書評

書評アリ
更新日▲
 (76件中) 1〜10件目
医者、用水路を拓く 中村哲 アフガニスタン アフガン らい ハンセン ペシャワール 石風社 中村 国際 NGO 用水路 井戸 イスラム
booktitle
医者、用水路を拓く
zeikomi
¥0円
医者、用水路を拓く

「百の診療所より1本の用水路を!」


白衣を脱ぎ、メスを重機のレバーに代え、大地の医者となる。──パキスタン・アフガニスタンで1984年から診療を続ける医者が、戦乱と大旱魃の中、1500本の井戸を掘り、13キロの用水路を拓(ひら)く。「国際社会」という虚構に惑わされず、真に世界の実相を読み解くために記された渾身の報告。

書評

アフガンで苦闘、ついに緑が蘇る

志葉 玲
ジャーナリスト

 残念ながら、現在ほど「国際貢献」という言葉が欺瞞を伴って使われる時は無かっただろう。二十年余りもアフガニスタン支援に携わってきた著者の中村医師は、本書で繰り返し訴える。「殺しながら救う援助はない」「自衛隊の派遣は有害無益。大旱魃で飢える人々を救うことこそ必要だ」と。米軍がモスクや学校への「誤爆」を続ける一方、懐柔策としての援助を行うことで、本来の援助団体までも、現地の人々から不審の目を向けられ、襲撃される。筆者自身、イラクでの取材中に「自衛隊を送った日本は敵だ!」と罵声を浴び、地元の若者達に銃を突きつけられたことがあるが、同様の問題は、アフガニスタンでもやはり起きていたのだ。
 だが中村医師は卓上の議論ではなく、その行動で欺瞞を打ち破り、現地の人々の信頼をかちとっていく。それが本書の主題である用水路建設だ。地球温暖化の影響で、急速に失われた水を、農地に戻す。「百の診療所よりも一本の用水路を」と、全てを捨てて奮闘する著者の姿にはただただ敬服するしかない。
 工事は決して容易なものではなく、大雨や土石流、水路の決壊など数々の困難に直面する。その上、中村医師を含め作業チームは皆、大規模工事の経験は無く、日本でのような資金・物量に頼る工法も使えない。自然に翻弄され、無い無い尽くしの中、悪戦苦闘する中村医師らは、現地の人々の知恵や技術、そして日本の伝統の治水技術に活路を見出していく。そして、ついには荒廃した大地に見事、緑を蘇らせるのだ。
 本書を読む人は、真の「国際貢献」とは何か、いかに平和を創り出すのか、考えさせられるだろう。絶望に抗い、未来を切り開く勇気を与えられるだろう。そして、自然の偉大さと恐ろしさ、地球環境の破壊が何をもたらすかを知るだろう。これは人間・中村哲の物語であるだけではない。迷走する日本社会に活を入れる好著なのである。

人間として何をなすか

上野 朱
古書店主

「ドクター・サーブ」こと、中村哲医師。パキスタン北西部のペシャワールを拠点とした医療活動や、『医者井戸を掘る』ほか多くの著書でも知られる人物だが、その中村医師がいまだ紛争絶えぬアフガンで、今度は井戸ではなく全長十三キロの灌漑用水路(第一期工事として)を切り拓くという難事業に挑んだ「我々の武器なき戦」の記録である。
 なぜ医者が井戸や用水路を掘るのかについて中村医師の答えは根源的且つ明快だ。安全な飲み水が確保され、灌漑で農地が甦って食糧が自給できるようになれば病気は減る、と。そこには「○○国を民主化する」や「わが国の援助は感謝されている」といった「……してやる」式のおごりや押しつけは微塵もない。
 その地には何が必要か、人々が真に求めるものはなにかを見極め、困難に臨んで「気力ヲ以テ見レバ竹槍」と、自ら矢面に立って実行する肝力溢れる人間の姿は、正しい意味での任侠道を見る思いだ。どこの世界に米軍ヘリの機銃弾の下や濁流寄せる中洲に立ち、ユンボで巨石を運んでいる医者があろうか。
 当然の事ながら中村医師は治水工事の専門家ではなく、現地には機材や資材も不足している。あるのは二十余年にわたる活動で得た信頼と、その信頼の下に集まる人材である。その主体はなんといってもアフガン人自身。そうでなければ支援もひと時のブームにすぎないとの指摘には、耳の痛い向きも多かろう。
 造っては崩れ、崩れては補強しながら水路は伸びていく。工事の要衝に、筑後川・山田堰(せき)の知恵が活かされているのも嬉しい。人の苦労を面白いといっては申し訳ないが、読んでいる自分まで、シャベルのひとつも握っているような気にさせられたのも事実である。
 工期四年、ついに命の水は貯水池に到達する。歓喜して水と戯れる子どもたちの群の中にドクター・サーブは何を探したか。これは読者のためにとっておこうと思う。「地の塩」を実践する人には頭を垂れるしかない。本書を貫くのは、「日本人として」ではなく「人間として」なすべきことは何か、なのだ。

素人が治水工事6年半の記録

池田香代子
翻訳家

 アフガニスタンで二十年以上医療に携わっている医師が、気候変動に伴う大旱魃に直面し、広大な土漠の一大灌漑事業に挑んだ。その六年半の記録である。開始は二〇〇一年九月。その翌月からこの国は、米国を襲った9.11テロへの「報復」として、攻撃にさらされることになる。
 そんな戦争やいわゆる復興支援を含む国際政治を、著者は「虚構」と呼ぶ。そこには軽蔑と絶望、そして決意がこもっている。なぜなら、著者の前には、二千万国民の半数が生きるすべを失った現実が広がっているのだから。日本の振る舞いには気疎さが募るばかりだ。
 巨大な暴れ川と過酷な気象を相手に、ずぶの素人が治水工事にあたる。資金は日本からの浄財のみ。機材も資材もごく限られている。著者は、出身地の九州各地を歩いて江戸時代の治水を研究し、現代アフガンにふさわしい技法を考案していく。現地が保全できない現代工法は採るべきではないとの考え方だ。非業の死を遂げた先人の多いこともさらりと書きしるす。水は諍(いさか)いの種だった。
 著者も、治水を巡る対立の矢面に立つが、長年培った交渉術で味方を増やしていく。著者のまなざしには、石や土を相手の伝統的な技量をごく自然にもちあわせ、愚直なまでに信念を貫くアフガン農民への尊敬の念と、弱く愚かな人間への、ちっとやそっとでは断罪に走らない懐の深さとユーモアが感じられる。
「人を信ずるとは、いくぶん博打に似て」と達観する著者は、激高した老人に投げつけられる土埃にまみれながら、「おじちゃん、落ち着け! 話せばわかる」と声をかけるのだ。
 去る者、終始離れぬ者。あるときは敵対し、またあるときは協力を惜しまぬ者。さまざまな人間たちのただなかに、著者は命がけで立っている。その姿は著者の祖父、玉井金五郎をほうふつとさせる。この名親分を小説「花と龍」に活写した火野葦平は著者の叔父。著者には、弱きを助けるという本来の任侠の血が流れている。
 決壊また決壊、予期せぬ出水。重責を引き受けての難しい決断。過酷な労働。人はここまで捨て身になれるのか。土木工事の顛末を夢中で読んだのは初めてだ。

旱魃に立ち向かう驚くべき行動力

養老孟司

 著者はもともと医師である。二度ほど、お目にかかったことがある。特別な人とは思えない。いわゆる偉丈夫ではない。
 最初にお会いしたとき、なぜアフガニスタンに行ったのか、教えてくれた。モンシロチョウの起源が、あのあたりにあると考えたという。その問題を探りたかった。自然が好きな人なのである。
 そのまま、診療所を開く破目になってしまった。診療所は繁盛したが、現地の事情を理解するにつけて、なんとかしなければと思うようになった。アフガン難民を、ほとんどの人は政治難民だと思っている。タリバンのせいじゃないか。それは違う。旱魃による難民なのである。二十五年間旱魃が続き、もはや耕作不能の畑が増えた。そのための難民が、ついに百万人の規模に達した。それを放置して、個々人の医療だけにかかわっているわけに行かない。
 海抜四千メートルほどの山には、もはや万年雪はない。だから川も干上がる。しかし七千メートル級の山に発する流れは、いまも水を満々とたたえて流れてくる。そこから水を引けばいい。水を引くといっても、医者の自分がどうすればいいのか。
 驚くべき人である。寄付で資金を集め、故郷の九州の堰(せき)を見て歩く。現代最先端の土木技術など、戦時下のアフガンで使えるはずもない。江戸時代の技術がいちばん参考になりましたよ、と笑う。必要とあらば、自分でブルトーザーを運転する。この用水路がついに完成し、数千町歩の畑に水が戻る。そのいきさつがこの一冊の書物になった。
 叙述が面白いも、面白くないもない。ただひたすら感動する。よくやりましたね。そういうしかない。菊池寛の「青の洞門」(『恩讐の彼方に』)を思い出す。必要とあらば、それをする。義を見てせざるは勇なきなり、とまた古い言葉を思い出す。
 だから書評もごちゃごちゃいいたくない。こういうことは、本来言葉ではない。いまは言葉の時代で、言葉を変えれば世界が変わる。皆がそう信じているらしい。教育基本法を変えれば、教育が変わる。憲法を変えれば、日本が変わる。法律もおまじないも、要するに言葉である。「おまじない」を信じる時代になった。
 外務省は危険地域として、アフガンへの渡航を控えるようにという。著者はアフガンに行きませんか、と私を誘う。危険どころじゃない、現地の人が守ってくれますよ。そりゃそうだろうと思う。唯一の危険は、用水路現場を米軍機が機銃掃射することである。アフガンでの戦費はすでに三百億ドルに達する。その費用を民生用に当てたら、アフガンにはとうに平和が戻っている。米国に擁立されているカルザイ大統領ですら、そう述べた。著者はそう書く。
 国際貢献という言葉を聞くたびに、なにか気恥ずかしい思いがあった。その理由がわかった。国際貢献と言葉でいうときに、ここまでやる意欲と行動力の裏づけがあるか。国を代表する政治家と官僚に、とくにそう思っていただきたい。それが国家の品格を生む。
 同時に思う。やろうと思えば、ここまでできる。なぜ自分はやらないのか。やっぱり死ぬまで、自分のできることを、もっとやらねばなるまい。この本は人をそう鼓舞する。若い人に読んでもらいたい。いや、できるだけ大勢の人に読んで欲しい。切にそう思う。

