現代詩は抒情の否定といわれることがある。本当に、そうかな。これは、安易な感傷に流れる詩作への戒めであって、やはり詩の根底は抒情だと思う。現代詩人たちも、ひょっとしたら存分に叙情詩を書きたいと思うことがないだろうか。私なら、ある。
 時折、こういう思いに駆られていたところ、「詩は抒情よ」と言いたくなるような詩集に出会った。しかも、上等の抒情である。日ごろは口にしない詩の原点に連れ戻される。
『淵上毛錢詩集』を手にして、とても懐かしく、うれしく思った。実は、わが十代の終り頃、図書館で日本詩人全集を読み、好きな詩をノートに書き写した。その時、毛錢の詩を知った。そして、長い間忘れていた。
 変色したノートを出してみると、『猫柳』という題の詩を写していた。「猫柳の/ねるの玉を/握りしめて/小径に/屈み込んでしまった/このまま/このまま/日が暮れなければいい」。あっと思った。私のペンネームは、子ども時代の原風景である貧弱な一株の猫柳からつけたものだったからだ。
 この本は、詩のことだけでなく多くのことを改めて考えさせてくれた。編者の前山光則氏は散文系の方である。だから逆に、詩と詩人を深いところから温かに甦らせることができたのかもしれない。詩を読むよろこびを久々に贈られた気がする。