『外国航路石炭夫日記』は、約30年ぶりに復刊された本だ。小林多喜二の小説「蟹工船」(1929年発表)と同時代に、下級船員が体験した過酷な労働や、船員を食い物にする船幹部の姿が克明に描かれており、近年注目を浴びるこの小説の世界を思い起こさせる。

 著者は広野八郎さん(1907-96年)。長崎県萱瀬市(現・大村市)の出身で、1928年、欧州航路の貨物船、貨客船に乗務した。その頃、プロレタリア文学作家の葉山嘉樹(福岡県出身)と知り合い、同人誌「文芸戦線」に参加。船員のほか、戦後にかけて炭鉱や工事現場で働いた体験記などを書き続けた。
『日記』は28年11月から、船員をやめた直後の31年6月まで続く。広野さんは、汽船の石炭庫から火炉まで石炭を運んだり、かまの中の燃えかすを取り除いたりする作業に従事。欧州航路の貨客船では、室温が約60度(カ氏140度)にも達する所で働いた。当番は昼と夜に4時間ずつ。しかし、それを終えても様々な仕事を命じられ、休息する間はない過酷な日々だったという。
〈蒸し風呂同然だ。二〇分とはいっていたら、息がとまりそうだ。(中略)あまりのくるしさに、私たちはぶっ倒れそうになって、倒れぬうちにどうにかデッキにはってでた〉
 同僚が倒れる場面にも遭遇した。〈川野は、キイーッと言う声とともに歯を食いしばって仰向けにふんぞり返った。両股から、すね、両腕は、まるで石のようにかたく筋がつっている〉
 卒倒したり、病気にかかったりして体調を崩しても休めない。上司の火夫長からどなられ、仕事を強いられた。閉じられた職場で火夫長やその取り巻きは下級船員を酷使し、時には暴力もふるった。
 この火夫長は、部下を相手に月2割の高利で金貸しもしていた。給料はすべて差し押さえられ、さらに借金を重ね、船員をやめるにやめられぬ者も多数いたようだ。本書解説によると、当時の日本の船舶には職長による「高利貸し制度」が、普通にあったようだ。
「蟹工船」では、労働者は団結して抵抗するが、現実はそうはならなかった。その頃は世界恐慌の中で、船員らは不平を漏らしても、職を失うのを恐れ、ひどい扱いにますます甘んじるようになった。
〈船内のかれらはなかなか動かない。しっかり現在の仕事にかじりついて、はなれまいと必死である。海上労働のあらゆる不合理をなげきながら、かれらは職を失うことをおそれてかじりついているのだ〉
 不当な待遇に耐えて、いくら働いても悲惨な状態から脱出できない。『日記』の記述から、ワーキングプアとも言われる現代の問題が浮かんでくるようだ。
 最初の刊行は78年。タイトルは『華氏一四〇度の船底から 外国航路の下級船員日記』(太平出版社)だった。今回の復刊にあたり、船員用語の注釈などをつけた。