十五世紀の画家ヒエロニムス・ボスの絵である。
■中世世界に新しい視点
 前章の「中世賤民成立」では、迷信俗習が生きていた古ゲルマンの世界をキリスト教が一元化して取り込む過程で、差別された職業と差別を生む畏怖という心の動きが二つの宇宙という新しい視点から論じられた。その各論として差別された放浪音楽師をあげて、キリスト教が音楽をどう捉え器楽を排除したかが「最後の審判」、「音楽地獄」などの怪奇な絵から読み解かれる。またボスの皮肉な教会観も描かれている。
 ボスの細密で百鬼夜行的な地獄・天国の絵の中には、差別の発端となった人間狼、大宇宙と小宇宙、動物との関係、男女の性愛、これまで著者が中世世界を開けた際の鍵がびっしりと描かれていて刺激的である。
 「ヨーロッパ中世における男と女」の章では、牧師と姦通した女性を描いたホーソンの小説『緋文字』と、中世フランスの神学者アベラールとエロイーズの往復書簡集があげられる。ここにはキリスト教の説く聖性の規制に縛られず、欲望からの交わりも神聖な行為であるという、「愛の誇りのために生き」る女性がいた。著者はエロイーズに十二世紀ヨーロッパ社会のなかでようやく姿を現わした個人をみる。宗教をもたない私達が〈個〉を考える上で深い示唆にとむ章である。
■真摯で開かれた学究
 これはヨーロッパ礼賛の本でもないし、学会に囲い込まれた歴史書でもない。謎にみちた中世ヨーロッパ史から、私達が生きる世間論にまでわたる本書は福岡市の出版社・石風社で行われた著者の講演記録集である。
 つとに知られた一人の歴史学者が十余年にわたってほぼ毎年、目下研究中の初穂を百人内外の一般聴衆に披瀝する。公開講座は多いが、このような例は稀有なことだろう。石風社レクチャーのなりたちは人々の縁であるが、それが続いたのは阿部氏の真摯で開かれた学究の魅力のせいである。
阿部史学という言葉があるならこれまでのその流れが辿られる貴重な一冊といえよう。読者その河の支流で足を止めたり、また本流に戻ったりしつつ、ヨーロッパを遠く近く感じながらいま自分が生きる河口に導かれるのである。