「国際協力」在り方示す

佐高信
評論家

「外国人によってアフガニスタンが荒らされた」という思いは、官民を問わず、党派を超えてアフガニスタンに広がっているという。
 そんな中で、井戸を掘り、用水路を拓く著者の試みは例外的に支持を受けている。それはなぜなのか? まさにいま問題になっているテロ対策特別措置法が国会で審議されていた時、参考人として招かれた著者は「現地の対日感情は非常にいいのに、自衛隊が派遣されると、これまで築いた信頼関係が崩れる」と強調し、自衛隊派遣は有害無益で、飢餓状態の解消こそが最大の課題だと訴えた。
 しかし、この発言に議場は騒然となり、司会役の自民党の衆院議員は取り消しを要求する始末だった。時計の針を六年前の著者の発言時点に戻せば日本はどこでまちがったかが明らかになる。
 その意味でも、この本は実に「タイムリー」な本である。
 自衛隊派遣は著者たちのようなNGOの活動を危険に陥れるだけであり、まさに「有害無益」なのだ。「給油活動」なるものもその延長線上でしかとらえられないことは言うまでもない。
 評者は著者を〝歩く日本国憲法〟と言っているが、平和憲法の下でこそ「どんな山奥に行っても、日本人であることは一つの安全保障であった」という著者の指摘は成り立つのである。
 喜ばれないものを派遣して、喜ばれているものを危うくすることが「国際協力」であるはずがない。医師である著者が「百の診療所よりも一本の用水路」を合言葉に現地で奮闘する姿は、これこそが国境を越えた協力の姿だということを示す。
 一つ一つ地に着いた言葉でつづられる「報告」に読者は粛然とさせられると思うが、著者が病気で二男を失う場面には、思わず、神はどうしてそんな試練を著者に与えるのかと叫ばずにはいられなかった。幼い子を亡くして著者は、空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちがいっそう分かるようになったという。

先ずパンと水を確保せよ!

吉村慎太郎

 政情不安と厳しい自然環境で知られ、日本では省みられることの少なかったアフガニスタンの大地に、誰が用水路建設計画を思いつくだろう。いや、思いついたとしてもその実行と完成までに多くの障害が立ちはだかることは容易に想像できる。しかし、この計画を実現したのが、1984年以来特にアフガン難民救済の医療事業を行ってきた中村哲医師率いる「ペシャワール会」である。
 何故、医師が治水事業に従事したのか? との素朴な疑問が湧くかもしれない。「飢餓と渇水の前に医療人は無力で、辛い思いをする。清潔な飲料水と十分な農業生産があれば、病の多くは防ぎ得るものであった」とは、こうした疑問を直ちに解消してくれる。著者とペシャワール会スタッフたちは現地アフガン人を含めて、「百の診療所より一本の用水路を!」を合言葉に立ち上がった。本書は、主にアフガニスタン東部クナール川を利用した用水路計画工事が着工される2001年9月から、第一期工事(マルワリード用水路、総距離一三キロメートル)が終わる2007年4月までの約5年半に及ぶ活動記録である。
 この計画の開始はもちろん、「米国同時多発テロ」事件と重なる。アフガニスタンは、米国ブッシュ政権によりその実行犯と目された「アル・カイーダ」と緊密な関係を持つタリバーン政権支配の国として、その一ヵ月後に激しい空爆に曝された。日本を含め、国際的な「反テロ戦争」の大合唱とその後の戦争状態や不安定な政治情勢が続く中、しかしこの計画は進められた。障害はそれだけに止まらない。素人集団による土木技術の限界、約10億円にも達する工事資金調達の難しさ、襲い来る洪水、土石流、地盤沈下や旱魃といった自然の猛威、「復興支援ラッシュ」による物価高騰、工事や土地所有をめぐる現地人との争いなども、計画推進を阻んだ。どれひとつ取っても、決して解決は容易ではない。
 この難工事も「誰もやりたがらぬことを為せ」との基本方針に加え、「アフガン問題は先ずパンと水の問題である」との現実認識や政治的中立の堅持、それまでに一五〇〇本もの井戸を掘ったことに見られる著者の指導力と協力者のエネルギッシュな活動、現地人との粘り強い対話を通じて漸く完成を見た。それだけなら、異国での苦労話に過ぎないが、現実の不条理や虚飾を目の当たりにした著者の言葉は、各々異なる文脈で語られながら、「錯覚」に陥った世界の実態を鋭く衝いている。「平和とは決して人間同士だけの問題ではなく、自然との関わり方に深く依拠している」、「『デモクラシー』とはこの程度のもので、所詮、コップの中の嵐なのだ」、「『ピンポイント攻撃』の実態は、無差別爆撃であった」など。
 今から七〇年前に同じアフガニスタンで農業指導に奔走した尾崎三雄(『日本人が見た‘30年代のアフガン』石風社)は著者の先例となる日本人だ。さらに医療活動の傍ら、カメラを手に発展途上国六〇ヵ国以上を旅した山本敏晴『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ──望まれる国際協力の形』(白水社)も現実と葛藤する真摯な日本人の基本姿勢を教えてくれる。

  • 377頁 四六判上製
  • 978-4-88344-155-6
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/11発行
宮原社宅_cover_web
booktitle
三池炭鉱 宮原社宅の少年
zeikomi
¥0円
三池炭鉱 宮原社宅の少年

booktitle
三池炭鉱 宮原社宅の少年
zeikomi
¥0円

三池争議の吹き荒れた昭和三〇年代の大牟田   炭鉱社宅での日々を遊び盛りの少年の眼を通して生き生きと描く   ///////////////////////////////////////////// …

書評

のどかな暮らしの先に深い意味

斎藤美奈子
文芸評論家

 福岡県大牟田市宮原町二丁目。三井三池炭鉱で働く人々が住む「宮原社宅」があった場所である。
 高さ2㍍ほどのブロック塀に囲まれた社宅に住むのは200世帯ほど。塀の外を社宅の人々は「外(がい)」と呼んだ。長屋式の社宅が並ぶ一角には共同風呂があり、隣の講堂では映画が上映された。
 著者は敗戦の翌年、この宮原社宅で生まれ、高校を出るまでここで育った。ベビーブームの走りの時代で、小学校の児童数は2千人を超えていた。
 そんな社宅での子どもの暮らしを本書は克明に描き出す。生活排水が流れ込む川でフナやザリガニをとり、台車を暴走させ、馬跳びや馬乗りやコマやパチ(メンコ)やラムネン(ビー)玉に熱狂し……。が、のどかな自分史に見えた本書に、じつは深い意味が込められていたことを、私たちは終盤近くで知るのである。
 東京の大学に進学後、知り合った女学生は、自分も福岡県大牟田市宮原町二丁目の出身だといった。ただし、彼女が住んでいたのは生け垣に囲まれたお屋敷のような「職員住宅」。
 同じ住所に住んでいたのに互いを知らない。〈職員住宅の人たちからすれば、私たちの方が「外」と呼ばれる存在だったのだ〉〈私たちは分断され閉鎖された状況を、当たり前のように受け入れながら育ってきていたのだ〉
 三池炭鉱はかつて囚人労働や強制労働が行われた炭鉱でもあり、また三池闘争(1960年)の舞台としても知られている。
 闘争の最中、昇進を打診された父に農中少年はいった。〈お父(と)さんが係り員になって、給料が上がることは嬉しか。ばってんそれは、三池労組を出るということやろう〉〈それは、いやばい。考えられん〉
 三池炭鉱宮原坑跡は昨年、ユネスコ世界文化遺産のひとつに登録された。そのすぐ側にあった暮らしがいまはない。クラッとするような感覚に襲われる。(朝日新聞2016年8月14日)

  • 四六判上製 256頁
  • ISBN978-4-88344-265-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2016/06/10発行
藁塚放浪記

北は津軽の「ニオハセ」から宮城の「ホンニョ」飛騨の「ワラニゴ」宇和の「ワラグロ」出雲の「ヨズクハデ」、南は薩摩の「ワラコヅン」、はては韓国、アフガンまで、秋のたんぼをかけめぐり、藁積みの百変化を追った30年の旅の記録。
藁塚(わらづか)=稲刈りを終え、乾燥させた稲束を脱穀したあと(または脱穀の前に)、藁を積み上げられたもの。

書評

「最後の日本人」たちが生んだ米作り文化の貴重な記録

与那原恵
ノンフィクションライター

 稲刈りを終えた秋のたんぼに、脱穀したあとの藁の束が積み上げられている。これを「藁塚」というそうだ。藁塚は地方それぞれに呼び方がある。ボウガケ(青森)、ワラニゴ(岐阜)、マルボンサン(京都)、シコホヅミ(佐賀)などなど。地方のぬくもりが響いてくるような呼称だ。
 著者は、この藁塚を追って日本の北から南、さらには韓国、中国まで三十年にわたって歩き、記録した。資料を探しだし、土地の人々の証言を得て、貴重な一冊となって結実した。
 まず各地の藁塚、その個性的な造形に驚かされる。藁の干し方も、その風土によってさまざまだ。藁塚の形には大別して二種類あって、ひとつは中心に棒杭を突き立て芯にして積み上げるもの。もうひとつは杭を用いないものだ。
 宮城県のホンニョは、棒杭を中心にらせん状に藁を巻く。岡山県のイナグロは、小さな小屋のように藁を積み上げる。大分県のトーシャクは切りそろえた稲束をぐるりと見せ、その上に傘のような稲と天に伸びる頭がある。
 秋のはかない日差しの中で黄金色に輝く藁塚の立つ姿は、ほんとうに美しい。どれも、ただ稲藁を乾燥させるという目的だけではない、そこに生きる人たちの実りの感謝と喜びの感情があたたかく伝わってくる。
〈藁塚は、野に積まれた庶民の手の記憶。それらは決して芸術作品ではないが、米作りを中心とした祖先の営みや、民族の記憶をも彷彿とさせる〉
 著者は藁塚を世界遺産ならぬ「世間遺産」だという。著者の作品は、左官職人の卓越した技術である「鏝絵」を紹介した本で目にしている。「手の仕事」への深い尊敬と愛情が著者の一貫したまなざしである。
 大陸から伝わったという「練塀」という泥壁の技術がある。泥に砂や藁スサを加え水でよく練って壁にしていくものだ。よく乾燥させた藁は、壁に用いられたばかりでなく、俵になり、ムシロになり、草履になり、肥料になり、畳の芯にもなった。米作りの労苦の果てに得た「宝」を有効に使う手だてがあったのである。
 しかし現在では稲刈り機が藁を切り刻み田に捨て、米は農協のライスセンターで強制乾燥させられるという。そういえば、本書にあるような藁塚の光景を見なくなって久しい。著者も悲痛な筆致で〈無償の行為を生み続けた「最後の日本人」たちが消えていく過程を記録したものだ〉と書いている。
「米」をとりまく文化を私たちは見捨てた。厳しい自然の中で育まれた人間の営みを忘れ去ろうとしている。たんぼは今、深い雪に覆われているだろう。どうか元気で春を迎えてほしい。

