この度西日本文化協会より祝部至善氏の『明治博多往来図会』が刊行されました。東京国立博物館所蔵の51点の絵画と、雑誌「西日本文化」掲載の表紙画と解説を中心に編集されています。
 この本には明治・大正の博多の庶民の生活風景が生き生きと描かれています。人々の話し声、物売りのふれ声、街の喧騒さえ聞こえてくるようです。これらの市井の風俗は今はもう見ることができません。博多が近代都市になる過程で失われたものです。それだけに懐かしさにあふれています。

 祝部氏は、明治26(1883)年11歳のとき、博多の浮世絵師野方一得斎(のがたいっとくさい)について絵を学びはじめ、また同じ頃に矢田一嘯(やだいっしょう)にも油絵を学んでいます。しかし本格的に絵を学んだのは、櫛田神社社司の祝部家に入夫婚姻した後、大正7(1918)年36歳で上京して松岡映丘に師事してからです。同12(23)年関東大震災のため帰郷するまでの6年間、映丘のもとで新しい大和絵を学んでいます。
 博多に戻ってからは、家業の櫛田裁縫専門学校校長をつとめる傍ら、福岡県展などの地元の公募展への出陳のほか、新聞雑誌にも多くの挿絵を描くなど、作画活動を続けていました。
 今日では、祝部氏と言えば明治の風俗画を思い起こしますが、祝部氏が博多の古い風俗を描きはじめたのは70歳ごろ(昭和28〈53〉年ごろ)からと思われます。ただ、風俗画を描きはじめた動機については、はっきりとは述べていません。
 本書の編集者日野文雄氏は、地域差はあるが触れ売りや門付けの姿が街から消え始めたのが昭和28年から30年ごろであり、祝部氏にとっても明治が終りを遂げた時期ではなかったか。内なる明治の終焉を感じた時、明治を懐かしむだけではなく、明治の博多を記録しておかねばという決意から、71歳の翁は風俗画の筆を執ったのではないかと推測しています。これを裏付ける事実は、祝部氏が明治・大正博多風俗図を2セット描き、1セットは手元に置き(現在は福岡市博物館の所蔵)、もう1セットを昭和38(63)年に東京国立博物館に寄贈していることです。これは、自分が描いた風俗画が、確実に後世に伝えられることを意図したものと思われます。
 いま一つのきっかけは、鏑木清方が昭和23(48)年の第4回日展に出品した「朝夕安居(ちょうせきあんご)」図です。明治20年ごろの東京の下町風景を絵巻物風に描いたもので、失われ行く東京の下町風景が詩情豊かに描かれ、おおいに評判になった作品です。氏は画作の動機を「今私がしきりと画きたいもの、またかいておきたいものは、昭和なかばまで続いて来た市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないように思はれるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならなかった」と述べています。また清方は、展覧会のための大画面の作品とは違った、卓上で眺めて楽しむ絵巻、画冊などの卓上芸術の支持者でもありました。
 祝部氏は、この清方の態度に共感するところが多く、博多版の風俗画制作を思い立つきっかけの一つも、この「朝夕安居」図にあったと私は考えています。祝部氏の風俗画は、作品の形式、画題、画風のすべてが、師の映丘より清方に、そしてこの図に近いことに驚きます。両者の違いは、清方が詩情を主にしたのに対し、祝部氏は風俗の正確な記録に重きを置き、各図に解説を付した点でしょう。

 祝部氏はこの風俗画を描き上げたあと、ありし日の福博の往還の様子をさらにこまかく「西日本文化」の表紙画に描きました。昭和37(62)年から氏が没する49(74)年まで、100号にわたっています。各号に付した解説文も興味深く、博多の庶民の暮らしが見事に回想され、活写されています。侍が曳馬の訓練と称してかき山の列に馬を乗り入れていた時代があったことなど、誰も知らなかったことでしょう。また画中の女性の装束、帯の結び方、髪形などの詳細な記述は、さすが裁縫学校長ならではの観察とおもわれます。
 祝部氏は、日本画のほかに、和裁はもちろん、博多おきあげ(押し絵)技術者、茶道南坊流会員、郷土研究会会員、弓道範士など多芸多忙の人でもありました。この出版が祝部氏の再評価につながればと願います。