伝記的事実捨て去る真骨頂

詩人 山本哲也
1999/05/02「熊本日日新聞」

 詩が、精神とか人生とかをふりかざすようになったらだいなしである。人生訓まがいの行分け散文が、本物の詩集より売れる時代、この詩集の刊行はありがたい。
 毛錢の詩は、淵上毛錢という人間の素(す)でできている。集中に「もう題なんかいらない」というタイトルの詩があるが、そうなのだ、もう題なんかいらない。形式も、詩の方法論もいらない。毛錢は、カリエスという不治の病の運命を見すえて、過剰な言葉を削り、感傷を削って、生の原型、詩の原型そのものを書き残した。
 毛錢の詩集がこうして一冊なること、現在の出版事情からすれば、これは稀有のことであろう。編者の前山光則氏が「五十回忌を迎えるにあたって、催しや石碑だけでなく、毛錢の詩が手頃なかたちで読めるように」というように、収録作品七十四編が「風土と抒情」「雲よ、風よ」「スッケンギョーで きやー渡れ」「生と死の間」の四パートにわかれて編まれているところに、編者がこの一冊にこめた意図が透けてみえる。水俣方言のフレーズには、その詩の末尾に脚注がつき、作品を裏打ちするように、巻末に編者前山光則氏の「淵上毛錢小伝」がくる。七〇年代に国文社から出た?巻本『淵上毛錢全集』以後、はじめての毛錢詩集である。
「小伝」を読めば、毛錢という詩人の、天衣無縫ともいうべき無頼、三十五歳の死に至るまで十五年間のカリエスで寝たきりの生の酷薄さ、それらはみえすぎるほどみえる。だが、毛錢の詩の真骨頂は、そのような伝記的事実を捨て去ったところにあるのだ。
 自閉的になりがちな対象を扱いながら、毛錢の詩はつねに、言葉の底に開放感がある。「ぼくが/死んでからでも/十二時がきたら十二/鳴るのかい/苦労するなあ/まあいいや/しっかり鳴って/おくれ」(「柱時計」)この健康なユーモア。これが毛錢詩の「素」なのである。