30年にわたり全国を取材

井口幸久

 藁塚とは、ワラを乾燥させるために積み上げた塊のこと。藁にお、藁ぐろ、藁小積などともいう。さらに「ニオハセ」(津軽)、「ワラグロ」(宇和)、「ワラコヅン」(薩摩)など、地域によって呼び方も形も違う。本書は、日本全国を歩き、藁塚を取材した記録である。
 仮に、ワラの積み方が地域によって異なっていることを知っていても、それだけでは史料としての価値はない。藤田さんは三十年にわたり全国の藁塚、数千枚を撮影した。途方もない「無駄」が一冊の本のまとまったとき、大陸の稲作文化と日本のそれとを比較検証する有力な史料になったのである。
 藁塚は1中心に棒杭を突き立て、その周りに積み上げるものと2棒杭を用いないものとに大別される。さらに、気象条件などを加味して大小、高低、形状などに多様な変化が見られる。その形は人々が「手の記憶」として代々受け継いできたものであり、ほとんど変化していないと考えられる。藁塚は、朝鮮半島、中国大陸からインドにも見られ、調査が進めば、稲作の広がりを系統的に調べることも可能であろう。
 藤田さんは、大分県別府市生まれ。「子供のころから図鑑類が好きで小遣いをためては買っていた」という。昆虫、植物に始まり、建築物などへと興味は広がっていった。別府の建物の写真を多数集め、近代和風建築の推移を示す本を出版するなど、その仕事の根底に「歩く、集める」がある。
 印鑑職人だった父の影響もあり、写真家としての仕事も「職人としての手仕事」が基軸となった。そうして取り組んだのが、左官だった。
「土蔵の材料や職人たちの歴史。無名の民の手が生み出したものへの愛着が強い」と藤田さんは言い、泥壁の材料であるワラへの関心が、藁塚につながっていった。
 今日、ワラを積む光景はこの国から消えつつある。農業の機械化とともに、コメを収穫した後のワラは、粉砕されてしまうからだ。本書は、食糧としてのコメだけにしか価値を見いだそうとしない近代文明への、無言の批判でもある。大分県別府市在住。五十五歳。

農民の〝手の記憶〟

「本を語る」

 ボウガケ、ワラニョ、サンカクニオ、ニョウ、マルボンサン、ヨズクハデ……。まだまだあるこれら呪文のような音はみな、同じある〝物体〟の呼び名だという。藁を乾燥させるために収穫後の田んぼに積み上げる「藁塚」。ところ変われば形状とともに名称も変わるそのさまを、日本中、アジアまでも歩き回って調べ上げたのが、写真家の藤田洋三さんだ。
「ずっとおもしろかったなあ」。撮り始めてかれこれ三十年の歳月を感慨深げに振り返る。「文化の根っこを掘り下げているという実感がありましたから。近代化によって断絶しなかった農民の〝手の記憶〟ですよね」
 脱穀後の藁は、巨大なフクロウや神社の社やテントや、いろんなものに見えるさまざまな形状に積み上げられる。しかも「何のために」と首をかしげたくなるくらい、一種の美学に基づいて。「景観条例なんてなくなって、農家はちゃんと景観つくってきたんだってね」
 美しさだけではない。藁塚のあるところ、藁の「用」がある。牛の飼料として、敷き藁として、また養蚕のカイコを飼う「蚕箔(さんぱく)」も藁でつくられる。泥に砂や藁を混ぜて練った土でつくる「練塀」の小屋も、農家とは切っても切れない関係にある。本書でもっともスリリングなのも、あるタイプの藁塚と練塀文化の地域分布が一致するという事実を考察したくだりだ。
「新羅系渡来人といわれる秦氏による技術伝承の跡ではないかと、まあ写真家が勝手なこと言ってるんですが。藁をめぐる営みが、昔はずっと一つながりだったはず」
 写真を学んだ学生時代、土門拳、木村伊兵衛らリアリズム写真の洗礼を受けた。人間の生を撮るその方法を、告発調ではなく、自身が「生きずりの写真」と呼ぶさりげないショットに見いだした。「日本の農村を〝懐かしく〟撮るのなんて簡単。そうではなく、暮らしの実相を撮りたかった。写真におけるリアリズムとは、という問いに、僕なりの卒業論文が書けたような気持ちです」

鏝絵探す旅での出合い

佐田尾信作

 十二年前の晩秋、記者は島根県温泉津町(現・大田市)の谷筋の集落、西田地区に立っていた。半円の弧を描く棚田に点在するピラミッド型の稲ハデ、「ヨズクハデ」の「できるまで」を撮ろうと通っていたのだ。
「ヨズク」とはフクロウ。四本の丸太で組まれた稲ハデに稲穂を架けた姿は、まさにフクロウ。普通のハデに比べて立体的で、耕地の狭いこの里の人々の生活の知恵。あのヨズクたちは今も、あの里で羽を休めているのだろうか。晩秋から初冬のころ、ふと思い出す。
 そのヨズクハデがこの本に載っている。日本列島各地から韓国、中国にまで足を延ばした「藁塚」「稲塚」の記録だ。乾燥させた稲束を脱穀後に積み上げた藁を「藁塚」「藁ぐろ」「藁小積」などと呼ぶ。もみの脱穀前に積み上げて干す稲穂は「稲塚」「稲ニオ」などと呼び、木に架け干しすると、「ハデ」などと呼ぶ。
 写真家でもある著者は左官職人のしっくい彫刻「鏝絵」を世に知らしめた人。同好の士たちと鏝絵を探す旅は藁塚や稲塚と出合う旅だった。
 しっくいの材料は石灰や藁。本書もおのずと、しっくいに筆が及び、石灰窯の痕跡などを探す「お石灰探偵団」まで登場させて笑わせる。しかし、読み進むと、やがて周防灘の祝島(山口県上関町)に残る練り塀にまでたどり着く。「『石灰と泥の技術史』というファインダーを携えながら歩いた藁塚の旅」。著者の旅の本質が理解できた。
 鏝絵でも知られる大分県宇佐市安心院町では、一九九九年から「全国藁こずみ大会」が開かれている。列島各地から出展する、いわば藁塚と稲塚のテーマパーク。第二回大会では西田のヨズクハデも招かれた。あのヨズクたちが九州まで羽ばたいたのか。物言わぬ藁塚が一層、いとおしく思えてきた。

収穫が終わった田んぼに林立するワラ塚が物語るグローバリズム

下川耿史
風俗史研究家

 注連縄(しめなわ)といえば、現在でも正月用品の定番の一つだが、これは青い頃に収穫したモチ米のワラで作られるそうだ。私は九州の水田地帯で育ったが、恥ずかしながらそのことを本書で初めて知った。
 恥ずかしいことがもう一つあって、取り入れが終わった後のワラを積み上げたもの、つまりワラ塚(私の田舎ではワラ坊主と称していた)は、私にとってはごくありふれた風景であり、全国どこへ行っても似たような形だと思い込んでいたが、その土地の気候風土や用途によって、形がまったく異なるという。いわれて見れば当たり前のことだが、思い込みというのは困ったものだと、あらためて反省した次第。
 ところで本書の魅力の1つは各地方に伝えられたワラ塚の形の面白さにある。この点は300枚に及ぶ写真によって楽しんでもらうしかないが、それぞれが風趣たっぷりで、私は北海道の「豆ニオ」、茨城県の「ワラコヅミ」や島根県の「ヨズクハデ」、大分県の「トーシャク」などの風景を見ながら、「一度はぜひとも実物を見たいものだ」と思った。
 もう1つの特徴は、たかがワラを積み上げただけのワラ塚が、古代朝鮮ばかりか中国や東南アジアとの結びつきを実証する、貴重な証拠だという指摘である。
 たとえばワラ塚は前に紹介したほかに、ニュウとかニオと呼ばれることが多いが、これは水銀の技術者といわれる丹生(ニュウ)一族と関わりがあるようだ。また呼び方は地方ごとに違っても、同じ工法で作られたワラ塚をたどって行くと、日本に漆喰壁の技法を伝えた新羅人の秦氏との関係が深いという。秦氏とはいうまでもなく、京都・太秦の広隆寺を作った一族で、機織りの元祖である。
 さらに大分県安心院町(現宇佐市)で行われた「藁こずみ大会」では、中国雲南省の農民がゲストとして招かれてワラ塚作りを披露したが、できあがったものは大分県や茨城県などで行われているものとそっくりなことが、写真で紹介されている。要するにワラ塚とは1500年以上前にこの国で実現していたグローバル化の生きた証というわけである。
 本書を読むと、日本人はグローバル化という名目で、よその国へ金もうけに出かけているが、実は1500年以上前のグローバル化の恩恵を今もって継承していることが実感される。
 現代のグローバル化は果たして1500年の生命力を持ちうるのだろうか?

  • 240頁 A5判変並製
  • 4-88344-130-X
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2005/12発行
この道一筋

昭和50年代から平成19年青春佐賀総体まで、その拳ひとつで親子以上の信頼を築きあげてきた指導者と生徒たちの、四半世紀に及ぶ情熱と激闘の記録。──リングに刻む子弟の絆。

書評

ボクシング、その心の強さ

岩田直仁
西日本新聞記者

 一九八七年、全国高校総体ボクシング大会が札幌市で開催された。注目選手はライトフライ級に続いてライト級制覇を狙う豊国学園(福岡県)の鬼塚勝也。準決勝でその夢を絶ち切ったのは、徳島の生徒だった。後に鬼塚はWBAスーパーフライ級王者に、徳島の川島郭志はWBCスーパーフライ級王者になる。高校ボクシング史に語り継がれる勝負である。
「二人とも学生時代から抜きん出た選手でした。でも、高校、大学でボクシングに青春を賭けたほとんどの選手は、大きな脚光を浴びることもなく、リングを去っていくんです」
 自らもそんな名もなきボクサーだった。佐賀市大和町の出身。地元・龍谷高校でボクシング部に入り、推薦で中央大学へ。ヒットアンドウエイが得意なサウスポーのボクサータイプ。「周囲から『おまえは左腕一本で大学に行った』と冷やかされたもんです。とはいえ、プロで食っていける才能なんて、誰にでもあるわけないじゃない」。大学卒業後に就職したが、すぐに退職。満たされない心を抱えたある日、新聞記者の父から譲り受けた一眼レフを手に、出掛けたのは後楽園ホールだった。
「後輩の写真を撮ってやろう、という軽い気持ち。そんな写真をボクシング雑誌に持ち込むと、買ってくれた」。転機になった。八三年から高校ボクシングに対象をしぼり、国体、インターハイ、全国高校選抜などに足しげく通ううちに写真家として認められ、拳を交わす選手だけでなく、リングサイドの指導者にほれ込んでいった。
 この本には「高校ボクシング指導者の横顔」というサブタイトルがある。鬼のような形相で叱咤する男がいれば、おおらかな笑顔で見守る男もいる。「癖がある人が多いし、魅力も人それぞれ」。ただ一つだけ、共通点がある。「絶対にあきらめない心の強さ。それを生徒に伝えようという思いです」。モノクロ写真の中の男たちの顔には、張り詰めた精神と奥行きのある優しさの両方があふれている。
 東京と郷里の佐賀を行き来しながら、写真教室などの講師を務める。これが記念すべき第一冊となる。四十九歳。

