書評

HIGAN

HIGAN 島田有子 写真 熊本 島田美術館 島田有子写真集 彼岸 石風社 泥 木村伊兵衛 普賢岳 埋立地 
139頁 B4判変型上製カラー
4-88344-045-1
定価:本体価格8000円+税
1999/06/30発行
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HIGAN
zeikomi
¥0円


島田有子写真集

木村伊兵衛写真賞候補作


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HIGAN
zeikomi
¥0円

泥が乾き、風が吹き、鳥が騒ぐ──。普賢岳を対岸に見る埋立地。そこで展開された生と死のアンビバレントな世界に息をのみ、魅せられ、撮り続けた黙示録的風景。(解説・浜田知明)。木村伊兵衛写真賞候補作。

書評

残酷なまでに美しく、深い祈りが漂う

五木寛之
作家

 最近の出版物の氾濫は空恐ろしいくらいのものだ。よくもこれほどの本が世の中にあふれかえっているものだと、思わずため息が出てしまう。
 とはいうものの、自分自身もその大量消費現象の一翼を担って、日々無駄な活字を送り出している一人なのだから、ときには言いようもない自己嫌悪にかられたりするのも当然だろう。
 しかし、そんな洪水のような印刷物の奔流のなかにも、思わずふと目を惹かれ、なにげなくページをめくっているうちに、つい時のたつのを忘れてしまうといった本もあるというのは、有難いことでもあり、また一方で困惑する気分もどこかにないわけではない。困惑、というのは勝手な言い草だが、「こんないい本が隠れているんだから、やっぱり数限りない出版物にも根気よく目を通さなきゃならんのだよなあ」といった気持ちと説明すればわかっていただけるだろうか。本当のところは、もう本は沢山、と、お遍路にでも出て山や川を眺めながら歩き続けたいような心境なのだ。
 さて、このところ縁あって手にとらせてもらった本のなかで、ことに忘れがたい鮮明な印象が心に残ったのは、一冊の写真集だった。
『HIGAN』(島田有子写真集)という大判の本がそれである。
 私は写真に関しては素人だが、この本のページをなにげなく開いたとき、ああ、と息がとまるような感じがした。こんなふうに写真を見るという経験は何年ぶりだろう。あまりにも日々の暮しのなかに写真が氾濫しすぎていて、ほとんど不感性になってしまっている自分の目の乾いたウロコが、一瞬、音を立ててばらばら落ちるような感じだった。
 この写真集はすごい。どうすごいかは、文章におき換えることが断じて不可能であるという点においてすごいのである。それはこの写真集を自分でさがし出して、そして自分の目で確かめてもらえばはっきりするだろう。それ以外の書評だの、解説だの、ブックレビューだのといったかたちでは、決して伝わらないすごさなのだ。定価八〇〇〇円のこの写真集が、私にとっては八〇万円でも安いと感じられたのだから。
 普賢岳をはるかにのぞむ人工の埋立地を、この写真家は「私の彼岸」と感じたという。彼岸は此岸であり、地獄はそのまま浄土でもある。この写真集の作品には、どれも残酷なまでに美しく、同時にどこか深い祈りの感覚が漂っているようだ。すごい作品を見た、と思った。

虚実一如の世界

光岡明
作家

 私は比較的活字を読みなれているだろう。読みながら立ち止まって考えこむことはあ っても、理解できればどんどん先へ進む。しかしこの島田有子写真集『HIGAN』のページを繰りながら、次第にその手が遅くなり、間遠になって、三分の二ぐらいのところで止まってしまうという初めての経験をした。残り三分の一は日を改めて見直したのである。
 そのとき私は写真を見ているのは確かに私だが、同時に明らかに写真から見返されており、見ている私と見返されている私とが一体となって、どこかの宙空で浮遊している、と思ったのである。これは後からの解釈であって、その時は放心していたのに違いない。
 写されているのは長崎県の普賢岳を遠くに望む有明海の熊本側にある埋め立て地である。海はほとんど見えない。動くものと言えば、風にそよぐ自生した雑草、群れる鳥たち、泥を吐く埋め立てパイプ、バスで、八割までが埋め立て地全景である。そこに人影はなく、櫓、柵、電柱、クレーン、大型ユンボなど、工事用機材は労働時間外の静止のなかにある。全景のほとんどが夕方であり、無音の世界である。埋め立て地はまだ水を貯めていたり、どろりと液状のものから、乾いて団子状の塊の連続から砂塵を巻き上げんばかりのものまである。こう書き連ねても当然そうあるであろうなんの変哲もない埋め立て地の風景である。
 その変哲もない風景が島田有子によって切り取られると、なぜ人を宙空に浮遊させるのだろうか。
 私たちは新古今和歌集の「三夕」の和歌が持つ「秋の夕暮」観の残滓を引きずっている。書くまでもないことだろうが「三夕」とは「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行」「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂連」「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家」の和歌
のことだ。この悲哀、感傷、寂寥、寂寞の感覚は、「故郷(ふるさと)」「旅愁」「赤とんぼ」「夕焼小焼」の童謡、唱歌にまでつながり、私たち日本人の心情の基礎を作ってきた。しかしこの『HIGAN』にはその残滓がまったくない。あるのは夕日
に直面する島田有子の伝統から切れた孤絶感である。島田有子はあとがきで「HIGAN」は「彼岸」だと書いている。島田有子に仏教者的感性があるかどうか、私はそこまで確かめていないが、「彼岸」だとしても「此岸」は島田有子にあるのだろうか。
 島田有子にとって埋め立て地は「此岸」の一角であるだろう。開発の名のもとに海が埋め立てられ、相貌を変えていく。道路が作られ、上下水道が引かれ、人が住む街ができることはわかる。生態系、気象系、おのずからあった眺望を押し潰して、新しい「人の世」が自然にとってかわってできるだろう。しかし人は人が作ったものを壊すことがある。あるいは放棄することがある。そのとき再び埋め立て地が現前しないか。現前しないとはだれも保証できない。きちんとした「此岸」はあるのだろうか。
 島田有子の「此岸」を見る眼は喜びや悲しみ、怒り、不安、あるいは批判からもほど遠い。伝統的な思考、感性から切れ、孤絶した地点で見る。だからこそ埋め立て地は埋め立て地の単独のことばを語り出す。そのことばを私は残念ながら文章にできない。しかし埋め立て地自身が語っているとわかるのである。その状態は外から見れば、多分茫然自失として見入っているだけのことだろう。そのとき私たちは宙空という虚の世界にいる。虚そのものは写真でもことばでも現せないが、実際は一種の擬似世界を作って、その照り返しがひとつの真実の世界となって写し出されるのだろう。もし『HIGAN』が仏教的色彩でこれほど力強く現した写真集はないと思う。

