明治という時代の暮らし、往来のにぎわいが伝わってくる。
「あぶってかもは、よござっしょう」
 これはスズメダイを売りに歩く物売りのふれ声だ。「炙って咬んで食べる魚」という意味がある。博多の味「おきうと」売りは、
「おきうとワイ、とワイ、きうとワイ」
とやってきた。辻芸人、アメ売り、とうがらし売り……街は人と人との出会いの場だった。

時事を織り込み
 この秋、刊行された日本画家祝部至善さん(一八八二─一九七四年)の画文集「明治博多往来図会」には、江戸時代のなごりが残ったそんな明治の博多が描かれている。
 博多の井戸水は塩分が多いため、現在、福岡県庁のある千代松原の大井戸からくんで、たるに入れて、車力(大八車)に積まれて売られていた。街でバイオリンを弾く「艶歌師」の姿がモダンな時代の到来を告げる。人力車に乗って壮士芝居をPRする書生風の男性は、もしかしたら川上音二郎一座の役者かもしれない。結婚して初めて里帰りする花嫁の姿が初々しい。
 時事を題材にした絵もある。一八九四年、日清戦争・旅順港陥落を伝える、福岡日日新聞の号外を配る男。頭の鉢巻きに小さな国旗を挟み、腰には鈴。戦勝に高揚する時代の気分がよく伝わってくる。てんびん棒にかついで小包を配っている人や伝染病患者搬送の現場を伝える絵もある。
 祝部さんの視点は、ニュース感覚にあふれている。江戸の浮世絵師が博多にいたら、題材になったかもしれない庶民の生活の現場を鮮やかに描き出している。今の新聞ならば、さしずめ生活感を伝える「社会面」のような世界だろう。

風俗をリアルに
 祝部さんは、福岡市博多区の櫛田神社前にあった櫛田裁縫専攻学校の校長を務めた。祝部家は代々、櫛田神社の神職の家だったが、実家は中洲の中島町。この町からは独立美術協会で活躍した小島善三郎や「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭らが出ている。商人の町・博多から川を隔てたこの地域は文化の香りが強かった、と画文集の「解説」を書いた日野文雄さん(写真家)。
 町絵師野方一得斎に日本画を習い、博多人形師の指導に当たった矢田一嘯(いっしょう)に油絵を学んだ。上京後は、大和絵の松岡映丘に師事する傍ら、洋画彫刻塾でデッサンに励み、ヌードデッサンの画塾にも行った。この時代に基礎を築いたデッサン力が、細い筆の線で明治の風俗をリアルに描く素地となった。和洋を問わず絵を極めようとするおう盛な好奇心は図絵の豊かなバラエティーに直結しているだろう。
 収められたエッセー風の文章も、貴重な証言だ。
 たとえば七月の博多山笠。現在の追い山は、前を走る山笠がスタートしたあと、一定の時間を置いて後続の山笠が境内の「清道」の旗を目指してスタートする。ところが、明治二十三年までは、前を走る山笠が神社から東へ五百メートルほど離れた東長寺の前まで走ってからスタートを切っていた、と書き残している。「追いつけ追い越せ」と、むやみやたらと無理なスピード競争はしていなかったという記録である。

「わが町を残す」
 収録された絵は、一九五三年から十年足らずの間に描かれた彩色画が五十二点と、西日本文化協会の機関誌「西日本文化」の表紙のために描いたモノクロの作品約百点。
 五〇年代は、福岡大空襲後の焼け野原から少しずつ復興が進んでいた時代。が、老舗の商家がほとんど焼失し、博多の町には、板付米軍基地の兵の姿が目立った。日本社会全体が急速に欧米化していった時代でもあった。祝部さんにとっては、古里が消えてしまった。他人の町になってしまったのだ。
 絵には、「わが町・博多を残さねばならない」という強い決意がにじんでいる。遠い所へ去ってしまった「博多」を呼び戻そうという意地がひしひしと伝わってくる。祝部さんは、博多を語る会の会員としても博多人形師の小島与一さんらとともに「博多」を語り継ぐ活動を続けた。
 博多の町は、六六年の町界町名変更で、長い時間をかけて形成された地域コミュニティーが分断された。この本は、失われた博多を見つめることで、変わり続ける博多を問い直す機会を与えてくれる。