「こんな世の中に風穴をあけてくれるのは、移動系の人々の生き方じゃないかな。良くできた社会というのは、移動系民族の心と農耕定住系民族の心が調和しているのだと思う」
一九六〇年代の終りから西アジアの旅が始まった。とりわけアフガニスタンが基点となる旅を三十年近く重ねてきた。
東京・町田の仕事場や故郷・福岡へ戻っては絵を描く。そのうち、砂漠の風邪やバザールの喧騒と匂いが物語へ膨らみ、文章を書きたくなる。言葉をつらねていくと光や人々の生活が甦り、ふたたび絵具を列べる。やがて、全身を支配するもどかしさに似た気持を絵筆やペンが、ほんの一部しか消化しないのを思い始め、そして再び旅に出る。
大地で風に吹かれ陽溜りで遠くを眺めていたい、と念じて出かけた旅が、アフガニスタン内戦の最前線でロケット砲を肩にしていたり、東部高原で地雷掘りの手伝いをしたりということになる。
それでも、沈殿物まみれの、ひたすら安定・定住を志向する社会から出て、不安定ではあっても天と地の間で、不可視の存在を信じて生きる移動系の血を引く人々の中に入ると、しみじみ心地よいと感じ、すべてがさわやかだった。安らぐのだった。気づくと北緯三十度線と四十度線の間を東西に漂っていた。
そして、茶店や宴席で、いつも、餃子の一族の小さな食文化が姿を見せていることに気づいた。中国北部にルーツがあると信じて疑わなかった餃子について、カシュガルに住む一人のタジク人古老は、それは大昔からトルコ系騎馬民族の食です、といった。一度は餃子のルーツ探しを考えた。
他方、七〇年代初めの中国東北地方、撫順の炭鉱に付属する老人ホームで、余生を送っていた八十数歳の老人が語ったことばが甦りもした。「毛沢東のいうことも革命も、文革も私にはわからない。しかし今では、一生食えないと思っていた水餃(子)が毎週食える……」
また、九〇年に西安郊外で会った中年の工員のことばも胸の奥に残っていた。
「以前は、春節(正月)に一回食うだけだったが、最近は食べたい時に食べている……」
一度は思ったルーツ探しだったが、極寒の旧満州北部から黄土地帯、トルコ系騎馬民族世界からアフガニスタン北部、その美味を心おきなく土地の人々と楽しむことに専念しよう、と決めた。皮をむいて列べ、具をくだいて虫眼鏡で詮索するような旅をしたくなかった。辛く苦しかった生涯の終りに水餃を口にする元坑夫の静かな表情の想い出を壊したくない、とも思った。
世界地図上に赤色で示された〝飢餓地帯〟には、中国、アフガニスタンを含む、餃子一族の食を提供してくれた土地のすべてがある。そこでは、日本列島と異なり、餃子は今も輝く麺食である。そして、何よりも検証めく旅を躊躇させ放棄させたのは、餃子を愛する土地では誰もが、この上なく優しくまた厚い心で旅人を迎えてくれたということである。
起源はともかくとして、餃子一族が東西文化交渉の証しの一つであり、移動系の人々に深くかかわっている、とわかっただけでも充分満足である。書くならば、餃子が見えかくれする人間交流を、と思った。
冒頭で引用したのは、十年近く前、旅から戻った折お会いした五木寛之さんの言である。ホモ・ルーデンス、ホモ・モーベンスの語も交えての話だった。
「餃子は、移動・定住それぞれの人々の合作としては上等なものですね」
「餃子ロード」を脱稿した時、こんなことをいうと、深い意味の通じぬ奴、と五木先輩は苦笑するに違いない、と思った。