〈花びらを
縁どりながらひろがる海が
天上の夕映えを 懐胎しつづけていた〉
詩集を読むよろこびは、こんなフレーズに出合うことにある。
ときは夕映え、海はくれない色に染まり、海と空の境が、花びらを散らしたように濃いくれないに縁どられてゆく。
天上の夕映えを、海に没しようとする太陽を、両手を広げて待ちうけているのは海。
いのちの懐胎をつづける母なる海だ。
私の故郷である紀州の海沿いには、「はなふり」という伝説がある。春秋の彼岸の日、夕陽は真西に没する。海に没する直前、夕陽の巡りを花が降るように、しらしらしらと光の花びらが舞う。土地の古老によると、それは西方浄土の幻だという。
石牟礼さんは紀州から遠く離れた九州びと。
彼女が見つめている海は、不知火の海。それなのに、私には、まだ目にしたことのない故郷紀州の「はなふり」が、このフレーズから立ちあがってくる。
花びらのようなくれない、花びらのような光。
石牟礼さんにとっての不知火、私にとっての紀州の海。たとえ、呼び方は違っても、海は海。私たちのいのちを懐胎しつづける母性の海だ。
〈大切なものを
ぜんぶ 呑みこんで
今朝も満ちているのだよと
海霊(うなだま)さまの声が耳元でして
生まれる前に死んだ
きれいな泡のような 赤子たちの声といっしょに
尺取り虫がゆく〉
前掲の詩はこのようなフレーズで終わる。
この詩のタイトルは「尺取り虫」。へえーっと、突拍子もない声をあげる私。先程とは一転しての驚き。
これもまた、詩を楽しむよろこびの一つだ。
石牟礼道子なる女人は、とんでもないことを考えるひと。ひょっとすると「海霊さま」の生まれ変わりかも。私までもが、とんでもなく心ざわめく。
『はにかみの国』は、ページをくるたびに、そんなよろこびと驚きを、もたらしてくれる。ただし、怠け者の読者には、そのよろこびは伝わらないかもしれない。
海のようにどどど──っと押し寄せる言葉。肉体性を帯びた力のある言葉を楽しむには、読者は読者なりの力技がいる。
考え抜いた末、私はこの詩集を一篇ずつ声を出して読むことにした。うんと大きく、うんとなだらかに発生し、詩の中を流れる波音のような音楽を自分自身のいのちのリズムと重ねながら読む。
すると、
〈てのひらは 渚
夕陽の引いてゆく渚〉
〈こんやも螢ほどの正気です〉
〈おんなを ちょうだい
おとこを ちょうだい〉
私の声と石牟礼さんの言葉が、稲妻のようにスパークする。スパークとは、石牟礼さんが言葉に託した「言霊」が、私に乗り移ること。私の声がいつしか、石牟礼さんの澄んだ海のような声に変化していくこと。
石牟礼さんは、はにかみ国の歌姫。
滅多に人前で、歌ってはくれない歌姫さまだ。でも、その声を、私たちは海が奏でる子守歌を聞くように楽しむことができる。
私たちのこころが波のように凪ぐとき、「やわらかな水沫(みなわ)の声明(しょうみょう)」となった歌姫さまの声が、はにかみの国から届く光のように聞こえてくるはず。
〈でんわにさようならをしていると
しゅっぽおーっと
湯気のまじる朝の機関車の音が
でんわの中から鳴った〉
そう、突然、海からのでんわのように。