時代思潮が照射する詩人

福岡県教育庁勤務 小正路淑泰
「綱手」2008年3月号(綱手短歌会)

「丘を越えて」で一世を風靡した豊前市出身の詩人・島田芳文(本名義文、一八九八〜一九七五)の初めての本格的評伝である。本書の初出は季刊誌『邪馬台』一九八四年夏号〜八八年冬号というから、すでに二十年以上が経過しており、島田に関心を寄せる人々の間で待望されていた本書の刊行をまずは慶びたい。筆者はデビュー作『黒い谷間の青春──山本詞の人間と文学』(九州人文化の会、一九七六年)の脱稿後、『九州文学』の重鎮・劉寒吉より「松井君、豊前を掘りなさい」との激励を受けたという。 
 近年、ある児童文学研究者が「戦後歌謡と社会」というサブタイトルを付した著書で、「丘を越えて」を「脳天気」な歌であり、「ひたすら『丘を越えて』進軍する軍歌にすりかわってゆく」という、あまりに皮相な誤解、というより不当な評価を下した。地道に豊前を掘り続けた著者は、これに猛然と反論し、終章では、「『丘を越えて』の向日性こそ、同時代のどの流行歌にもない独自性であり、まさに一点の曇りもない『青春賛歌』」と結論づけている。
 かといって、対象に対する思い入れが強すぎるがために、たんなる顕彰に終わりかねないという陥穽にも陥らず、島田に注がれる著者の視線は透徹している。例えば、第七章「民謡詩人の時代」では、島田の第二作・民謡集『郵便船』(詩人会、一九二二年)を取り上げ、島田が師事した野口雨情との比較検討を通して、「島田が雨情のいう『自然詩』についてどの程度理解していたか」との疑念を呈し、「島田の情緒的で甘い体質」と仮借のない指摘がなされている。
 第十三章「結婚」では、島田の第三作・詩集『農土思慕』(抒情詩社、一九二七年)と渋谷定輔の『野良に叫ぶ』(万生閣、一九二六年)を比較。『農土思慕』には、「単なる自然への憧憬を唄う」のではなく、「社会的経済的に、苛酷なる重圧の下にある農民を匤救する為に民心を鼓舞したい」との「自序」があるものの、著者は、「『農土詩派』を名乗る島田の作品」に「相も変わらぬ観念性」、壺井繁治流に言えば、「田圃や農民をその詩の題材の中に取り入れながらも、ふところ手をして歌っているかのような観」を見出す。自小作農青年として「苛酷なる重圧」の真っ直中にあって、農民自治会という「もう一つの農民運動」を展開していた渋谷には、二十町歩を保有する中地主の長男であった島田のような「観念的な田園回帰」や「啓蒙主義的な発想」(第十一章「民衆詩派の人々」)は見られず、同時代評と同様、『野良に叫ぶ』に対する著者の評価は高い。
 本書では、主として「丘を越えて」以前の、島田の青春時代に焦点が当てられる。「島田メモ」と称する未発掘資料──島田(家)旧蔵の大学ノート、いわゆる書斎資料の一つ──から島田の行動を追い、妻の島田光子や島田と旧制中津中の同級生・歌人の大悟法利雄等、関係者からの聞き取りを随所に挿入。新資料とオーラルヒストリーを縦横に織りなすところに、評伝作家としての著者の力量が遺憾なく発揮されている。
 評者は、秋田雨雀が「序文」をよせた島田の第一創作集『愛光』(私家版、一九二一年)の存在や、島田光子が長谷川時雨主宰の『女人芸術』に関係し、深町瑠美子というペンネームで詩集『闇を裂く』を島田夫婦経営の秀芳閣出版部から刊行していたことは、初めて知った。また、島田が中津中在学中の習作期、地方紙『二豊新聞』や『中津新聞』の新聞記者歌人より啄木調の影響を受け、短歌や新体詩(自由詩)を書いていたことや、早大卒業後の一時期、門司新報築上支局主幹、九州新報主筆をしながら、一九二四年に個人誌『濁流』を創刊(未発掘)したことなども新たな知見であった。『濁流』という誌名は、無産政党の輝けるリーダーとなる東大新人会出身・麻生久の自伝的小説『濁流に泳ぐ』(新光社、一九二二)からの感化であったという。
 以上のように、本書の最大の特徴は、大正・昭和初期の時代思潮・精神を丹念に踏査しながら、島田の青春を照らし出すという手法であり、著者の試みは見事な成功を収めている。とりわけ、評者は、第五、第八、第九章の早大建設者同盟と島田に関する叙述が印象深かった。「ヴ・ナロード」(人民の中へ)を目指した初期建設者同盟の主力メンバーは三宅正一、浅沼稲次郎、稲村隆一など政治経済学部一九二三年卒業組、つまり島田と同学部の同級生たちである。島田は彼等の誘いで建設者同盟の同人となり、前年夏の九州遊説に参加して「人間苦とプロレタリア芸術」と題する演説を行っている。(第八章「父と子」)。
 三宅、浅沼、稲村等は、建設者同盟結成以前には、「支那協会」や「亜細亜学生会」という学内団体に加入し、壮大な大陸雄飛の夢を抱いていた。彼等の関心はあくまで「運動」や「政治」という外の世界に向けられ、彼等が志向したものは、ある意味では、黒土村長などの要職を歴任する島田の父碵之助と類似している。「妙に詩人的なところがある」(『雨雀日記』)と評された島田は、父との葛藤を繰り返し、三宅たちとも異なる道を歩むことになる。
 もっとも、三宅たちが、その後、農民運動指導者として活躍し、農村問題の解決に傾斜していくように、島田の詩集『農土思慕』もまた、建設者同盟時代の所産である。この時期、島田の脳裏から片時も離れなかったのは、「社会的経済的に、苛酷なる重圧」(序文)に喘ぐ郷里の小作農民達の姿ではなかったか。
 本書に通底するもう一つの分析視角は、「鄙と都会」との往還である。著者は、島田の「作品が内包するヒューマンな詩情の根源」には「大正時代の『鄙と社会』を結ぶ地下ケーブル」があり、「プチブルでありながら貧困層への温情を湛えた視線が光っている」と述べる。それ故に、「島田の歌謡詩にも、どこかに土着的な表現を残しながら、尚かつ都会の青年男女の自由闊達な心情をも抱き込んでゆく軽快なリズム感」を生み出すことができたのである。
 戦後、「学徒援護会」を定年退職したあとの晩年の島田は、「放浪詩人」(第十七章)という生き方を選び、「まるで執念のごとく、その詩謡世界を内面で掘り下げて行」った。著者は、晩年の作品に、「母ユクへの挽歌」や、「心魂から湧き出た『祖霊の声』」を読み取り、「雨情の涙を振り払ったところで、島田の詩は光り輝くことができた」と評する。