美術館に私財「石炭の神様」

北海道新聞・編集委員 千龍正夫
2008/08/31「北海道新聞」

 東京・上野公園の東京都美術館(都美)一階講堂の横に小さなブロンズの胸像がある。佐藤慶太郎像。伝記の著者は取材場所にこの美術館を指定した。
 佐藤慶太郎は一八六八年、現在の北九州市八幡西区生まれ。太平洋戦争開戦前年の一九四〇年に死去。産炭地・筑豊の石炭商で、「石炭の神様」とたたえられた。都美は佐藤が寄付した私財百万円、今の貨幣価値では推定三十三億円で二六年に開館。当時の名称は東京府美術館、日本初の常設美術館である。
 著者は五一年、山口市生まれ。七七年、開館したばかりの道立近代美術館学芸員となり、八〇年に都美に移った。「北海道は私の人生の出発点。三年間は私の財産です。都美では佐藤慶太郎の存在を初めて知り、その生涯を調べ始めました」。都現代美術館を経て筑波大芸術学系教授の現在に至るまで約二十年間をかけて佐藤の伝記をまとめた。「すべてが何かによって計算されている気がします」。佐藤の人生を語る言葉は、著者自身にも通じる。
 筑豊の商家に生まれた佐藤は明治法律学校(明治大)を卒業したが、病弱で法律家となる夢を断念し帰郷。地元の石炭商の婿となり、やがて独立、後年には炭鉱経営にも乗り出す。その大江炭鉱は明治末年、夕張、九州・三池と並ぶ国内主要炭鉱の一つである。その全資産の半分を美術館建設に投じる決意は、仕事で上京中に読んだ常設美術館の開設を切望するという新聞の社説がきっかけだった。
 佐藤の人生哲学を示す語録。「信用という無形の財産を築きたい」「富者はただ(財産の)善良なる管理者であれば足りる」「公私一如」。これらの言葉は世界の鉄鋼王と呼ばれ、社会事業に尽力したアメリカのカーネギーの影響もうかがわせる。
 「彼は東京というより日本の文化のためを考えていたのでしょう。世界の中での日本文化はどうあるべきか、さまざまな視点で考えた人です」。晩年の佐藤は「美しい生活とは何か」を追求し、生活レベルで国の立て直しを考える「新興生活館」を東京・神田に設けた。その本部が文化人ホテルと言われた現在の山の上ホテルである。
 近代日本の工業化と経済大国への原動力となった石炭。そして国策による閉山。全国の旧炭都は今なお栄枯盛衰の負の遺産の重圧にあえいでいる。その顕著な例を今日、われわれは夕張に見ている。
 都美は七五年、現在の建物に改築され、再来年以降の改修が検討されている。