「美しい空つぽ」を希求

詩人 岡田哲也
1999/06/18「朝日新聞」

 淵上毛錢、本名淵上喬、法名十方院釈毛錢居士。彼は一九一五年、水俣に生まれた。かつての名門士族、淵上家の次男だった。彼をモデルにした小説『ある詩人の生涯』のなかで火野葦平は、「喬は一生名門の亡霊とたたかい通した」と描いているが、本物の喬も幼い頃から、知らぬ人なき悪童だった。
 家からはみだし、ふるさとからはみだし、と言うよりどこにいても所を得ないような人間はいるものだ。彼はやがて熊本市の九州学院から、東京の青山学院へと進む。そして養子に出される。さらに放蕩に拍車がかかる。
 世はまさに大正デモクラシーの嵐が吹き荒れていた。彼はこの頃、詩人山之口貘を知り、青山学院を退学する。寄席の下足番、新聞配達、港湾労働者、輸送トラック助手︱︱。彼の職歴の部分だ。まあこれは、労苦というより、青春の浪費のようなものだろう。
 しかし、三五年、はたちの時、結核つぎに股関節カリエスが発病し、以後十五年間ふるさと水俣でほとんど寝たきりの日々をすごすことになる。何という皮肉か。その病のすさびに書き始めたのが、詩だった。
 「来て見れば 来て見れば/誰もかれもが石垣の石に似てゐて/ほし魚のしつぽのやうな故里の/らちもない話といふものが/こんなにもこたへてくるものであらうか」(作品「流逝」)
 ところで、私は毛錢のふるさと水俣の隣町、鹿児島県出水で生まれた。彼のことを知ったのは、私が東京におさらばして出水に戻ってからのことだった。入りびたっていた居酒屋のおかみが、淵上一族の出だった。だが当時の私は、彼女から毛錢の話をされても、あまり乗らなかった。さして読んでいなかったこともある。それより、「人間どこに住んでも都であり、地獄である」と思いつめていた私は、どこへも行けなかった毛錢が、ベッドにくびかれた土着の囚人のように感じられたのだ。とんだ読まずぎらいというものだが、人は時として、あまりに卑近な同類を目のあたりにすると、思わず顔を背けるものらしい。
 「屋根といふものがなければ/暮しはできないものなのか/もの哀しい習俗のぐるりの/屋根屋根を濡らして/遙かなる狐の嫁入りが行く(略)僕はこのまんま/美しい空つぽになりたくて/ほそい山経に群れてゐる」(「眺望」)
 「じつと雨を見てゐると、/しまひには雨が自分のやうに思へてきて、/へまなぼくがさかんに/降つてゐるのであつた。」(「梅雨」)
 毛錢の作品では、この「美しい空つぽ」になるという思いが、まるで交響曲のテーマのようにくりかえし奏でられる。病の苦しみや生きる痛みが増せば増すほど、この美しい空つぽへの希求は、より大きなものとなって登場する。彼の作品には、方言を使った作品も少なからずあるが、それらは泥臭いどころか、はんなりとしたユーモアと味わいに昇華している。それは彼の資質にもよるのだろうが、私にはやはり業苦ともいえる不治の病が与えたフィルターで濾されたものにうつる。
 「ぼくが/死んでからでも/十二時がきたら 十二/鳴るのかい/苦労するなあ/まあいいや/しつかり鳴つて/おくれ」(「柱時計」)
 彼は寝たきりだったが、彼の精神は縦横無尽に、この世界を駈けつづけた。敗戦後、彼が、地元の水俣文化会議のリーダーとして、多忙な時を過ごしたのも、その表れのひとつだろう。むろん彼は、時局に便乗することもなく、地方で〈東京〉風を吹かしてのぼせることもなく、自足して腐ることもなかった。生きることに忙しかった彼は、とても威張るどころの騒ぎじゃ無かったのだろう。永眠したのは、五〇年三月九日だった。
 「貸し借りの片道さへも十万億土」
 これは彼の絶句だが、この度の詩集は、貸し借りなしに買える求めやすい一冊となった。三部構成の編集は、小気味良いし、新しく改められた年譜も有難い。編集の前山光則氏の毛氈への敬意が、それこそ「素朴な煮しめ」のような味わいを生んでいる。