私にとってこの本の面白さは、キリスト教がヨーロッパに与えた根底的で巨大な影響について、日本との比較で明らかにしてみせてくれたことにある。ヨーロッパを読むことは同時に、日本を読むことなのである。
 ヨーロッパが現在のヨーロッパになったのは、キリスト教の浸透以後のことであり、それ以前のヨーロッパ、つまり十、十一世紀以前のヨーロッパは今の我々と同じであったというように阿部は述べている。つまり今の日本は一千年前のヨーロッパだと言うのである。阿部はそのことをさまざまな角度からとらえて行くのだが、この認識には目を洗われたような新鮮な驚きがあった。たとえばこんな箇所がある。見知らぬ者どうしが団体を組んだ場合、その会の幹事の決め方は日本ではまずくじ引きかジャンケンである。ヨーロッパでは決してそうはならない。必ず誰かが自発的に手をあげる。この違いについて阿部は、日本人は日常生活であらゆる機会にこのようなかたちで神判=神の意志(呪術、迷信などを含む)に頼るのだが、なぜこうなるかと言えば聖と俗、大宇宙と小宇宙、死後と現世といったものの境界があいまいなためだというふうに説明する。ヨーロッパにおいてこの境界を明確に分離したのがキリスト教であった。
 この点に関連してさらに二つの点で日本はキリスト教と無縁であった。日本には無償の贈与という考え方が現実に根付いていないという点が一つ。「タダより高いものはない」という互酬性の論理が生きて力をふるっている。ヨーロッパにおいてはその相互贈与の慣行のなかにキリスト教によって無償の贈与という観念が持ち込まれたとき、大きな転換点を迎えた。もう一つは個人という観念が現実に根付いていないという点で。
 第一のポイントについて阿部の主張はおおよそこうなる。それまでの習いでは、ヨーロッパにおいてもモノを贈られたら必ずモノでお返しをしなくてはならなかった。この互酬関係をキリスト教が壊した。教会はモノを贈られても現世では返さない。天国(死後の世界)で返すという回路をつけた。これは正確には相互贈与の慣習を壊したというよりも、その習慣が成立する時間・空間を現世から天国にまで拡張して、一元化したことを意味した──このことはさらに二つの宇宙、家を中心とした世界(世間)である小宇宙とその外に広がる大宇宙を、キリスト教が一元化したことをも告げていた──。また、天国(地獄)という観念を持ち込むことによって、現世の生の世界と死後の世界を分離した。現世では一度死んだら、死にきりという考え方はキリスト教が入ってきて以後に生まれた。そうしておいて死後の幸福は、生前の善行(教会への贈与である寄進を主とする)いかんにかかっているという考え方を生み出して行く。善行を積むことが天国への切符になるという発 想を断ち切るにはルターの登場を待たねばならなかった。ルターは人間が救われるか否かは生前の善行とはまるで関係がない、救いにかかわるのは信仰だけだと主張した。
 個人という観念についてはこう述べられている。日本人とヨーロッパ人の決定的に違う点は罪の意識の問題である。阿部は罪の意識が出てきたということと個人の形成とは深い関係にあること。具体的に言えば、キリスト教の権力によって、成人男女全員が罪の告解というものが強制されたこと、それによってヨーロッパの人は自分が自分(の罪)について語らざるを得なくなり、そかも告解された罪はその個人が自己の責任として引き受けなければならなくなったこと、このことが重要な契機になったと指摘している。キリスト教は告解制度が作られたときとほぼ並行して神判に関与するのをやめた。これに対して日本では罪の意識はいまも、世間という現世共同体との関係のなかでしか存在しないのである。日本人のほぼ全員が世間の中で生きているゆえに、社会を構成する個人としてよりも、自己決定を避け、世間に対して受け身にふるまうのである。なるほど、だからくじ引きをしたりジャンケンをしたりするのか!
 この本は一九八三年から十年間にわたる連続講演の記録で、読みながら私はしばしばキリスト教の根付かなかった国に生まれた幸と不幸をこもごも味わったのである。