書評

外国航路石炭夫日記

外国航路 石炭夫 大恐慌 最底辺 日記 石風社 広野八郎 プロレタリア 労働者 葉山嘉樹
A5判並製376頁
978-4-88344-175-4
定価:本体価格2800円+税
2009/06/15発行
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外国航路石炭夫日記
zeikomi
¥0円


世界恐慌下を最底辺で生きる

葉山嘉樹「これはきみの傑作だ。たいせつにとっておきたまい」。


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外国航路石炭夫日記
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1928年(昭和3)から4年にわたり、インド/欧州航路の石炭夫として大恐慌下を生き抜いたひとりの労働者が、華氏140度の船底で最底辺の世界を克明に記した記録。葉山嘉樹が「これはきみの傑作だ。大切にとっておきたまい」と評した、プロレタリア文学、もうひとつの金字塔。

書評

「青春の碑」の労働日記

荒俣 宏
作家

『外国航路石炭夫日記』を読んで、じつに楽しくおもしろかった、と感想を述べれば、不謹慎のそしりを免れぬかもしれない。でも、非常に興味ぶかい内容なのである。本書の副題、「世界恐慌下を最低辺で生きる」というコピーを読むかぎり、残虐ホラー小説のような小林多喜二の『蟹工船』や、外国映画みたいにパワフルな葉山嘉樹の『海に生くる人々』といった暗黒のプロレタリア文学を連想しがちである。実際、この日記には冒頭から、耐え難いほど激しい船酔い、船底で缶(かま)に石炭をくべつづける労働の苦痛、陸へ上がれば女郎屋と酒屋で有り金を使い果たし、高利の借金のみが残る不毛な日常を、描いてはいる。しかし、そうした過酷な労働実態を告発するだけでなく、外国船で東南アジアからフランス、ベルギーなど西欧諸国までを巡る海外見聞体験が、ことのほかおもしろいのだ。じつは著者、広野八郎は、石炭夫見習いとはいえ養成所を経て日本郵船に採用された社員であり、航海中に勉強する本を持参したり、人気作家だった葉山嘉樹の家を直に訪問するほどの熱意ある人物だった。
 その広野が、インドのカルカッタでは、難破船の乗客を救助し、インド人たちの大げさな感謝の仕草を観察したり、フランスのマルセイユでは男女の痴態を扱ったおぞましい映画を見せる「店」の下品さに辟易し、またアントワープでは、たまたま開催中の万博を見物、日本館の展示を見て、雑貨商店の品揃えと同程度の粗製品にがっかりする。この日本館では、振袖の娘がサービスする茶だけが人気であったとも書く。にもかかわらず、実家では家族が送金を待って居ることを重々承知の上で、港に着けば性欲に屈して女郎屋へ行ってしまう自分。日本一大きな海員組合に属しながら、会社のいいなりに動く組織と自分。それらを、上質の青春小説のように記述した日記なのである。一人の下級船員が体験した魂の修行時代、その舞台が国際世界を包む規模と深遠さとを備えていた事実に、驚くばかりだった。

過酷な労働克明に描く 『外国航路石炭夫日記』が復刊

白山誠

『外国航路石炭夫日記』は、約30年ぶりに復刊された本だ。小林多喜二の小説「蟹工船」(1929年発表)と同時代に、下級船員が体験した過酷な労働や、船員を食い物にする船幹部の姿が克明に描かれており、近年注目を浴びるこの小説の世界を思い起こさせる。

 著者は広野八郎さん(1907-96年)。長崎県萱瀬市(現・大村市)の出身で、1928年、欧州航路の貨物船、貨客船に乗務した。その頃、プロレタリア文学作家の葉山嘉樹(福岡県出身)と知り合い、同人誌「文芸戦線」に参加。船員のほか、戦後にかけて炭鉱や工事現場で働いた体験記などを書き続けた。
『日記』は28年11月から、船員をやめた直後の31年6月まで続く。広野さんは、汽船の石炭庫から火炉まで石炭を運んだり、かまの中の燃えかすを取り除いたりする作業に従事。欧州航路の貨客船では、室温が約60度(カ氏140度)にも達する所で働いた。当番は昼と夜に4時間ずつ。しかし、それを終えても様々な仕事を命じられ、休息する間はない過酷な日々だったという。
〈蒸し風呂同然だ。二〇分とはいっていたら、息がとまりそうだ。(中略)あまりのくるしさに、私たちはぶっ倒れそうになって、倒れぬうちにどうにかデッキにはってでた〉
 同僚が倒れる場面にも遭遇した。〈川野は、キイーッと言う声とともに歯を食いしばって仰向けにふんぞり返った。両股から、すね、両腕は、まるで石のようにかたく筋がつっている〉
 卒倒したり、病気にかかったりして体調を崩しても休めない。上司の火夫長からどなられ、仕事を強いられた。閉じられた職場で火夫長やその取り巻きは下級船員を酷使し、時には暴力もふるった。
 この火夫長は、部下を相手に月2割の高利で金貸しもしていた。給料はすべて差し押さえられ、さらに借金を重ね、船員をやめるにやめられぬ者も多数いたようだ。本書解説によると、当時の日本の船舶には職長による「高利貸し制度」が、普通にあったようだ。
「蟹工船」では、労働者は団結して抵抗するが、現実はそうはならなかった。その頃は世界恐慌の中で、船員らは不平を漏らしても、職を失うのを恐れ、ひどい扱いにますます甘んじるようになった。
〈船内のかれらはなかなか動かない。しっかり現在の仕事にかじりついて、はなれまいと必死である。海上労働のあらゆる不合理をなげきながら、かれらは職を失うことをおそれてかじりついているのだ〉
 不当な待遇に耐えて、いくら働いても悲惨な状態から脱出できない。『日記』の記述から、ワーキングプアとも言われる現代の問題が浮かんでくるようだ。
 最初の刊行は78年。タイトルは『華氏一四〇度の船底から 外国航路の下級船員日記』(太平出版社)だった。今回の復刊にあたり、船員用語の注釈などをつけた。