作品貫く「無償の情熱」

後藤正治
ノンフィクション作家・神戸夙川学院大学教授

 高校ボクシングの世界を撮った写真集『この道一筋』が刊行された。まず特記すべきは、昭和50年代から平成19年の佐賀総体まで、四半世紀をかけた仕事であることであろう。リングサイドで、ヘッドギアをつけた高校生部員と、部員に覆いかぶさるようにアドバイスするオジサン指導者のツーショットが数多く収録されている。
 写真家は高尾啓介氏。氏とは面識がある。西宮市にある定時制高校ボクシング部の顧問教諭と部員たちを追った拙著『リターンマッチ』の取材中、相前後して高尾氏も取材に来られていたからである。
 写真集には、この顧問教諭もアップで撮られている。部員へのいつくしみというのか、深みのある表情は何度見ても飽きない。写真家にとって〝この一枚〟といえる写真であろう。他にも印象深いワンショットが幾枚もある。
 見終わって浮かんだのは〈無償の情熱〉という言葉であった。高校ボクシングはマイナースポーツである。部員も指導者もボクシングに打ち込むことによって目に見える見返りが得られるわけではない。それでも彼らはリングという場に魅入られ、熱い時間を過ごしていく。その中で、思わぬ自己表現や生の発露を行っていることが読み取れるのである。
 著者略歴によれば、高尾氏は大学時代、ボクシング部員であったとか。長期に及ぶ仕事は氏の青春の決算にかかわる部分もあったのだろう。
 この写真集の作品性は、高校生と指導者と撮り手の、いずれも無償の情熱という共通分母によって支えられている。

  • A4判並製122頁
  • 978-4-88344-153-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2007/11/20発行
世間遺産放浪記

痛快無比の「世間(せけん)遺産」247葉!


働き者の産業建築から、小屋、屋根、壁、近代建築、職人、奇祭、無意識過剰な迷建築まで、庶民の手と風土が生んだ「実用の美」の風景。沸騰する遺産ブームの中で、見過ごされてきたもうひとつのヘリテイジ(=遺産)を日本全国津々浦々に追った旅の記録。痛快無比、心に沁みるオールカラー247葉300ページ! 

(●荒俣宏氏(「サンデー毎日」7/27)、藤森照信氏(「毎日新聞」5/13)、松村洋氏(「読売ウィークリー」6/17)、飯田辰彦氏(「公明新聞」6/5)ほか各氏絶讃紹介!)

書評

全国を訪ね歩き撮影した無名の造形

藤森照信
建築史家、建築家

 世間にはヘンな人がいっぱいいる。どうでもいいことにやたらうるさいとか、やる気が実力をしのいでカラ回りするとか、会社でも地域でも見回せば一人は見つかる。選挙公報なんか読んでいると、ヘンな人の鉱脈の露頭を見るようだ。
 ヘンな人と同じように、世間にはヘンな物がいっぱいある。人と同じで、さいわいそばの人しか知らないから、世間全体では話題にも迷惑にもならず隠れているが、近づいて眺めると放っておくにはおしい。
 藤田洋三は、そういうヘンな物を求めて全国を歩き、これまで〝鏝絵〟と〝藁塚〟の本を出してきた。前者はコテエと読み、伊豆長八に代表される左官職人が蔵の壁などにコテで描いた漆喰の絵。後者は、ワラヅカと読み、稲刈の後、田んぼに作られる保存用のワラの山。いずれも、放っておけば消えてゆく無名の造形。絶滅危惧種。
 人びとの間の無名の造形となると、柳宗悦の民芸ということになるが、柳は、なぜかというべきか当然というべきか、自分の体より大きな物には目を向けなかった。限界とかいうことではないが、民芸の視線からはみ出す体より大きな物の領分に民芸的視点を向け、正確にいうと、柳的・民芸的というより、今和次郎的・考現学的視点を向けてきたのが藤田洋三なのである。
 表紙の写真で、世間のヘンな物にはキャリアの私の目玉もまいってしまった。いったいこれは何なんだ。建物にはちがいないが、板壁の途中から塗られた土壁がそのまま屋根の棟の上までつづき、てっぺんで6本の筒(煙突?)となって突き出す。これだけでも用途不明、国籍不明、年齢未詳、意味不可解なのに、加えて、右端の筒は根元からポッキリ折れて、屋根上にころがっている。
 物もアヒルもいくつか並ぶだけで面白さが生れる。唐突に6本並ぶだけで十分面白いのに、加えて尻の1本がズッコケているのだ。元の建物は名作とはいえないが、写真は名作というしかない。
 建物は、外からみて中が分かる、という性格を持つが、この6本筒建築は想像もつかない。
 本を買ってページをめくるしかない。なかなか登場しない。「8 屋根もまた顔」の章に「176 鞘蔵 大分県中津市耶馬渓町」としてやっと登場。〝さやぐら〟なんて聞いたこともなり。刀の鞘の蔵とも思えないし。解説を読もう。
「屋根の突起物は竹で編んだ泥柱。この建物はお米や漆器を収納した泥の匣(はこ)。台風で飛ばされてしまったかつての藁屋根の天井の間に生まれる空間は、火事の時、屋根だけ燃やして種籾や家財を守る村人の知恵」
 分かりにくいが、この上に乗っていた草葺き屋根が台風で飛んだ後の姿なのである。屋根と倉を空間をはさんで切り離す防火の工夫を〝置き屋根〟というが、6本の泥の筒は置き屋根を支える支柱だった。それにしても、支柱を「竹で編んだ泥柱」で作ろうとは、燃えない柱を考えてのこととはいえ、ふつうの人のやることは専門家の想像を超えはしないが横にズレる。
 10分類247件の物が登場するのだが、何例かひろってみよう。
「建築は働く」分類は、牡蠣灰窯、製材用水車、ゴエモン風呂のキューポラ、釣瓶井戸ほか18件。釣瓶井戸や水車はある年以上の読者は思い浮かぶだろうが、他はむずかしいかもしれない。カキの貝殻を焼いて石灰を作るのが牡蠣灰窯。ヤジキタも入ったゴエモン風呂の大きな釜は、長州の防府が産地として名高かったそうだが、そのキューポラ(鉄を溶かす炉)。
「手の土木」分類は、ネーミングから内容がしのばれるように、村人の手でできるていどの土木構造物が19件。今ではほとんど見られない土橋がいい。土橋といっても丸太を渡して上に土を乗せ、草をはやして押さえた橋。高度成長前まで田舎では当り前だった。
「小屋は小宇宙」はこれはもう、「暮らしの中から生まれた、その土地にしか存在しない様々な小屋を求めて流浪(さすら)ってきた」という著者の独演会。ダイナマイト小屋にはじまり、洗濯小屋、杭小屋、真珠小屋、サクランボ小屋、ついには瓦屋根のバス停まで27件。
 こんな調子で〆(しめ)て247件なのである。
 どうして著者はこんな物を求め歩くのか。そうして採集された物を見て読んで、読者は何がうれしいのか。藤田洋三は「手の土木」のところで小さく答えている。「僕の精神安定剤」
 そうかもしれない。大ブームの世界遺産も、世界と国民の精神安定剤なのだろう。世界と国民向けの薬もいいが、自分のために自分で探した「僕の精神安定剤」のほうが効くと思う。誰でも探せます。

身の丈をじっと見つめ出合う

松尾孝司

 放浪することは、人生枯れてからするものではないのだ。好奇心のおもむくまま、出合いを求めて訪ね歩く。それが、世界遺産、近代化遺産とは対極にある「世間遺産」を世に送り出すことにつながった。
「鏝絵放浪記」「藁塚放浪記」に続く「放浪記シリーズ」の三冊目である。「ホンモノはわかりにくい。わかりやすいものはアブナイものが多いんです」
 川にかかっていた橋は、廃電柱と泥でできていた。「台風で流されて困っていた、ばあちゃんのために、おじさんが架けた橋」だったという。いくつもの手形の残った土壁もカメラの中に切り取った。温泉旅館の跡には大きな自然石を手彫りでくり抜いた岩風呂が残っていた。鋲で補強された門司港の建物はモダンアートそのものだ。
 左官職人の余技である鏝絵を追いかけているうちに出合った情景。人・モノ・暮らし、それに衣食住……生きた証しの残った現場の前で、いつも立ち尽くしていた。
「世界遺産は、お上のものですが、世間遺産は世間のもの」と笑い飛ばす。「上を見る前に、身の丈の世界を見つめよう」とのメッセージ、哲学である。
 モノだけではない。風景も切り取った。山の中の田んぼの横のタマネギ小屋は輝いていた。魚を干している風景を見つめ、ホタテ貝の山を照らした。人間の営みの風景である。
 二十五歳のころから六年間、ゲートボール新聞の取材で大分県内を駆け巡った。会った人はざっと六千人。人生を聞き続けたことが財産になった。
 雨の中、車で何ヵ所もの世間遺産へと案内してくれた。最後は遊園地の橋脚。別府の火山岩で造られたアーチ橋が連なり、その上をケーブルカーが走っていた。「庶民のための明日に架ける橋ですよ」
 手仕事にあこがれ東京綜合写真専門学校に学んだ。いまも一年のうち半分近くは八千円で買った中古のレンズをつけたカメラを手に外を飛び回る。コピーライターである妻の久美子さんの支えも大きな力だ。「放し飼いにしてくれましたから、ここまでこれました」
 大分県別府市在住。五十六歳。

