下からの東アジア論

国際東アジア研究センター主任研究員 河村誠治
1998/10/10「図書新聞」

 本書は、主として、朝日新聞西部本社が一九九七年初めからつい最近まで同社新聞に掲載してきた東アジア現地ルポを加筆・編集したものである。その目的は、変化の激しい東アジアの「いま」を書き留め、新しい時代につなげたい、とある。第一線で活躍する記者たちの執筆だけあって、わが国を含めた現地(地域)の人々に焦点が当てられている。われわれ読者とも深くかかわる現実の問題が軽快な語り口で述べられており、全二六九ページは一気に読み終えられる。
 表題の「東アジア」は、「九州・西中国・沖縄と密接につながる身近な地域」で、「東シナ海や黄海に面した国・地域」であり、主たる対象国・地域として、日本、韓国、中国、台湾が挙げられている。大方の脈絡はこうである。
 東西冷戦時代に固く閉ざされ分断されていた黄海・東シナ海がすっかり開放され、地域住民の相互交流が拡大したが、他方で漁業、漁業資源、漁民の生活、経済水域の線引き、領土・領海問題などをめぐる激しい対立も生じている(第1章「荒れる二〇〇カイリ」)。ともあれ、その東アジアの国・地域を結びつけてきたのは、ハブ港湾、航路、海運業者、船員である(第2章「港と海運をめぐる攻防」)。黄海・東シナ海が狭くなった結果、密航から外国人労働者の就業のあり方までの新たな社会問題が日本、韓国、台湾に突きつけられるようになった(第3章「回流する外国人労働者」)。東アジアの文化・芸能・スポーツ界に生きる人々に目を当てれば、ハングリーな直向きさと向上心がよくわかる(第4章「クロスオーバー文化芸能」、第5章「越境するスポーツ」)。東アジアの多くの人々の心は、いま、夢と現実のはざまで大きく揺れている(第6章「漂泊するアジアの心」)。その対極にあるのがわが国の海上保安官たちであり、領海を守ろうという使命感と苦労は積もる一方である(第7章「第七管区海上保安本部」)。今後の東アジアの行方を占う上で、開発独裁型の経済成長が行きづまった韓国の動向はとくに目がはなせない(「危機の韓国経済報告(経済部編)」)。東アジアでの交流の姿をアジアで活躍の三氏に聞くと、エコノミストは直接投資が中国大陸だけに集中しないことを、女優は東アジアの違いを認めることを、歴史家は東アジア史に見られた都市間交流の復活を説いている(終章「新時代のアジア」)。
 私が編者であれば、とくに大切な終章は、外部の識者にゲタをあずけるようなことはせず、それまでの全8章をベースに結んだはずである。識者の意見が必要なら別章を設ければよい。実際、終章の識者の発言からは、交流の具体的姿がほとんど見えてこない。いくら東アジアのいまを「書き留め、新しい時代につなげたい」と言っても、一冊の著書である以上、また単なる新聞記事の寄せ集めと寄せ集めと誤解されぬためにも、脈絡をもっとはっきりすべきであったし、今日の東アジアを総括する自己主張があってしかるべきであった。
 そうだからと言って、本書を過小評価するわけにはいかない。最後になったが、他にはない本書の特長を四つ挙げておく。一、個々の記事が現実に忠実で、また普通の学術書にはない新鮮さがあり、多様な東アジアの方向性を探る上で有益である。二、わが国を東アジアの一員とし、東アジア域内からわが国の存在を見いだそうとしている。ちなみに、多くの経済統計(但し書き)では、経済発展段階の違いと称し、「日本を除く東アジア」と明記しているが、それは東アジアの独自性を否定し、環太平洋地域構想に加担する考えの表れである。三、経済成長や金融・通貨危機などの経済問題に偏ることなく、各種の社会問題を拾い上げている。それは、歴史、社会、風俗、習慣、文化などを重視していることの表れでもある。四、目指そうとするところは、開発独裁という「上からの東アジア論」ではなく、地域住民の視点から見た「下からの東アジア論」であり、ユニークである。