「佐賀新聞」有明抄

園田寛

 ある会合で海外によく出掛けるという人と、自殺者数の話題になった。「ブラジルはもっと失業率も高く、貧困家庭も多いけど自殺することはない」。この11年間、日本の自殺者は毎年3万人を超す。率にすると先進国の中ではトップクラスという。
 自殺の理由はそれぞれで一概には言えないが、日本人の生き抜こうとする力が弱まっているのではないか。高度成長時代は、高校、大学、就職とベルトコンベヤーに乗れば、生涯が保障された。ところがコンベヤーから振り落とされると、自分の全人格が否定されたと思い、悲観的になりすぎてしまう。
 佐賀市出身のプロレタリア文学作家、故広野八郎さんの『外国航路石炭夫日記』が復刻された。1928(昭和3)年から4年間、インド、欧州に向かう大型貨物船の石炭夫体験を書いている。悲惨な状況ながらも広野さんの生命力はたくましい。
 華氏140度(摂氏60度)の船底で石炭をたく仕事は苦難を極めた。火夫長の機嫌を損ねればさらにきつい労働を命ぜられる。それでも広野さんはへこたれず、マルセイユやナポリの街を楽しむ余裕も見せる。不払い賃金の支払いを要求し直談判も行った。
 広野さんは「海に生くる人々」で知られるプロレタリア作家葉山嘉樹の門をたたき、生涯、最底辺の労働者の世界を描き続けた。福岡市に住む広野さんの長男でイラストレーターの司さんは、日記の文字に乱れがない父の文学に対する思いの強さを感じたという。
 当時は世界大恐慌が起こり、日本でも労働争議が増えた。今の時代とよく似ている。体はくたくたになりながらも、冷静な目で観察し続けた広野さんの日記には、これからの時代を生き抜くヒントがある。

目次紹介- 抜粋 -

第1章 出航(1928年11月-12月)
第2章 離散(1929年1月-6月)
第3章 暗雲(1929年7月-12月)
第4章 転船(1930年1月-4月)
第5章 血潮(1930年4月-6月)
第6章 搾取(1930年7月-9月)
第7章 激浪(1930年10月-12月)
第8章 抵抗(1931年1月-2月)
第9章 航跡(1931年3月-6月)
 旧版あとがき、解説、船舶・海員用語、著者年譜

広野八郎

ひろの・はちろう

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広野八郎
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1907年(明40)長崎県東彼杵郡萱瀬村(現在長崎県大村市)生まれ。高等小学校を出て農業を手伝い、木炭を運ぶ馬方を始める。
1926年(大正15)原因不明の熱病にかかり馬方をやめ長崎電鉄の車掌となり、組合活動に加わる。翌年退職。1928年日本海員掖済会大阪海員養成所に入る。10月に卒業し、日本郵船インド(カルカッタ)航路貨物船の秋田丸に火夫見習いとして乗船。11月より海上労働日記をつけ始める。1929年石炭夫に昇格。12月、東京高円寺に葉山嘉樹を訪ねる。1930年3月、「文芸戦線」に田中逸雄の筆名で詩やレポートを寄稿する。……その後、土木・建設作業員、炭坑夫などの労働を46年間続けた。その間プロレタリア文学運動に参加。小説、詩、記録などを数多く発表した。
著書に『葉山嘉樹・私史』(たいまつ社)、『地むしの唄』(青磁社)、『華氏一四〇度の船底から 外国航路の下級船員日記』上下巻(太平出版社)、『昭和三方人生』(弦書房)を刊行。1996年11月、福岡市で死去。享年89歳。



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