オモシロサは「無意識過剰」の力

南陀楼綾繁
ライター・編集者

 ぼくが住んでいる西日暮里は、山手線で最後に駅ができた場所というコトもあり、「駅前商店街」が存在しない。改札を出ると、道灌山通りという殺風景な大通りが広がっているだけである。
 道灌山通りの商店がこれまたイタくて、肉屋や魚屋、そば屋や寿司屋はひとつもないのに、花屋が三軒に靴屋が二軒(しかも向かいだ)あるというアンバランスぶり。あまりに寂しい街並みなので、「スサミ・ストリート」と命名したほどだ。
 このスサミ・ストリートにもときどきラーメン屋だの居酒屋だのができるのだが、次から次へと潰れていく。開業プランナーだかなんだかに入れ知恵されて、書き文字風の看板や揃いの作務衣に大金を投じた結果、三ヶ月で撤退するのだからお気の毒である。
 こういった「いまどき」っぽい店では、客は店のセンス(おおむね陳腐)を共有することを押し付けられる。小さな店なのにあわよくばチェーン化をというあさましさにウンザリする。それに較べて、「気がつけば何のテコ入れもせずに二十年……」という風情の靴屋のなんとすがすがしいコトか。
 前置きが長くなった上に強引なつなげかたで恐縮だが、昨今云われている「世界遺産」はいわば新規出店みたいなもので、「いろんなものをパッケージにして売ってやろう」という欲がギラギラしている。しかし、藤田洋三『世間遺産放浪記』で紹介されている二百四十七の物件は、時代を経ていい具合に風化したものばかりなのである。
「世間遺産」とは、無名の庶民がさまざまな目的でつくった建造物だ。タマネギ小屋、トタンの納屋、イモ貯蔵庫など田んぼに立つ不思議なカタチの小屋をはじめ、石や木を積んだ垣や橋、煙突や水車、井戸、屋根や壁など、病院や銭湯のように、「モダニズム」の文脈で評価される建築もあるが、大半は記録されることなく消えていく。
 しかし、これらの物件のなんと魅力的なことか! 魚の鏝絵(漆喰のレリーフ)のある左官小屋、泥と電柱でつくられた橋、土管が材料の壁、マツボックリの小屋など、奇妙なカタチに満ちている。
 たとえば、福岡県の「炭カル小屋」は、カルシウムを乾燥させるために、何段にも板が渡されている。骨組みがそのまま巨大な小屋になっているのだ。大分県の「焚き木積み」は、ひとつひとつが小さな小屋みたいになっていてカワイイ。
 田んぼで見かける「稲わら干し」は、土地によって呼び方やカタチ(物干し台型、ピラミッド型、トーテム型)が変わってくる。本書には島根県温泉津町の「ヨズクハデ」が紹介されているが、すぐ近くのぼくの田舎とはちょっとカタチが違う。
 古くからのやり方を踏襲しつつも、その場その場の瞬間的なアイデアがふんだんに盛り込まれているのもイイ。パワーショベルのタイヤでつくった祠なんて、よく思いついたmのだ。
 福岡県にある工場の倉庫(?)の壁が鋲で補強されている写真も、やたらとインパクトがある。モダンアートの作品のようだが、実用性を求めた結果であり、意図して生まれたものではない。
 著者は、高度成長期につくられたサクランボのカタチをした巨大看板や、国鉄の車掌小屋(ピンクに塗られている)、瓦屋根のバス停などにも眼を向けている。世間遺産とはたんに懐かしいもの、レトロなもののコレクションではないのだ。
「過去の出来事を過去のこととしてとらえるのではなく、これまでとは違う未来へ足をふみだすための物語を探す旅。『手で感じ、足で思い、指先で考える』のが世間遺産の流儀」なのだという。
 建造物だけでなく、炭焼きや鍛冶屋など職人たちの仕事の風景、「ひょうたん様」「河童楽」など地方で行われる奇祭も、同じく「手の仕事」ということで載っている。
 かつて赤瀬川原平は、意図せずして芸術となっている物件を〈超芸術〉とし、当時無用物扱いされていた巨人軍選手にちなんで「トマソン」と名づけた。「世間遺産」がトマソンと違うのは、あくまでも実用性を追究した結果こうなった、という点だ。本人たちにとってはアタリマエのものが、意外なオモシロサを生み出している。オビにあるように「無意識過剰」の力である。
 たとえば、広島県の「左官の城」は、神楽を奉納する舞方の家の壁面に龍や仮面、神楽のポスターなどが増殖している。これはトマソンというよりは、ミニコミ『畸人研究』が紹介している「オレの家」に近い。世間一般の感覚から振り切れてしまった方々の独特のセンスが爆発している点では、職人と畸人さんは意外と近い存在なのかもしれない。
 本書はオールカラーで二千三百円と、地方出版社の本にしてはずいぶん頑張った値段になっている。お買い得と云えるが、残念なことに、製本が甘い。書評を書くために本を広げたら、真ん中のページが取れてしまった。これも一種の世間遺産? なんて、シャレにもならんぞ。

  • 304頁/A5判変並製
  • 978-4-88344-146-4
  • 定価:本体価格2300円+税
  • 2007/04発行
井上岩夫 詩集 鹿児島 詩人 石風社 豊田伸治 島尾敏雄 全集 1 
booktitle
井上岩夫著作集[1]全詩集
zeikomi
¥0円
井上岩夫著作集[1]全詩集

「ああまだこの世に詩人が生き残っていた」島尾敏雄(作家)


戦争と土俗とモダニズムを引き連れて孤高の詩精神が甦る。苦いユーモアとともに、世界の核心に垂鉛を降ろす。──「私の前にはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていた、という強烈な衝撃を私は受けたのだった。」(島尾敏雄・作家)

書評

人は「そのた」でしかない

廣瀬晋也
鹿児島大学教授

 井上岩夫の「荒天用意」(一九七四年)は、「あとがき」によれば、著者三十年にわたる詩業のなかから選んだ新旧の作品で構成した詩集である。序詩以下、長短七十七編の詩が収録されている。この中に、「そのた」(一九七二年)と題する一編がある。
〈そのた/そのほかではない そのた/備考でもない 備忘でもない/いちばん右はしの/あろうがなかろうがどうでもよい そのた/空白のままがよいところにもあるそのた/(中略)/そのた そこに在っても所詮/在らされている そのた/どのような項目にも属さず あらゆる項目を包括する/自在な隷属の残忍なよび名/人々とひとびとの間を埋め/野次馬とヤジウマの断れ目をつなぐ/等身大のただの空間/空間の中のただのチェックマーク〉
 押さえたつぶやきから伝わってくるものは、独自性などとは無縁の、なにものでもない「そのた」であることへの怒りといらだちだが、それだけではない。永井龍男の小説「一個」の主人公が思い起こされる。定年退職を間近にひかえた彼は、自分は代替可能の「一個」にすぎないという意識にとらわれ、将来への不安から錯乱に陥る。これに対して、井上の「そのた」には、「そのた」であることをひきうける者の覚悟がうかがえる。この「そのほかではない そのた」だと語る人物が不敵な面構えをしていることは確かである。
 人が「そのた」であり、「そのた」でしかないという思いを、井上はその長い軍隊生活からひきずっているのであろう。「荒天用意」には、「戦争」「照門は見た」「止まるな丸田」など、戦地の体験に基づく作品がある。井上と同年、一九一七(大正六)年生まれの島尾敏雄は、詩集末尾に「井上岩夫さんの詩集に添って」という一文を寄せている。島尾は「『後列の後尾にしか並んではいけない』『そのた』としての不動の位置が、彼の詩にたじろぎのない強さを与え」たと評する。
 井上は同詩集中「声」(一九六四年)においても、人が戦後社会を生きるなかで置き忘れてしまったことを問い、執着や断念や失意が交錯する日常を冷徹に見つめ、耐える。
〈はげしい雑踏の流れの中で/ふと くびすをかえす男がある/釘をうってしまった棺桶の蓋を/もう一度明けねばならない女がある/何度も確かめた空家の戸をどやしつけ/そのまま佇ちつくす男がある/聞きそびれたものは何なのか/撃ち落した山鳩のまだあたたかい胸に/耳をあてがう老いた猟人がある〉
 井上岩夫は復員後、鹿児島市で印刷工房を経営するかたわら、相次いで詩誌を創刊し、また「南日詩壇」の選者をつとめるなど、鹿児島詩壇の中核にあって詩活動をつづけた。

透きとおった抒情の絶唱

岡田哲也
詩人

 作家井上岩夫といっても、知る人は少ないだろう。彼は一九一七年、鹿児島県の片田舎に生まれ、応召されて大陸に渡り、捕虜となり、帰還して来た。その後、鹿児島市でガリ版による印刷所を始め、そのかたわら詩を書き、さらに小説を書き、一九九三年亡くなった。詩集に「荒天用意」や「しょぼくれ熊襲」などがあり、小説に「カキサウルスの鬚」や「車椅子の旅」などがある。
 鹿児島県の北部、出水市に住むわたしは、年に一、二度彼と会うことがあった。酔えば誰にでも突っ掛かってゆく彼と焼酎を飲みながら、私も生意気なのだが、やるせなくまたやりきれなくなることが幾度かあった。田舎わたらいをしながら、いたずらに〈中央〉にこびず、〈地方〉をあなどらず、師にもつかず師ともならぬ人の生き方とはこんなものか、と思う時もあった。
 しかし、奥様に先立たれたあと、晩年はひっそりとしたものだった。見るにしのびなかった。
 その井上岩夫の著作集全三巻のうち、詩集を収めた第一巻が刊行された。版元もだが、ここまでこぎつけた編集者の豊田伸治氏の情熱と執念に、ただ脱帽のほかない。なつかしさに駆られて読みながら、わたしはいつしか素直に、その作品を味わっていた。戦後間もない頃の作品に、「作品2」というのがある。
「こんこんと眠るのはかなしい。屈辱は死にまで垂れている。不逞くされて、白眼をむいて/ごうごうと眠るのもかなしい。生は脚光によごれ/死は苦役によごれている。」
 戦争によって彼が見たものは、化けの皮がはがされた時代であり人間であり、そして自分自身であった。
 彼の詩は、その化けの皮をはがす行為そのものであり、彼の小説は、はがされたあとの自分をしゅうねく注視しつづける行為であった。
 戦後、彼の人生は、脚光に汚れた生よりも、苦役によごれた死よりも、シャバの苦労とインキと焼酎にまみれた人生だった。ただそのなかから上澄みのようにしみあがってくる透きとおった抒情があった。酔っぱらったら、「かなわないな」と思わせるところがあったが、次のような作品にも、遙かに「かなわないな」と思わせるところがあった。
「海がふと黙りこむ/臆病なヤドカリが/こっそり殻を脱ぎかえているのです//地球の足どりがふと鈍る/いちじくの葉っぱのカタツムリが/むきをかえているのです//雨はいつだってふっています/カタツムリの葉っぱに ヤドカリの海に/ひっそり やさしく 降っています/だが人々の心にまでは届かない/そこは遠すぎる砂漠なのです」(雨)
 説明も解釈も不用な絶唱だと思う。月並みな言葉だが、良いものは良い。いつ読んでも、その時その時の味わいがある。
 あるいは彼は、作品「岩」のなかで「君は荒海をみたことがあるか/あの底知れぬ静謐に対峙したことがあるか/アラナミでもドトウでもない/あれは ふと絶句したり吃ったりする(中略)きれぎれの痛む記憶を渚にうちあげる/あれは 許し続ける怒りの本質だ」と書く。
 井上岩夫は、なにを許し続けたのだろうか。そして、なにに怒り続けたのだろうか。
 おそらく、ひんむいた時代や自分の化けの皮に裏うちされていたものが、許し続ける怒りの本質であったのだろう。
 島尾敏雄と交友があった彼は、同年ということも手伝ってか、特攻隊長としての彼と、その他大勢の一兵卒としての自分を、面白おかしく語ることがあった。「島尾さんは高貴、俺は卑小」、そんなことを口走ったが、むろん誰も信じていなかった。戦後の社会も、またぞろ顔や看板や毛並みがもてはやされるようになって来たが、彼はそういう後ろだてがない所で、良く頑張ったと私は思っている。
 だから、井上岩夫の現代的意義などと言われても、困るのだ。私は好きですが、あなたも読んでみませんか、ということにつきる。

