自分と半歩、世間と三歩離れ

詩人 岡田哲也
2010/11/24「西日本新聞」詩時評

 お祭り大好き人間のくせに私は群集や党派が嫌いでした。昔、学生活動家たちから「お前は右か左か」と詰めよられた時も、「俺は上だよ」と答えました。「右翼の右へならえ 左翼の左うちわ」と詩にも書いて、度し難い奴だと言われたりもしました。
 こんな枕を振ったのは、別段今の政局を思ってのことではありません。樋口伸子さん(福岡市)の詩集『ノヴァ・スコティア』の帯に、歴史家阿部謹也さんが書いた次のような件(くだり)があったからです。
「樋口さんの普段の姿に接していると、詩人であることを感じさせない(略)日常生活の中で樋口さんは詩人なのであり、それだから詩人くさくないのである」
 樋口さんには、いかにもゲージュツカといった風采や面体(めんてい)が感じられないのでしょう。詩を書くより、詩を生きることに多忙なのかもしれません。だからでしょうか、作品からも、ことさらの修辞やツヤ付けが感じられません。自然体です。しかし、奇も衒(てら)いもないけど、どこか異なのです。野球の投手に喩えれば、剛速球投手ではないが、緩急と内外角のボール一個の出し入れで勝負する、そんな感じです。
「わたしは夢の中までも迷っている/といっても/どこからが夢なのか分からない(略)ねじれた心をもてあまして/四月の魚がバカなら/三月の魚には毒がある(なんて)/無意味な台詞をつぶやいて/自分の声で目が覚める/その時わたしは笑っていたのだ/いや 怒っていたのだよ」(作品「夢から夢へ」)
「夏 バカが過ぎて辛い日が続いた/眠る前に小出しに泣いた/夜中に目覚めて心がよじれた/鍵をかけたまま秋になった」(作品「秋ふかく」)
 おっちょこちょいですっこけたような自分が、スキップするように歌われます。しかし作者は、手放しで自分をいとおしむのでなく、周到に自分とは半歩、世間とは三歩離れているのです。そのぶん言葉が、世間の湿気やあけすけな自虐趣味から免れています。サラリチクリの一冊です。