国境 忘れられた「存在」

北大教授・ユーラシア国境政治 岩下明裕
2009/02/01「北海道新聞」ほか

 国境とは何か。本来、それは国家の権力が物理的に及ぶ空間の境界(ライン)であると同時に、その空間に暮らす人々が心のなかで一体感を共有する認識の境界でもある。
 しかし、現実には物理的なラインとこの認識上のラインは往々にして一致しない。それでも「領土問題」として国境をめぐる係争が顕在化している境界は、多数の国民に意識される。北方領土と竹島。例えば、政治化した境界をめぐるこのズレの問題は、係争の当事者からみれば、不十分に感じられるとしても、それは確かに「存在している」。
 国境をめぐる問題の真の所在は、その「存在」が認識されていないところにある、と評者は考える。国家が支配する権力空間のなかで、多くの国民に忘れ去られている境界に近い島嶼(とうしょ)。今では、与那国、対馬、小笠原など国境島嶼の存在がそれだ。その存在がメディアや国民の注目を浴びるのは、せいぜい、外国の「脅威」が強調されるシーンにおいてに過ぎない。国境地域の現実に普段は関心も興味ももたない人々の過剰な国境への想像力とロマンは、しばしば現地に暮らす人々を傷つける。
 この「内地」の人々の国境地域に対する無自覚ぶりを反転させた象徴的な事例が、樺太をめぐる問題といえる。工藤信彦は本書で、日本国家が喪失した領土、樺太の存在にかかわる議論を整理し、その意味を読者に突きつける。工藤によれば、「樺太」問題の真の悲しみとは、戦後にその物理的存在が喪失したことにあるのではない。ソ連との間に北方領土問題を抱えるがゆえに、日本国は樺太の喪失を追認することができず、存在はあえて「空白」とされ続けた。そして今日、「空白」としての存在もまた忘却の彼方にある。
「存在」耐えられない軽さ。「平穏」な国家にとって、国境問題とは重荷でしかないのだろう。