洞の底の含羞 『井上岩夫著作集』刊行に寄せて

石牟礼道子
作家

 亡くなった鹿児島の井上岩夫氏の、分厚い詩集が世に出た。
『井上岩夫著作集1・全詩集』である。あと二巻が用意されていると聞く。
 いわゆる出版人ではない青年が京都で学習塾と営みながら、井上さんの詩にほれこみ、友人たちを尋ね、散逸していた詩稿を探し出して編集し、装幀も立派な本に仕上げた。
 出版までのいきさつを多少は知って、待っていた一人としては、今どき珍しい壮挙ではあるまいかと思う。
「九州一円では知られた詩人」だったが、「文学の世界もそれなりの根拠を持って東京を中心に動いてい」る中で「井上さんが一部の目の見える人たちを除いて『無名』だったのはある程度という保留付き」であり、死後ではあるが「新人」として世に問いたいのだと、資力をなげうってこの挙を成した、豊田伸治さんの編集後記にある。
 読み進むうちに背筋が伸びてくるのは、詩人とこの編者の、今どき希な古典的な矜持にうたれるからであろう。それに何より読者として心性の高いこの詩的事業に参画するよろこびを与えられる。
 生前、井上さんは、自分の没後こういう奇特な青年があらわれて、全集を編んでくれるとは、思われなかったのではないか。霊あらば羞かみ哭きをなさるのではあるまいか。
 自ら蟇左衛門と名乗っておられたにしては痩身であった。あたりはばからぬ狷介さを発揮しつつ、あと一杯、焼酎が足りないと書く人でもあった。胸底の洞(うろ)に處女のごとき含羞が隠れていて、生きることは業であるということを、これほどしんしんと悟らせる人も少ない。自分のことを詩人はこんなふうにいう。
  足の先の凶暴な靴
  の中からまた徐々に逼いのぼって帰る俺。
 素足の足の裏が知っている人間の現在について、わたしも記憶が戻ることがあるけれども、靴について、この人のように考えたことはなかった。
  あそこに
  やくざな靴が待っていて
  客を拾った
  歩きだした
  それがジンルイの疲労の
  はじまりだった
 それゆえこの靴は戦場にも行かされた。
 軍靴の中から戦後、「徐々に逼いのぼって帰る俺」の夢枕に、陸軍二等兵丸田四郎という「大飯くらい」が出てくる。要領の悪い二等兵が、戦場においていかに悲惨であるか。薩摩の旗印を俗に十の字というけれども、別名マルニギュウノジというこの兵隊の死を描き出して、「止まるな丸田」と題した長い一篇は、詩人の無念さを私たちも共有させられる。
  お前の軍靴が償った不毛の距離
  あの日落伍した俺の辿り残した道程に
  俺はたおやかな白い野菊を植えた
  蛍を放った
  雪を舞わせた
  三十五年!
  お前の死が償った中支江蘇省のまっかな落日の下に
  再び軍服を着た牛追いをお前は見ただろう
 それにして、消費物資並みにだぶついている文学とやらもセールで売られている。一行の詩語をかくとくするのに、この詩人が払っている人生の対価が、いかなる埋蔵量の中から掘り出されているのか、わたしたちは、ちらりとぐらいはおしはかることができる。
 たぶん焼酎も足りて機嫌のよい時、詩人の手つきも、あのこまやかなきりぎりすの「さわりひげ」に似てくるのだなと想像することもできる。次のような美しい一聯から、それを教えられる。
  草のやかたのきりぎりす
  露から生まれた時の天敵
  すり合わす翅で月を回して
  のこぎりの手でのこぎりの足で
  黒い鞠を回している
 ちなみにこのきりぎりすは、父父父父父、と鳴いているのだそうだ。父という字だけで三行もあるこの一聯を読みながら、わたしは生命の連続性を探ってゆくには、妣というのが糸口になるのかと考えていたのを少し補足した。こんなふうに音声化されたかぼそい虫の声は、やはり、妣に対応しているのかと思い出し、悪かったなあと立ち止ったのである。
 御魂あれば焼酎を献じて申し上げたい。
 蟇左衛門とは、自意識も過剰すぎると存じますが。

井上岩夫著作集を編集して──その詩を読み解く

豊田伸治
「井上岩夫著作集」編者

 どうして京都に住む私が、生前それほど交際があったわけでもない井上岩夫さんの「著作集」を出されたのですか、という趣旨のことを何度も聞かれます。埒があかないと『惚れた作家への情熱・傾倒』などという常套句が登場します。否定するわけではないのですが、何か面映ゆい気がします。そもそも傾倒する作家は大抵本になります。困難でも手に入るし、少なくとも図書館で読めるのに、井上さんだけがその全貌を見ることが出来ない、という事実に駆り立てられた、という側面はありました。それにしても、どうして私が駆り立てられたのかということになると、話は元に戻ってしまうことになるわけですが。井上さんの作品は纏まった形で残す価値があるし、誰もしないなら自分がするしかない、と自分で自分に言い聞かせたわけで、いわば道楽のようなものです。
■難解の裏にあるもの
 第一巻が「全詩集」なので、ここでは詩について書きます。平易だと言う人もいますが、難解だと言う人の方が多いようです。勿論平易なのもあれば、意味を探るより言葉の流れに身をゆだねていれば、胸を打つものもあります。ただ井上さんは詩はリズムの心地よさだけで歌おうとはしません。選び抜いた語句の配列と、綿密に計算された比喩の組み合わせが難解に見せているのです。そこをうまく見付けるのが理解の第一歩です。紙幅の都合があるので、できるだけ短い詩で、試してみましょう。
〈たてがみがかき分けていく/水晶空間/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター//瞼は/つねに置き去られる厩舎である/眼球のそら高く駆けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障の馬丁が立っている〉
「まばたき」という詩です。傍点を(この転載では太字で表記)つけた部分はタイトルからも、最後の「瞼」という部分からも、何の比喩かは明らかです。そこを「かき分けていく」馬は、見える対象物ということになります。一瞬一瞬に見えているものは、「半馬身おくれて」つまり後ろ姿しか見えていない、と書いてあります。人はものの本質は半分しか、然も過ぎてしまったものしか見えない。だからといって、『眼あきは不便なものだ』などという塙保己一の逸話のようなことが書いてあるわけではありません。見えているのは白内障の馬丁なのです。井上さんの作品には、時にこういう病や障害を背負わされた人物が主人公として出てくるのですが、この詩でそこまで読みとる必要はありません。でもただ見えているのではなく、「たてがみをくしけず」っていることは見ておかなければなりません。病(この詩では眼)に犯されたもののみが捉える本質とでも言うのでしょうか。それが「えいごう」です。この詩でその内実まで入り込む必要もありません。
 まだすべてに触れているわけではありませんが、このぐらいでよいでしょう。難解とされる詩はこのように比喩が響き合っています。そのあたりを読みとれば、読んだ感触が残ります。
■底に漂う「悲」
 一つの詩作品には、それなりの世界に対する一つの切り口があります。井上さんの作品はその切り口から見える世界が深いのです。その底には「悲」が漂っています。悲壮でも悲観でもありません。悲歌とでも言えばいいのでしょうか。勿論それが表立って登場することはないのです。それは恥ずかしげに身をよじり、韜晦し、時には戯画となって、時には嗔(いか)りとなって表現されます。また時には小さきものへの哀歌となります。それは資質と、戦争体験と、「薩摩」という土地に暮らすことになるモダンな精神が、くぐらなければならなかったものを暗示しています。その全貌はやはり小説やエッセイが揃って明らかになるのですが、少しずつでもかいま見ることが出来るのが詩の強みなのでしょう。
 井上さんにとっての未知の読者に届くことを願いながら。京都にて。