「三夕」の和歌と「HIGAN」

光岡明
作家

「夕焼け小焼けの赤とんぼ…」とか「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる…」と歌い継がれてきたように、夕暮れが持っているものさびしさ、もの悲しさ、泣きたいようなひとりぼっちの感情は、長く日本人全体の共有の財産だった。
 この共有財産化には、日本の和歌が果した役割が大きい。
 まず「古今集」が四季を確定し、つづいて「新古今集」がそれぞれの季の情趣を深めた。私たちは四季の変化はどんな太古のむかしでもあったことで、別に「古今集」や「新古今集」が「発見」したわけでもあるまい、と考えがちだが、四季があることとそれをはっきり意識することとは別物で、意識するにはことばの力を借らねばならないのである。そしてことばがもっとも精妙な力を発揮するのが「文学」である。例を引こう。
私たちは「秋の夕暮」について、「新古今集」の次の「三夕」の和歌を持っている。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行
さびしさは其の色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂蓮
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家
 どの和歌も人口に膾炙している。あるいはしていた、か。この「三夕」の歌は「共通の性質として、一方では従来の悲哀寂寥の余情を継承しているとともに、他方では、中世的世界観と仏教者的感性の深い刻印を帯び」るだけでなく、「いたずらな感傷や興味本位の趣向など
をいっさい排し、すべての装飾や色彩を取り去ったあとに残る物の背後に、ほとんど無に等しい物の背後に、宇宙そのものの広大さを感じさせる」「これば日本の夕暮の通念化されたコノテーションとして、永くわれわれの脳裡に刻みつけられた」(川本皓嗣「日本詩歌の伝統」岩波書店)■■ちなみにコノテーションとはことばに付帯する言外の意味で、直接事物を指示するデノテーションに対する。
 しかし、いつの時代、どこの地方にも熊本で言うモッコスがいるもので、江戸前期の俳人向井去来の弟子の風国が、わたしは夕暮れに悲哀感も寂寥感もありませんといって、夕暮れの元気のいい句を作ったところ、お師匠さんから「一端遊興騒動の内」と切り捨てられ、これは「一己の私」だと叱られている。
 明治時代になって、歌、句の一大革新運動が起こった。革命児正岡子規の出現である。子規は写生を重んじた。この私の文章の文脈で言えば、デノテーションの精密化である。そこでは写生する人の「一己の私」が大切にされた。風国も明治以降に生まれておれば、なにもお師匠さんから叱られることはなかったのである。いっぽうで歌や句の持つコノテーションはばらばらに分解されていった。先に書いた「夕焼け小焼けの赤とんぼ」や「夕焼け小焼けで日が暮れる」まで辛うじてまとまりを持っていたと言えようか。
 ここに島田有子写真集「HIGAN」がある。普賢岳を対岸に見る熊本市郊外の埋め立て地の風景写真集である。ここに見る夕暮れの風景(それだけではないが)は、「三夕」のコノテーションをわずかながらも引きずっている私に、実にさまざまなことを考えさせる。
 この写真集を見終わってすぐ気がつくことは、島田有子本人の孤絶感である。西行、寂蓮、定家にも孤絶感はあった。「古今集」を超える新しい歌を作るという営為は、いまでこそ観念の操作に過ぎないと顧みられないが、本人たちにとってはまさに孤絶の作業であったはずだ。しかしこの三人には自然を歌いつづけてきた日本の和歌の伝統があった。彼らの孤絶感には何度でも立ち返ることのできる根拠があった。島田有子にあるだろうか。
 「HIGAN」は「彼岸」だとあとがきで島田有子自身が書いている。だからと言って「仏教者的感性の深い刻印」があるか。深層心理ではあるかもしれないが、その「彼岸」はあくまで本人だけのものであろう。立ち返るべき根拠のない、「此岸」のない「彼岸」。
 これは地球が自壊を起こしているという予感なのではないか。確かに写真にはクレーンが写り、ブルドーザ
 ーの跡が残り、電柱が立っている。人の手が自然を変えつつあることがわかる。人間は理性(技術)を活発に使うことによって、自然と異和なものを作りつづける。その先にあるのは地球の崩壊だ。
 島田有子の孤絶感はここで「三夕」の三人と完全に違ってくる。自分自身も理性を使う人間として、島田有子自身もあとがきのように口ごもらざるを得ない。帯にあるように、まさに神も伝統もない、理性が行き着くであろう先の「黙示録」である。

島田有子

しまだ・ゆうこ

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島田有子
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¥0円
しまだ・ゆうこ

熊本県に生まれる。
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