文学に映した戦争

松下純一郎
熊本日日新聞文化生活部記者

 井上岩夫。鹿児島に生きた詩人、作家。だが、その存在を知る人は少ない。今回、熱心な一読者の手で出版された著作集からは、詩への熱い情熱と、孤独を恐れぬ凄絶な生きざまが、重く伝わってくる。その根底にあるのは、紛れもなく戦争体験だった。
     ○
 著作集第一巻は全詩集。第二詩集「素描」(一九五四年)はじめ、「荒天用意」(七四年)「しょぼくれ熊襲」(七九年)などを収めた。いずれも推敲を重ね、余分な語句を削り落とした作品群。「捨てるだけ捨ててみると、残りは十二篇になっていた」 (「しょぼくれ熊襲」あとがき)と、言葉への厳しさと自戒がのぞく。
 生前交友のあった同世代の作家島尾敏雄さんは、昭和三十年代初め、井上さんの経営していた印刷所で出会う。島尾さんは、その時の印象をこう記した。「私のまえにはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていたという衝撃を私は受けたのだった……」(「荒天用意」跋)
     ○
〈戦争について語ることも、書くことも、今は空しい。殺し合いの現場に行きもしない人々によって、戦争はあらかた語られ尽くしたようだ。唯一つ、これだけをつけ加えておこう。どうしても読解できない緊急作命によって一つの部隊が行動に移ることがあるということを。//わたしは覚えている。あの後尾の一人が誰であったか。あたりまえのように装具を着け、砲をひき出し、前の男が歩くとおり次々に歩いて消えていった、あの行く先を誰も知らない、そして誰かが知っていると信じている、長い縦隊の後尾の一人が誰であったかを。〉(「荒天用意」)
 「後尾の一人」とは誰か。評論家渡辺京二さん(六二・熊本市)が読み解いている。
 渡辺さんは昭和五十年代初め、井上さんの作品に触れて心動かされ、自ら編集していた文芸誌「暗河」を紹介。以後、井上さんは同誌に発表し続けた。「『後尾の一人』とは何の個性的特徴も持たぬ一個の無名者なのです。(略)戦争とは、行き先も知らぬ縦隊の後尾にたしかにひとりの男が歩いていたということなのだよ、と作者はいっています。作者が戦場から持ち帰ったのは、こういう『一人の実在』に関する譲渡できぬ思い込みでした」(「土俗としての戦争──井上岩夫論」=『暗河』二四号)
 出水市に住む詩人岡田哲也さんは、三十年の世代差を超え、「本物の詩人として見ていた」と言う。岡田さんの言う詩人とは「徒党を組まず、一人でその世界に立ち向かう人」。あたかもドン・キホーテ。「鹿児島も地方文化人みたいな人が跋扈している。井上さんはそれを拒んだ。偉そうなことを言ってなんだい、という生き方」「戦争を体験したことで、化けの皮をはがした人間の生身を見てしまったんだと思う 、自分の姿も含めて。この目で見たぞ、この耳で確かめたぞ、と」(岡田さん)
     ○
 井上さんは優れた小説も残した。渡辺さんが最初に触れたのも小説「カキサウルスの鬚」だった。入り組んだ手法、洗練された文章。モダニズムを踏襲する一方で強烈に「鹿児島」のにおいをふりまいていた。「鹿児島特有の階層感情、そして土俗せいがほとばしっていた。南米文学にも通じる前衛性を感じた」という。
 井上さんはその後、二度目の応召(昭和十八年)の後の体験を基にした小説「下痢と兵隊」を「暗河」に発表した。部隊の同僚や部下たちのこと、ささいな会話、心理の葛藤などが二百二十枚につづられた。締めくくりはこうだ。「何だ、これだけのことか、何もなかったじゃないかと舌うちする人もあるだろう、凄惨な死闘や飢餓や意表を衝く作戦などが出て来なければ人々はもうセンソウに出会ったとは思わないだろうから。そんな戦記や小説に比べればこれは屁のようなものには違いないが、ゴミでしかなかった一人の兵隊にもまたゴミなりのセンソウがあったことを観て戴ければそれでいいのである」
「後尾の一人」がここにいる。
     ○
 井上さんの生涯の友は酒(しょうちゅう)だった。三男の巨器(なおき)さん(五〇・鹿児島市)は父の家業を継ぎ同居していたら、夜もおちおち寝ていられなかったという。「夜になるとふらりと出掛け、どこそこで見知らぬ客に声を掛けてはけんかしていたようだ。夜中の二時、三時、飲みつぶれているから迎えに来てほしいと店から電話があるんです。それも知らない店から」一時は父を嫌悪していた巨器さんだが、「誇り高かった」父を今は許せる、という。
 厳しさは鹿児島の文学仲間にも容赦なく向けられた。その裏に、作品を理解してくれないもどかしさや憤りが、突き上げていたとも見られる。
 今回、企画編集した豊田伸治さんは熊本大在学中に「暗河」に参加、その後井上さんを知った。会ったのは一度きり。「作品や資料を散逸させたくなかったし、全国的には無名の詩人だが、その優れた仕事をまとめることで現代日本文学の中での位置を問いたかった」。著作集はこの語、小説集、エッセー集と続く。
 地方に生きた詩人の戦後が、やっと明らかになっていく。

  • A5判上製函入 487頁
  • 4-88344-030-3
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 1998/07/30発行
久留米がすりのうた 井上でん物語 岩崎京子 久留米 かすり 絣 がすり 井上 岩崎 京子 着物 からくり おでん 機織 仕事着 藍
booktitle
久留米がすりのうた
zeikomi
¥0円
久留米がすりのうた

偶然と好奇心が生んだ庶民の美


祖母の機織りを手伝いながら、着古してかすれた藍染めを見て「おでん加寿利」を創作した少女期、そして天才発明少年・からくり儀右衛門と共に、素朴で可憐な「絵絣」を完成させた久留米がすりの母・井上でんの前半生を清々しい筆致で描く長編小説

書評

優れた工芸品は少女の創意から

 藍色と白を基調にした木綿の布に、素朴で可憐な絵柄が織り込まれた久留米絣(がすり)。高度な技術とセンスが必要とされ、技術者に重要無形文化財保持者も含まれるこの工芸品は、約二百年前、一人の少女・井上でんの閃(ひらめ)きから生まれた。
 本書は、彼女が久留米絣を考案するまでの前半生を描いた伝記小説だ。「好きこそものの上手」の言葉通り、でんは機織りを見るのが大好きな少女だった。寺子屋での勉強より、糸が布になる不思議さに魅せられ、祖母の機織りを手伝ううち、見よう見まねで整経(せいけい、機に糸をかけること)を覚え、機織りを修得。
 当時の織物は無地ばかり。花や鳥が大好きな少女の目には味気なく見えた。京染めのような柄は作れないのかと思った矢先、着古した仕事着のかすれた色を見て、でんはハッとする。機織りの時に白い糸を先に混ぜると、雪のような模様ができることに気づいた。それは「あられ織」として評判を呼び、でんは藩御用達の大店(おおだな)で織り子達に教えることになり、武家の家でも技術を伝授した。
 だが、好奇心旺盛な彼女はそれだけでは満足しない。桜や魚、鳥、更には久留米の町の情景を新柄として織りたい──そんな夢を語る少女に興味をもったのが、近所に住む15歳の天才発明少年・からくり儀右衛門(ぎえもん)。彼もまた好奇心を膨らませ、機の構造を変えたらどうかと提案。実験を重ね、ついに絵絣を完成させる。
「こん糸は撚(よ)りの強か。そりけんで、こげん風合いの出っとでっしょう」など、全編に躍動する久留米弁の会話が、登場人物の輪郭を生き生きと描き出している。

  • 四六判並製 208頁
  • 978-4-88344-156-3
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2007/12発行
街道茶屋百年ばなし 元治元年のサーカス 岩崎京子 街道 元治 サーカス 岩崎 京子 田代 三善 蒸気 異人 横山 御一新 時代 小説 児童 鶴見 東海道 鶴見 史料
booktitle
元治元年のサーカス
zeikomi
¥0円
元治元年のサーカス

幕末・開化期の横浜。来航した異人の珍道中を描く「イッピンシャンの冒険」から、生麦事件の裏で活躍したとされる少女を描いた「黒い瞳のスーザン」、曲芸師の親方のもとに飛び込んだ少年と一座が舶来のサーカスに出会うまでを描いた表題作まで、〈御一新〉の嵐に翻弄されつつもひたむきに生きる人々の姿を、すがすがしい筆致で描いた短編時代小説集

書評

歩く速さはいろいろに

樋口伸子
詩人

 アンダンテという音楽用語がある。〈歩くようにゆっくりと〉という意味の演奏速度を表す言葉だが、時代によって歩く速度は違うだろう。本書を読むと、街道を流れた時間に思いが巡る。
 物語の舞台は、幕末から開化期の横浜鶴見地区の街道筋。一膳めし屋「ろくいむ」の看板娘、十二歳のおけいが出会った人びとの珍談や村の出来事が悲喜こもごもに語られ、どの短編も読み飽きない。
 もちろん、ゆっくり歩く人ばかりではなく、早馬も駆ければ、大名行列も通るし、わけありの新内流しから、うわさ好きのおかみさんや血の気の多い若者まで、人の道の歩き方はいろいろ。
「黒船・蒸気車・異人さん。ニッポンがまだ初々しかった時代の横浜市井人情譚」とは帯の一節。転換期の庶民と著者の好奇心がうまく重なり、人物も会話も無理のない文の魅力で生き生きと動く。
 軽業師志願の少年と舶来サーカスことはじめを描いた表題作も面白いが、お伊勢参りを題材にした「犬の抜け参り」が、信心にかこつけた当時の物見遊山の道中記に、現代の団体ツアーがだぶっておかしくも楽しい。
 何しろ大旅行だから、積み立て講で賄うにしろ、準備だけでも大わらわ。そこで御師(おんし)という神官まがいが手形や宿の手配など道中の一切の世話をする。ツアー・コンダクターと同じだ。
 子供だってついて行きたい。平吉と太市は着の身着のままで、おとっつあん達の後から抜け参りに出立。みじめな難儀の中にも人の情けを知り、道連れとなる犬との珍道中がけっさくだ。お札を首につけた殊勝な代参犬の姿に街道沿いの人もほろりとなる。
 江戸と横浜の間(あい)の街道だけでなく全国の街道に、お上の大変時にも庶民には庶民の明け暮れがあったのだ。困窮の中でさえ楽しみの達人であれるのが庶民である。
 あと二巻は『子育てまんじゅう』、『熊の茶屋』。鍛冶屋、紺屋などの働く様に見惚れつつ三部作の街道を歩いていると、おや、懐かしい言葉が耳に。「へえ、玄界灘に面した、よか港町ですたい」。筑前芦屋から船を仕立てて有田焼きを売りに来た茶碗売りだ。
 著者は、『かさこじぞう』や映画にもなった『鯉のいる村』で知られる児童文学者。三十余年前に舞台となった小千谷地方の風景が中越地震の後テレビに何度も流れた。本書と同様、アンダンテの速度が生活の基にあった頃の話。

御一新を生きる庶民の哀歓

かねこたかし
児童文芸作家

 著者は『鯉のいる村』『花咲か』などで知られる童話作家だが、本書は「街道茶屋百年ばなし」としてくくった時代小説短編集三部作の第三部である。三部作の舞台は幕末・開化期の横浜。黒船、蒸気車、異人さん……と波のごとく打ち寄せる〈御一新〉の中で、ひたむきに生きる庶民たちの哀歓をさわやかな筆致で書いている。
 三部作の第一部『熊の茶屋』と第二部『子育てまんじゅう』は、それぞれ過去に出した『東海道鶴見村』『鶴見十二景』の解題復刻版だが、第三部の本書は初出が同人誌である。鶴見上町の一膳めし屋の十二歳になる看板娘おけいちゃんの視点で書いている。
 著者によれば、鶴見界隈は「宝の山」らしい。「そこには名主の日記をはじめいろいろな記録が残っているし、江戸期の名店の跡もあるし、そこに登場してくる方々は個性的だし、同時に日本中どこにでもいるという普遍性もありました」と「あとがき」にある。
 古史料からヒントをもらうと、記録を探したり、事情を知る人を訪ねたりして検証にかかる。だが、物語のメーンはあくまでも庶民であり、その哀歓である。例えば「黒い瞳のスーザン」は生麦事件関連で書いているが、事件そのものではない。大名行列の供頭に斬られたイギリス青年を介抱したとされる美少女の話を探り出し、その娘にスポットを当てている。
「イッピンシャンの冒険」はペリー艦隊の一員としてやってきた異人牧師の珍道中。表題作は、曲芸師の一座に飛び込んだ少年が舶来サーカスに出合うまでの話。いずれも史実とフィクションが上手にからまり、作為といったものが感じられない。全編にわたり滋味豊かで、味わい深い作品集だ。

  • 四六判並製 286頁
  • 4-88344-120-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/03発行
十五歳の義勇軍 満州・シベリアの七年 宮崎静夫 石風社 十五歳 戦争 満州 シベリア 抑留 満蒙 義勇軍 開拓 中国 美術 宮崎 静夫 海老原 喜之助 ドラム缶 死者 西日本文化賞 みゆき画廊 俘虜
booktitle
十五歳の義勇軍
zeikomi
¥0円
十五歳の義勇軍

十五歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願、十七歳で関東軍に志願、自爆間際で敗戦、四年間のシベリア抑留を経て帰国、炭焼き、土工をしつつ、絵描きを志した著者による感動のエッセイ集。
阿蘇の山村を出たひとりの少年が、満州・シベリアでの過酷な体験を経て、一個の画家となった――。

書評

苛酷な体験から明澄な世界へ

久野啓介
元熊本近代文学館長

 第2次大戦中に国策として推し進められた満蒙開拓青少年義勇軍に、高等小学校を出たばかりの15歳で志願し、さらに17歳で関東軍に志願入隊、敗戦と同時にソ連の捕虜となり、4年間のシベリア抑留。帰国後、画家となり、「死者のために」シリーズなど鎮魂と反戦の絵を描き続けてきた著者が、折りにふれて新聞・雑誌に書いた120編のエッセーを集めたものである。
「満州・シベリアの七年」と副題されているが、「その七年が私の青春の総てであった。人はそれを苦難の歳月とも云うが、私にしてみれば濃密な学びの場であり、己れを視つめ、確かめることのできた得難い日々としても忘れることはない」と「あとがき」に書くところに、並みの人ではない著者のしたたかな資質をうかがい知ることができる。
 また帰国から50年後、中国東北部を再訪して見たものが、熱烈歓迎とは裏腹に、「植民地満州の時代の日本人(軍)の所業であり、まぎれもなく浮かぶ東洋鬼(トンヤンクイ)の姿は、否定しようもなかった」(『シベリア再び』)と、かつて加害者側の尖兵であった自分を見つめることにやぶさかでないことも、特記しておかねばならないだろう。
 そして民族間の加害と被害、収容所煉獄の苦難と学び、異郷と故郷など、幾重にも錯綜した苛酷な体験の末に、著者がたどり着いた境地は、意外と明澄な世界であったようだ。例えば「ツワの花」と題する掌編がある。 
 ツワの花の季節に、研ぎ屋の老夫婦がやって来る。鋸(のこぎり)の目立てを頼むと、元は大工だったという老人は、確かな手つきでやすりを動かしながら、「齢をとると、高い所がいけまっせんけんなあ……」などと言う。普通なら楽隠居のはずなのに、身につけた手仕事で二人が支えあって生きる姿には、老いの哀愁があった。ひと仕事終えた二人は、淹れた茶を飲み、振りだした雨の中を、寄り添って帰って行く。
 それだけの話だが、書き手の目線の低さとデッサン力の確かさで、静かな感動がじんわりと胸にしみた。滋味あふれる一文である。

  • 四六判上製 278頁
  • 4-88344-192-1
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2010/11/10発行
わが内なる樺太 工藤信彦 外地であり内地であった「植民地」をめぐって 樺太 国境 ソ連 石風社 工藤 信彦 詩人 歴史 サハリン 豊原 ロシア 植民 北海道 外地 内地 朝鮮 国家 北方 領土
booktitle
わが内なる樺太
zeikomi
¥0円
わが内なる樺太

十四歳で樺太から疎開した少年の魂が、樺太四十年の歴史を通して「国家」を問う。1945年8月9日、ソ連軍樺太に侵攻、8月15日の後も戦闘と空爆は継続、幾多の民衆が犠牲となった。──忘れられた樺太の四十年が詩人の眼を通して綴られた──

書評

樺太にかかる歴史の霧をあざやかに晴らす

テッサ・モーリス=スズキ
豪州国立大学教授(翻訳・大川正彦)

 樺太は「日本の忘れられた植民地」と言ってよい。過去の植民地の歴史への関心の高まりがあるにもかかわらず、いまだに、植民地樺太の歴史については、ほんの一握りの学術研究しかない。そればかりか、著者・工藤信彦が本書で指摘するように、『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻(一九九二年刊)のような仕事でさえ、この歴史をほとんど黙殺している。
 このように長きにわたる当惑せざるをえない黙殺という文脈のなかでは、工藤の『わが内なる樺太』の刊行はとりわけ喜ばしい。戦前・戦中に樺太に生まれ育った著者は、教育と日本文学の著述に人生を費やし、教師としての身を退いたのち、日本の歴史・記憶・文化における樺太の在り処に関心をむけた。本書に収められたエッセイ群をとおして、樺太の植民史にかかわる著者の丹念な研究と、工藤自身の個人的な記憶、そして植民地樺太における教育生活・文学生活におけるひときわ優れた人物である父の記憶とがひとつに結びあわされる。
 ひょっとすると、いま述べた植民地という語には引用符が付されるべきかもしれない。それというのも、本書の中心テーマは日本の植民史における樺太の奇妙で両義的な位置そのものでもあるのだから。樺太は日本の唯一の真の「入植者植民地」であった。ここでは、「内地」からの移民の数が、先住民や、日露戦争での日本の勝利の後に残った数少ないロシア人の数をはるかに上回っていた。したがって、帝国秩序における樺太の在り処は、朝鮮や台湾といった他の主要な植民地の場合とは異なっていた。工藤が強調するように、樺太の日本人入植居留民たちは自分たちが植民地で生活していけるとはけっしてみなさず、むしろ日本の他地域から北海道(これもまた同様に、「植民地化される」と同時に「植民地化する」ものとみてよい島である)に移り住んだひとたちと類似した地位をもつと考えていた。
 樺太の場合、この地位は次の事実によってことさらに混乱させられる。すなわち、日本が支配した樺太の南部は、公式には三十年のあいだ「外地」として遇されていたが、一九四三年には、拓務省から内務省に移管され、こうして公式には「内地」の一部になった、という事実である。このように配置替えがあったにもかかわらず、日本はアジア太平洋戦争の終結時にポツダム宣言を受諾したとき、樺太は侵攻するソビエト軍に対して放棄された。今日でさえ、日本の検定教科書や公式の出版物では、この島は樺太と名づけられ、北緯五十度の線に沿って国境が引かれ分断されている。とはいえ、他の争点が浮かぶ実際上では、「ロシア・サハリン」と認定されているようである。つまり、『わが内なる樺太』があざやかに示すように、樺太は、日本の植民史の重要な局面を(今日ですら)包みこんでいる、両義性と忘却という奇妙で、公式に作られた濃霧のもっとも鮮明な具体例となっている。
 工藤信彦によるこの本を繙くなら、樺太史にかかわり文書史資料にもとづいた研究と、工藤個人とその家族にかかわる個々具体的な記憶とが織り込まれていることで、そのような濃霧は消え去り、この霧がかくも長きにわたって覆ってきた魅力あふれる歴史が明らかにされるだろう。『わが内なる樺太』は樺太史にかかわる数少ない既存の学術研究を綿密に分析しているばかりではない。植民地樺太の創出、樺太の教育システムと文化制度の展開、アジア太平洋戦争での日本の敗北の後に同島から大量に帰還した入植者たちに関する豊富な情報を提供している。
 しかし、本書はたんなる歴史物語りをはるかに越えるものでもある。熱情と詩情あふれる感受力によって綴られ、なんといっても、自らが探査する歴史にによって全実存そのものが形づくられてきた人物の手になるものである。『わが内なる樺太』は、国家・国民、植民地主義、アイデンティティということの意味への洞察に充ち溢れている。読者が本書から息吹を受けとり、戦前・戦中の樺太という目を瞠るけれども、あまりに長く無視されてきた物語を探究されるよう、評者はつよく希望する。

国境 忘れられた「存在」

岩下明裕
北大教授・ユーラシア国境政治

 国境とは何か。本来、それは国家の権力が物理的に及ぶ空間の境界(ライン)であると同時に、その空間に暮らす人々が心のなかで一体感を共有する認識の境界でもある。
 しかし、現実には物理的なラインとこの認識上のラインは往々にして一致しない。それでも「領土問題」として国境をめぐる係争が顕在化している境界は、多数の国民に意識される。北方領土と竹島。例えば、政治化した境界をめぐるこのズレの問題は、係争の当事者からみれば、不十分に感じられるとしても、それは確かに「存在している」。
 国境をめぐる問題の真の所在は、その「存在」が認識されていないところにある、と評者は考える。国家が支配する権力空間のなかで、多くの国民に忘れ去られている境界に近い島嶼(とうしょ)。今では、与那国、対馬、小笠原など国境島嶼の存在がそれだ。その存在がメディアや国民の注目を浴びるのは、せいぜい、外国の「脅威」が強調されるシーンにおいてに過ぎない。国境地域の現実に普段は関心も興味ももたない人々の過剰な国境への想像力とロマンは、しばしば現地に暮らす人々を傷つける。
 この「内地」の人々の国境地域に対する無自覚ぶりを反転させた象徴的な事例が、樺太をめぐる問題といえる。工藤信彦は本書で、日本国家が喪失した領土、樺太の存在にかかわる議論を整理し、その意味を読者に突きつける。工藤によれば、「樺太」問題の真の悲しみとは、戦後にその物理的存在が喪失したことにあるのではない。ソ連との間に北方領土問題を抱えるがゆえに、日本国は樺太の喪失を追認することができず、存在はあえて「空白」とされ続けた。そして今日、「空白」としての存在もまた忘却の彼方にある。
「存在」耐えられない軽さ。「平穏」な国家にとって、国境問題とは重荷でしかないのだろう。

  • 四六判上製・311頁
  • 978-4-88344-170-9
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/11/20発行
 (76件中) 1〜10件目